オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

お知らせと過去記事の補足をいくつか

2022年10月30日 19時05分08秒 | 訂正・追加等

■お知らせ
(1)前回記事の修正
前回記事「杉山さんと「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)」を、「パチンコの歴史を学ぶ:「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)」に改題し、一部を削除・修正しました。「パチンコ(法政大学出版局)」の著者である杉山さんの次に出版予定であった企画が没となった原因について、不正確な情報に基づいていた記述を削除し、それに併せて前後の文章を若干修正しています。

(2)更新をお休みするかもしれない予告
毎週日曜日更新を目指している拙ブログですが、来月の中旬に遠方に旅行する予定が入ったため、11月20日(日)の更新はお休みする可能性があります。なにとぞご了承ください。

■過去記事の補足
(1)サンダーバード(タイトー,1968)の新画像発見
昨年11月にアップした記事「1960年代のTAITO(4):追加情報その2」で、タイトーのプライズ機「サンダーバード」の不鮮明な画像をいくつか掲載しましたが、その後、より鮮明な画像が発見されました。

サンダーバードの新画像。従来ご紹介したものではほとんど見えなかったプレイフィールドが確認できる。

これは、池袋の老舗ゲーセンである「ロサ会館」がオープンして間もない1968年ころの画像の一部だと思われます。この画像では、これまでの画像では確認できなかったプレイフィールドの様子が多少なりとも見ることができます。そして、筐体自体はそれ以前に製造していたクレーンゲーム機(関連記事:1960年代のTAITO(3):追加情報その1)をベースとしているようですが、機構にいくらかの追加があること、操作系がジョイスティックであること、プライズを払い出すバックボックスを取り付けることなどから、外形が若干変化していることがわかります。

参考画像:サンダーバードのベースとなったと思われるクレーンゲーム「クラウン603(1966)」の画像。

(2)「バリージャパン」の存在時期判明
今月9日にアップした記事「Ballyが作った「回胴式遊技機」の話」において、「バリージャパンの設立年が特定できないので誰か教えて」と泣き言を述べましたが、調査の結果判明しました。

ゲームマシン1986年6月1日号に拠れば、バリージャパンの設立は1974年の7月、そして1986年にはバリージャパンの業務は新たに設立された「バレックス」への引き継ぎが始まり、「(同年)4月下旬にバリー本社との契約手続きが完了した」とあります。

というわけで、バリージャパンの存在時期のファイナルアンサーは、「1974年7月設立、1984年4月に撤退」としたいと思います。

ゲームマシン1986年6月1日号の記事。最後の「今後は形式的に存続していく」がどういう意味かよくわからない。

ただ、ゲームマシン紙には新年と盛夏の年に二回、AM関連企業・団体による時候の挨拶ページがあり、バリージャパンの時代には毎回掲載があったのですが、1986年の暑中見舞い以降は、バレックスの名前が掲載されることはありませんでした。また、その後の記事で「バレックス」の名前を見た覚えもありません。

(3)オマケ:バーリースポーツのロゴ
バリージャパンの件と同じ記事の中で、「Ballyの名前を受け継いでいるが中身は別物」の例として、「NHK-BSでの大リーグ中継で時々表示される「Bally Sports」などで見かける」と述べていますが、その画像が出てまいりました。ワタシはこれを見かけるたびに、「諸行無常、盛者必衰の理」の言葉を思い出します。

NHK-BSで放映されていた大リーグ放送で見られたバーリースポーツのロゴ。ビッグでジャイアントだった頃のBallyのロゴを受け継いでいる。


パチンコの歴史を学ぶ:「パチンコ産業史」(名古屋大学出版会)

2022年10月23日 21時04分25秒 | 歴史

取り急ぎのご報告です。10月26日に記事の一部を削除・修正いたしました。

拙ブログの守備範囲にはパチンコとその周辺も含みますが、ワタシは現行機種のスペックや攻略法などの「実用的」な情報にはまるで興味がなく、テーマはもっぱら1980年代以前の遊技機の変遷や発達、あるいは業界の歴史に限定されています。この傾向は今後も変わることはないと思います。

そんな偏屈なワタシは、過去に拙ブログで「パチンコ誕生博物館」と、その館長である杉山さんの著書、「パチンコ」及び「玉ころがし」(両著共に法政大学出版局)をご紹介してまいりました。

【関連記事】
パチンコ誕生博物館オープン(1)
パチンコ誕生博物館オープン(2) 展示内容
パチンコ誕生博物館オープン(3) 最終回:歴史の証拠を残すにはどうすればいいのか
法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介
法政大学出版局「ものと人間の文化史 188 玉ころがし」のご紹介

杉山さんは、著書「パチンコ」において、パチンコの歴史や変遷に関する、従来広く流布している説の瑕疵を指摘し、綿密な調査により異なる結論を導き出しています。そして杉山さんは、「パチンコ」に続いてそのルーツである「玉ころがし」を出版しました。実はこの後さらに「コリントゲーム」と「スマートボール」が続き、パチンコの歴史を辿る全4巻のシリーズとなる予定だったそうです。しかし、最近になってこの企画は没となってしまったそうです。

今回は、その代わりというわけではありませんが、パチンコの歴史を知るに良い本を一つご紹介いたします。

パチンコ産業史の表紙。2018年名古屋大学出版会刊、5400円(税別)

「パチンコ産業史」は、子供相手の露店商だったパチンコが、ピーク時には売上高30兆円(この数字が直ちにパチンコ業界の利益ではないことには留意しておく必要がある)の一大産業に至った理由を、メーカー、市場、社会情勢、さらには在日韓国・朝鮮人の関わりなど様々な観点から考察しパチンコが生き残り社会に定着していく過程を詳らかにして、2018年にはサントリー学芸賞を受賞しました。

ただ、「パチンコ産業史」では、重要な部分で杉山さんの「パチンコ誕生」を引いている部分がいくつかあるのですが、それにもかかわらず、例えば説明の図版には杉山さんが「ねつ造」と非難している画像が使われていたり、まだパチンコに進化していない段階の菓子自動販売機を、おそらくは元の資料を鵜呑みにして「パチンコ」と言っていたりなど、いくつか杉山さんの認識とは異なる部分があります。杉山さんは今日現在まで5つの問題点を、韓さんに向けてツイッターで指摘していますが、それが韓さんに届いているかどうかはわかりません。

Twitterにおける、杉山さんの、韓さんに対する指摘の一つ。正村ゲージの例としている台は、日工組の理事長であった武内国栄が正村ゲージをより早く世に出たものと偽装するための工作が施されたものと杉山さんは指摘している関連記事:「ものと人間の文化史 186 パチンコ」を勝手に少しだけ補足する

「パチンコ産業史」の中において杉山さんの研究と重なる部分は全体の一部であるので、韓さんは杉山さんの抗議をさほど重要視していないということなのかもしれませんが、杉山さんの研究成果の他の部分は引用しておきながら、杉山さんが重視している部分を無視する態度は、残念なところです。

ワタシはこの「パチンコ産業史」を、昨日図書館で借りてきたばかりで、本文だけで354ページに及ぶ大作のうちまだ第一章の途中までしか読めておりません。しかし、これまでにない視点でパチンコの成り立ちを解き明かそうとする試みと、これまでなんとなく言い伝えられてきたにすぎなかったパチンコの闇の部分に光を当てようとする試みには大きく期待できます。その意味で、パチンコ産業史は広く読まれて欲しい本であるとは思います。願わくば、重版がかかることがあれば、その時には杉山さんの抗議を考慮した内容になっていてもらえればと思います。


ピンボール界の「ネッシー」、「Sea Avenger」 (Meadows Games, 1976)

2022年10月16日 20時52分22秒 | ピンボール・メカ

ここに2台のピンボール機が写っている画像があります。

2台のピンボール機が写る画像。

画像の左はATARIが初めて作ったピンボール機「ATARIAN」、右はMeadows Gamesの「Sea Avenger」です。しかしこの画像は不鮮明なだけでなく、2台のアングルやサイズ感が不自然です。よくよく見ると、人物とともに切り抜いたATARIANの写真を、別のSea Avengerの写真に重ねて貼付けているようにも見えます。

この画像は、先週、米国人のJayから届いたメールに添付されていたものです。Jayは、IPDB(Internet Pinball Data Base)の中の人です。そのメールには他に、日本の業界紙「ゲームマシン」1977年2月15日号の一部とその英訳文、それにかつて米国にあった「Measdows Games」に関する資料2点も添付されていました。

Jayはそのメールで、「この不鮮明な画像の元ネタを知っているか、この日本語の記事のオリジナルを確認することはできるか、その英訳文は正しいか、「Sea Avenger」は米国では見たことが無いが日本では普及したのか」と質問してきました。

さっそく「ゲームマシンアーカイブ」を調べると、この号では1977年1月下旬にロンドンで開催されたATE(Amusement Trade Exhivision)ショウの様子を5ページを費やして伝えており、添付の記事画像はその2ページ目をキャプチャしたものであることが確認できました。そして英訳文はそのうちの「注目の新フリッパー ATARIANS & SEA AVENGER」の部分を翻訳したもので、誤訳や誤解は見受けられず、ほぼ完璧と言ってよいものでした。

添付されていたゲームマシンの記事の同部分。添付資料には紙名と日付が入っていなかったため、公開されているゲームマシンアーカイブからキャプチャし直した。

しかし、冒頭の画像の元ネタについては、ワタシも間違いなく何かで見た覚えはあるものの、それがいつ、どこでのことだったかが思い出せません。心当たりをいくつか調べても出てこないので、Twitterで「この画像の元ネタを知っている人はいませんか」と聞いてみたのですが、3件のいいねと1件のリツイートがあっただけで、正体が割れることはありませんでした。

しかし、ほどなくして、拙ブログではお馴染みのカナダのCaitlynからメールが届き、「あなたがtweetした画像は私のブログにありますよ」と教えてくれました。さっそく見てみると、そこにはJayがワタシに送ってきた添付資料が全部掲載されており、ワタシは忘れていた元ネタがこれであったことを直ちに思い出しました。Caitlynは、Jayはおそらくこれを見て、日本人のワタシに確認を求めてきたのだろうと推測しています。

ここまで判明したことは目出度いですが、しかし、Jayも、Caitlynも、そしてもちろんワタシも、「Sea Avenger」の実物を見たことがなく、情報らしい情報を持ち合わせておりません。ワタシは1977年の日本の業界誌紙を調べてみましたが、ディストリビューターの広告や記事にこの機械の名前や画像を見つけることができませんでした。そればかりか、ワタシは日本のピンボールファンの間で「Sea Avenger」について語られているところを見聞したことさえありません

ゲームマシンの記事を読むと、「Sea Avenger」は、特定のボタン操作によってプレイフィールドを左右に傾けるフィーチャーを新機軸としているようです。記事からはそれが何を意図したフィーチャーなのか今一つ読み取れないのですが、Williamsが1980年に発売した「Black Knight」に初めて装備された「Magna-Save」のように、アウトレーンなどに落ちそうなボールをセーブするフィーチャーのつもりだったのかなあと想像しています。

実体を見た者が現れず、作為も疑われる不鮮明な画像しか残っていない「Sea Avenger」は、まるでネッシーやツチノコのような、ピンボール界の未確認生物と言えましょう。しかし、Meadows Gamesのフライヤーにもその名前は記載されており、存在自体は疑う余地はなさそうです。ワタシはJayに、「当時の英国の業界紙を調べれば何かわかるかもしれない」とアドバイスし、Jayもそれを受けて、英国の友人に聞いてみると返答してきました。ワタシもこちらで、「Sea Avenger」について何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひともお話をお聞かせくださいますようお願い申し上げます

ところで、メーカーのMeadows Gamesを調べると、創立は1974年で、同年に発売したビデオゲーム「Flim-Flam」が大ヒットしたもののその後はこれと言ったヒットがなく、1978年にはHolosonics社に売却され、そのHolosonics社も翌1979年に業務を停止したという事でした。日本ではあまり聞かない社名ですが、タイトーが1978年に発売した「ジプシー・ジャグラー(GYPSY JUGGLER)」を開発したのがこの会社でした(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(3) スペースインベーダー(1978)以前のヒットゲーム)。

Meadows Gamesが開発し、日本ではタイトーが発売したジプシージャグラーのフライヤー(1978)。


Ballyが作った「回胴式遊技機」の話

2022年10月09日 21時13分14秒 | 風営機

現在のナウなヤングの中にはその名前すら知らない人も多いかもしれませんが、拙ブログでしばしば言及している米国のゲーム機メーカー、バーリー(Bally)社は、かつては世界の娯楽機市場を席巻したビッグでジャイアントなコングロマリットでした。

どの程度ビッグでジャイアントだったかと言うと、例えば米国の経済誌フォーチュンは、1981年に発表した「米国法人ビッグ500」において、バーリーを「売上高398位、純利益では273位」に位置付け、ゲームマシン紙1983年10月1日号は「拡大続けるバリー社 レジャー産業全般へ、すでに21社を傘下に」として、「AM機とギャンブル機の製造部門を中心にしながら、遊園地、アーケードゲーム場、カジノの経営と手を広げ(中略)国内における直接の子会社は16社、外国では日本、オーストラリア、ヨーロッパなどで6社を子会社としている」と報じています。

Ballyのロゴ。「ベリーシェイプ(Belly Shape:どてっ腹型)」とも呼ばれる特徴的なロゴは、日本のオールドファンにはピンボール機やメダルゲームのスロットマシンで馴染み深い。

日本のAM業界でも早い段階から「Bally」のブランド力は知れ渡っており、その絶大なネームバリューにあやかって、社名に「バーリー」を名乗る(パクる)企業が複数あったものでした。なお、バーリーの日本での正統な子会社は「バリー・ジャパン」と言いましたが、設立年が特定できません。おそらくはメダルゲームブームが発生する1972年以降だと思うのですが、ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示いただけますようお願い申し上げます。

そのバーリーが最も栄えていたのは、1960年代半ば以降から1980年代後半にかけての間で、1990年前後頃からはグループ企業の売却に次ぐ売却で四分五裂し、徐々にその勢いを失っていきました。今でもバーリーの名前やロゴは、例えばNHK-BSでの大リーグ中継で時々表示される「Bally Sports」などで見かけることはありますが、それらは名前を受け継いでいるだけで、中身は全く別物です。また、ラスベガスの老舗カジノホテル「トロピカーナ(Tropicana)」は、つい先月「Bally Corporation」に買収されましたが、これもかつてのバーリーとは関係がありません。

さて、話は変わりますが、日本の回胴式遊技機(今でいう「パチスロ」)の「0号機」は、1977年に発売された「ジェミニ」から始まりました(関連記事:「アメリカンパチンコ」・ジェミニ)。

ジェミニは、もともとバーリー社製品の部品を日本国内にディストリビュートしていた会社が、バーリーの筐体や部品を流用して作ったものでした。ジェミニの開発者である角野博光氏は、この時のバーリーとのやり取りを、「(技術介入のあるスロットマシンは)『我々の計画では、そんなものは世の中でありえない』と言われました。取り敢えず一応は『やってもいい』ということになって、デザインからメカまで同一の等しい機械を作ったわけです。足りない部品に関しては当時バリーから供給してもらいました」と語っています(関連記事:歴史の語り部を追った話(5):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その3 二つの「バーリー」)。

ジェミニが発売されたのは1977年ですから、このやり取りがあったのはそれ以前のこととなります。おそらくは1975年前後ころか、ひょっとするとそれよりさらに1、2年程度前のことであったかもしれません。その時点で「そんなものはありえない」と言っていたバーリーは、しかし、1980年の春に、「ギャラクシー」という回胴式遊技機を発表し、日本国内で販売を始めました。

バーリー製回胴式遊技機「ギャラクシー」の発表を報じるゲームマシン紙1980年4月1号の記事と、筐体画像の拡大図。

実はこれは青天の霹靂と言うわけではなく、バーリーは1977年の時点で既に日本の風営機向けとしたスロットマシンの開発を行っていました。ゲームマシン紙1977年11月1日号では、その年の秋に行われたアミューズメントマシンショウに関する記事の中で、「風営をめざすスロット『スーパースター』が展示され、話題を呼んだ」と報じています。

ゲームマシン紙1977年11月1日号の記事「各社出展内容一覧」より、バリー・ジャパン社の部分。手前にスキルストップボタンが付いていると思しき2台の「スーパースター」が見える。背後に見えるのは右よりフリッパー・ピンボールのエイトボール、イーブル・ニーブル(EM版)、それにビンゴ・ピンボール(機種不明)。

米国バーリーの日本法人であるバリー・ジャパンは、日本のAM業界事情を本国に伝えるリサーチ活動も行っていたので、以前にはありえないと思っていたことが日本で現実化しようとしていることを知り、急いで参入してきたということなのかもしれません。

あるいは、ジェミニ開発者に対する米国側の窓口が、どうもバーリー本体ではなく、バーリー製品をディストリビュートする「バーリー・ディストリビューティング」であったと思われる節があり、その社長であるサイ・レッド関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き)は電子ゲーム機の開発に意欲的であったので、バーリーではなくバーリー・ディストリビューティングが動いた、ということなのかもしれません。

当初の回胴式遊技機はみんなバーリーの筐体や部品を流用した「アップライト筐体」だったので、その供給源であったバーリー社にはさぞ大きなアドバンテージがあったことと思います。しかし、バーリーのギャラクシーが発表された同じ年の夏、従来のパチンコ台の島に取り付けることを前提とする「パチスロパルサー」(尚球社)が発表されました。パチンコ店は、導入のために店舗の改造を要したアップライト筐体とは違い、現状のまま導入できる「パチスロ」を大いに歓迎し、それ以降開発される回胴式遊技機はみなこれに倣うようになりました。従ってバーリーの「ギャラクシー」は、アップライト型の回胴式遊技機の概ね最後の製品と言うことになりますが、そのせいか、ワタシは「ギャラクシー」をパチンコ店で見た記憶がありません。果たしてギャラクシーは一般のパチンコ店に設置されたのでしょうか。どなたかご覧になったことがある方はいらっしゃいませんでしょうか。

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「パチスロ」がすっかり定着した後の1990年代、欧州のエレクトロコイン社、米国のIGT社、豪州のアリストクラート社など海外の大手スロットマシンメーカーが続々と日本のパチスロ市場に参入し、当時は話題となりましたが、それよりもずっと以前に海外企業によるパチスロへの参入が試みられていたのは、ワタシにとって意外な事実でした。

最後にもう一つ付け足し。時期は特定できませんが、バーリーは、メダルを使用するアレンジボールによく似たコンセプトのゲーム機を開発していたことを比較的最近知りました。情報源は、前回の記事でもご紹介したカナダのCaitlynですが、これについてはまだ詳しいことを述べることができないので、その事実を忘れないためのメモを残すに留めておきます。それにしても、あのビッグでジャイアントなバーリーは、案外日本の市場も意識していたんだなあと思わせられます。


日本製のエレメカ機をリスト化する壮大な試みのご紹介とお願い

2022年10月02日 17時35分33秒 | ピンボール・メカ

拙ブログにしばしば英語でコメントをくださるケイトリン・パスカル(以下、Caitlyn)さんは、カナダ在住のオールドゲームファンです。彼女のオールドゲームコレクションについては、過去記事「カナダからの手紙 with オールドゲームコレクション」でご紹介させていただきました。

彼女はこれまでも自身のブログ「so I bought a pinball machine」で東西の様々なオールドゲームについての記事を公開しており、その一環としてしばしば日本の映画やTVドラマに登場するゲーム機とそこに見られる機種の紹介などもされていました。また、手打ち式だった時代のパチンコやスマートボール、アレンジボールなど風営機にも強い興味を示されており、「パチンコ誕生博物館」(関連記事:パチンコ誕生博物館オープン(1))の館長である杉山一夫さんが著書「ものと人間の文化史 パチンコ」及び同シリーズの「玉ころがし」を著す際には多くの資料を提供して協力されています。

そのCaitlynが、今度は「日本の古いアーケード マシンを世界と共有」することを目指して、主として英語話者を対象とする新しいブログ「a foreigners' guide to eremeka arcades - 外国人のためのエレメカアーケードゲームガイド」を立ち上げました。

「a foreigners' guide to eremeka arcades - 外国人のためのエレメカアーケードゲームガイド」のトップページ。ブログの趣旨の説明には日本語の翻訳が併記されている。

主たる対象は英語話者とは言え、機種名の表記は第一に日本語表記としており、また多くの部分で日本語の翻訳が併記されており、「日本のコレクターにも役立つことを願って」としています。彼女は自分で日本語を解さないと言っていますが、このように我々日本人にも読めるよう機械翻訳を使うなどの努力をされています。

この大変に奇特なブログのトップページでは、本日時点でなんと2200機種の日本製娯楽機の名前が列挙されています。Caitlynはこれらを時期別に6つに分けて、別ページで筐体の画像を掲載しています。さらにその中で詳細がわかる機種については別途記事を作成しています。

例えば、現在315機種が挙げられている「1970年以前」のリストでは、この年代の機種の名称と筐体画像が掲載されています。

1970年以前のリストの一部。セガと中村製作所のペリスコープのほか、邦画「黒い賭博師 悪魔の左手」の作中に写り込んだ、特定できない機種もリストに含まれている。

そのうち、中村製作所の「ペリスコープ(1966)」については、別途ペリスコープのページで関連情報を述べるという具合です。

リストのタイトルに張られたハイパーリンクで飛ぶ、中村製作所の「ペリスコープ」に関する記事のページ。

これだけでも気が遠くなりそうなのに、さらに驚くべきことに、彼女はワタシが過去記事「初期の国産メダルゲーム機リスト(3)1976」でまとめることを諦めると宣言した、レジャックの「ピカデリーサーカス」の同コンセプト機までも可能な限り拾って掲載しています。事ほど左様に、彼女は見えているものは徹底的にリスト化しようとしています。

これほどの労作ですから、そう簡単に完成するものではありません。現時点ではまだ始まったばかりで、これから長い時間をかけて少しずつ充実させていく運命にありますが、その作業は彼女一人では限界があります。

リストがウィキのようなシステムになっていれば、読者が随時追加や修正ができるのかもしれませんが、少なくとも現在はそうはなっていません。そして、Caitlyn自身が認識している通り、このリストには不完全な部分がまだまだ膨大に残されています。

そこで、拙ブログをご高覧くださっている皆様にお願いがございます。Caitlynのリストを見て、漏れている情報や誤りなどを発見されましたら、ぜひともご指摘いただきたいのです。方法は、彼女のブログにコメントいただいても結構ですが、英文を考えるのが面倒であれば、拙ブログへのコメントでお知らせいただいても構いません。その場合はワタシからCaitlynにお伝えします。

日本製のエレメカ機を広く世界に知ってもらうこのプロジェクトに、皆様のご協力をどうぞよろしくお願いいたします。