オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

タイトー初のビデオスロット「スーパーレインボー(1981)」

2021年04月25日 21時01分47秒 | スロットマシン/メダルゲーム
拙ブログでは、日本のAM業界にメダルゲームというジャンルが確立されたのは1972年と認識しています(関連記事「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)。メダルゲーム機の殆どは外国製でしたが、1974年にはセガが初の国産メダルゲーム機となる「ファロ」を発売(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)し、翌年の1975年にはタイトー、任天堂、ユニバーサルもメダルゲームに参入しました。

業界のトップランナーであったセガは別格としても、任天堂はEVRレースで当時のメダルゲーム場を席巻し、ユニバーサルも業界誌で大々的に広告を打ち続けるなど積極的にメダル機をアピールしていました。しかし、タイトーだけは後々まで語り継がれるようなメダル機がなく、かといってユニバーサルのように継続的に広告を打つわけでもないまま、まるで昼行燈のようにただそこに立ち続けるだけで、さらには1977年以降はしばらくの間メダルゲーム機の開発をしていません。これはおそらく、その後に訪れたビデオゲームブームにより、社内のリソースをビデオゲーム開発とロケーション開拓に振り向けていたからだと思います。

タイトーが再びメダルゲーム機を売り出すのは、1981年になってからのようです。この年タイトーは、「スーパーレインボー」と称するビデオスロットのシリーズで、「スパコン」と「5ライン」の2機種を発売しました。

 

「スーパーレインボー・スパコン」のフライヤーと筐体部分の拡大(画面画像はオリジナル位置より移動させています)。

 

「スーパーレインボー・5ライン」のフライヤーと筐体部分の拡大。


ワタシはこの2機種を、かつて新宿歌舞伎町にあった「ルナパーク」というゲーセンで見ています。ビデオスロット自体は、遅くとも1978年ころには米国Fortune Coin社製の機械が日本に入ってきており、さらに1980年にはsigmaが米国Sircoma社と提携した「TV-Slot 5Line」を発売しているので、この頃には既にその新奇性は薄れていました。

さらにスーパーレインボーシリーズの2機種は、どちらもBally社の既存のスロットマシンをビデオに置き換えただけのようでした。しかし、ラメの入ったFRP素材を前面に配した筐体と、そこから突き出るレバーは、それ以前のスタンダードであったBally社の筐体とは一線を画す、斬新なものに見えたので、ワタシは多少プレイしています。レバーの可動域となる隙間の部分には、指などが入らないように、蛇腹状の可動性のマスキングが施されていましたが、このマスキングが正常に動作せず、「故障中」となっているところも見た覚えがあります。

タイトーはこのスーパーレインボーを皮切りに再びメダルゲーム機の開発を始めましたが、世間をアッと言わせるような大型タイトルを出すわけでもなく、そのスタンスは77年以前とあまり変わったようにも見えませんでした。

そんなタイトーに変化が感じられるようになるのは、1986年に発表した「インスピレーションベースボール」からです。これはハッタリの効く大型機で、豪華なフライヤーも作ってアピールしましたが、残念ながら量産されることはありませんでした。その後もどうしたことかこれと言ったヒット作に恵まれないのは相変わらずで、プッシャー系で時々、いくらか話題となるものが出てくる程度であったのは、大メーカーにあって不思議なことでした。



オモロン西新小岩店の記憶

2021年04月18日 20時31分13秒 | ロケーション
2005年8月、ワタシは総武線新小岩駅を最寄り駅とするゲームセンター、「オモロン西新小岩店」を訪れています。ここは、この時点でもはや希少種となっていたピンボール機を多く設置しており、ときおりピンボール大会も開催している奇特なロケであると聞き、これは一度みてみなければなるまいと思ってのことでした。


オモロン西新小岩店の外観。緑一色の派手なビルだったが、今はいたって普通のベージュ色で、「業務スーパー」になっている。

ワタシはここで相当数の写真を撮影したはずなのですが、現在手元にはなぜか30数枚しか残っていません。この事実に気づいたのは2010年ころのことでしたが、「そのうちまた行けばいいや」と延ばし延ばしにしているうちに、オモロン西新小岩店は2014年1月31日に閉店してしまい、後悔先に立たずの言葉通り、取り返しのつかない大きな後悔となっています。

「オモロン」は、90年代のAM業界誌でその名前をしばしば見た記憶があり、ゲーム機のディストリビューターを本業としていた会社だったと思ったのですが、今となってはあやふやです。ネット上を調べても、有用な情報がほとんど記載されていない企業情報が少しヒットするだけで、現存するのかどうかすらよくわかりません。こうなると、あとは国会図書館に行って昔のコインジャーナル誌でもひっくり返して調べたいところですが、コロナ禍の昨今はそれもなかなかままなりません。

というわけで、今回の記事は歴史資料としてはあまり役に立ちません。それでも、かつてそんなロケがあったということを記録しておく意味で、半ば無理やり記事に仕立て上げておきます。

オモロン西新小岩店の建物自体は3階建てで、ワタシの記憶では、2Fがメダルコーナー、3階がピンボールといくらかのプライズ機やビデオ筐体が並んでいました。1Fがどうであったかは覚えていません。

3Fのピンボール機は、10台くらいあったように記憶していますが、残っている画像が不完全で、全容がわかりません。ただ、左右の窓から入って来る外光でなかなか良い絵が撮れなかった印象が残っています。


ピンボール画像その1。手前からStar Wars Episode I(Williams, 1999)、Black Rose(Bally=Midway=WMS, 1992)、Twilight Zone(Williams, 1990)、World Cup Soccer(Bally=Midway=WMS, 1992)。

Black RoseとWorld Cup Soccerの2機種は、バックグラスにはBallyのロゴが描かれていますが、IPDBはMidway社製品としています。この時期、Bally社のピンボール部門はWilliamsの親会社であるWMS社に買収されており、ブランド名だけ残っているもののため、表記がややこしくなっています。

似たような現象は2010年代半ばにスロットマシン業界にも起きており、それまでライバル関係だったBallyとWMS(Williamsの親会社)はScientific Games社に買収されてしまいました(関連記事:新・ラスベガス半生中継 2016年9月(5) コンベンション初日)。


ピンボール画像その2。奥に見える左からFish Tail (Williams, 1992)、Cirqus Voltaire(Bally=Midway=WMS, 1997)、Medieval Madness(Williams, 1997)、不明。

これらの他にも、少なくともJokerz!(Williams, 1988)Attack From Mars(Bally=Midway=WMS, 1997)などもあったはずなのですが、画像が見当たりません。実に全く痛恨の極みです。

ビデオゲームは、脱衣麻雀とレトロゲームが多かったです。

麻雀ゲームコーナー。これ以外にも脱衣麻雀がいくつかあったはずだが、それらの画像も見当たらない。




コナミのドーミー筐体に入ったビデオゲーム。ファンタジーゾーン(セガ、1986)、新入社員とおる君(コナミ、1984)、エキサイティングアワー(テクノスジャパン、1985)、ナムコクラシックコレクションVol.1(ナムコ、1995)。ほかに、ドラゴンスピリッツ(ナムコ、1987)があったことも覚えている。

2Fのメダルコーナーには、sigmaのメカスロが残っていました。

sigmaのメカスロ。Now PlayingとDouble Cherries。共に1980年代終わりころの機械で、同名のビデオ版もあった。

最後に、記憶がないはずの1Fにあったことは確かだとなぜか確信がある、「サブマリンキャッチャー(ユーエス産業、2000)。

サブマリンキャッチャー。

サブマリンキャッチャーは、活きたイセエビをつかみ取るプライズ機で、別名「イセエビキャッチャー」とも呼ばれていました。これが発表された当初、「イセエビがゲームセンターの景品として認められる上限800円で収まるのか」という議論が行われましたが、供給側は「問題ない」としていたものでした。ワタシはこれを、ラスベガスの「Las Vegas Club (現Circa)」というカジノに設置されているのを見たことがあります。

1977 Sega Price List (6):ピンボール系

2021年04月11日 20時40分38秒 | メーカー・関連企業

1977年のセガのプライスリストの記録もいよいよ最終回となりました。最後を飾るのは、フリッパー・ピンボールです。ページの画像は例によって、推奨サイズでなるべく大きく表示できるよう、各ページは上下に二分割しています。

このプライスリストの中でフリッパー・ピンボールが掲載されているのは、4ページと、10~11ページです。このうち、4ページにはセガの製品が、10~11ページには米国製の輸入品が掲載されています。

順番が前後してしまいますが、まずは10~11ページの輸入品のページを先にご紹介します。



10ページ目。Williams社製の製品が掲載されている


11ページ目。Bally社とGottlieb社の製品が掲載されている。

10ページには「Cabaret」や「Expo」など、また11ページのBally製品の中にも、やはり「Ballyhoo」や「Rockmaker」など、1960年代の機械の名が見えます。いかに製品寿命が長かった時代とは言え、さすがにこれらの生産が続いていたとは考え難く、下取り品や自社で運営する店舗間のローテーションから外れた在庫品ということなのだと思います。

しかし、それはともかくとして、70年代半ばと言えばIC技術の普及が進み、メカを伴うゲーム機にもICが採り入れられるようになり始めた時期です。フリッパー・ピンボール機では米国のAllied Leisure社が1975年に初のSS機を発表しているのですが、このリストに見える機種の中にはSS機が見当たりません

次は4ページに戻ります。このページには、セガの自社製ピンボール機が掲載されています。


4ページ目。セガの自社製フリッパー・ピンボール機が掲載されている。

セガが自社製のフリッパー・ピンボールを開発販売するようになったのは1971年(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール機:カーニバル(セガ、1971))のことで、以降1973年までの3年間で9機種のEM機を世に送り出しましたが、その後セガは一旦フリッパー・ピンボール機の開発をやめてしまいました。

それから3年後の1976年、セガは再び、今度はSS機のピンボール機を開発販売するようになります。今回取り上げている1977年5月のプライスリストはその翌年のものですが、この時点で7機種もの自社製SS機が掲載されています。

ここまでを整理しておきます。
1971年:セガ、初の自社製EMフリッパー・ピンボール機「ウィナー」、「カーニバル」、「サッポロ」を発売。
1973年:セガにとって8~9機種目となるEM機「アリババ」、「ギャラクシー」を発売したが、その後沈黙する。
1976年:沈黙からの3年後、初の自社製SS機、「ロデオ」を発売。
1977年:5月のプライスリストに、自社製SS機7機種を掲載。

セガは早くからエレメカゲームにIC技術を導入することに積極的で、1974年に発売したメダルゲーム機「ハーネス・レース」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ, 1974))で既に「ミニコンピューター」を謳っています。フリッパー・ピンボール機への導入も、米国の大手三社よりも早いです。

一方でセガは、このカタログの中で、「STANDARD」と称して1973年以前のEM機も掲載しています。これらもおそらく中古品だと思いますが、ひとつだけ妙な機種があります。それが、ページの右下に見える「Arabian Night」です。何が妙かと言うと、セガはこの「Arabian Night」とほぼ同じ機種を、「Alibaba」というタイトルで、1973年に既に発売しているのです。


Arabian Nightの拡大図(左)と、フライヤーから切り取ってきたAlibaba(右)の比較。

Arabian Nightは、バックグラスの女性の顔をベールで覆っていること、それにコインシュートの料金表示など、「Alibaba」とは外見的な違いが僅かにありますが、どちらも2P用であることや、プレイフィールド、さらにフライヤーに書かれている説明から察せられるゲームルールまで、違いがあるようには見えません。

「Arabian Night」の発売年をIPDBを調べると、1976年3月9日の日付が記された検品ラベルが掲載されています。1973年に作られたAlibabaを、3年後の1976年までの間に、どういうわけで「Arabian Night」に作り替える必要があったのかは、永久に判明しないであろう謎として残ってしまいました。

このカタログに掲載されているセガ製のピンボール機のいくつかについては、単体のフライヤーを所持しているので、いずれ機会を見て「初期の国産ピンボール機」のカテゴリーとして取り上げてみたいと思っています。


1977 Sega Price List (5):ビデオ&メダル系

2021年04月04日 17時08分23秒 | メーカー・関連企業

1977年のセガのプライスリストの記録も、残すところあと2回となりました。
5回目の今回は、ビデオゲーム(5~6ページ)、及びメダルゲーム(16~17ページ)です。
例によって推奨サイズでなるべく大きく表示できるよう、各ページは上下に二分割しています。




5ページ。ビデオゲーム機の価格表と、概ね最新機種の画像。価格表の中には4年前の1973年に発売されたセガのビデオゲーム第一号機「ポントロン」の名前が未だに残っているが、それでもビデオゲーム機全体の総数はまだそれほど多くない。



6ページ。上半分がビデオゲーム、下半分はエレメカ機となっている。おそらくは、ビデオゲームだけでは埋まらなかったため「ガンゲーム」の範疇で1ページを構成したのかもしれない。

T.V. GAMES」との表記に時代を感じます。今は「ビデオゲーム」という言い方に違和感はなくなっていますが、1977年当時の日本においては、「ビデオ」という言葉は「記録媒体に録画された映像」の意味でした。家庭用ビデオデッキは既に発売されていましたが、高価でまだほとんど普及しておらず、それを意味するようになるのはもう少し後のことです。

また、この時期はテーブル筐体ができたかどうかくらいのころ(翌1978年のカタログには登場している)で、ほとんどはアップライト筐体です。そして6ページ目は、概ねガンゲームという範囲でまとめたものと思われますが、ビデオゲームだけでは埋めきれず、後半はエレメカ機になっています。これらは、当時のビデオゲームがまだボウリング場や商業施設など従来の市場にとどまっていた時代を反映しているものと思います。

さて、次はメダルゲームのページです。



16ページ。「セガ・ブラックジャック・シングラー」から始まる値段の一覧は、発売が新しい順であるように見える。



17ページ。1974年に発売された。極めて初期の国産メダルゲーム機「ファロ」や「ハーネスレース」が、まだ現役機種として大きく掲載されている。

メダルゲームのページに記載されている製品画像のほとんどは、過去の拙ブログにおいて個別の記事にしておりますので、この機会に今一度ご参照いただければと思います。

ジャックポット・フリッパー:
またまたヘンなゲーム機「ジャックポット・フリッパー」(SEGA, 1976-7?)

ブラックジャック:
初期の国産メダルゲーム機最後の大ネタか? BLACKJACK(SEGA, 1976)

グループ・ビンゴ:
セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975)

ハーネス・レース:
初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ, 1974)

スピナ・コイン:
初期の国産メダルゲーム機(2) ダブルアップ / スピナコイン

マッチ・マップ
初期の国産メダルゲーム機(1) マッチマップ(Match'em Up, SEGA, 1975)

ファロ:
初の国産メダルゲーム機の記憶

16ページ右下の「プント・バンコ」は、拙ブログでは言及したことはありますが、単体の記事として取り上げたことはありません。フライヤーもあるし遊んだ覚えもあるし、ある意味で画期的な部分もないわけではありませんでした。しかし、セガの同時期のマスメダルゲームの中では普及の度合いが低く、ネタとして挙げるにはトピックが薄いのです。それでもいずれは取り上げなければならないとは思ってはいます。←(2021.11.06追記)2021年8月1日に初期の国産メダルゲーム機(10) プント・バンコ(SEGA, 1975)を公開。