オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

TRON(Bally/MIDWAY, 1982)

2021年10月31日 17時46分06秒 | ビデオゲーム

ワタシが小中高生だった1960年代から70年代半ばころ、「コンピューター」という概念自体は既に一般に浸透していました。ただしそれはSFの世界の荒唐無稽なもの(この場合は「電子頭脳」などと言われることも多かった)か、現実においては限られた場所で限られた少数の人が扱う最先端科学技術の結晶であって、一般消費者が意識するようなものではありませんでした。

1974~5年ころに平和島競艇場の周辺の路上で見かけた「コンピューター競艇必勝法」なる小冊子を売っていた香具師は、これまでの実績(それも大いに怪しむべきものですが)を並べ立て、「コンピューターだから間違いはない!」と胸を張っていましたが、そんな口上でもなんとか世を渡ることができていた時代だったのです。

マイコンを趣味とする人は70年代の後半くらいからいましたが、それは半製品のキットを組み立てる電子工作の趣が強く、また比較的費用がかかる(当時の週刊誌記事では「本腰を入れれば40~50万円かかる」とあった)ため、広く普及していたとまでは言えなかったと思います。

それが、1979年、日本電気(NEC)が買ってすぐにコンピューターとして機能する「PC-8001」を発売したころを境に、なぜか「マイコンブーム」という社会現象が発生しました。Eメールもマイクロソフトオフィスもアドビフォトショップもなかった当時、それらマイコン(パソコン)が何に使われていたのか、ワタシはよくわかりません(もっぱらゲームばっかりだったような気がします)。ただ、「BASIC」というプログラミング言語を勉強すれば、自分なりにプログラムを組み画面に反映させて遊ぶことはできました。そのような自作プログラムを投稿する「マイコンBASICマガジン」という雑誌も人気がありました。

そのせいか、世間では、「これからの時代はBASICくらい組めないと社会人としてやっていけない」などという思い込みが広がりました。実は、BASICなんて覚えたところで実務に役立つような例はそれほど無かったのですが、パソコン教室に通って初めて見る16進数に当惑するおやじたちが大勢いたものです。そして、会社にミニコンオフコンが導入されると、新しいテクノロジーに適応できない会社員(特に高齢のおやじ世代に多い)はみな戦慄し、コンピューターを使った作業は全部部下に押し付けるというケースが頻発したようです。

そんなご時世だった1982年ディズニーが、「世界で初めて全面的にコンピューターグラフィックスを導入した」と謳った映画「TRON」を公開しました。「ビデオゲームのプログラマーが何かの加減でコンピューターの電子世界に迷い込み、悪のマスター・コントロール・プログラム(MCP)と戦う」というストーリーで、予告編では「誰も見たことがない映像を見せてあげよう」というキャッチフレーズが用いられました。

実際のところ、コンピューターグラフィックで作られたシーンはさほど多くはなく、残りの部分は手作業などアナログ手法によって作られています。この辺の詳しい話は、ウィキペディアの「トロン(映画)」の「本作におけるCGと仮想世界シーン」をご参照ください。

映画「TRON」は話題となり、興業的にはまあまあの成功をおさめたようです。そうなると、既にカラーでの画像表現が標準的になっていたビデオゲーム業界が興味を示すのも当然のことと言えましょう。米国のBally/MIDWAY社は、映画をフィーチャーしたビデオゲームとしての「TRON」を1982年に発表しました。

TRON(Bally/MIDWAY)のフライヤー。全6ページにわたる大作で、メーカーの力の入れ具合が想像できる。

ワタシは1982年当時、このゲームを新宿歌舞伎町の「木川(キガワ)」で遊びましたが、英語表記だったために遊び方が良くわからず、あまり楽しんだ記憶がありません。大阪・心斎橋の「ザ・シルバーボールプラネット」では今も現役で稼働しているそうなので、次に同所を訪れるときには再チャレンジしたいと思っています。


富士電子工業製品の製造年に関する自分用メモ

2021年10月24日 16時36分23秒 | メーカー・関連企業

はじめに、ワタシが最も傾倒していた1980年代のnamco製ビデオゲームのデザインを手掛けられていたMr.ドットマンこと小野浩さんのご逝去に、謹んで哀悼の意を表します。ワタシは面識はありませんでしたが、まだ亡くなるには少し早いお歳であったはずで、残念でなりません。

ワタシの手元には、発表年を特定できないまま今日まで放置し続けてきた富士電子工業(FDEK)の製品のフライヤーがいくつかあります。これは、長くsigmaの陰に隠れていた富士電子工業が表舞台に出るまでの経緯が気になるワタシにとってずっと心に引っかかり続けていた課題でした。そこで、前回の記事で富士電子工業に触れたことを契機に調査を行ったので、今回はその結果を自分用のメモとして残しておこうと思います。

1990年
SLOT倶楽部
AOUショウ(2月)に、sigmaのブースから参考出展。フライヤーの画像では、筐体前端部に見える金色の楕円形のプレートに「SLOT倶楽部」の名とともに「FDEK」の名が刻まれているが、ショウ出展時がどうであったかは不明。なお、このショウでsigmaは「ザ・ダービーSX-1」を同時に出展している。

SLOT倶楽部のフライヤー。

1991年
アングリー・ウェイブス / ネクストダイス 
AOUショウ(2月)に、sigmaのブースから出展。「ダイスポーカー・コロコロ」(関連記事:富士電子工業(FDEK)のダイスゲームとその後)で確立したダイスによる抽選機構を応用した初のシングル機。sigmaは6人用プッシャー「MILKY WAY」を出展。他に、このころなぜかsigmaと一部協業関係にあったらしい太陽自動機が「ラウンドスロット」を出展。

アングリー・ウェイブスのフライヤー。

ゴールドマイン
JAMMAショウ(10月)に、sigmaのブースから出展。2月のAOUショウで出展したダイスを使用したシングル機シリーズの新製品。sigmaはこのショウで、「ゲームファンタジア・ミラノ」(関連記事:ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地)の開店から20年を記念して「メダル生誕20周年」を謳っていた。

ゴールドマインのフライヤー。

1992年
トップダイス
AOUショウ(2月)に、sigmaのブースから出展された。sigmaは「クリスタルダービー」と、太陽自動機製の「トップシューティング」を出展。

トップダイスのフライヤー。

フラッシュキャット
JAMMAショウ(8月)に、sigmaから出展された。「ゴールドマイン」に続くシングルダイス機。
sigmaは「マジックサーカス」と「クラウンアラウンド」を出展したとのことだが、後者はその名前に覚えがあるものの、どんなものだったかが思い出せない。また、先のAOUショウで出展した「トップシューティング」を、「NEWトップシューティング」として再び出展している。


フラッシュキャットのフライヤー。

1993年
ダイヤモンド・ブラボー / アルカード / ゴールデンフォール / 宇宙カプセル6
JAMMAショウ(8月)に、初めて自社のブースを構えて出展。ゲームマシン紙93年9月1日号によれば、「過去十数年にわたり培ってきたメダルゲームのノウハウを駆使した」とのことなので、富士電子工業がメダルゲーム機開発に関わってきたのは1980年ころからと推察される。1980年のsigmaと言えば、「TV-SLOT」などいくつかのビデオスロットを出している時期であり、富士電子工業はこの辺りからsigmaと協業していたのかもしれない。sigmaはこのショウでビデオポーカー筐体の新製品「ロータスディール」を出展した。なお、太陽自動機がビデオスロットの変種「ザ・グレードアップ」を出展しているが、この販売にsigmaがかかわっていたかどうかは記憶にない。

ダイヤモンドブラボーのフライヤー。

富士電子工業自社製品のフライヤーを独自に製作するようになったのは90年のSLOT倶楽部以降のようですが、トレーディングショウに初めて自前のブースを構えたのは93年です。おそらくは、富士電子工業は、AM業界でも単なる下請けに留まらず一本立ちしたいという野心が芽生えたものの、sigmaとの義理もあっていきなり袂を分かつわけにもいかず、また販売はsigma任せであったことから業界の慣習にも馴染んでいないため、しばらくの間はsigmaの世話になっていたということではないかと想像しています。

 


富士電子工業(FDEK)のダイスゲームとその後

2021年10月17日 17時47分17秒 | メーカー・関連企業

富士電子工業(FDEK)は、千葉県市川市にある電子機器メーカーです。メダルゲーム分野では、かねてよりsigmaと密接な関係にあり、sigmaの代表作とも言うべき「ザ・ダービーMK III」(関連記事:sigma「THE DERBY」シリーズの系譜メモ (と、GWに伴う更新スケジュール変更のお知らせ)の製造を担ったのみならず、これを海外のカジノ仕様とするにあたってはsigmaによってネバダ州のメーカーライセンスを取得させられたとも聞いています。

などと知った風なことを言ってはいますが、ワタシはそれ以外の、例えばsigmaとのそもそものなれそめや関与してきた他の製品などについては殆ど知りません。sigmaから発売された製品で、富士電子工業の名前が対外的に明示されたのは、1990年に発売された「ダイスポーカー・コロコロ」のフライヤーが初めてではないかと思います。その二つ折り4ページのフライヤーの裏表紙には、富士電子工業の名が記載されています。

ダイスポーカー・コロコロの筐体(上)と、裏表紙の部分。製造元として富士電子工業の名が記載されている。

「ダイスポーカー・コロコロ」は、5個のダイスを振って出た目で成立するポーカーの手を予想する、6人用のメダルゲーム機でした。プレイフィールドの四方は急な坂になっており、このうちの一辺の上部から5個のダイスが放出され、坂を転がり落ちて青色のプレイフィールドに落ちて行きます。

ダイスポーカー・コロコロのプレイフィールド(上)とサテライトのコントロールパネル(下)。いずれもフライヤーより。

この当時、RFIDや画像認識と言った技術は既にありましたが、それらはまだ発展途上段階だったので、5個ものダイスの目を識別するだけでも驚きでした。おまけにプレイフィールド上で二個のダイスが重なっても正しく識別したという経験談も聞いて、一体どうやってダイスの目を識別しているのかと大いに不思議でした。

その後、ダイスポーカー・コロコロのダイスは、必ず特定の目しか出ないように重心を狂わせてあると、さる業界の人から教えてもらいました。なるほど、そうであれば、次のゲームで振るダイスを機械内部でセットした時点でゲームの結果は決まっているわけで、プレイフィールド上のダイスの目を識別するような技術は必要ありません。そんな極端な重心の偏りでは転がり方が不自然になるのではないかと思いましたが、実際には特に怪しげな動きは見られませんでした。(2021年10月18日追記:ご高覧くださった「メカさん」と言う方から、コメント欄にて「重心ではなく磁力で必ずその目が出るサイコロでした」とのご指摘をいただきました。メカさん、どうもありがとうございました。今後も貴重なお話をお聞かせください。)

この「ダイスポーカー・コロコロ」を境に、富士電子工業は自社ブランドで製品の発売を始めていくのですが、実はこの辺りの富士電子工業の製品とsigmaの関係の認識があやふやです。もし、「トップダイス」と「SLOT倶楽部」の発売年をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示いただけませんでしょうか。

トップダイス(上)とSLOT倶楽部(下)のフライヤー。

富士電子工業は、その後「ダイスポーカー・コロコロ」で確立したダイスの仕組みを使ったシングルメダル機を多く作って、いずれもそこそこヒットしていたように思います。しかしそれもいつしか飽きられ、ダイスとは全く関係ない「宇宙カプセル6」というメダル機(これはこれで、よく考えられた機械だと思う)を作って以降は、子供向けシングルメダル機を多く作るようになり、残念ながらワタシの興味の対象から外れていってしまいました。

宇宙カプセル6のフライヤーの表(上)と裏(下)。


【小ネタ】「ROAD RACE」(SEGA, 1976)とセガロゴの話

2021年10月10日 20時20分26秒 | ビデオゲーム

セガのロゴと聞けば、たいていの方はこの形を想起されるものと思います。

セガのロゴを象った「セガロゴ焼き」。2018年の夏に今は無き池袋GIGOで販売(厳密には、ゲーセンに併設されたたい焼き店「セガのたい焼き」での販売)され、昨年にはセガ秋葉原5号店(同上)でも販売された。

しかしセガは、以前にはこのようなロゴを使用していました。

現在のセガロゴになる以前の旧ロゴ。

ロゴの変更が行われた詳細な時期はよくわからないのですが、業界誌「アミューズメント産業」の1976年3月号では旧ロゴ、同年7月号では新ロゴの広告が掲載されていることなどから、1976年の初春から初夏頃に絞れそうです。

上が業界誌「アミューズメント産業」1976年3月号、下が同7月号に掲載されたセガの広告(部分)。4月号と6月号にはセガの広告無し、5月号は手元にないため確認できず。

例によって前置きが長くなりましたが、これからが今回の本題です。ちょうどセガがロゴを変更するかどうかと言う時期に、セガは「ロードレース」というビデオゲーム機を発売しており、業界紙「ゲームマシン」がその1976年4月1日号で報じています。

セガ「ロードレース」の発売を報じるゲームマシン紙1976年4月1日号の記事。

ワタシはこのゲームを見たことはありますが、遊んだことはありません。ハンドルの角度を変えられる「チルトハンドル」機能がなければ、記憶にも残っていなかったかもしれません。ワタシ的な評価としてはその程度のゲームです。それを今回敢えて取り上げるのは、このゲームのフライヤーに、新旧2種類のカンパニーロゴが併載されているという、他のフライヤーには見られない特殊な特徴があったからです。

「ロードレース」のフライヤーの表(上)と裏(下)。旧ロゴ(赤円内)と新ロゴ(青円内)の両方が見られる。

上図に見られるように、このフライヤーには旧ロゴと新ロゴの両方が記載されています。セガは、他との競合を避ける意味で、製品のネーミングでは必ず頭に「セガ」を付けていました。ワタシは商標には詳しくありませんが、もしセガロゴを含んだ上で商標登録されているのだとすると、後々面倒なことにはならないものだったのでしょうか。

ともあれ、1976年の3月くらいから6月くらいのどこかで生じたロゴ変更は、1976年の4月頃に発売された「ロードレース」にこのような混乱を起こしたという、実に些末なトリビアが今回の収穫でした。

さて、今回はこれまでなのですが、ずいぶんあっさり終わったので、最後に余談を少々付け加えようと思います。セガは1950年代に「サービス・ゲームズ」という社名で始まったことは拙ブログをご高覧くださる方々の殆どはご存じのことと思います(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)。

この時のロゴは、当時のサービス・ゲームズ社が扱っていた米国ミルズ社製のスロットマシンのサービスマニュアルで見ることができます。

ミルズ社製のスロットマシンのサービスマニュアルより、当時のサービス・ゲームズ社のロゴ。

それがいつのころからか商品名に「SEGA」を名乗るようになり、やがては社名にまでなって、「サービス・ゲームズ」は無くなったはずでした。しかし、1970年代の中ごろの時点で、この「サービス・ゲームズ」を名乗る会社がありました。

 

業界誌「アミューズメント産業」1974年10月号に掲載された、サービス・ゲーム社の広告。

本家のロゴと見比べると微妙に異なるものの、基本的には踏襲しされているように見えます。また、社名だけでなく、ミルズのトレードマークであった「ミミズク」まで模倣しているようです。この70年代のサービス・ゲームズの素性はよくわかりません。どうも、セガのOBが設立した会社であるらしい話は見聞した覚えがあるのですが、どなたか詳細をご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか。


ATARIテーマのビデオスロット(2007)

2021年10月03日 17時38分25秒 | スロットマシン/メダルゲーム

ワタシは、今年6月20日にアップした記事「ウェストワード・ホー(ラスベガス)を懐しむ」において、2004年の出来事として、

Ballyが、ATARIの「PONG」や「BREAK OUT」をテーマとしたスロットマシンを発表した」(要旨)

と述べ、さらに

一部のローカルカジノでテスト稼働されたがすぐに姿を消し、以降市場に再び出てくることはなかった」(要旨)

と締めくくりました。

その後、過去のラスベガス巡礼の画像を整理していたところ、ワタシのこの認識を怪しまざるを得ない画像を発掘してしまいました。

問題の画像は、2007年11月のG2Eショウの記録に含まれていました。この年、なんとBallyは再びATARIの「PONG」と「BREAK OUT」を出展していたのです。

2007年のG2Eショウで、Bally社のブースに出展されていたビデオスロット「PONG」と「BREAK OUT」。

ワタシはこの出来事をすっかり忘却していました。しかし、この写真を見ているうちに記憶が蘇ってきて、そういえばこの時は3年前の時のようにATARIのロゴを象ったマーキーはなく地味な展示だったことも思い出しました。そして、先の記事でテスト稼働が行われたと述べているのは、ひょっとしたらこの2007年の展示後のことだったような気がどんどんしてきました。

ゲームのルールははっきり覚えていないのですが、ボーナスシンボルが有効ライン上に並ぶと、それぞれのタイトルの元となった、ビデオゲーム草創期のビデオゲームが遊べて、その結果によってボーナスを得る、と言うものだったと思います。

「BREAK OUT」のボーナスシンボル(左)と、「PONG」のボーナスシンボル(右)。第1リールから第3リールに配されているこのシンボルがペイライン上に並べばボーナスゲーム突入、だったと思う。

「BREAK OUT」のボーナス画面その1。①ボーナスゲーム開始時。 ②ブロックが最後の一つになったところ。すべてのブロックを消したらその時点でボーナス終了。 ③ゲームのリザルツ。すべてのブロックを消去したので最高の配当である200が得られている。 ④ボーナス200獲得。

「BREAK OUT」のボーナス画面その2。①「LEVEL CLEARED BONUS」とあるが、意味はよく分からない。 ②BALL REMAINING BONUS。ボーナスゲームはあらかじめ3つのボールが与えられており、残ったボールが配当になる。 ③BALL REMAINING BONUSは1球に付き5クレジットのようだ。 ④このボーナスで1200クレジットを獲得した。

BREAK OUTのボーナス画面は、たぶん全部を撮影できていません。そのため、ちょっと意味が分からなかったり、つじつまが合わないように見えるところもあります。

「PONG」のボーナス画面。①ボーナスゲームに突入すると、スタートボタンの押下を促される。 ②ボーナスゲーム中。ゲームは時間制で、対戦相手はCPU。 ③ゲームのリザルツ。この画面では「PLAY BONUS」として175クレジットが獲得できている。 ④「PLAY BONUS」に、ボーナス突入時に1ラインにベットされていた数が掛けられる。

PONGのボーナス画面も、同じくたぶん全部を撮影できていません。

ところで、これらのゲームの操作は、コントロールパネル上のボリューム・コントローラーで行います。

コントロールパネル上のボリューム・コントローラー(中央右のダイヤル状のもの)。

しかし、この二つのゲームが市場に定着することはありませんでした。一つには、ボーナスゲームに要する時間が長すぎたということもあったのではないかと思います。しかし、最大の理由は、21世紀の現代において草創期のビデオゲームに反応するのは、ワタシのような屈折したレゲエファンくらいしかいなかったということなのかもしれません。

ともあれ、なにぶんにも14年前のことで相当に記憶が曖昧になってはいますが、少なくともBallyがATARIのビデオゲームをテーマとしたビデオスロットを、2004年と2007年の2回に渡って発表していたことは、これでもう忘れずに済みそうです。