オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ローゼン・エンタープライゼス1961(1)アーケードゲーム

2024年05月26日 17時55分04秒 | メーカー・関連企業

ワタシの手元に、「ローゼン・エンタープライゼス」のカタログのモノクロコピーがあります。表紙に「1960年」との書き込みがありますが、ピンボール機各社のマシンリストには1961年の機械が掲載されているので、実際にこのカタログが作成されたのは1961年以降と思われます。画質は悪く、不満の多いものではありますが、それでもこの時代のAM関連の資料は殆ど残されていないので貴重です。

ローゼン・エンタープライゼスのカタログの表紙。所在地は千代田区竹平町(現在の千代田区一ツ橋)の「リーダーズダイジェストビルディング」とある。左下に「1960年」との書き込みが見られるが、掲載されている機械には発売年を1961年としているものもある。

ご存じの方には今さらのことですが、「ローゼン・エンタープライゼス」は、後の「セガ・エンタープライゼス」の前身となった企業の一つです(関連記事:セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(1))。社長の「デイビッド・ローゼン」氏は元々米空軍に従軍しており、朝鮮戦争(1950~1953)時には日本及び極東に駐留しました。除隊後の1953年(1954年とする資料もある)、「ローゼン・エンタープライゼス」を立ち上げ、町の写真館で撮影するよりも安くしかもその場で出来る証明写真を提供する自動撮影機をオペレートして大成功しました。

日本の戦後復興が進み、1950年代も後半になると、それまではその日を生きるのに精いっぱいだった日本国民の間にも徐々にですがゆとりが生まれてきました。そこでローゼンは米国からAM機や自販機を輸入し日本で展開しはじめます。このカタログはそれから間もなくのもので、1ページ目には「各地営業所」として「日比谷ガン・コーナー」、「池袋西武屋上」、「梅田ゲーム・オ・ラマ」の画像が掲載されています。

画像:ローゼン・エンタープライゼスのカタログの1ページ目。日比谷ガン・コーナーには「2分で出来る写真」の文字が見える機械がある。池袋西武屋上には3台のキディライド、梅田ゲーム・オ・ラマには夥しいガンゲーム機と思しき機械が見えるが、ピンボール機が見当たらない。

カタログは全部で44ページあり、一度に全てはご紹介しきれません。今回は1回目としてアーケードゲームのページの一部をご紹介し、残りは次回以降としたいと思います。

【ローゼン・エンタープライゼスカタログより、アーケードゲーム編】

主にホッケーゲーム。日本でも三共などが類似機種を作成したが、これほどのバラエティはなかった。

バスケットボールや米式蹴球などスポーツテーマのゲーム機。下段右はゴルフのパッティングのゲームで、日本でも1980年代初頭頃に多く作られたが、この時代から既にあったことがわかる。

 

操り人形(上左)、キディライド(上中、中左)、ドライブゲーム(中央)、ガンゲーム(上右、中右)。左下は「Kiddie Football」とあるが、よくわからない。

左半分はユナイテッド社のピンボールの年代別リストで、1953年から1961年まである。右はボウリングゲーム。

ユナイテッド社のボウリングゲーム。ボールを転がすのではなく、シャッフルボードで使用するパックを滑らせるタイプらしい。

前ページに続き、ユナイテッド社のボウリングゲーム。上段右から二つ目は「SKEE BALL」系のゲームに見える。

シカゴコイン社のボウリングゲーム。

同じくシカゴコイン社のボウリングゲーム。こちらはボールを転がすタイプに見える。日本でも1970年代までは遊園地や温泉ホテルのゲームコーナーでよく見かけた。同一機種ではないが、類似機種は現在「デックス東京ビーチ」内の「台場一丁目商店街」にある「一丁目プレイランド」で遊ぶことができる。

同じくシカゴコイン社のボウリングゲーム。下段の中央と右は「スキーボール」の類似品。

次回につづく。


GAUNTLET(ATARI, 1985)で思い出した話

2024年05月19日 19時10分02秒 | ビデオゲーム

昔収集したゲーム関連のファイルブックを25年ぶりくらいに開いたら、「ガントレット」(ATARI,1985)のフリーペーパーが出てきました。

ガントレットのフリーペーパー。二つ折り4ページで構成されており、上が表紙と裏表紙、下が中の2ページと3ページ。

ワタシが熱中したビデオゲームはたくさんありますが、「ガントレット」はその中でも上位5作に入る思い出深いゲームです。「ガントレット」とは、西洋の鎧の籠手のことだそうですが、その響きが滅法カッコ良く感じられました。

最大の特徴である、最高4人のプレイヤーがどのタイミングでもゲームに参加、もしくは離脱できるシステムは、インカムを上げるには絶好の方法で、米国で大ヒットしました。また、それぞれ特徴が異なる「戦士」、「女戦士」、「妖精」、「魔法使い」の4種類のキャラクターから一人を選択するシステムはゲームの世界観を広げ、さすがアタリ、発想がとびぬけていると感心したものでした。

機を見るに敏なセガは、翌1986年に、やはり最高4人が同時にプレイ可能な後追い企画「カルテット」をリリースしました。ワタシは残念ながらこちらにはのめり込むことができませんでしたが、そこそこヒットしていたように思います。

「カルテット」のフライヤーの表裏。登場人物の画風がいかにも80年代っぽい。

「ガントレット」は日本でも広範囲に渡って設置されました。しかし、米国のように知らない者同士でも気軽に一緒に遊ぶ文化がない日本では、もしかしたら筐体の大きさのわりに稼げなかったのではないかと余計な心配をしていますが、実際のところどうなのでしょうか。

セガはさらに、1988年に3人が同時にプレイできるアップライト筐体の「ゲイングランド」をリリースしましたが、テーブル筐体が主流の日本国内ではもっぱら2人同時プレイ機として稼働していました。リリース当初はクソゲー扱いされたようですが、アーケードゲーム雑誌「ゲーメスト」が根気よく攻略記事を掲載したこともあってか、その戦略性の面白さが理解されるようになり、多くのプレイヤーの記憶に残るゲームとなりましたが、米国では逆に難し過ぎたのか、ヒットはしなかったようです。

「ゲイングランド」のフライヤー。裏面はシステムボード「システム24」と「エアロシティ」及び「エアロテーブル」筐体の紹介だった。

1990年代に入ると、日本では「ストリートファイターII」に代表される2P対戦格闘ゲームが爆発的に広まって、ガントレットのようなプレイヤー同士で協力して進んでいくゲームは(少なくともアーケードゲームとしては)作られなくなってしまったのは残念なことです。


【備忘録】sigmaとIGTの間に何かがあった

2024年05月12日 21時39分10秒 | メーカー・関連企業

コレクションが増えてくると、「あの資料はどこにあったっけかな」とわからなくることがあります。そして心当たりを探すのですが、見つけられないことも珍しくありません。

今回はそのうちの一つで、最近やっと探し当てた一件を、忘れないためのメモとして残しておきたいと思います。

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ワタシは、2017年2月に掲載した記事「ワタクシ的『ビデオポーカー』の変遷(3)米国内の動き
で、「sigma」とIGTの前身である「SIRCOMA」両社のロゴが象られているビデオスロット筐体の画像を掲載しました。

「sigma」と「SIRCOMA」のロゴが象られたビデオスロット筐体のフライヤー(上)と、両社のロゴの部分(下)。

今調べると、この筐体は1980年に発売されていたようで、業界紙「ゲームマシン」1980年6月15日号には、「米国サーコマ社提携 シグマTVメダル機」として、6月30日に発売するとするsigmaの広告が掲載されています。

「ゲームマシン」1980年6月15日号に掲載されたsigma社の広告(部分)。

拙ブログでは、過去にsigmaとIGT(SIRCOMA)が非常に親密だった時期があったことに何度か言及しています。しかし、この筐体ができたいきさつについて詳しいことはわかっていませんでした。

しかし、実は2000年前後にラスベガスの「Gambler's General Store」(関連記事:新ラスベガス半生中継2023年G2Eショウ(2) DAY 2・その1:今日もゲーム三昧、のはずが)で購入した、かつて米国で刊行されていたスロットマシンやアンティークゲーム機の雑誌「Loose Change」誌で、記者がIGTの創業者である「サイ・レッド」氏に、まさにこの筐体ができたいきさつを訪ねている記事があったのを見つけていたはずでした。

しかしこの雑誌を購入した当時のワタシは現在よりもさらに英語能力に乏しく、その内容をほとんど理解できないまま行方不明になってしまい、今さら確認もできず悶々としていたのですが、このたびようやくその「Loose Change」誌を発見したので、またわからなくなってしまう前にメモを残しておきたいと思います。

Loose Change誌1996年9月号の表紙。

sigmaとSIRCOMA両社のロゴが入った筐体に関する記事の部分。1996年9月号の24ページ目。

記事の原文はこのようになっています。

Of all the photographs of slot machines we have in our files, this one is the most intriguing. On the Roll-A-Top style lower front casting it says "Sircoma" but at the top is says "Fortune Slot" and "Sigma". The machine is a five-line video slot from the 1978-1979 period. I asked Sircoma founder, "Si" Redd about it once over cocktails. He puffed up, waved both arms in the air, and blurted out, "Now, boy... you just forget about that damned thing. It's nothing... it's just nothing at all. Here, let me freshen up that drink for you." Starting with fresh drinks, we went on to different subjects- end of story.

これを超訳すると、こんな感じであろうかと思います。

我々の手元にあるスロットマシンの写真のうち、これが最も興味をそそる。Roll-A-Topを模した筐体の前面下部には「Sircoma」とあるが、上部には「Sigma」とある。この機械は1978年から79年の「ファイブライン」ビデオスロットである。私はSircomaの創設者である「サイ・レッド」とカクテルを飲んでいる時にこの件について聞いたことがある。すると彼は一つ大きく息を吸って両手を振り上げて口走った。「さあお若いの、そんなつまらんものは気にしなさんな。別に何でもないんだよ。そう、全くどうでもいいことさ。そんなことより、もう一杯飲み物をどうだい」。そして新たに注がれた酒とともに他の様々な話題に移って行った。話は以上です。

あくまでもこのいい加減な超訳が正しければですが、サイ・レッドはまるで疑問に答えていません。ただ、この話題を避けたがっているように見えることから、どうもこの件はサイ・レッドにとってはなるべく触れたくない黒歴史になっているように感じます。

根拠はありませんが、sigmaが日本国内での販売を前提としていたこの筐体に権威付けのために無断でSIRCOMAの名を筐体にフィーチャーしてしまい、両社の間でひと悶着あったのではないかと想像してみます。

これがこの話にどのように関係するのかはわかりませんが、「SIRCOMA」のロゴは着脱が可能なパーツで、鋳型に刻まれているものではなかったようです。ワタシは、そのパーツがはがされている状態の筐体を見たことがあります。

「SIRCOMA」の名が入っていない個体と問題の部分の拡大図。緑色なのは後から塗り直されているため。

唯一真相を知る当事者は何も語らぬまま鬼籍に入り、結局のところこの筐体が作られた経緯は永遠に解けぬ謎として残ったことがわかることも、収穫の一つと言うべきでしょう。それを示す証拠を最後に今一度明記しておきます。それは、Loose Change Magazine 1996年9月号です。


新・幻の「アタミセンター」を求めて(6):これまでのまとめ(終)

2024年05月05日 20時49分06秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
●熱海市立図書館で調べた地図から、アタミセンターの存在時期は概ね判明したが、並行して進めていた追加調査で、熱海市立図書館にはなかった地図のいくつかが国会図書館にあることが判明したので、まとめは次回以降とすることにした。

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3月に熱海市立図書館で得た熱海市の住居地図は以下の12冊です。

1960年代:61,67(2冊)
1970年代:71、73、74、79(4冊)
1980年代:81、84、85、86、88、89(6冊)

熱海から帰ってから、欠けている版がどこかに無いものかと調べて、70年代は72、77、78年版の3冊が、80年代は82、83、87年版の3冊が国会図書館にあることを発見しました(60年代は見つかりませんでした)。

そこで去る5月1日、雨が降る中を行って調べたところ、1972年版(ゼンリンの住宅地図 ’72 熱海)に「加奈」の記載があり、同時に「銀馬車」の名が消えていることを発見しました。

「ゼンリンの住宅地図 ’72 熱海」の銀座町2丁目。「銀馬車」の名が消え、代わりに「加奈」が記載されている。

ネット上には「加奈」に言及しているよそ様のブログが多数あり、その中で「加奈」の開業時期を「1973年」としているものが複数見つかるので、今まで拙ブログもそれらに倣ってきましたが、どうやら「加奈」は1972年には既に存在していたようです。

また1982年版(ゼンリンの住宅地図 ’82 熱海)には「アタミセンター」の記載が無くなっていることもわかりました。

「ゼンリンの住宅地図 ’82 熱海」の銀座町2丁目。「アタミセンター」の記載が無くなっている。同時に、79年版と81年版に見られる傷だかゴミだかもまだ残っている。

これらにより、先週まで不明だった「銀馬車」と「アタミセンター」の消滅時期は、「銀馬車」が1972年、「アタミセンター」が1982年であることが判明しました。そして、「アタミセンター」は少なくとも1961年以降1971年までは「銀馬車」と、1972年以降1981年までは「加奈」と、おそらくは1階と2階で棲み分けて営業を行い、1982年以降は「加奈」のみが営業を続けていたということのようです。

アタミセンター、銀馬車、加奈が存在していた時期の一覧。

つまるところ、「スーパーホームランゲーム」のフライヤー画像に見える「階上 高級喫茶」は「銀馬車」を指している可能性が高いです。

「スーパーホームランゲーム」のフライヤーに掲載されている「アタミセンター」の画像。壁面に見える「高級喫茶 階上」の文字は「銀馬車」を指しているものと思われる。

しかし、「銀馬車」と入れ替わった「加奈」は、当初から1階で営業しているとのことなので、「アタミセンター」は1972年に1階から2階に移ったと考えざるを得ません。

「アタミセンター」の1階と2階の移り変わりの推測。

いったい、どの時期に、どのフロアで、どの屋号で、営業が行われていたかを推測してみました。「アタミセンター」の建物で行われていた営業には以下の5種類があったと聞いています。

◆アタミセンターが入る建物内で行われていた営業
① 高級喫茶
② スーパーホームランゲームの直営宣傳場
③ キャバレー
④ 射的場(空気銃)
⑤ 喫茶店

これらのうち、既に判明しているのは、①が「銀馬車」、②が「アタミセンター」、⑤が「加奈」であることで、③のキャバレーと④の射的場の運営主体は不明です。しかし、料飲業である共通点から③が「銀馬車」、遊技業である共通点から④が「アタミセンター」であったと考えるのが自然であると思います。ただし、キャバレーだった時期や、射的場だった時期は全く不明です。実はこの建物には反対側にも入り口があり、片方が遊技場、もう片方がキャバレーの入り口であった可能性も高そうです。

「アタミセンター」の建物の、反対側の入り口。

ただ、この考え方だと、「加奈」が1階で営業を始めたタイミングで「アタミセンター」が2階に移ったことになり、これはこれで違和感が残ります。2階がキャバレーとして残っていたのなら、消えるのは「銀馬車」ではなく、むしろ「アタミセンター」の方ではないでしょうか。それとも、キャバレーの屋号を「アタミセンター」に変更したのでしょうか。

結局のところ、末期の「アタミセンター」がどんな営業をしていたのかはわかりません。あくまでも現状合わせの考え方ですが、「加奈」開業後、「アタミセンター」は建物の名前として残りはしたが特に何か営業をしていたわけではない可能性も述べておきたいと思います。

実は熱海での二日目、この辺りについてもう少し詳しいお話を聞けることを期待して「ボンネット」を再訪したのですが、昼前の11時半時点でまだ開店しておらず、諦めて家路についていたのでした。

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今回の調査では、当初の疑問である「スーパーホームランゲーム」のフライヤーの頒布時期は結局解明できませんでした。個人的には、完成はできなかったものの、欠けているパズルのピースが少しずつ埋まって行く時の嬉しさや、熱海の昭和史を辿る楽しさが感じられて、楽しい作業ではありましたが、明快な答えを期待されていた皆さんには申し訳ありませんでした。この疑問については、「リズムボーイズ」(関連記事:「リズムボーイズ」第三の資料発見!)と同じように、今後も継続して注目する対象としておきたいと思います。

(おわり)