オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

新年のご挨拶2021

2020年12月31日 21時17分23秒 | その他・一般
ワタシは1998年以来毎年複数回、ラスベガスに巡礼をしていましたが、昨年はコロナの世界的蔓延のため、24年ぶりにラスベガスに行かない(行けない)年となりました。1年で失効するカジノの会員ステータスを維持できなかったので、来年は平会員になってしまう事でしょう。

そのラスベガスですが、ストリップエリアで見られる人の殆どは観光客ではないのだそうです。そんな状態なので、週末しか営業しないカジノホテルも出ていると、付き合いの長いカジノホストからSNS経由で聞きました。

最近になってようやくワクチンができたかのような報道がされるようにはなりましたが、コロナ禍はまだ終息時期の見当がつかない状態です。皆様におかれましては大過なき年をお過ごしいただけますよう祈念いたします。

今回は年の始めのご挨拶として、49年前のセガの広告をご紹介して終わろうと思います。


アミューズメント産業1972年1月号(創刊号)の表2に掲載されたセガの広告。

画像は、業界紙「アミューズメント産業」の1972年1月号(創刊号)に掲載されたセガの広告です。事実上の初めての商用ビデオゲーム「PONG」が登場する年(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(1) 業務用ビデオゲームの黎明期の記憶)であり、またメダルゲームと言う市場が確立される年(関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)ではありますが、この広告の時点ではまだエレメカ機ばかりです。その中には、同年2月に開催される札幌オリンピックにぶつけたと思しきフリッパー・ピンボール機「SAPPORO」や、間もなくそのブームの終焉を迎えるボウリングテーマの「プロ・ボウラー」(関連記事:プロボウラー(セガ、1972)に関するメモ)が見えます。

また、「オリンピア・マークIII」(関連記事:オリンピアとワタシの関わりの記録)が見えるところから、1964年に風営許可を得たオリンピアが、この頃はまだ現役だったことが窺えます。

ところで、この広告に見られるゲーム機はどれも時代を感じさせるものなのに、晴れ着姿のねえちゃんは今でも何の違和感もなく通用してしまいそうに思えるのは、いったい何がどう違ってのことなのでしょう。「普遍性」とは何なのか、少し考えさせられてしまった今年の始めでした。

ポパイ@1979年(5・最終回):その4・スロットマシン

2020年12月27日 19時51分30秒 | 歴史
「ポパイ」1979年4月25日号の内容記録の最終回は、「スロットマシン」です。スロットマシンもまたアメリカ発祥ですから、ポパイにとっては絶好のネタであったと思います。

この特集記事でスロットマシンに触れているのは、65ページと103ページの2ページです。このうち65ページの方は、日本のゲームセンターの始まりはSEGAだったという文脈の中で、初期のセガのプロダクトとして5つのスロットマシンを紹介しています。


ポパイ1979年4月25日号の65ページの部分。日本にゲーム市場が発足し始めるころの、SEGAの主流プロダクトであったスロットマシンを大きく紹介している。

日本のAM業界の黎明期については中藤保則氏への取材(関連記事:ポパイ@1979年(1):AMゲームは「カッコいい」ものだった(らしい))が元になっているものと強く推察できますが、本来ならセガ以外にも太東貿易(後のタイトー)やローゼン・エンタープライゼス(後のセガの母体の一つ)の名前が出てきて然るべきです。果たして中藤氏が語らなかったのか、それともポパイが超大胆に(もしくは恣意的に)端折ったのか、今となっては確認する術はありません。

記事では、セガが米国Mills社から買い取ったハイトップ筐体の「セガ・ベル」を「国産第1号機」として掲げ、以下「国産第2号機」として「セガ・ボーナス・スター」、「名器」として「ダイヤモンド・3スター」、「人気あった」として「プログレッシブ・スター」、「秀作」として「マッド・マネー・スター」を紹介しています(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4) セガのスロットマシンその2)。

しかし、「国産第1号機」は良いとして、それ以外の各機種に付けられているキャプションは信憑性に欠けます。まず、「国産第2号機」は「セガ・ボーナス・スターが」ではなく「ダルマ筐体が」という意味であれば納得します。以下の「名器」だの「秀作」だのの評価は、せっかく入手した貴重な昔のスロットマシン画像を掲載するにあたり、機種名を併記するだけではキャプションとして格好がつかないと考えたライターがテキトーに付け加えたのではないかと強く疑っています。なぜなら、当時のセガのスロットマシンはアジア太平洋地域の米軍基地と、そして英国向けに生産されていたもので、基本的に日本人は対象外だったからです。

130ページにはスロットマシンに関する3つの記事があり、一つ目の「スロットマシン・キングって一体どこの王様だ?」では「サイ・レッド」氏(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)を紹介しています。


ポパイ1979年4月25日号130ページのサイ・レッド氏を紹介する記事。赤枠内は、後述するsigmaのフリーペーパーにあった内容と被る部分。

この記事中の、「サイが開発した機械でサイの夫人が大当たりを当てたが賞金の受領を辞退させられた」というエピソードには、sigmaが1977年の秋に頒布したフリーペーパー「GF」に掲載されている同内容のエピソードと一致する記述が複数個所に見られます


フリーペーパー「GF」1977年秋号3ページ目の一部。赤枠で囲った部分がポパイの記事の元ネタと思われる。

この一致には様々な可能性が考えられるので、部外者がガタガタ言うこともあるまいということにして、アメリカで発明されたスロットマシンでアメリカンドリームを遂げた男がいたというストーリー自体は良いとしましょう。

しかし、二つ目の「スロットマシンが偶然だけのゲームだなんて、ゲームを知らない男のセリフだ」という記事は読んでも時間の無駄としか言いようがありません。ろくに知見のない分野を締め切りに追われながらまるでオーソリティであるかのような口ぶりで紙面を埋めて行かなければならないご苦労は察しますが、それにしてもあまりにもひどい。こういうものは読者のリテラシーで対応しなければならないところでしょう。


130ページの「スロットマシンには勝ち方がある」と言っている部分。

なお、最後の「女の遊びなどと言われたスロットも最近は1ドルが主流」という記述を若干フォローすると、「女の遊び」については、そのような固定観念が(現在に至ってもなお)存在することは事実です。でも実は、この文言もまた前述のsigmaのフリーペーパーの中に同じ記述があるところに少し引っ掛かりを感じないこともないです。また、「1ドルが主流」については、米国で1ドルデノミの機械が一般化し始めたのは1975年からなのでまるっきり嘘ではありません。ただ、「(25セント機や5セント機と並んで)一般的になっている」とする方が正確です。

やっぱりなんだか文句ばかりになってしまっていますが、記事に添えられている二つのスロットマシンの画像は見所と言えそうです。筐体はBally製だがキャプションには「フォーチュン・コイン社製」と書かれているビデオスロットは、今や世界のカジノを席捲するビデオスロットの極めて初期の形が見られる意味で貴重です。

そして「形がユニーク」と言っている「バリー社の1ドル・スロット」は、Marshall Fey氏の著書「Bally Slot Machines」によれば、実際の開発は「Games of Nevada」社で、Ballyは販売を受け持って1976年頃に発売された「Slim Trim」というシリーズです。残念ながら市場の評価は芳しくなく短期間しか生産されなかったとのことですが、後のスラント筐体に通じるデザインであり、「早すぎた埋葬」であったかもしれないと思います。

最後となるアンティークスロットの話の冒頭は、クラシックカーの「ハラーズ・オートモビル・コレクション」の話から始まっています。このポパイが発行されていた当時、シティ・ボーイたるものクルマは必須アイテムというような風潮があったので、ポパイとしてはむしろこの話だけで占めたかったのではないかと邪推します。





アンティーク・スロットの記事。なるべく大きく表示するために4分割してある。

ここで出てくる「ハラーズ」とは、カジノホテル「ハラーズ(Harrah's)」の創立者である「ウィリアム・F・ハラー (William F. Harrah)」のことです。彼のクラシックカーコレクションの一部は長い間ラスベガスのカジノホテル「The Linq (旧インペリアルパレス)」の「クラシックカー・コレクション」で展示されていました

記事には、ハラ―氏は車だけでなくスロットマシンのコレクターでもあったと書いてありますが、記事中の2枚目の画像からネット上を調べたところ、この画像は1975年に行われたオークションのカタログの表紙であることと、ここに見える「Pony Express」とは、ハラー氏がかつて所有していた博物館の名前であることがわかりました(自分用メモ:1986年7月17日付けのロサンゼルス・タイムズの記事に「ギャンブルの起業家のハラ―氏が所有していたポニー・エクスプレス・ミュージアム 」という一文あり)。

しかし、「ポニー・エクスプレス・ミュージアム」が収蔵していたのは西部開拓時代の文物全般であって、ことさらスロットマシンを蒐集していたというわけではないようです。それはさておき、この記事はそのオークションを念頭に書かれているものと思われますが、この記事が書かれている時点の米国では既にコレクターを対象とする古いスロットマシン市場は成立しており、「めったに手に入らない」は言い過ぎです。

この記事にあるように、古いスロットマシンに感じる価値として、「一個の芸術品と言っても良いほどの美しさ、がっしりしたメカの味わい」は確かにある事でしょう。しかしワタシはこれに加えて、スロットマシンが現在の形に至るまでの進化の過程を示す「生きた化石」である点も強調しておきたいと思います。

全5回に渡って記録してきた雑誌「ポパイ」1979年4月25日号の特集記事「ポパイ・ゲームブック」の記録は以上です。一般雑誌ゆえ不正確な記述が散見されますが、それに目くじらを立てるより(指摘はしましたが)、インベーダーブームのさなかである1979年春という時期の世間一般におけるAMの捉えられ方を窺い知れることに大きな価値のある記事でした。編集に携わったみなさん、ありがとうございました。

(このシリーズ終わり)

ポパイ@1979年(4):その3・ビンゴ・ピンボール

2020年12月20日 21時59分18秒 | 歴史
「ポパイ」1979年4月25日号の内容記録第3回は、「ビンゴ・ピンボール」です。

ビンゴ・ピンボールが初めて日本に入ってきたのは1960年代のことのようですが、当初はアンダーグラウンドでの稼働も少なからずあったそうです。ワタシは、70年代の前半に、現在も残る渋谷のボウリング場が入るビルのゲームコーナーに10台ほども設置されているところを見た記憶がありますが、付いている客はみないい年をしたおやじ層ばかりでした。そんなビンゴ・ピンボールが陽の当たる場所に出てくるようになったのは、sigmaがビンゴ専門店「BINGO-IN」を展開し始めた70年代半ば以降ではないかと思います。

ポパイのこの号が発売された1979年ころは、まさにsigmaの「BINOGO-IN」が軌道に乗り、愛好家たちの間でたいへんな盛り上がりを見せていたころでした。ビンゴ・ピンボールもまた米国発の文化ですので、ポパイも格好のネタと思って取り上げたのかもしれません。


ポパイ1979年4月25日号の76~77ページ。見開きのおよそ1ページ半をビンゴ・ピンボールの記事に充てている。

このページ右上の画像に見える場所は、店名までは特定できないものの、sigmaのBINGO-INのいずれかであることが強く疑われます。なぜならば、バックグラスのトップにその機種の特徴を簡単に解説したボードを掲げており、こんなことをするのはsigmaしかなかったからです。


右上画像の拡大図。バックグラスのトップに、その機種の特徴を簡単に解説したボードを掲げている。

そして、どこにもクレジットはありませんが、記事本文は少なくともsigmaに取材したか、ことによるとsigmaから提供を受けた資料をポパイ文体に直して記事の体裁に整えたのではないかと思われるくらい、枝葉末節の事柄が詳細に説明されています。

しかし、ビンゴ・ピンボールという他に類例がないゲームを何の知識もない人に説明するには、この紙数だけでは到底足りるものではありません。例えるなら、限られたスペースで囲碁を説明するつもりで「コウ」とか「アタリ」とか「ノゾキ」などの細部を説明しているかのごときこの記事を読んだシティボーイたちが、ビンゴ・ピンボールをどれだけ理解できたかは疑問です。

だが人よ、責めるなかれ。sigmaも、ビンゴ・ピンボールを普及させるためにいくつものフリーペーパーを作成して頒布しましたが、スペース・インベーダーやギャラクシアンのように一般に広く浸透することはありませんでした。つまるところ、ビンゴ・ピンボールというゲームは複雑で人を選ぶゲームという事なのです。この点を無視し、無理やり一般に向けて紹介しようとしたら、何を言ってるのかよくわからないけれどもカラフルで一見楽しそうに見えるページができてしまったのだ。ただそれだけのことなのだよ。これ以上何を望もうと言うんだい?

と言うことで、楽しそうに見えるページの各部分を拡大して記録しておくことで、今回は終わりとしたいと思います。


25穴タイプと20穴タイプのビンゴカードの例。


ビンゴ・ピンボール機の例3種。「MISS AMERICA」は、ベルギーで少なくとも90年代まで類似のゲームが作られ続けた。「GALAXY」は、この当時の最新機種ではあるが、数あるビンゴ・ピンボールの中でも極めて例外的なゲーム性で、代表機種として紹介するには不適当だと思う。「ORIENT」は本文で「ハワイタイプ」と呼んでいる20穴タイプだが、普通にハワイを紹介していればよかったのにと思う。




20穴タイプの「HAWAII」を例にボールコントロールの技術を説明しているつもりなのかもしれないが、言葉足らずで殆ど役に立たない。画像はなるべく大きく表示できるように三分割している。


「ホイールタイプ」のビンゴカード。同じ色のゾーンを3カ所以上点灯させれば勝ち、というゲームだったが、あまり面白いものではなく、キャプションにある通りたった2機種しか開発されなかった。


20穴タイプのスコア表。


20穴タイプのフィーチャーの使用条件表示。


チェンジスコアフィーチャー。20穴タイプの「HAWAII」と「DOUBLE UP」に装備されているフィーチャーで、1球、もしくは2球決定後に、特定の色のスコアを2倍、その他の色のスコアを1/2に設定できる、ギャンブル性の高いフィーチャー。


レッド・レター・ゲーム、4スターゾーン、ミスティックラインフィーチャーのランプ。前者ふたつはスターゾーンに関するフィーチャー、最後の一つはビンゴカードの数字の並びを変更できるフィーチャー。

(次回(最終回)スロットマシンにつづく)

ポパイ@1979年(3):その2・フリッパー・ピンボール

2020年12月13日 15時40分46秒 | 歴史
「ポパイ」1979年4月25日号の内容記録その2は、「フリッパー・ピンボール」です。

ピンボールメーカー大手の「Gottlieb」は、1955年半ばから1960年初頭までに製造したピンボール機のバックグラス(と、フライヤー)に、「Amusement Pinballs as American as Baseball and Hot Dogs!」(娯楽ピンボールは野球やホットドッグと同じくアメリカだ!)という標語を掲示していました。

Gottliebが1955年から1960年にかけてアピールしていた標語「Amusement Pinballs as American as Baseball and Hot Dogs!」の掲示例。この機種は「AUTO RACE (1956)」。

この標語から、「野球とホットドッグ」は、アメリカ人の誰もが認めるアメリカの象徴であることが察せられます。ピンボール機が何でも賭博機とみなされた時代、アミューズメント一筋だったゴットリーブとしては、そうじゃないんだ、ピンボールもまた我々アメリカそのものなのだとアピールしたかったのでしょう。

前置きが長くなりましたが、フリッパー・ピンボールはこのように米国人自身がアメリカの象徴と自認するほどのものですから、ポパイにとってはど真ん中ストライクのネタです。実際、まるまる1ページを使って紹介しています。




1ページ全面がピンボールで占められている91ページ。システムの推奨サイズでなるべく大きく表示できるように三分割してある。

このページの冒頭は、「プレイボーイ (Bally, 1978)」のフライヤーから持ってきた「バニーガール」で飾られています。「プレイボーイ」という雑誌もまたアメリカを象徴するものの一つですから、ポパイにとってはこれ以上ふさわしいタイトルは無いと言っても過言ではないでしょう。これに加えて、「フラッシュ (Williams, 1978)」と「アドベンチャー (セガ, 1979)」の3機種のゲームフィーチャーが解説されています。

本文記事では、「最近のマシンはIC導入でフィーチャーが複雑になっている」との趣旨が述べられています。それは確かにその通りですが、ランプレーンと多階層とその他ギミックで何が何だか分からなくなってしまった80年代半ば以降のピンボール機と比較すると、まだまだシンプルです。ワタシは、この1980年前後という時期は面白い機種が最も多かった時期だったと思っています。

なお、セガの「アドベンチャー」を「国産初のワイド・マシン」と謳っていますが、セガ初のワイドタイプは前年に発売されている「Cha-Cha-Cha」ですので、これは誤りです。また、なかなか感心させられる克明なフィーチャーの説明は、実はセガが頒布したフライヤーに書かれている「遊び方」を、記事のスペースに収まるように手を加えただけのものでした。でもまあ、どうせこれらの攻略法を克明に読もうとしたシティボーイなど殆どいなかったと思うので、これについては文句は言いますまい。

フリッパー・ピンボールに関する記事は、このページ以外にもいくつか散在しています。まず65ページには、カクテルテーブルタイプのピンボール機「ローテーションVIII」が紹介されています。


「ローテーションVIII」の記事。

「ローテーションVIII」は、記事では「アメリカのバリー社が開発」と記述されていますが、厳密にはその子会社のMIDWAY社製です。1970年代の終わりころから80年代にかけて、複数のメーカーがカクテルテーブルタイプのフリッパー・ピンボール機をリリースしていますが、「ローテーションVIII」の画期的なところは、プレイフィールドが90度単位で回転することで、テーブルの四方に座ったプレイヤーが席を移動することなくプレイヤーのポジションになれる点にありました。ただ、カクテルテーブルタイプのピンボール機は、ワタシも当時のゲーセンでいくつか見てはいますが、あまり普及したという印象はありません。「ローテーションVIII」のせっかくの工夫も、その後標準化することはありませんでした。

同じく65ページには、セガ初のフリッパーピンボール「ウィナー(1971)」が紹介されています。


セガ「ウィナー」の紹介記事。日本のゲーセンはSEGAから始まったとの文脈で触れられている。

これは、日本のゲームセンターはセガから始まったという文脈の中で、「国産初のピンボールはセガの<ウィナー>」として紹介されている部分です。ただ、文句ばかりで申し訳ないのですが、過去記事「初期の国産フリッパー・ピンボール:こまや製作所製の2機種」に示すように、フリッパーを備えたピンボール機は「ウィナー」以前からあります。「ポップバンパーを備えたピンボール」と限定すれば正しいのかもしれませんが、誤りとまでは言わずとも正確さに欠ける記述です。

「フリッパー・ピンボール」の最後は77ページです。ここでは、「スーパーマン (ATARI, 1979)」、「チャーリーズ・エンジェル (Gottlieb, 1978)」、「ニュージェント (STERN, 1978)」の3機種のタイトルと筐体画像が、遊び方抜きで紹介されています。


77ページの「スーパーマン」、「チャーリーズ・エンジェル」、「ニュージェント」の紹介記事。

この3機種は、確かに当時のアメリカっぽいテーマの中では旬でした。しかし、同じ映画テーマなら「未知との遭遇 (Gottlieb)」の方が、TVシリーズなら「600万ドルの男 (Bally)」の方が、音楽ジャンルなら「キッス (Bally)」の方が、ここで挙がっている3機種よりもヒットしていたように思います。きっと、バランスとかバラエティとか、いろいろ考えるところがあっての選択だったのでしょう。

(次回「ビンゴ・ピンボール」につづく)

ポパイ@1979年(2):その1・ビデオゲーム

2020年12月06日 16時50分18秒 | 歴史
雑誌「ポパイ」1979年4月25日号の内容記録の1回目はビデオゲームです。

「フットボール (ATARI, 1978)」
全39ページからなる大特集記事「POPEYE GAME BOOK」の第1面を飾ったのは、「アメリカン・フットボール」をシミュレートしたATARIの「フットボール (FOOTBALL)」でした。


フットボールの記事。63ページ。男女のファッションがいかにも当時のシティボーイ風。

全米が熱狂する一大人気スポーツであるアメリカン・フットボールは、三菱自動車が米国のカレッジフットボールの公式戦を「ミラージュボウル」というカンムリ興業にして日本に誘致するなど、1970年代から80年代にかけて日本でも流行らせようというムーブメントがありましたが、ルールが難しくて理解されなかったからか、あるいは体格が貧弱な日本人にはなかなかスターが現れなかったからか、メジャー競技に発展することはありませんでした。

とは言え、1979年は日本にとってアメリカン・フットボールが最も「旬」だった時期でもあり、特集記事の一番にこのゲームを持ってくるのはやはりポパイだなあという気もします。記事中では、「今このマシンがあるのは東京・六本木の<ヘンリー・アフリカ>だけ」と述べられていますが、過去記事「【小ネタ】トラックボールを使ったビデオゲーム二題」でも触れている通り、この後日本でも広く普及しました。

スペース・インベーダー (TAITO, 1978)
スペース・ウォーズ (CINEMATRONICS, 1977)

次に掲載されているビデオゲームは、TAITOの「スペースインベーダー」と、シネマトロニクスの「スペース・ウォーズ」です。


「スペースインベーダー」と「スペース・ウォーズ」の記事。79ページ。

ポパイのこの号が発売されていたころは、インベーダーブームの真っ最中でしたが、そのわりに扱いが小さいです。「スペースインベーダーはスター・ウォーズから発想された」「スター・ウォーズが先生」などと書かれていますが、スペース・インベーダーのアイディアの原案がスター・ウォーズに由来しているというわけではなく、敵キャラをインベーダーとする着想に、スター・ウォーズに代表される当時のSFブームが影響したというだけの話であり、無理やりにでも今の米国の流行りと結び付けようとしているところがやはりポパイだなあという気もします(2回目)。ただし、プレイヤーが攻撃されるという概念が新機軸であったところに触れているのは正しく、ひょっとすると中藤保則氏(関連記事:ポパイ@1979年(1):AMゲームは「カッコいい」ものだった(らしい)」のアドバイスがあったのではないかと思われます。

このコーナーはあまり書くネタが無かったと見えて、埋め草なのか、シネマトロニクス社の「スペース・ウォーズ」(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(1) 業務用ビデオゲームの黎明期の記憶)の筐体画像も掲載されていますが、たった一言「人気今ひとつ」とキャプションが付いているだけで、なかなかひどい扱いにちょっとジワります。確かに、あまり遊んでいる人を見ないゲームではありましたが。

ジービー (namco, 1978)

次は89ページに掲載されているnamco初のビデオゲームである「ジービー (GEE BEE)」です。




「ジービー」の記事。89ページ。画像を大きくするため、記事を三分割して個別の画像としてある。

「隠れたる名器」「ナムコの名器」とべた褒めですが、記事の内容はゲームのルールの解説のみです。その解説も専門用語(カタカナ語)が多く、知っている人にしか伝わらないんじゃなかろうかと心配になります。

しかし、このゲームを特集に取り上げる意味はそこ(攻略法)じゃないだろうと思います。例えば、殆ど同じルールのブロック崩しばかりだったパドル&ボールゲームに新たな可能性を示したゲームであるからこその「名器」というまとめ方だってありそうなものです。まあ、一般誌にそこまで求めるのは酷なんでしょうか。

スーパー・スピードレース・ファイブ (TAITO, 1978)
スパークリング・コーナー (SEGA, 1976)
ザ・ドライバー (関西精機, 1979)

最後は「ドライブゲーム」にまとめられた三つの機種です。


ドライブゲームの記事。97ページ。

スーパー・スピード・レース・ファイブ (SUPER SPEED RACE V)」は、コックピット筐体の「スーパー・スピードレース」が行っていたハイスコア表示を上位5位まで表示できるようにしていました。他社の競合機種として、セガは「モナコ・グランプリ(1979)」を、ユニバーサルは「ゲッタウェイDX(1979)」を発売していますが、この記事が発表される時期には間に合っていなかったようです。

そのセガからは、4人同時に遊べるドライブゲーム、「スパークリング・コーナー (SPARKLING CORNER)」が紹介されています。ワタシは遊んだことはありませんが、新宿歌舞伎町などで見てはいます。多人数同時プレイのドライブゲームは過去にもありましたが、このあまりにも特異な筐体はさすがセガだと思います。この記事の画像だけではあまりにも惜しいので、フライヤーの筐体画像も追加しておこうと思います。


スパークリング・コーナーの筐体(フライヤーより)。たった一つの26インチモニターがバックボードの左側にオフセット配置されており、席によって見え具合が異なる。コーナリングという設定だからこそのアイディア。

今回の最後は、関西精機の「ザ・ドライバー (THE DRIVER)」です。エレメカの雄である関西精機が1979年春にリリースしたものなので、ひょっとするとこのポパイに掲載されているゲーム機の中では最も新しいものかもしれません。

ザ・ドライバーは、車載カメラで撮影した実写映像をスクリーンに投影し、前方を走る赤い車を追うように操作するというエレメカ機で、IC基板から映像を出力するゲームとは構造が根本的に異なりますが、ポパイではそこまでの突っ込みはないどころか、実写映像を使用したものとの記述もありません。実は、「ザ・ドライバー」の映像は、映画会社の東映に依頼して撮影されたもので、ロケ地は比叡山中腹の比叡平だったのですが、そんなことは「シティボーイ」には興味の対象外だったのでしょうか。

(次回「フリッパー・ピンボール」につづく)