オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

スロットマシン・謎のフライヤー(チラシ)

2016年03月30日 23時07分59秒 | スロットマシン/メダルゲーム
ワタシは、ゲーム機メーカーが頒布するフライヤー(チラシ)をいくらかコレクションしていますが、その中に謎の1枚があります。


謎のフライヤー。印画紙のようにも思えるが、カラー写真にありがちな退色はあまり感じられない。裏面は白紙。

一見したところ、バーリーの「スーパーコンチネンタル」なのですが、シンボルがフルーツではなく、そして何より表記が漢字です。


機械の顔部分のアップ。表記が漢字ということは中華圏向けの機種と言うことなのだろうが・・・


ちなみに、こちらがオリジナルとなるバーリーのスーパーコンチネンタル

オリジナルのスーパーコンチネンタルが発売されたのは1970年ですので、このフライヤーが作成されたのも1970年代と思われますが、この時期に中国人向けのスロットマシン市場があったという話は、ワタシは他で聞いたことがありません。

中華圏におけるスロットマシンは、2002年にマカオのカジノ市場が外国資本に開放されたことを機に、欧米のスロットマシンメーカーがこぞって中国文化をテーマとする機種を積極的に開発するようになったここ数年で、ようやく中国人客にも浸透してきたように見えますが、それ以前は全くの異文化で、遊び方さえろくにわからない人までいたくらいのゲームでした。謎のフライヤーは、そんな市場に向けて果敢にアピールを試みた証拠なのでしょうか。

リールに描かれる絵柄は、標準的なフルーツシンボルを廃し、独特のキャラクターに置き換えらえれていますが、これが何をテーマとしたものかが良くわかりません。かろうじて、京劇の面と思しきシンボルが、オリジナルのBARシンボルに当てられているという見当が付くくらいです。

また、ワタシは中国語に暗く、しかもここに記されている漢字がどうも北京語ではなさそうなこともあって、正確なところはわかりませんが、この中華版スーパーコンチネンタル機の漢字表記にはいくつか気になるところがあります。

一つは、横書きの部分は、どうも右から左に読むようになっていると思われる点です。このような表記をする中国語というものが果たしてあるものなのでしょうか。何となくあったような気もしないこともないですが、わかりません。

また、配当表の右下部にある「此機 僅供娯楽 為限」という記述も気になります。これはおそらく、「本機は娯楽専用」の意味であろうと思います。アメリカの業界においても、特にゲームの結果によって払い出しがあるゲーム機では、公序良俗に反する賭博機であるという指弾を避けるための呪文として、「For Amusement Only(賭博に非ず)」と言う一文を筐体に明記するということが行われており、これは、それをそのまま中国語としたものではないかと思われます。しかし、マカオのカジノに置くつもりであれば賭博が咎められることもないと思うのですが、この中華版スーパーコンチネンタルは、いったいどこに設置するつもりだったのでしょうか。

もう一つ、4つのリールの右の黄色い部分に、「如以記■方式請按記■▲」(■=貝へんに長 ▲=金へんに丑)」とあります。オリジナル機のこの部分には、「TO PLAY CREDIT PRESS CREDIT BUTTON(クレジットで遊ぶにはクレジットボタンを押す事)」という記述があり、つまりこの機械は、コインではなくクレジットで払い出す設定になっているように見受けられます。なお、オリジナル機は、コインモードとクレジットモードをキースイッチ一つで簡単に切り替えることができました。

これに気づいて改めてキャビネットを見直すと、キャビネットにはコインボウル(ホッパーが払い出すコインを受ける大皿)が存在せず、代わりに、おそらく投入されたコインが不良であった時の返却用の小さな受け皿が付いているだけです。


コインボウルが無く、小さな受け皿が付いているのみ。

更によくよく見ると、このキャビネットには、「One Armed Bandit(片腕の追剥)」とも呼ばれるスロットマシンの象徴であるはずのハンドルすらありません。確かに、コインを投入するだけで勝手にリールが廻り始める機種も僅かとは言え存在するので、全くあり得ないことではないにしても、腑に落ちるものではありません。また、コンチネンタルは、1ゲームに最大6枚までコインが投入できるので、「コインを入れれば勝手に回る」という仕様は考えにくく、もしかすると、キャビネットの前面、リール窓の下に付いている二つのボタンのどちらかが、スピンボタンになっているのかと想像しています。

フライヤーは、大量に頒布するのであればしっかりと印刷するものですが、それほどの量でない場合は、説明文のみ印刷して、画像は印画紙に焼いたものを添付するということが良くおこなわれます。ひょっとして、さして大きいとは言えないアジア向けということで、これもそのようなモノとして使用されたものだったのかもしれません。

柿の木坂トーヨーボール & キャメル

2016年03月27日 21時57分05秒 | ロケーション


2007年2月に撮影した柿の木坂トーヨーボール。この時点ですでにクローズしている。

その昔、東横線都立大学駅の近くの目黒通り沿いに、「柿の木坂トーヨーボール」というボウリング場がありました。オープンは1965年、クローズが2005年で、現在その跡地には外車の販売店が建っています。

このセンター(ボウリング場は、慣例的に「センター」と呼ばれるケースが多い)の経営母体は、2016年3月20日の拙ブログにアップした(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)で触れている「トーヨーボール」と同じで、互いの距離は600m程度しか離れていません。こんな至近距離に自ら競合店を建てるなんて、今考えると全く信じがたいことのように思えますが、それだけ当時のボウリングブームがすさまじかったということなのでしょう。

柿の木坂トーヨーボールは5階建てで、1フロアに14レーンずつ設置されていましたが、ブームが過ぎてからは上の階をいくつか休止状態とし、末期にはボウリング設備を潰して卓球やビリヤードの営業を行うフロアもありました。センターのエントランスは、14~5年前にTVで放映されていた「ゴールデンボール(主演・金城武/黒木瞳=敬称略)」というTVドラマのロケで使われていたので、見覚えがある人もいるかもしれません。


トーヨーボールのエントランス。なお、「ゴールデンボール」劇中で、ボウリング場の中のシーンは別のセンターで撮影されていた(田町の東京ポートボール?)。

この柿の木坂トーヨーボールは、1972年から73年にかけてくらいのころ、1階の、それまではおそらく飲食店にしていた一角を、メダルゲームコーナーに改装しました。シグマ社がゲームファンタジア・ミラノの営業を始めたのが1971年の12月下旬ですから、それから約1年後くらいのことで、メダルゲーム場というジャンルが拡大していくペースがなんとなく伝わってくるような気がします。

ずっと後に30席程度の喫茶店となるこのメダルゲームコーナーは、さほど広くはなく、壁沿いにバーリーのスロットマシンが20台くらいと、やはりバーリーのピンビンゴが2台、フロア中央にニューペニーフォールが1台あるだけでした。しかし、そのメダルゲーム場も長くは続かず、1970年代半ばからは、主にピンボールが置かれるゲームコーナーとなったように記憶しています。実は1975年ころ、都立大学駅前に「キャメル」というメダルゲーム場ができていますが、これが関係していたかどうかは不明です。

余談(1) メダルゲーム場に改装する際、表通り側の外壁には、バーリー社のあのベリーシェイプの大きなロゴと、たくさんの電球でまばゆく光り輝いて入り口を指し示す大きな黄色い矢印が設置されましたが、その後いつしかバーリーのロゴは撤去され、更に黄色の矢印の中の電球はエントランスの看板の周囲を飾る電飾に流用するために何度も間引かれ、その状態がセンターが閉鎖されるまで続きました。


喫茶店となった後のメダルゲームコーナーの入り口付近。上部の大きな黄色い矢印は、メダルゲーム場に改装する際に取り付けられたもの。この時点ではすべての電球が取り去られている。

余談(2) 「キャメル」の経営母体は「恵通観光」といい、隣駅の自由が丘で「自由が丘劇場」という映画館をオペレートしていた関係で、キャメルに設置してあるビデオゲームで高得点を挙げると、そこの招待券がもらえました。この「恵通観光」は、「JOYPACK(ジョイパック)」というブランドを持ち、映画館、ゲームセンター、ボウリング場、パチンコ店、更には外国映画の配給などにも手を広げ、現在は「HUMAX(ヒューマックス)」として、日本でも有数の娯楽関連企業となっています。


さよならダイエー碑文谷店

2016年03月20日 13時19分32秒 | ロケーション

今から41年前の1975年4月、ワタシの自宅のすぐ近くに、地上7階の大型スーパー、「ダイエー碑文谷(ひもんや)店」がオープンしました。以来ここは、ウチの冷蔵庫(兼ダイエーの旗艦店)として、たいへん便利に働いてくれていました。

開店当時のダイエー碑文谷店。昨年、ダイエー碑文谷店が、開店40周年記念として展示していた写真より。

それに先立つ1970年か71年くらいのこと、この場所に「トーヨーボール」というボウリング場を建設する計画が持ち上がりました。当時は、昭和の歴史的な社会現象の一つである「ボウリングブーム」のさなかだったのです。しかし、ボウリング場ができると環境が悪くなると主張して反対運動を展開する地元住民団体もあり、敷地を取り囲むフェンスや反対住民の家の壁や生け垣などには、たくさんの抗議の看板が括りつけられていました。その頃のワタシは、能天気にも、ボウリング場と言えばゲームコーナーがあるだろうから、家のすぐ近くにできるのはうれしいことであるなあなどと考えていました。

反対運動の祈りが天に通じたのか、その後ボウリングブームは急速に衰退し、ボウリング場建設計画は見直され、代わりにダイエー碑文谷店が建てられることとなります。ワタシがその話を聞いた当初は少しだけ残念な気持ちを持ったものでしたが、実際にダイエー碑文谷店が開店すると、その最上階の半分のスペースがゲームコーナーだった(残る半分はスポーツ用品売り場だった)ので、ワタシにとってはたいへんに幸いなことでした。

ダイエーのゲームコーナーは二つのエリアに分かれ、このうち圧倒的に大きい方は「マル三商会」、かなり小さい方は「ナムコ」による運営でした。

マル三商会は、当時の大手オペレーターの一つで、「レジャック」と言うビデオゲームメーカー(実態は、当時はまだ弱小ビデオゲームメーカーだったコナミに作らせたビデオゲームに自社のロゴを載せて売る販売会社だったらしい)の株主でもあったそうですが、1980年に倒産してしまっています。なお、レジャックの株は、倒産する前にコナミに譲渡されていたそうです。一方のナムコは、古くから商業施設に付随するロケ(業界では「SC(エスシー=ショッピングセンター)ロケ」と呼ぶ)をいろいろなところで展開していました。ダイエーとこの両社との間にどんな交渉が持たれたのかはわかりませんが、とにかく、当時のダイエー碑文谷店のゲームコーナーの大部分はマル三商会によって運営されていました。

マル三商会のゲームコーナーの敷地は、大きな長方形と小さな長方形をくっつけたL字型をしていました。大きい方の壁沿いにはピンボール機が10台くらいも並べられ、その中には、セガの「ノスタルジア」や、無名メーカー 関東電気工業社製の「ターキーボール」(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール機:ターキーボール(関東電気工業、1972))などの国産品もありました。フロア中央部には、エアホッケー、プライズ機、アップライト型のガンゲームやビデオゲーム機などバラエティに富むラインナップで、おそらく100台近くのコインマシンが設置されていました。

「ノスタルジア」。セガの77年版価格表より。


関東電気工業のピンボール。日本語表記は「ターキーボール」だが、それにしては英文表記のタイトルの綴りがおかしい。1972年に業界誌に掲載された広告。

L字型の小さい方はメダルゲームコーナーとなっており、「ファロ」、「ハーネスレース」、「ペニーフォール」など当時の定番マスメダルゲーム機と、バーリー製のスロットマシンが6~7台、一人用のコインプッシャーである「ミニフォールズ」が3台、イギリス製の「Ding-A-Bell」というペイアウトゲーム機(これは、よそでは見たことがないレアな機械でした)が1台、それに、過去にアングラ市場で人気のあったアメリカ製のギャンブルマシンで日本国内でも多くの模倣品が作られた「ウィンターブック」の、ユニバーサル社によるリメイク版2台がメインで、他に、メダルゲーム用に転用したアレンジボールがひと島、「ピカデリーサーカス」などシングルロケ向けの小型メダルゲーム数台などが設置されていました。

セガのハーネスレース。5頭立て、連勝複式のみで、メダルの最大払い出し枚数は112枚。

英国クロンプトン社のペニーフォール。「メダルゲームのロールスロイス」と評する人もあった。

同じく英国クロンプトン社の「ミニフォール」。一人用プッシャー。

英国デニス・ジェザード社の「Ding-A-Bell」。ところどころにメダルの径ほどの穴が開いたプレイフィールドにメダルを滑り台の要領で投入し、穴に落ちれば勝ち。後に、渋谷でこの筐体を使い回した別のゲームを見たことはあるが、これ自体は他で見たことが無い。

ユニバーサル社「ウィンターブック」。元ネタはアメリカ製のギャンブル機で、日本ではアングラ市場で「ダービー」と呼ばれる人気機種だったらしい。ユニバーサルはこれを1975年にリメイクして売り出した。ダイエーに設置されている個体は、メダルを投入しても返却口に戻ってしまって、うまく呑み込んでくれなかった。

実はワタシ、1978年の一時期の毎週日曜日、このマル三商会のメダルゲームコーナーで、ゲーセンのあんちゃんのアルバイトをしていたことがあります。機械の扱いについて特に何か教えられるわけでもなく、接客マニュアルなどというものも無いままいきなり現場に放り出されるのどかな時代でした。主な業務は、メダルが出ない、詰まった、などのお客さんのクレームへの対応ですが、多くの時間は「ヒマという苦痛」に耐えることが仕事でした。でも、ある有名なジャズミュージシャンがしばしば来店しては熱心に「ペニーフォール」を遊んでいる姿を見かけるという、少しだけ面白い経験もいたしました。

そんな思い出深いダイエー碑文谷店が、この5月に閉店してしまいます。一時はわが世の春を謳歌した巨大企業だったはずのダイエーは、90年代後半頃から業績が傾き始め、今では同業であるイオングループの子会社に成り下がってしまっています。今回の閉店は、店舗を大規模リニューアルしてイオンの店に衣替えをするためのものだとのことですが、再稼働の時期はまだ明らかにされていません。この変化によって、これまで行われていた会員客優待デーの改悪や、店舗面積縮小及び営業時間の短縮など、ヘビーユーザーにとってはありがたくない変化が予想されるところに不安を感じます。そしてまた、ダイエー碑文谷店最後の営業日とされている日は、ワタシがちょうどラスベガスに行っている予定で、そのオープン以来41年間、ずっと利用し続けていた店の死に目に会えないことが何とも残念でなりません。

今の生活パターンは、会社帰りにダイエー碑文谷店に立ち寄り、夕ごはんの材料や翌朝の朝ごはんを買うのがルーチンになっているのですが、さて、この夏秋はどうしたものか。西に約200m離れた場所にあるオオゼキは閉店時間が早く、会社帰りには寄りにくいので、今から困っているところです。


米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2)

2016年03月16日 23時33分46秒 | 歴史
バーリー社の前身である「Lion Manufacturing」社が、世界大恐慌のさなかの1932年(スタインベックの「怒りの葡萄」の時代背景がちょうどこの頃ですね)に発売したピンボール機「BALLYHOO」は、7ヶ月で5万台以上を売り上げるという大ヒットを記録しました。これにより、また、人はいかなる境遇にあっても娯楽を求めるものだという、意外とも当然とも思える現実を認識させる例ということもあって、「BALLYHOO」は、ピンボール史を語る際には必ず触れられる機種となっています。その後の社名である「Bally」は、この機種名から採られたとされています。

ピンボール機BALLYHOO。2006年のラスベガスG2Eショウにて配布されていたギブアウェイより。

そのバーリーは、戦前からスロットマシンを製造していましたが、1964年、自社製品のみならず他社製品も含んで、従来のスロットマシンを完全に過去のものとしてしまう革命的な機種、「マネー・ハニー(Money Honey)」を発表します。

マネー・ハニー。2006年のラスベガスG2Eショウにおける展示。この年、バーリーは創立75周年の節目だった。

1899年にドイツ系移民のチャールズ・フェイによって発明された「リバティ・ベル」機は、3本のリールを備えたリールマシンとして世界で初めてゲーム結果の判定とコインの払い出しを自動的に行い、スロットマシン(より正確には「リールマシン」)の元祖とされています。リバティ・ベルは、バーなどに設置されて大成功をおさめ、後に同業他社によって、改良を加えた模倣品が数多く製造されるようになりました。

フェイのリバティベル。カーソンシティのネバダステートミュージアムにて。

リバティ・ベル機とその模倣品は、一切の動作に電気を必要とせず、投入されたコインの重さとハンドルを引くことで伸ばされたばねの力だけで作動していました。この芸術的ともいえるメカニズムの基本的な動作原理は、マネー・ハニーが出現するまで、約65年の長きにわたって伝承され続けていました。

バーリーは、従来のメカニカルなスロットマシンに、エレクトロニクス技術を導入して、ゲーム結果の判定を電気的に行うようにしました。しかし、電気で作動するスロットマシンは、実は戦後間もなくから既にいくらか存在しています。「マネー・ハニー」の真に革命的な点は、そのコイン払い出し機構に、「ホッパー」という、当時はもっぱら銀行で使用されていた電動式硬貨計数装置を採用したところにあります。

ホッパー以前の払い出し機構は、払い出すコインを一本のチューブに収納していましたが、構造上の制約から容量はあまり大きくなく、チューブ内のコインを払い出し尽くしてしまうことがたびたびありました。また、一度のゲームで払い出すことができるコイン数は最大で20枚程度が限界で、それを超える大当たりの払い出しには、専用のコインチェンバーを用意しておく必要があり、そしてその専用コインチェンバーは、一度払い出されたらまた人の手でコインを補充しなければならなかったので、大量のコインを払い出すようなフィーチャーを持たせることが容易ではありませんでした。

従来型スロットマシンの中身。右下の、やや斜めに見える真鍮製のチューブが払い出し用コインを収納している。

ホッパーは、バケットと呼ばれる部分に1000枚以上のコインを蓄えておくことができるので、オペレーターの手を殆ど煩わすことなく大量のコインをいつでも払い出すことができました。これはまた、事前に投入したコイン数に応じてペイアウトが増加するマルチプライヤータイプをはじめ、当たる確率が増加するマルチラインタイプ、更にはプログレッシブ、ホールド&ドロー、あるいはソロ・シンボル・ジャックポット他、従来のスロットマシンでは殆ど思いもよらなかった、より魅力的なフィーチャーを搭載する余地を新たに生み出すものでもあり、エレクトリック技術はそれらを実現する技術としておおいに役に立ちました。

バーリーの次世代スロットマシンの中身。筐体の下に見えているのがホッパー。


バーリーのホッパーユニット。

世に送り出されたバーリーの新世代スロットマシンは、そのモダンで洗練されたキャビネットデザインを伴って、瞬く間に世界のスロットマシン市場を席巻するようになります。日本でも、シグマ社が自社でスロットマシンの開発を始める1980年頃までは、メダルゲーム場に設置されるスロットマシンの殆どはバーリー製で、それ以外のメーカーのスロットマシンを見かけることは、「ゼロではない」と言う程度に珍しいほどの寡占状態でした。

ところで、冒頭に触れたスタインベックの「怒りの葡萄」にも、少しだけスロットマシンの描写があります。古くからある大久保康雄さんと言う方による翻訳では、当時はまだ日本ではスロットマシンに対する理解がほとんどなかったせいか、「三本の棒が落す五セント白銅貨の富」とか、「例の三本の棒がせりあがってきて」という意味不明な描写があり、原文を読んでみたいものだと思っていましたが、昨年新たに刊行された伏見威蕃さんの翻訳では、それぞれ「BAR印が三つそろうと山のように出てくる五セント玉ひと財産」、「BARが三つそろい」となっており、「ああ、やはり『棒』とはBARシンボルのことだったか」と合点がいきました。前者は、BARシンボルの三つ揃いで大量のコインを払い出すための専用チェンバーの描写、後者は実際のゲームでその大当たりが出たときの描写です。小説のこの前後は、ぶっきらぼうに見えるけれどもしみじみとした人情を感じさせる、良いシーンとなっています。

米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(1)

2016年03月13日 18時48分36秒 | 歴史


Ballyロゴ(1972年に製造されたスロットマシンのキャビネットより)


セガの価格表1966年版(部分)


セガの価格表1972年版(部分)

バーリー(Bally)は、かつてはAMゲーム機器、ギャンブル機、自販機などのコインマシンの製造、ゲームアーケードの運営、カジノホテルの運営、フィットネス機器の製造とフィットネスクラブの運営など、多岐に渡る部門を持つ巨大コングロマリットでした。

ワタシが小学生だった1960年代~1970年代は、ゲーム場の花形機種と言えば、なんと言ってもアメリカ製のピンボール機でした。当時のメジャーなピンボール機メーカーは、Bally、Gottlieb、Williamsの3社でしたが、このうちワタシにとって「刺さる」機種が多いのは「Bally」の製品でした。ただ、当時のワタシはまだ英語が読めなかったので、その時点では「ビーエーエルエルワイ」と呼んでいました。

「ビーエーエルエルワイ」社は、日本では「バリー」と表記されることが多いですが、現在のワタシは「バーリー」と表記しています。これは、ワタシが中学に進学する時に、ウチの裏手にある歯医者さんからお祝いとしていただいたコンサイス英和辞典に、「bally」の読みとして「バーリー」と「バリー」の二つが記載されていた(と記憶している)ので、その一つ目の読みとして挙げられていた「バーリー」を採っているためです(ただ、最近のオンライン辞書で調べると、「バーリー」と読ませる説明は見あたりません)。

バーリーのピンボール機は、日本にコインマシン市場ができたごく早い時期から盛んに輸入されていたためか、日本国内のAM業界にも、「日本バーリー」、「バリージャパン」、「バーリーサービス」など、米国のバーリー社を彷彿とさせる社名の会社がいくつもあります(ました)。これらのうちのどれかは、確かに本家米国バーリー社の日本法人で、70年代にはゲーム機のディストリビューションを行っていたのですが、どれがそれであったかは今となっては定かではありません。ただ、「日本バーリー」社は、1970年代中~末頃に、水森亜土さんの描くイラストみたいな丸っこいおじさんのアニメキャラがおどけた声で「バーリー、バーリー」と連呼した後、うら若いねえちゃん(実写)が現れて、その胸元に「ベリーシェイプ(どてっぱら型)」とも言われるあの特徴あるロゴを掲げ、「ニッポンバーリーよ(はあと)」と言ってにっこりほほ笑むというTVCMを流していたので、ひょっとして、ここがその日本法人だったのかと想像しています(その後の調査で、米国バーリーの日本法人は「バーリージャパン」であることが判明(2022年6月5日修正))このCMが「バーリー」と発声していたのも、ワタシが現在でも「バーリー」を自分標準とし続ける根拠のひとつでもあります。

いくらか昔に、港区の麻布界隈のビルのてっぺんに、このベリーシェイプの大きなロゴを見かけたことがある方もいらっしゃるかもしれません。そこは、現在は「バリーポンド」と言うAMゲーム機のディストリビューター兼中古ゲーム機業者兼ゲーム場オペレーターですが、1990年前後頃までは「バーリーサービス」と称する、業界でも比較的古参のディストリビューターでした。米国のバーリー社と同じ名とロゴを掲げていますが、1980年代中ごろに行われた日本のJAMMAショウ(ゲーム機業界の見本市)を取材した時の米国の業界誌の記事には、「ここは『Giant Bally』とは何の関係があるわけでもない」と記述されていました。おそらくは、古い時代、アメリカの有力なブランドの商標権が日本に及ばないのをいいことに、ちゃっかり名乗っていただけということなのかもしれません。