オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

sigma「THE DERBY」シリーズの系譜メモ (と、GWに伴う更新スケジュール変更のお知らせ)

2019年04月28日 23時20分03秒 | スロットマシン/メダルゲーム

【初めにお知らせ】概ね毎週日曜日の更新を目指して運営しております拙ブログですが、4/30(火)よりラスベガス巡礼に発ち、5/7(火)に帰国する予定でおりますので、来週5/5(日)の更新はお休みとさせていただきます。なにとぞご了承ください。

*******以下、今回の本文
sigmaの競馬ゲーム機「THE DERBY」シリーズは、拙ブログでもこれまでにも何度か触れてはいますが、それらはシリーズ中の個別の機種を部分的に取り上げただけでしたので、今回はシリーズ全体についてのメモを残しておこうと思います。

sigmaは、大型の競馬ゲーム機「THE DERBY」シリーズを、「VΦ」から「MARK-VI」まで、全8タイトルを開発しています。

第一号機である「THE DERBY Vφ」(「V0」と表記されることもある)のデビューは1975年7月で、もともと自社店舗に設置することを前提としていたので開発費に糸目を付けなかった結果5千万円にもなり(これが開発費なのか、それとも販売価格なのかは、なぜかワタシの中では判然としていません)、当時としてはあまりにも破格とされていました。洗練された未来的な筐体デザインから感じられる高級感は、当時の国産ゲーム機とは一線を画していました。ワタシは新宿の「ゲームファンタジア・リトルサーカス」(関連記事:新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶)で何度かプレイしています。


THE DERBY φ

第二号機の「THE DERBY MARK II」のデビューは1976年8月で、前作から僅か1年後のことでした。筐体のシルエットはVφに似ますが、色調が赤と黒に変わり、また最大20席まで増設可能な処理能力を持つなど内部的には大きな変化があったそうです。ワタシはこの機種を、新宿のゲームファンタジア・ミラノでしか見たことがありません。ベットしたメダル数の表示を、4個のランプによる2進表示としていた(つまり、最大15ベットまで表示可能)ため、当時ボンクラだったワタシにはすぐには理解できませんでした。こんな表示を行っていたゲーム機は、私の知る限り、後にも先にもこれだけです。

THE DERBY MARK II。

第三号機「THE DERBY MARK III」のデビューは1981年12月です。前二機種よりもずっとコンパクトなセンターピース構造で、ゲーム内容も5頭立て連複のみとシンプルになり、一般にも販売され、大変広く普及しました。1000万円とも1500万円とも聞く販売価格は依然として破格ではありましたが、購入者にはメダルゲーム運営のノウハウまで提供するというサービスを行って、日本全国のメダルゲーム場に設置されました。


THE DERBY MARK III。

後に、MARK IIIをカジノ仕様に造り替えた「MARK III C7」を開発し、1985年8月には米国ネバダ州のライセンスを得て、ラスベガスのカジノの至る所に導入され、現在もダウンタウンのカジノホテル「The D」で絶賛稼働中です。


THE DERBY MARK IIIのカジノ仕様「C7」筐体。当初の国内版よりもずっと派手になったマーキーは、その後の国内版にも採用された。

第四号機の「MARK IV」のデビューは1984年4月です。再び大型化したためか、先代マークIIIのように広く普及はしませんでしたが、sigmaのロケで見かける機会はマークΦやIIよりは多かったように思います。ただ、8頭立てという多頭数とした結果、賭けの選択肢が多すぎて、与えられるベット時間では検討が間に合わないという事もしばしばあり、ワタシはやり過ぎだと思ったものですが、一般では結構受け入れられているようでした。9レースで1サイクルとなっており、最終第9レースは、第1~第8レースの1着の馬が出走するというシステムで、レースのベット受付中はレーストラックのフィールドから鼓笛隊の人形が現れて演奏するという演出がありました。しかし、故障が多かったらしく、いつの間にかどこの店でもこの演出は見られなくなってしまいました。


THE DERBY MARK IV。

第五号機は1989年12月に発売されましたが、それまでの慣例から外れて、「THE DERBY SX-1」と命名されました。これはおそらく、ザ・ダービー史上初めて直線コースにしたため、敢えてそれまでの例から外したネーミングにしたのではないかと想像しています。


THE DERBY SX-1。

SX-1では、馬が通るスリットとスリットの間の地面は三角柱の一面が見えている構造になっており、レースによってはこの三角柱を回転させて別の面を上にすることで、芝コース(緑)とダートコース(茶色)という区別を付けていました。ただし、単に見かけが変わるというだけのことで、レースの内容に影響するというものではなかったと思います。

はっきりとは覚えていないのですが、三角柱の残るもう一つの1面は「障害レース」用だったように思います。障害を通過する際には、馬の人形は持ち上がって高い軌道を進むようになっていました。障害を飛越する途中で馬が止まってしまうことがたまにありましたが、これは「落馬」という概念だったのだそうです。色々とチャレンジングな機械で、一般にも販売されたはずでしたが、それほど普及はしなかったようです。

第六号機の「CRYSTAL DERBY」は、1992年11月の発売です。ワタシが初めてこれを見たのは同年秋に開催されたJAMMAショウでしたが、ベースはMARK IIIと同じで、筐体のデザインをやたらと豪華と言うか未来的にしただけのように見受けられ、メダルゲーム界の盟主であったsigmaがいよいよマンネリに苦しみながらも次の一手が見いだせず悪戦苦闘しているのではないかという懸念を抱きました。MARK IIIが依然として好評稼働中だったこともあってか、この機種もあまり普及しなかったように記憶しています。


CRYSTAL DERBY。

第七号機となったのは、「THE DERBY MARK V」です。発売は1993年11月で、間にSX-1とCRYSTAL DERBYを挟んではいるものの、MARK-IVから9年半も後のことになります。先月訪れた大阪西成の「TVランド・ポパイ」で現在も稼働中(関連記事:大阪レゲエ紀行(4) DAY 1・午後その3:ポパイ(西成)とTHE DERBY Mk-Vなど」ですが、この機械も数台程度しか生産されていないと思います。レーストラックが筐体に対して斜めに配置されているのが特徴です。


画像:THE DERBY MARK V。

THE DERBYシリーズ最後の第八号機となったのは、「THE DERBY MARK VI」で、1995年に発売されました。メカの競馬ゲームでは、セガが1988年に「WORLD DERBY」を出して以降、「ROYAL ASCOT」など「フリートラック」が当たり前になってきており、sigmaとしても従来通りのセパレートコースのゲームでは追い付けないと踏んだのか、MARK VIではシリーズ初めてフリートラックを搭載してきました。


THE DERBY MARK VI。シリーズ初めてフリートラックを搭載。

しかし、「フリートラック」とは言ってもあくまでも「疑似」でした。セガの競馬ゲームは、コースの下で、馬ごとに単独で走行するキャリアを操作していたので、互いにコースを左右に移動させながら差したり差されたりする、いわゆる「クリスクロス」が可能でしたが、MARK VIは各馬をひもで引っ張っていたので、アウトコースからスタートする馬が、よりインコースからスタートする馬をインコースから差す、という走行はできなかったように記憶しています。この辺、ワタシも記憶が曖昧なので、詳細をご存知の方はご教示いただければありがたく存じます。

sigmaは2000年にアルゼに吸収合併され、以降メカの競馬ゲームを開発することはありませんでした。現在残っている機種は貴重なので、見かけたらお布施をするよう心掛けています。

なお、ラスベガスでは現在唯一、ダウンタウンのカジノホテル「THE D」で大絶賛稼働中です(関連記事:ラスベガス半生中継・2018年10月 (7) DAY 7~帰国まで)。34年前に始まったカジノ向けのTEH DERBY MARKIII C7について、そう言えばsigmaの故真鍋氏は、「MARK IIIは頑丈に作りすぎて今でもちゃんと稼働している(ため、次の機種がなかなか売れない)」と何かのインタビューでお答えしていたことがありました。しかし、これこそがかつての日本製品が持っていた美徳だったのではないかと思います。ゲーム業界から「sigma」のブランドが消えてしまったのは、全く痛恨の極みです。


ネバダでsigmaに先んじたらしい日本製ギャンブル機「ミリオンダイス」の記憶

2019年04月21日 18時23分50秒 | スロットマシン/メダルゲーム

東横線/日比谷線中目黒駅の高架下は、いまでこそ見違えるほどしゃらくさいスポットに再開発されていますが、それ以前は高架下の空きスペースにパチンコ店といくらかの飲食店などがテキトーに詰め込まれており、現在の東京駅~有楽町~新橋のガード下のような、昭和感漂う風景でした。

その再開発前の高架下に、かつて「KING」という小さなゲームセンターがありました。高架下ですが、階段で登って行く二階がありました。その看板は東横線の下りホームからも見えるように設置されていたので、なにしろゲームセンターとあれば虱潰しに見て回っていたワタシは、そこにもたまに行っていました。アレはおそらく1979~80年のこと。ワタシはその「KING」で、「ミリオンダイス」というゲーム機を発見しました。

 
ミリオンダイスのフライヤーの表と裏。このフライヤーに見える「SIRCOMA」の社名は、1979年から1981年までの足かけ3年しか使用されていない。それ以前の社名は「A1 SUPPLY」、それ以降の社名は「IGT」で、現在も世界最大のスロットマシンメーカーとして盛業中である関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き)。

フライヤーの最上段には「THE GREATEST REVOLUTION IN GAME MACHINE SINCE SLOT WAS INVENTED IN THE 1890'S (1890年代にスロットが考案されて以来のゲーム機の大革命)」と謳われています。一体何がそんなに大革命なのでしょうか。

「ミリオンダイス」は、2個のダイスを振り、目の合計を予想するというゲームでした。賭け方は、「6以下(2倍)」、「8以上(2倍)」、「2(24倍)」、「12(24倍)」、「11(12倍)」、「7(4倍)」の6通りで、それぞれメダル5枚までベットできました。


フロント部分のアップ。赤いアクリル製の透明なダイスは、北米のカジノで人気が高い「クラップス」というゲームに使用される「プレシジョン・ダイス(精密ダイスの意味)」のように見える。

ゲームスタート時、ダイスは所定の位置に2個並んでいます。メダルをベットしてスタートボタンを押すと、2個のダイスは勢いよくプレイフィールドに振り出され、その後1本の棒がプレイフィールドの奥から手前に移動してダイスを所定の位置に向かって押し出します。棒に押されたダイスは、プレイフィールド左右に設置されているガイドに沿って所定の位置に押し戻され、そこでダイスの目が判断されて、ゲーム結果に反映されるという方式でした。

今の人がこのゲームを見ても、きっと誰も、驚きなど毛ほども感じないことでしょう。しかし、当時はコンピューター技術もまだ一般に広く普及しているとは言えない時代で、機械がものを見て判断するなど全く驚異的なテクノロジーだったのです。「1890年代以来の大革命」は、それだからこその大宣伝なのです。

さて、ところで、この「ミリオンダイス」は、どういうわけか日本では「ボナンザ・エンタープライゼス」が扱っていました。ボナンザと言えば、殺人ゲームと非難された「デスレース」を日本でディストリビュートしたり(関連記事:【小ネタ】デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム)、後にGマシンの代表機種となる「ゴールデンポーカー」を開発して業界団体を除名される(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(4) 80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代)など、何かとお騒がせなメーカー・ディストリビューターです。そのボナンザは1979年、業界紙に「ミリオンダイス」の広告を打っています。


業界紙「ゲームマシン」1979年1月15日号に掲載されたボナンザの広告から「ミリオンダイス」の部分。広告はこの一回だけでなく、その後もしばらく継続して掲載され続けた。

その広告では、「ネバダゲーミングコミッションにて認可!! リノ・ラスベガスのカジノへ続々出荷中!!」とか、「富士電機製造(株)三重工場にて完全製造」と謳っています。ということは、「ミリオンダイス」は日本製の機械なのか? ネバダでメーカーライセンスを得た日本企業というと、sigmaが1983年に国外企業として初めて取得したという話は比較的よく知られている(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(5) sigma、ネバダのゲーミング市場の参入)と思っていたが、ボナンザの広告を信じるなら、それ以前から日本製のゲーム機がネバダのライセンスを得ていたことになるのはどういう事か?

実は、人から聞いたあまり正確ではない話ですが、sigmaが国外企業として初というのも、それまではレギュレーションに国外企業に関する定めが無く、sigma参入の時期に新たにできたということのようです。そういえば、1992年か93年に、「TAKASAGO」という日本のパチスロメーカーの名が入った古ぼけたビデオゲーミング機をラスベガスの「インペリアルパレス」というカジノホテル(現The LINQ)で見たこともあるのですが、もしかしたらそれも「ミリオンダイス」のような経緯でネバダのカジノに潜り込んだものなのかもしれません。

では、「ミリオンダイス」は、まだ規定が無かった時代に日本のボナンザが製造し、米国のSIRCOMAがネバダで販売した、という事なのでしょうか。ただ、それにしては、SIRCOMAのフライヤーを見返すと、裏面には「NON-PAYOUT CREDIT METER FOR AMUSEMENT ONLY(クレジットプレイのみの娯楽専用)」とあります。つまり、少なくともこのフライヤーの機械はネバダのカジノ向けではなく、いわゆる「グレイマーケット」向けのモノであるように見えます。ただ、ボナンザが作成したフライヤーのデザインは、SIRCOMAのフライヤーと共通の部分が少なからずあり、両社の間になんらかのリレーションシップがあったことは間違いないはずと思われます。


ボナンザの「ミリオンダイス」のフライヤー。SIRCOMAと同じく、最上部には「THE GREATEST REVOLUTION IN GAME MACHINE SINCE SLOT WAS INVENTED IN THE 1890'S」の文言が謳われているほか、ロゴなど他の共通点も見られる。

「KING」では、クレジットモードではなくメダルゲームとして稼働していたように記憶していますが、「ジャトレ」がディストリビュートしていたメダルゲーム機「TV21」(関連記事:メダルゲーム「TV21」(ジャトレ・1977)の謎 その後)もそうだったように、どちらにも対応できるように作られていたのでしょう。

中目黒はワタシの家からは比較的近いとはいえ、最寄駅というわけでもないので、そうしょっちゅう行くところではありませんでした。1983年前後頃、しばらく「KING」にご無沙汰しているなあと思っていたころ、新聞の社会面に、「中目黒のゲームセンター『KING』がゲーム機賭博のために検挙された」という記事を見つけました。ちょうどポーカーゲーム機による賭博が社会問題になっていた時代でした。以降、KINGが再びゲームセンターとして開店することはたしか無かったように思います。


大阪レゲエ紀行(7・最終回)) DAY 2・その2:大阪駅前第2ビルB1「ZERO」

2019年04月14日 17時55分43秒 | ロケーション
昨夜、ktさんのオフィスで、「明日は新世界にいくつかあるらしい『ザリガニ』に行こうと思っている」と言ったところ、その場の皆さんから口をそろえて「それならむしろZEROに行っておくべきだ」とのアドバイスをいただいた。「ちょっと地理がわかりづらい」という懸念も挙がったが、「ZEROの『ウルトラガン』は必見だ」という」意見が多く発せられた。というわけで、この旅の最後はZEROを目指すことにした。

◆【ウルトラガン】
前回の記事で述べた経緯で大阪駅前第2ビルの中に入ると不思議な感覚に襲われた。あれ? ここは以前に一度来たことがあるのではないか? このチケット屋は、その時現地の知人の案内で帰りの新幹線の切符を買ったところではないか? そのついでで明石焼きを食べたのはこの店ではなかったか? 言われてみれば2000年前後ころに一度、一人で大阪に日帰りで来ていたことを急に思い出した。しかし、断片的な記憶がわずかに残るだけで、そもそもどういう用件でのことだったかすら思い出せない。狐か狸に化かされている気分で「ZERO」の前にたどり着くと、通路側に面するように設置されている何台かの古いエレメカ機が目に入った。その中に、話題となっていた「ウルトラガン」もあった。


ウルトラガンの筐体全体。60年代までは、この種のガンゲームはピンボールと並ぶ当時のゲーセンの定番だった。


(1)ウルトラガン筐体の上部。見えにくいが、ビルボードの右下には「ウルトラマン ウルトラQ (C)円谷特技プロダクション」と著作権表示がちゃんとある。この頃はまだそういう意識は高くはなかったはずなので、意外にさえ思える。 (2)筐体に据え付けられているガン。このガンは他のガンゲームにも流用されていたように思う。 (3)ウィンドウ内の様子。 ランプによるタマ数や、「まと1つ10点」などの表示は同じメーカー製(たぶん)の他のガンゲームでも使われていたのでよく覚えている。ひたすら懐かしい。 (4)プレイフィールドのアップ。ゲームが始まると、最前列の的は右から左へと移動するが、それ以外の的は固定されている。的中した的は後ろにパタンと倒れる。

ワタシは、「ウルトラガン」のメーカーと製造年を特定できていない。「ウルトラマン」の続編「ウルトラセブン」の放映が始まったのが1967年の後半のことなので、このゲーム機が作られたのはおそらくそれよりも早い時期である1966年から1967年前半にかけてのことであろうと推測される。ワタシも「ウルトラガン」を過去に見ているし遊んだ記憶もあるのだが、それがいつ頃だったかを特定できる記憶がない。もしかすると大阪駅前第2ビルは魔界で、ここにかかわる記憶は混乱させられる宿命にあるのかもしれない。

「ウルトラガン」のメーカーは「関西精機」、製造時期は1960年代半ばまで判明。(2021年1月21日追加)

◆【ホームランゲーム】
これもメーカーと製造年が特定できていないが、ウルトラガンの並びにあった「ホームランゲーム」は、ワタシにとっては「ウルトラガン」に匹敵するほど懐かしいゲーム機だ。

「ホームランゲーム」のメーカーは「日本展望娯楽機」であることが判明。販売時期は1969年以前。(2021年1月21日追加)


「ホームランゲーム」の筐体。野球をテーマとしたパチンコタイプのゲーム機。


(1)「ホームランゲーム」のビルボード部分。 (2)盤面と、ランプでランナーの位置を表示するダイヤモンド。 (3)後から作られた、手作り感満点のメダル払い出し口。

現在、東横線学芸大学駅西口の目の前にある不動産屋はかつて玩具店だった。1970年前後頃、その玩具店の店頭にこの「ホームランゲーム」が設置されており、ワタシはそこでしばしば遊んだものだった。当時のゲーム料金は1回10円で、全部で10球を打ち出し、7点以上を獲得すると1回だけリプレイができた。「ZERO」では、1ゲームの料金は100円で、7点以上獲得のリワードは、リプレイではなく、メダルが払い出される仕様に改造されていた。もともとメダルの払い出しなど想定していない筐体なので、後から筐体の下端に穴をあけてメダルの払い出し口としていた。

◆【アレンジボール】
アレンジボール(さとみ(現サミー)、1970年代中ころ)もあった(関連記事:【シリーズ絶滅種】アレンジボールを記憶に留めておこう)。アレンジボールは、もともとは風俗第7号営業(要はパチンコ店のこと。今は第4号営業に変わっている)向けに開発されたゲーム機だが、ゲームセンターやシングルロケ用に転用されるケースも多かった。この機械もそういうもののひとつだったようで、筐体にはセガの銘板が付いている。


アレンジボールの筐体。スタンド部分のデザインは後付けで施されたものと思われる。コイン投入口はさらにその後に後付けされたものと思われる。
 

コイン投入口が新たに設置されたため塞がれた本来のコイン投入口。「SEGA INC」の銘板が貼られている。

ゲーム機業界のトップ同士は、70年代か、ひょっとすると60年代までさかのぼって、その関係に良し悪しいずれもあるにせよ、何らかのつながりがあるケースが非常に多い。現在、セガはサミーに吸収されて同じグループになっているが、この2社はアレンジボールの時代に既に付き合いがあったことが窺われる。

◆【バッティングゲーム】
ワタシが小学生のころ、商業施設の屋上などで何度か遊んだことがある「バッティングゲーム日本自動販売機、発売時期不明=2021年1月21日追加)」もあった。硬貨を投入すると、上部のレールからスーパーボールが数秒おきに転がり落ちて来るので、これをノブを回してフィギュアで打ち返し、緑色のフェンスの向こうに入れればホームランとして1点が加算される。ゲームは1分間の時間制で、全部でだいたい15球前後のボールが出てくる。


(1)「バッティングゲーム」の筐体。ビルボードというものは無い。 (2)筐体を斜め方向から見たところ。前面に突き出るノブを回すと、バッターのフィギュアが回転する。 (3)ボールが出てくるレール。 (4)バッターフィギュアを回したところ。客待ち中でも特にロックがかけられるわけでもなく、回すだけならいくらでも回せる。 

レールから落下するボールをバットでとらえるのは案外難しく、ワタシはこのゲームで1点たりとも取れたためしがない。それどころか、そもそもバットをボールに当てることすら満足にできなかった。そうすると「こんなはずではない」という思うものだから、機会があれば再チャレンジするのだが、やっぱり空振りばかりして終わるのが常だったので、その悔しさは怨念となって今も残っていた。

そのような因縁深いオールドゲームに今この時代に出会えるとは全く奇跡的なことであるので、ここで会ったが百年目盲亀の浮木優曇華の花といきり立って遊んだところ、なんと2点も取ることができた。それ以外にも、ジャストミートしすぎて打ったボールが跳ねて手前に戻ってしまい、得点にならなかったこともあった。これにより、50年近く現世を彷徨っていた我が怨霊はようやく成仏することができた。もしかすると、今回の旅はこのために神が仕向けたのではないかと思えてきた。

これらの他にも、前述「ホームランゲーム」とよく似た「バッティング(前述のバッティングゲームとは別物・メーカー不明)」というゲームや「国盗り合戦(1980, レジャック/コナミ)」、「タッチアクション(こまや, 製造年不明)」、「ジャンピングラリー(こまや, 製造年不明)」などの写真をいろいろな角度から撮影したりお布施のつもりで遊ぶなどして過ごしていたら、案外長い時間が経ってしまった。

【その他】
「ZERO」の店頭に据え付けてある飲料の自販機は、赤まむしドリンクや缶コーヒーが50円、三ツ矢サイダーやバヤリースでも60円と格安だった。うらやましい。


「ZERO」店頭の飲料自販機。ウチの近くや職場にもこんなものがあってほしいものだ。

また、UFOキャッチャーには芸術家、岡本太郎のアートのミニチュアが景品として入っていた。ワタシは太陽の塔が欲しくて何度もチャレンジしてみたが、結局獲ることはできなかった。


ZEROにあった、岡本太郎コレクションのUFOキャッチャー。掴むのはまず無理だから、何度か転がして獲ることになると思うのだが、カプセルはうまい具合に転がってくれない。かなりの額をお布施してしまった。

大阪駅前第二ビルの地下1階には、「ZERO」の他に「2B1」というゲーセンがあると聞いていたのでこちらも覗いてみたが、「ZERO」ほど興味をそそられる機械は無かった。どおりで昨夜の話の中でも推す声が出なかったはずだ。それでもまだ新大阪に向かうまでにはいくらか時間はあったので、一応お布施のつもりで「上海III」に100円硬貨を投入した。

アーケードの「上海」には多くのバージョンが存在するが、サン電子の「上海III」はその中で最も出来が良いとワタシは思っている。しかしここの機械は持ち時間の設定が辛くなっているようで、1回目はタイムオーバーとなってしまった。悔しいので連コしたら、今度は1面で手詰まりとなってしまい、悔しさは倍増した。こんなことを何度か繰り返して、必要以上にお布施を出してしまった。しかも最後となったゲームは絶好調でなかなか終わらず、そろそろ新大阪に向かわなければならない時刻が迫ってきたのでやむなくいい加減なゲームをして半ば無理やり終わらせなければならなかった。

新大阪に到着したのは5時40分頃。今や大阪土産の定番となっているらしい「蓬莱551」の豚まんを買おうと店を探したところ、フードコートのようなところでめまいがしそうなほどの長蛇の列ができている。そう言えば新大阪駅構内には他にも売店があると聞いていたので、案内板などを頼りに探したら、新幹線の乗り口に近いところにチルド専門店というものがあった。こちらも結構な行列ができてはいたが、さっきほど絶望的な感じはしない。結局10分ほど並んで無事買うことができた。

後は新幹線に乗って東京へ。切符は東京駅からの往復で買ってはいたが、品川で途中下車して、山手線に乗り換えて目黒まで行き、そこからバスで自宅に到着したのが11時前ころ。明日からはまた普通の一週間が始まってしまうと思うと気が重いけれども、今回の旅は、たくさんのオールドゲームに触れただけでなく、多くの方々とご縁ができたのも大変有意義なことだった。

現地でお会いした皆さん、その節はたいへんお世話になりました。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。大阪へはいずれまた機会を作って訪れたいと思います。また、皆さんも東京にいらっしゃることがありましたらぜひお声をおかけください。どうもありがとうございました。

(大阪レゲエ紀行シリーズ おわり)

大阪レゲエ紀行(6) DAY 2・その1:tさんとGマシンなどの話で盛り上がるの巻

2019年04月13日 16時14分39秒 | ロケーション
【DAY2の予定】
・12時にホテルをチェックアウト。
・午後、拙ブログをご高覧くださっているtさんとお会いする。
・大阪駅前第2ビルのゲーセン「ZERO」を見る。
・新大阪駅で蓬莱551の豚まんを買って東京に戻る。


【ハートンホテル心斎橋~シルバーボールプラネット】
10時半にセットしておいたアラームで目覚めた。それよりも早く自然に目が覚めるだろうと思っていたのだが、やはり相当の寝不足だったらしい。昨夜は帰るなりあっさり寝てしまったので、シャワーを使い、12時ちょうどにホテルをチェックアウトしてシルバーボールプラネットへ向かう。弱い雨が降っていたが、すぐ近くでもあるので傘は買わなかった。

今日はこれから、かねてより拙ブログをご高覧くださり、しばしばコメントもいただくtさんという方とお会いすることになっている。tさんは大阪を地元とする、古いゲームがお好きな方だ。予定時刻の12時半にはまだ少し時間があったので、昨日写真を撮り損ねていた機種の写真を撮り(それでもまだ撮り逃しがあったことにあとで気づく)、「Rolling Stones (Bally, 1980)」を遊んだりしているうちにtさんからケータイに電話が入り、無事に落ち合うことができた。


tさんが到着していた時に遊んでいた「Rolling Stones (Bally, 1980)」。この機種の存在はリアルタイムで知ってはいたが、当時はローリング・ストーンズというロックバンドに興味が無かったので眼中に入らず、今日まで一度たりとも遊んだことがなかった。今見ると、80年代半ば以前の機種の特徴である、ランプレーンやマルチレベルなどでゴテゴテしていないところが好もしい。

少し遅めだが昼時でもあったので、tさんと近くのファミレスに入って、軽く食事をとりながらいろいろとお話を伺った。tomさんはIT技術系のお仕事をしており、電子工作系の趣味もされているとのことで、ゲームの技術的な方面にも明るい方だったが、それ以上に、1970年代の日本のアングラ市場で稼働していたGマシンについても詳しいことに驚かされた。

「ウィンターブック(WINTER BOOK)」という、米国H. C. Evans & Co. 社製の競馬をテーマとする電光ルーレット機(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム)が日本のアングラ市場に出回っていたのは1960年代のことらしい。ワタシも1970年前後に長野県のリゾート地のレストランでこれを見ている(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)。


sigmaの創業者である故真鍋勝紀氏がコレクションしていた米国H. C. Evans & Co. 社製のギャンブル機「ウィンターブック」のバージョン違い「BANG TAILS」。真鍋氏はこれを「最高傑作」とべた褒めしており、開業間もないころの「ゲームファンタジア」に何台も設置していた。この写真の個体はそのうちの1台と思われる。

「ウィンターブック」は1940年代から50年代にかけて製造されていたが、日本国内では1970年代に入ってもその類似機種が多く作られており、それらは一般に「ダービー」などと呼ばれて、警察白書にも押収した賭博機としてその名が出てくる(関連記事:「ロタミント」の記憶)。例えばユニバーサルは1975年に「ニューウィンターブック」というリメイク版を発売している(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(6) ユニバーサル その2a)し、また、小型化したり、単勝式しかなかった本家を連複式に翻案した機種が、70年代の特に半ばくらいまでに、かなりの数がつくられている。それらは通常のゲームセンターに設置されるケースもたしかにあったが、それ以上に飲食店ロケなどでの違法な賭博営業で稼働していたようだ。



ユニバーサルがリメイクした「ニューウィンターブック(1975)」の広告と盤面の拡大図。「知る人ぞ知る価値」のコピーが何を意味するかは見る者の想像に任されている。


一般に「ダービー」と呼ばれた電光ルーレット機は山ほどあるが、きりがないので一つだけ、業界誌「アミューズメント産業」74年9月号に掲載された「大阪マシン」社の広告。「ハスラー」は、1970年代前半に流行ったドイツ製ギャンブル機「ロタミント」を意識した作りと思われ、ネットオークションではこの種の「ダービー」機が「ロタミント」と称して出品されているところを見かけることがある。


アミューズメント産業1974年9月号に掲載された「ダービー」の類の広告。このような電光ルーレット機のメーカーはいくつもあるが、「関西企業」、「高砂電器」、「大阪パブコ」、「KKバリー」、「Wipe(旧・本木)」など、大阪や兵庫といった関西圏に拠点を置いているケースが非常に多い。また、それらの中にはのちにパチスロメーカーに進展していったところもある。

などと知ったようなことを語るワタシは、実はこの時代のGマシンについてそれほど多くを知っているわけではない。また、「ダービー」は、ほとんどのオールドゲームファンの興味の対象からは外れているジャンルのようで、このテーマで話ができる人と出会った経験はこれまでなかった(と言うか、そもそも話題に上らない)のだが、tさんは良くご存知だった。もしかしたら、この種のゲーム機が関西に多かったということなのかもしれないが、何にしろ、この分野でのお話をいろいろと伺えたのは大変にうれしいことだった。

楽しい話は尽きなかったが、これから大阪駅前第2ビルのゲーセン「ZERO」に行かなければならず、そして6時には新大阪駅に着いておきたかったので、3時ころにファミレスを出た。tさんは、「土地勘のない人には少し行きにくいかも」と言って、わざわざ大阪駅まで同行して案内してくださった。この地下街は「日本最大級の地下迷宮」とまで言われているらしく、確かに一人だったら迷いそうな道筋だった。時間も限られている中、さして迷うこともなくZEROに無事にたどり着くことができたのは、tさんのご親切のおかげだ。tさん、その節はどうもありがとうございました。もしこちらにいらっしゃることがあればぜひお知らせください。大阪ほどオールドゲームのポイントは多くありませんが、いくらかご案内させていただきます。

(次回大阪レゲエ紀行(7) DAY 2・その2(最終回)につづく)

大阪レゲエ紀行(5) DAY 1・午後その4:大阪某所にて69年製エレメカと出会うの巻

2019年04月07日 16時03分59秒 | ロケーション
【午後その4の予定】
・夜、KZさんとオールドゲームコレクターであるKTさんのオフィス(梅田近くの某所)を訪問する。
以上。

【KTさんのオフィス】
KZさん及びKINACOでご一緒していた数人の皆さんと一緒に恵美須町から電車に乗り、梅田近くにあるKTさんのオフィスに向かう。

KTさんは以前より拙ブログをご高覧下さっているオールドゲームのコレクターで、これまでに数回お会いしているが、KZさんとはさらに古くからお付き合いがあるようだ。今回はそのKZさんの手引きでオフィス訪問が実現した。KZさんはどこまで顔が広いのだろう。

KTさんはワタシなどよりもずいぶんお若そうに見えるが、オールドゲームについてはビデオ、メダル、エレメカとジャンルを問わずたいへん造詣が深いばかりでなく、電子・電気技術にも明るく、基板上のイカれたチップを突き止めて修理までしてしまうどえらい方だ。

オフィスの壁沿いには、アップライトのゲーム筐体がたくさん並べられている。また、部屋の中央にはカクテル筐体(ATARIのウォー・ロードの筐体に見えた)があったり、またドライブゲームのコックピット筐体もあった。そのコックピット筐体の陰からひょっこりと、かねてからご厚誼いただいている東京在住のKWさんが現れたのはサプライズだった。たまたま何かのイベントで大阪に来ていたとのことだった。

どれもこれも写真に残しておきたい機械ばかりだったが、なにしろここはオフィスの中、うっかり機密漏洩に繋がることの無いよう撮影は極力自粛したので、置かれていた機種の全部までは覚えていない。せめてメモだけでもしておけばよかった。

しかし、ここにあるゲーム機の中では最も古いエレメカ機「MISSILE (SEGA, 1969)」だけはどうしても写真に残しておきたかったので、周囲のものが写らないよう注意しながら撮影させてもらった。


MISSILE」の筐体(部分)。部屋の照明が落としてあったので電飾がひときわ映えていたが、写真に撮ると暗くなってしまった。画質が悪いのは無理矢理明るくレタッチしたため。レーダーを模した緑色の部分と中段右端の大きな赤いランプは単なる装飾で、ゲームには関係しない。

「MISSILE」は、背景のスクリーンに投影される戦闘機をミサイルで撃ち落とすゲームで、ワタシはこの機械を、小学校高学年の1970年頃に、渋谷文化会館の屋上(関連記事:商業施設の屋上の記憶1:渋谷)で見ている。ハーフミラーに映し出される発光するミサイルはたいへんに幻想的で美しく、思う存分遊びたいと思ったものだが、僅かな小遣いではそう何度も遊べるものではなく、悔しい思いを残していた機種だ。今回は当時の仇を討つつもりで遊ばせてもらった。機械の状態は非常によく、とても60年代の機械とは思えない。


プレイフィールド。ミサイル、タイマー、スコアはハーフミラーに映った虚像だが、仕掛がわからなかったころはたいへん不思議で幻想的に見えた。

二つのボタンでミサイルの発射方向を調整して、ジョイスティック上のボタンを押すとミサイルが発射される。発射後のミサイルは、ジョイスティックを左右に倒すことで弾道を操作することができる。ある資料によれば、この「MISSILE」は、ボタンスイッチを備えたジョイスティックを装備した初めてのコインマシンとのことだ。

この他、集まっている皆さんと「ドンキーコング(任天堂、1981)」や「侍(セガ、1980)」を遊んだり、またオールドゲームの話題に花を咲かせたりなどして過ごすうちに、睡魔が襲ってくるようになった。時刻は10時を回ったくらいではあったが、後ろ髪を引かれる思いで「ムネン、アトヲタノム」と言い残して先に失礼させていただくことにした。KTさん、KZさん、お世話になりました。他の皆さん、おかげさまで楽しいお話が出来ました。後片付けの手伝いもせずにすみません。機会がありましたらまたお会いできればうれしいです。どうもありがとうございました。

(DAY2・その1につづく)