オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ピンボール・ホール・オブ・フェイム(ラスベガス)、移転か?

2018年08月26日 22時51分10秒 | ロケーション
多数の新旧のピンボールゲームをプレイヤブルな状態で公開する博物館として日本ばかりでなく世界のオールドゲームファンにとって聖地となっている「Pinball Hall of Fame(PHoF)」が、現在の所在地から移転する可能性が出てきました。

ラスベガス・レビュージャーナル紙は7月30日、PHoFのオーナー、ティム・アーノルド氏(62)は、ストリップエリアの繁華街の南端に、1.76エーカー(建物は約2500平方メートルを計画)の土地を購入したと報じました。

現在のPHoFはトロピカーナ通り沿いにあり、0.65エーカー(建物は約800平方メートル)の施設の中に200台ほどのピンボール機を設置していますが、ティムが所有するピンボール機は1000台あるとされており、それらはストレージに眠ったままになっています。これでは意味がないと考えたティムは、より広い土地を求めてこの土地を購入したとのことです。

ティムが新たに購入した土地は、ストリップエリアの繁華街の最南端に位置し、カジノホテル「マンダレイベイ・リゾート・アンド・カジノ」の最南端と、ストリップを挟んだ向かいになります。この空き地は、昨年の10月に全米最悪の銃撃事件となった「ラスベガス・シューティング」事件の被害を受けた空き地から1~2ブロック南になります。

ただし、新しいPHoFの計画はまだ確定しておらず、いつ着工されるかについてはまだ白紙状態とのことですので、当分の間は現在の場所で運営が続くようです。これからPHoFを訪れようとされる方は、事前に確認しておくことをお勧めします。


現在のPinball Hall of Fame(PHoF)。所在地は1610 E. Tropicana Ave.。ストリップからトロピカーナ通りを行き来するバス(201)で行くことも可能だが、降りるタイミングがつかみにくいので、タクシーで行く方が無難かも。距離は、ニューフォーコーナーから3㎞程度。帰りは降りるポイントを見失うことは無いと思われるので、バスでの移動でもむずかしくはない。


PHoFの店内の様子。古いエレメカ機やビデオゲームも若干ある。

【小ネタ】(R18):業界誌「アミューズメント産業」より、That's 70's!

2018年08月15日 21時53分00秒 | 歴史
明日から週をまたいで不在となるため、今のうちに小ネタで更新しておこうと思います。

古いアミューズメント産業誌を見ていたら、73年2月号に、こんな広告がありました。


アミューズメント産業73年2月号に掲載されていたジュークボックスの広告。

一応念のため修正を施しておいていますが、オリジナルでは隠すものはありません。これが、日本の歌謡界に燦然と光り輝く大会社、日本コロムビア社が販売していたジュークボックスの広告です。今ならセクハラと訴えられそうです。

74年9月号にはこんな広告もありました。


アミューズメント産業74年9月号に掲載された「レスター」という自販機会社の広告。

これではわかりにくいと思うので、もう少し問題としたい部分を拡大してみます。


今回注目したい部分の拡大図。

こちらも一応修正を施しています。ワタシが子供だった70年代には、このような、今思うと本当につまらないものを売る自販機がボウリング場や旅館などに設置されていたものでした。おそらくは大人向けのガシャポンだったのでしょう。たいていは200円とか300円という値段設定だったように思いますが、それは子供がおいそれと手を出せる値段ではありませんでした。今でも懐かしの風俗として時々おやじどもに思い出される「コスモス」(ご存じない方はこちらを参照してください)は、この流れの上にあったのではないかと個人的には思います。

最後にもう一つ、少し違う意味で70年代っぽい広告を。75年7月号に掲載されていたものです。


アミューズメント産業75年7月号部分に掲載された広告。部分の画像しかないため何の広告であるかは忘却してしまったが、前述のレスターか、または同じような小物の自販機の広告だったように思う。

腕時計を見せびらかすように持ち高笑いするご婦人までは特に問題はありませんが、コピーがすごいです。
ガッツな若者のイキな挑戦! ナウなフィーリングを掴もう」は、字義通りに見れば意味が分かりませんが、70年代とはやたらとカタカナ語を使うのがナウい時代だったのです。写真の時計は、今の時代ならば100円ショップかゲーセンのプライズ機にでも入っていそうなアジア製の安っぽい時計に見えますが、この時代はまだ腕時計は高級品というイメージが強かったように思います。この種の商材としては、他に煙草に火をつけるライターも多く見られました。ワタシはそのようなライターにやたらと憧れたものでしたが、なぜそれほど欲しいと思ったのか、自分でも全くわかりません。


最後の最後にどうでもいいオマケ。

今回、画像の修正に使用したチェリーシンボル。米国Bally社製のリールマシン「SUPER CONTINENTAL」(1969)のリールストリップをスキャンしたもの。セガが1950年代から60年代にかけて製造していたMillsのコピー機で使用されていたシンボとほとんど同じである。

テトリス秘話:セガはいかにしてテトリスの開発に踏み切ったか

2018年08月12日 21時54分24秒 | ビデオゲーム
少しだけ昔、ゲームメーカーのセガでのこと。とある上級管理職が、「海外でこんなゲームを見つけてきたので参考にしてくれ」と言って、アーケードゲーム開発部門のメンバーに一つのビデオゲームを紹介しました。それを見ていた開発者の一人は、ずっと後になってから、ワタシに「プラットフォームはわからなかったがPCベースだったらしい」と語ってくれました。

今回は、拙ブログで扱うには少し新しすぎるかもしれない「テトリス」(SEGA,1988)の話です。「テトリス」はもともと、ソ連のコンピューター技術者アレクセイ・パジトノフ氏が、「ペントミノ」と呼ばれるパズルゲームをベースに考案したビデオゲームであることは有名な話ですが、ワタシは「テトリス」が初めて商品化されたのがいつで、どんなハードで動いていたのかは知りません。ワタシに冒頭の話をしてくれた人が見たものがそれだったのかもしれませんが、その人もその正体まではご存知ではありませんでした。

セガが1988年に発売したAM用ビデオゲーム「テトリス」は、病的なまでに耽溺する中毒者を多く生み出し、その後も様々な混乱を経て任天堂からコンシューマソフトに移植されただけでなく、海賊版として得体のしれないアジア製の液晶ポケットゲームも多数現れ、社会現象にまでなりました。更には、「落ちモノパズル」などと呼ばれる新たなゲームジャンルを業界にもたらしてもいます。


テトリスのフライヤー。片面のみで、裏面は白紙だった。当時のセガは、よほど力を入れて売り込みたいタイトルでなければ、経費を抑えるために片面印刷で済ませる傾向が強かった。

テトリスが市場を席巻していた当時、ワタシの知り合いの、セガを含むいくつかのゲームメーカーの社員は、「テトリス」を評する上で、「もし、セガのテトリスが世に出る以前に、社内で誰かがこれと同じゲームを提案したとしても、没になっていただろう」と口を揃えていました。「テトリス」は、ことほど左様に地味で、セールスポイントをアピールすることが難しいゲームでした。

そんなゲームをセガはなぜ商品化したのか。ワタシは以前、セガの一開発者から、冒頭のエピソードで始まる大変興味深い話を伺っていました。今回はその「テトリス開発秘話」を記録しておこうと思います。

セガの社内で「テトリス」が紹介された時、それを見た多くの開発者たちは、「(技術的には)簡単なソフトだな」と思ったそうです。そして、その一人だったAMソフト開発部門のある中間管理職は、社長や役員が出席する大きな定例会議の末席に制度上やむなく出席している最中に、退屈しのぎとして、ソフト開発者たちが使用している開発機材上で動作する「テトリス」のプログラムをさっと組みあげてしまいました。

この「なんちゃってテトリス」のプログラムは、初めは数人の物好きなソフト開発者の開発ツールにインストールされ、「業務の合間の気分転換」として遊ばれ始めたのですが、「やってみると案外ハマる」という評判が広まり、すぐにほとんどのソフト開発者のツールにインストールされ、遊ばれるに至りました。

そして、そこはさすがに本職のゲームプログラマーだけあって、「なんちゃってテトリス」を遊んだソフト開発者の中には、自分なりにフィーチャーを考えてオリジナルのプログラムを改変する者も現れ、そうしてできた新しい「なんちゃってテトリス改」も、またすぐに他のソフト開発者の間に広まっていきました。

こうして、セガのソフト開発者の多くの手元に「なんちゃってテトリス」が行き渡り遊ばれるようになった結果、「なんちゃってテトリス」は「業務の合間の気分転換」では済まず、本来の業務に支障をきたす、別の意味での「キラーソフト」に成長してしまっていました。

この事態は上層部にも伝わり、開発部内には「テトリス禁止令」も出たのですが、しかし、こんなにみんながみんなハマるゲームなら商品化すればヒットするに違いないという発想も当然のことながら出て来て、ついに業務用ゲームとしてのテトリス開発チームが組まれました。この時のチーム構成は、企画、デザイン、ソフト、サウンドの全部を併せて10名に満たない程度の、ごく小さなものだったそうです。名著「それはポンから始まった」では、開発担当者の一部の実名が記載されていますが、彼らは「なんちゃってテトリス」をはじめに作った中間管理職とは別の人であったとのことです。

「普通に提案されていたならきっと没にされていたであろう」と複数の業界人が評するゲームは、こうして世に出ていきました。その結果「テトリス」は、大きなブームを起こしたのみならず、一つのジャンルにまでなって、その後も多くのフォロワーを生む、一大タイトルとなりました。

ゲーム業界の中では、この経験から、自分の常識で理解できるものしか評価しないことに対する反省の機運が生まれたところもあったそうです。しかし、最後にはなんらかの判断を下さなくてはならないことに変わりはなく、そしてそのソフトがヒットするかどうかを正確に予見することなどできるはずもないため、結局のところ、提案段階での間口が若干広がった程度の変化があったくらいで、いつの間にかその反省も忘れられて行ったということでした。

「しゃべるコインマシン」の話

2018年08月05日 18時31分01秒 | 歴史
ジュークボックス以外で人の言葉を発した最も古いコインマシンは何でしょうか。ワタシが思いつく限りでは、「エビスボール」(ひまわり製作所、1970年前後?)という国産ピンボール機が、言葉ではなく笑い声を発していました。これは、「笑い袋」と呼ばれるおもちゃを内蔵したもので、硬貨を投入すると一定時間笑い袋が作動したというものです。


業界誌「アミューズメント産業」1974年4月号に掲載されたエビスボールの広告。ワタシの記憶では、この機械は70年前後頃には既に存在していたように思う。硬貨を投入すると、ゲームスタート時に一定時間笑い声を発した。

「言葉」を発するコインマシンとなると、1974年に発売されたセガのマスメダルゲーム機「FARO」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)が、ワタシの記憶では最古の機械となるのですが、これ以前の例をご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただければありがたく存じます。「FARO」は、ベット受付中に、アナログ録音されたスピーチを再生していました。

マスメダル機は価格設定がある程度高いので、音声再生にかかるコストを乗せ易いのか、他にも「GROUP BINGO(sega, 1975)」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975))、「BIG & SMALL(Universal, 1976)」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(7) ユニバーサル その2b)、「BLACKJACK(sega, 1976)」など、早い時期からしゃべる製品がありました。ただ、それらはアナログ再生機で、決まったタイミングで、決まったセリフを、決まった順番に再生するだけのものだったので、既にレコードやテープレコーダーが普及していた当時では、特に驚くような特殊効果と言えるものではありませんでした。

1979年、米国のWilliams社が発売したピンボール機「GORGAR」は、デジタルデータ化した人の音声を再生するシステムを搭載し、ゲームの状況に応じて適切な語を適切なタイミングで発しました。この新しい特殊効果は「世界初のしゃべるピンボール」として、プレイヤーのみならず業界にも大きな衝撃を与えました。




GORGARのフライヤー。表紙が特殊加工された豪華な二つ折りで、上が表裏の表紙、下が中の部分。

英語が苦手なワタシはイフェクトのかかった「GORGAR」のしゃべりを殆ど聞き取ることができませんでしたが、ナムコが運営していた渋谷の東急文化会館屋上のゲームコーナー(関連記事:商業施設の屋上の記憶(1) 渋谷)では、ありがたいことにバックグラスに機械がしゃべるセリフを書いた手作りのPOPを貼ってくれていたので、それを読んで、「言われてみればそう聞こえないこともない」と思うことはできました。

ずっと後になって、「GORGAR」は実はたった7つの単語しかしゃべっていないことを知りました。すなわち、
Gorgar、 Speaks、 You、 Beat、 Hurt、 Got、 Me

の7語です。これらを組み合わせて、ゲーム中では、
「Gorgar Speaks」 (ゴーガーはしゃべる)
「You Beat Me」 (お前は俺をやっつけた)
「Me Hurt」 (おれは傷ついた)
「Me Got You」 (お前を掴まえたぞ)
「Me Gorgar Beat Me」 (おれはゴーガー、やっつけてみろ)
などの言葉を、状況に応じて発していました。「Me」を一人称にする言葉があるのは、「GORGAR」が、人語が完全でない異界の怪物という設定だからなのでしょうか。しかし、なんだか、まるで赤塚不二夫さんの不滅の名キャラ「イヤミ」を想起して、ファンタジーの世界がギャグに感じられてしまいます。「ミーはチミを掴まえたざんす」とか。いや、別にいいんですけど。

これは「INTERNET PINBALL DATABASE」というサイトからの情報ですが、「アミューズメントレビュー」という米国の雑誌の1980年1/2月号によると、「GORGAR」の「しゃべる」フィーチャーは、実は標準で装備されたものではなく、オペレーターが$70を支払って取り付けるオプションだったとのことです。そして実際のところ、出荷された14000台のほとんどはこのオプションを付けて販売されたそうです。こうして「GORGAR」は、初の「しゃべるピンボール」としてピンボールの歴史に名を残しました。

Williamsは翌1980年、「Firepower」(これは初めて「レーンチェンジ」というフィーチャーを備えた機種でもある)、「Alien Poker」、「Blackout」、「Black Night」と、立て続けにしゃべるピンボールを売り出しました。

Ballyも、「Squawk and Talk」というサウンドボードを開発し、1980年発売の「XENON」(フライヤーはこちら)を皮切りに、しゃべるピンボールをやはり立て続けに発売しました。実はBallyは、「GORGAR」の発売年と同じ1979年に、「KISS」をしゃべるピンボールにしようとしてプロトタイプまでは作ったものの、最終的にはしゃべらない仕様で製品化しています。発売は「GORGAR」よりも半年ほど早かったので、そこで実現できていれば「初」の称号はBallyが得ていたのに、残念な結果となってしまいました。

ピンボールの御三家の最後のひとつであるGottliebは少し出遅れました。1981年発売の「Mars God of War」(フライヤーはこちら)は、米国Votrax社のスピーチシンセサイザー「SC01-A」を搭載して、同社初のしゃべるピンボールとなりましたが、ワタシはこの機械を遊んだ記憶がありません。Gottliebは同じハードを使って、同年には「Volcano」や「Black Hole」を、翌82年には「Devil’s Dare」、「Caveman」などのしゃべるマシンを発売しました。

「機械がしゃべる」というトレンドは、ピンボールだけでなくビデオゲームにも発生しました。初めてしゃべったビデオゲームは「スピーク&レスキュー」(サン電子、1980)とされています。「タスケテー」「ヒャクテン(100点)」「センテン(1000点)」などのセリフを、チープな音質でしゃべっていました。お粗末なグラフィックで、ゲーム自体もさほど面白いと思えないこのゲームが歴史に名を残しているのは、一にも二にも「初めてしゃべったビデオゲーム」だったからこそだと思います。ことほど左様にこの時代は、「機械が状況に合わせて適切な人語を発する」のは新奇なことでした。

また、1981年には「キング・アンド・バルーン」(ナムコ)や「スペース・フューリ」(セガ)、「スペース・オデッセイ」(セガ)、「アストロ・ブラスター」(セガ)などがしゃべっています。特にセガの3タイトルのしゃべりは非常に明瞭で、現代のゲーム機と比較しても遜色がなく、「セガのビデオゲームはいまいちなものが多いけど、ハイテク技術はすごいらしい」などと思ったものでした。


スペース・フューリ(sega, 1981)のフライヤー。ステージをクリアするたびに単眼のエイリアンが現れ、現代のビデオゲームのスピーチと遜色のない非常に明瞭な音質で、比較的長い人語をしゃべった。

1980年代の中ごろともなると、デジタル技術のさらなる発達もあって、コインマシンが「しゃべる」ことは決して特別なことではなくなりました。わずか数年前には驚異的なテクノロジーだった「しゃべる機械」はすぐに一般化、悪く言えば陳腐化して、今では誰もさしたる関心を示さない、ごく普通の技術となってしまいました。ラジオやテレビが出現した時もそうだったと思うのですが、エポックの出現に立ち会うことができるのはラッキーな事だと思います。次はどんなエポックが現れるのでしょうか。