オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

歴史の語り部を追った話(3):「ジェミニ」と米国バーリー社の関係・その1

2018年06月24日 20時37分08秒 | 歴史
未完のウェブサイト「コインマシンの世界」のトップページには、興味深いコンテンツがたくさんありますが、この中でワタシがとりわけ気になったのは、連載記事「新コインマシンの文化誌」内の、「第6回 マックスアライドとバリー、IGTの関係(幻のインタビュー)」及び「第7回 アメリカのスロットマシンメーカーとパチスロメーカーの関係」です。


ウェブサイト「コインマシンの世界」から、「新コインマシンの文化誌」の、ワタシが特に気になっている部分(赤矢印と赤下線)のスクリーンショット。ところで、細かいことだが、表題は「新コインマシンの文化史」の変換ミスではないだろうか。

しかし、この目次では、ここから本文に飛ぶリンクは張られていません。オーサーの渡邊靖之氏は、ここに着手する前に物故されてしまったようです。

なぜこの記事がそんなに気になるかというと、現在のパチスロが採用する「3コイン・5ライン」の嚆矢となった風営7号機(現在の4号機にあたる)「ジェミニ」(マックス製作所・1977)という機種は、当時の日本のメダルゲーム場に設置されているスロットマシンの殆どを占めていた米国バーリー社の製品と非常に多くの部分で酷似していたからです。

 
ジェミニ(1977)のフライヤーと、バーリーのModel922(5-Line Progressive・1972)のフライヤー。


さらにジェミニとバーリーのModel922を並べて比較。

似ているのは全体的な外観だけでなく、細部に至っても同様です。




ジェミニのウィンドウ部及びその周辺(上)と、バーリーのModel873A(5-Line Pay・1970)の同部分(下)。

これを見ると、ペイラインを示す矢印やラインのデザインばかりでなく、コイン投入口の形状と、見にくいですがそこに刻印されている「PRESS TO RETURN↑COIN」の文言まで一致しています。さらに言うと、シンボルのデザインまでほとんど同じです。


ジェミニのシンボル(上)と、バーリーのModel 891(Super Continental・1970)で使用されていた7、ベル、オレンジ、プラムのシンボル(下)。ただし、1910年にフルーツシンボルが登場して以降、多くのメーカーが殆ど同一と言って良いデザインのシンボルを使い続けているケースが多いので、必ずしもジェミニがバーリーを真似たと断言することまではできない。

一体、この類似性にはどんな秘密が隠されているのでしょうか。ワタシが初めてジェミニを見て以来感じ続けていたこの謎に対する答えが、きっとこのコンテンツの本文中にあったに違いありません。

それから数年が経ち、例によってネットで調べ物をしていたワタシは、どうやら「コインマシンの世界」と同じく渡邊靖之氏がオーサーであるらしい、やはり未完のウェブサイト「P業界極秘ファイル」を発見しました。ひょっとして何か関連情報でもあるかと期待して閲覧したところ、「Amusement Japan」という7号業界の業界誌の別冊として発行された「PACHISLOT2001」に、渡邊氏による「日米スロットマシンメーカーの深い関係/伝説のパチスロ第1号/「ジェミニ」誕生秘話」という記事が掲載されていることがわかりました。

ワタシはさっそく版元に電話をして「PACHISLOT2001」の在庫は残っているかと問い合わせたところ、「僅かだがある」との答えを得て、先方が言う代金3530円を銀行から振り込みました。


「PACHISLOT2001」の表紙。「完全保存版」と銘打たれている。奥付には「2001年2月25日発行」とある。

届いた本はムック形式ですが、そのほとんどが業界関連企業の広告で埋め尽くされており、まるで広告のチラシを売るための本であるかのようにさえ見えました。しかし、本題である記事は確かに掲載されており、その冒頭では、「(前略)しかしパチスロ業界の出発点となった「ジェミニ」が生まれるまでには、アメリカのバリー社の協力があったことは、これまで余り知られていない(後略)」と述べられていました。

記事の内容は、ジェミニを開発したマックス(この当時、「マックス製作所」、「マックス商事」、「マックスアライド」、「マックスブラザーズ」など、「マックス」を名乗る類似の社名がいくつもありましたが、いずれも実態は同一と思われるので、以降は単に「マックス」とします)の角野博光氏へのインタビューを中心に進められており、マックスとバーリーの間で行われたやり取りが述べられているのですが、このまま続けると長くなってしまいそうなので、今回はここまでとさせていただき、続きは次回で詳しく述べようと思います。

なお、拙ブログでは、米国の「Bally」社は、「バーリー」と記述していますが、今回の記事の出典では「バリー」と表記されているため、出典から引用する部分では、それに倣って「バリー」と記述することにいたします。

(つづく)

歴史の語り部を追った話(2):シカゴランドショウ(Chicagoland Show)

2018年06月17日 20時52分02秒 | 歴史
未完のウェブサイト「コインマシンの世界」には、「シカゴランドショウ(Chicagoland Show)」についての記事が掲載されています。

シカゴランドショウは、毎年4月と11月の2回、シカゴ近郊で開催されている、コインマシンを中心とした骨董市です。コインマシンの骨董市は数々ありますが、シカゴランドショウはその中でも最も規模が大きいと思われるものなのだそうです。そして、前回言及した故リチャード・ブッシェル氏(関連記事:歴史の語り部たちを追った話(1):ウェブサイト「コインマシンの世界」)も、生前、この運営に深くかかわっていたとのことです。

ワタシはこのシカゴランドショウに、これまでに2005年、2006年、2010年の3回、訪れています。この頃は、ワタシがウォッチを続けているカジノ業界の見本市「G2Eショウ」(関連記事:ラスベガス半生中継・2017年9~10月 (4)10月3日(火)G2E初日 他)の開催日がシカゴランドショウの開催日の翌週となることが多かったため、マイル修行を兼ねてシカゴでストップオーバーしてシカゴランドショウをひやかした翌日にラスベガスに向かうという旅程が組めたのですが、2011年からはG2Eショウの実施時期が10月に変更されたため、シカゴランドショウに行くチャンスを作りにくくなってしまいました。

シカゴランドショウは、シカゴ・オヘア国際空港から西に40㎞ほどのところにある「セントチャールズ」という町の、ホテル「フィーザントラン・リゾート(Pheasant Run Resort)」に併設されるコンベンション施設「メガセンター(Mega Center)」で行われます。この周辺はシカゴのダウンタウンからそれほど離れているわけでもないのに結構な田舎町で、メガセンターはまるで学校の体育館のように見える、装飾性に乏しい平屋建ての建物でした。

田舎町とは言え、メガセンターは何しろコンベンションセンターですから、周囲はそれなりに広い駐車スペースになっており、骨董市の出展業者のものと思しきトラックもたくさんありました。会場に搬入しきれなかったのか、それともこれから搬入しようとしているのか、古いコインマシンをトラックの荷台から降ろしている業者もちらほらおり、中には値札を付けてその場で売っているらしい業者もいました。


(1)メガセンターの入り口。右奥に見える建物はフィーザントラン・リゾートの、18階建ての宿泊棟で、この周辺でのほとんど唯一の高層建築物。 (2)~(3) メガセンターの駐車場にて、商品をトラックから降ろしていた業者。値札を付けてその場で売っていると思しき業者もある。 (4)手の甲に捺された「TILT」のスタンプ。

入り口で5ドルくらいだったか、さして高くない入場料を支払うと、その証拠として手の甲に「TILT」のスタンプを捺されました。コインマシンの市場で「TILT」とはなかなか洒落た言葉を選ぶではないかと感心しましたが、後にこの骨董市を主宰する団体の名称が「TILT PROMOTIONS」であることを知りました。いずれにしても、コインマシンに相応しい、良いネーミングだと思います。

会場の中は、外見から得た印象通り、観客席の無い学校の体育館のような作りです。公称35000平方フィートは、千駄ヶ谷にある東京都体育館のアリーナとほぼ同じくらいの広さですが、そこまで広くないようにも思えます。その中に、全米のあちこちから集まってきた約300の骨董業者とその関連業者が店を開き、商品を陳列していました。


(1)~(4)会場内の様子。たくさんの骨董業者や関連業者が所狭しと出店する。(4)は、フィーザントラン・リゾートのボールルームまで拡張した第二会場の様子なので、他と室内の雰囲気が異なる。


やはりスロットマシンの出品が多い。(1)1950年代以前のスロットマシン専門の業者。リペアパーツなども扱っていた。 (2)こちらも同じく50年代以前のマシンを扱う業者。 (3)60年代のバーリー製品は意外にもあまり多くない。 (4)80年代以降の比較的モダンなマシンも多少はある。


(1)アメリカではちょっと珍しいセガのダルマ筐体を見つけた。$1095。 (2)セガの筐体の裏を開けて見せてくれた。隅々までメンテナンスされており、新品同様に見える。これがプロの技というものか。 (3)パチスロまで売られている。最終日には大幅値下げをしていた。 (4)50年代以前のスロットマシンのリペアパーツ専門店もあった。そういう需要がある事にも驚く。


(1)ピンボール。売り物なのにタダで遊べるようにしているのが多いのは、稼働状況を確認させるためだと思う。 (2)スペースの関係か、組み上げないまま出品する例もある。 (3)戦前のピンボールも多い。 (4)ビンゴ・ピンボールのバックグラスだけを売る業者もあった。


(1)ビデオゲームの出品も多い。しかし、今後CRTの供給が途絶えたとき、これらはどうなるんだろうか。 (2)ドンキーコング(任天堂・1981)の純正テーブル筐体。$495。アメリカではテーブル筐体はあまり一般的ではなかったと聞いていたので少し意外。 (3)テンペスト(アタリ・1980)。$975。モニターは新しいものに交換してあるとのこと。 (4)1960年頃のテレビも出品されていた。$1495。映像は「宇宙家族ロビンソン」だろうか。


昔のカジノのゲーム用品を扱う店もある。(1)「Faro」のカードボックス。$495。 (2)同じく「Faro」のケースキーパー(使用されたカードを記録しておくそろばん)。値段が消されていたのは売約済みだったのかも。 (3)「Keno」の木製のキノ・グース。$750なら無理して買えないこともないので買って帰ろうかと血迷いかけたが、輸送に苦労しそうなので諦めた。 (4)「Chuck-A-Luck」のケージ。年代は不明。大きい方が$375、小さい方が$175。



(1)ポーカーなどで、袖の中に隠して使う、1890年代のイカサマ用器具。$2850。 (2)キャッシュレジスターの出品も結構多い。 (3) 手動のミュートスコープ。機種名と年代は不明。側面を開けて動作原理を見せてくれた。 (4)コインマシンではないが、昔のパンチボードも売られていた。一つ$50程度と、案外高い


次回のシカゴランドショウは11月16(金)~18(日)に行われます。このうち初日は業者設営日ですが、アーリーバードプレビューと称して50ドルの特別入場料で一般人も入場できます。2日目、3日目の入場料は、通し券11ドル、1日券7ドルです。

また、長らくメガ・センターで行われてきたシカゴランドショウは、、今年の秋の開催から、従来のほぼ倍の広さを持つ「レイクカウンティ・フェアグラウンド・イベントセンター(Lake County Fairgrounds Event Center 1060 East Peterson Road Grayslake, IL 60030)に会場を移すそうです。詳細はシカゴランドショウの公式サイトをご参照ください。

この記念すべきショウに、ワタシも久しぶりに行きたいものですが、10月に予定しているラスベガス巡礼の結果次第だろうなあと思っています。

歴史の語り部たちを追った話(1):ウェブサイト「コインマシンの世界」

2018年06月10日 15時46分58秒 | 歴史
THE WORLD OF COIN MACHINES 2002 コインマシンの世界」というウェブサイトがあります。ワタシがこのウェブサイトに気づいたのはたしか2001年のこと(ページのタイトルから考えれば2002年ではないかとも思われますが、ワタシの記憶では2001年の夏だったように思います)です。ゲームの歴史を調べているときに、偶然辿り着きました。


ウェブサイト「コインマシンの世界」のスクリーンショット画面。この下に、コンテンツへのリンクが続く。

ページの冒頭には「故R.M.ブッシェル氏に捧げる」との献辞と共に、ブッシェル氏の肖像が掲げられています。ブッシェル氏(Richard M Bueschel)は古いコインマシンに関する本をたくさん著しており、実はワタシも、この人の「Lemons, Cherries & Bell-Fruit-Gum」という本を、ラスベガスの「ギャンブラーズ・ジェネラル・ストア」で買っていました。カラー画像をふんだんに使った、好きな人にとっては眺めているだけでも楽しい本です。


「Lemons, Cherries & Bell-Fruit-Gum」の表紙。現在もネット通販で比較的容易に入手できる。

しかし、献辞でわかるとおり、ワタシがこのウェブサイトに辿り着いた時点でブッシェル氏は既に物故されてしまっておりました。もっとずっと後に入手した別の資料によれば、氏は1998年の4月に72歳で亡くなったとのことです。この偉大なコインマシンの歴史の語り部の、少し早すぎるご逝去は、実に残念でなりません。

さて、上記リンクから、実際にこのウェブサイトに飛んでご覧いただければわかる通り、「コインマシンの世界」のトップページには、ワタシのようにゲームのルーツを辿るのが楽しいマニアとって非常に興味深いコンテンツがたくさん記載されています。

しかし、これらのコンテンツのうち、記事本文へのリンクが張られているものは一部だけで、残る部分は待てど暮らせど一向に更新されませんでした。見出しの中には、ワタシの長年の謎への答えになりそうなものもあるのに、それらは一体いつになったら明らかになるのでしょうか。ウェブサイトに設置されている掲示板には外部の人からの書き込みが数件ありますが、オーサーからのお返事はなく、ここでお話を伺う事も期待薄のようです。

業を煮やしたワタシは、追加情報を求めてネット上を検索することにしました。トップページの最後に記載されている「制作・著作:EDITIONS 403vie」を手掛かりに検索を始め、少しでも関係がありそうなウェブサイトから新たなキーワードを得てさらに探るという作業を繰り返していったところ、どうやら「コインマシンの世界」のオーサーは、パチンコ業界を主とする遊技業界の記者をされている渡邊靖之氏とおっしゃる方で、著書もあるらしいことがわかりました。しかし、検索を続けていくうちに、渡邊氏もまた、「コインマシンの世界」のウェブサイトを立ち上げてからほどなくして、まるでブッシェル氏の後を追うかのように鬼籍に入ってしまわれたらしいことが判明しました。

もはやこれ以上のサイトの更新は望めないことがわかり大いに落胆しましたが、一連の調査でいくらかの情報を得ることもできました。その中でも大きなものの一つは、ブッシェル氏がその運営に深くかかわっていたというコインマシンの骨董市「シカゴランドショウ」の存在を知ったことです。そしてもう一つ挙げるならば、「月刊Amusement Japan」というパチンコ業界の業界誌の別冊に、「コインマシンの世界」のコンテンツの一部が記載されているらしいことを知ったことでした。

というわけで、次回は「シカゴランドショウ」の記憶を、次々回は「月刊Amusement Japan別冊 PACHISLOT2001」を、順次記録していこうと思います。

(つづく)

またまたヘンなゲーム機「ジャックポット・フリッパー」(SEGA, 1976-7?)

2018年06月03日 18時31分26秒 | スロットマシン/メダルゲーム
4月15日にアップした記事「ヘンなゲーム機「GRAND PRIX FOUR」(SEGA, 1977-8?)の記憶(2)」で、kt2さんという方から、「ジャックポットフリッパーについて調べているが情報はないだろうか」とのコメントをいただきました。

ワタシは「ジャックポットフリッパー」を少なくとも一度は遊んでいますが、その記憶は極めてあやふやで、1976年から1978年の間で新宿のsigma系列のロケではなかったかと推測するのが精いっぱいです。
ただ一つはっきり覚えているのは、それはウィリアムズ社の「SUPER STAR」(筐体やフライヤーの画像はこちらから見られます)というフリッパー・ピンボールを改造したものであったということです。

ゲームのルールの記憶も、「とにかく1球のみのプレイで高得点を出せばメダルが出る」ということだけしか覚えていなかったのですが、その後kt2さんからいくらかの情報をいただいたおかげで、うっすらとですがいくつかの詳細事項を思い出してきました。今回はワタシのそのおぼろげな記憶を甦らせて、ジャックポットフリッパーで一本記事を仕立ててみようと思います。

「ジャックポットフリッパー」とは、セガがおそらく1976年か1977年に発売を始めたメダルゲーム機で、通常は3球、または5球で1ゲームとする(設定で変更できるが、多くの場合3球で運営されていた)ピンボールゲームを、ただの1球でどれだけ高いスコアを上げられるかでメダルの得喪を決定するというゲームでした。そしてそのゲーム機は、セガがゼロから開発したものではなく、既存のフリッパー・ピンボール機をセガがメダルゲーム用に改造したものでした。ワタシの手持ちの資料では、1977年の価格表に8機種が見られます。


1977年のセガ価格表より、ジャックポットフリッパー部分を拡大部分。

kt2さんからは、これらの元ネタとなった機種の情報をいただいていますので、その対応表を作るついでに、元ネタの売り出された直後と1977時点のそれぞれの販売価格も調べてみました。


ジャックポットフリッパーと元ネタの対応と、オリジナル機種の販売価格の変化の一覧表。米国Williams社製品をオリジナルとするものが3機種、自社製品を元ネタとするものが5機種、掲載されている。販売価格は、旧型機になるとずいぶん安くなることが見て取れる。

しかしこの価格表には、ワタシの記憶にある、「SUPER STAR(Williams, 1972)」を元ネタとしたジャックポットフリッパー機の名前は見られません。これはワタシにとって一つの謎となっています。

ジャックポットフリッパーのバックグラスにはペイアウトテーブルが描かれています。基本的にはメダル1枚でも遊べますが、さらにメダルを投入することで内部抽選が行われ、これに当選するとメダルの払い出しを受けられるスコアが低くなるという、ビンゴ・ピンボールに通じるルールがあり、ペイアウトテーブルもそれに従って3種類がありました。


ジャックポットフリッパーのバックグラス部分。ペイアウトテーブルは3種類(赤枠部分)があり、メダルを追加投入すると、内部抽選により更に低いスコアでメダルが獲得できるテーブルに移行する(ことがある)。

ゲームの説明では、平均4枚程度のベットで最も有利なテーブル3が適用されるようになるようなことが書かれていましたが、ワタシにとってはこれは真っ赤なウソで、メダルをつぎ込んでもなかなかテーブルが進まなかった印象しか残っていません。これはもちろん、ワタシがツイていなかったか、あるいは回収期であった可能性は排除できませんが、それにしても、メダル1枚を惜しみながらベットするようなワタシにとって、これは非常に不愉快なことでした。

それでも、スキル次第でメダルが増えるものと信じてある程度粘ったのですが、このゲームで良い思いをした記憶は殆どありません。プライズとして払い出されるメダルの枚数は4枚、16枚、64枚、256枚の4段階があり、当然ながら多くのメダルを獲得するには高得点を挙げなければならず、そしてそれは最も有利なテーブルであっても相当に難しい条件が設定されていました。

ところで、フリッパー・ピンボール機の価格は旧型機になると大幅に安くなると前述しましたが、これはジャックポットフリッパーも同様で、1977年の価格表では36万円とされていたものが、kt2さんからいただいた翌1978年の価格表ではなんと半額の18万円となっています。

古いゲーム機の価格が安くなる理由として、開発費は既に償却されており、以降は部材費と組立工賃だけで生産できるというケースもありますが、それはロングセラーでこその話で、多くの場合は在庫一掃のバーゲンです。「ジャックポットフリッパー」も、その後広く普及することもなく比較的簡単に姿を消したところから、どちらかと言えば投げ売りの意味で安くなっていたのではないかと想像されます。そもそも論として、スキルとペイアウトは相性が悪いという原則があるものですが、「GRAND PRIX FOUR」とほぼ同じ時期に作られた「ジャックポットフリッパー」もまた、まだそのことに気づいていない時代の産物だったと言えるのかもしれません。