オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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ピンボールのアートワークの話(6):ゴットリーブの3人のアーティスト・その2:ゴードン

2018年12月28日 22時08分57秒 | ピンボール・メカ
Gottliebのアーティスト三人目は、「ゴードン・モリスン(Gordon Morison、以降ゴードンとする)」です。ゴードンは、1969年の遅い時期に、既にクリスが所属していた「Advertising Posters」に、Gottlieb専任として雇われました。クリスは、「ゴードンとはいつも隣同士で仕事をしていた。我々はそれを好んでいたし、互いにアイディアを相談し、たいへん尊敬しあっていた」と言っています(「The Pinball Compendium: 1970 -1981」に掲載されたクリスへのインタビューによる)。これは、前々回に紹介したMardi-Gras-Man氏の言葉とも符合します(Mardi-Gras-Man氏がこのインタビューを読んでいた可能性もありますが)。

ゴードンは、アートと入れ替わるかのようなタイミングで、「ポインティ・ピープル」全盛の1971年からSS機が完全に普及する1980年までの10年間でおよそ150機種(別バージョン含む)のアートを担当しています。作風はいくつかあり、それらはタイプ別に分けられそうにも思うのですが、ワタシにはそれを的確に分析するだけの技量がありません。ここでは、主にゴードンがデビューした1971年から最後のポインティ・ピープルが描かれた1974年の間の作品を、思いつくままに分類して例示しておこうと思います。

第一のタイプは「サイケ調」です。ゴードンは、デビュー直後の1971年に「Now」と「4 Square 」の2作を描き、また1974年には「Out Of Sight」を描いています。






サイケ調の例。掲載順に、「Now (1971)」、「4 Square (1971)」、「Out Of Sight (1974)」。

サイケデリック・ムーブメントが流行ったのは70年代の前半くらいまででしたが、ゴードンはその後も「Canada Dry (1976)」や「Strange World (1978)」のように、「現代風にアレンジされたサイケ」とも言えそうな画風をしばしば描いています。

第二のタイプは、コミカルなアメコミ調です。このタッチの作品はゴードンのキャリアの前半に多く、また1973年以前の作品には極限まで短いミニスカートの若い女性が描かれることが多いです。






コミカルなアメコミ調の例。掲載順に、「Sheriff (1971)」、「King Cool (1972)」、「Jack In The Box (1973)」。

この作風は、1976年以降になると、「Neputune (1978)」や「Count Down (1979)」に見られるように、後述の「シリアスなアメコミ調」とのハイブリッドのようになっていきます。

第三のタイプは、おそらくゴードンの全キャリアを通じて最も多いと思われる、人物の陰影を意識したシリアスなアメコミ調です。この画風はデビュー作の「2001 (1971)」から見られますが、「ポインティ・ピープル」の全盛期だった1974年まではあまり多くはありません。しかし、1975年以降から徐々に増えていきます。






シリアスなアメコミ調の例。掲載順に、「2001 (1971)」、「High Hand (1973)」、「Sky Jump (1974)」。

1975年以降は、「Atlantis (1975)」や、「Centigrade 37 (1977)」のように、よりわかり易い例が増えてきます。

ゴードンが描くテーマには、近未来、宇宙、ロボット、メカ、神話、魔法など、パルプマガジンにありそうなSFやファンタジーが大変多く、アメコミ調の絵はそれらと親和性が高かったのだと思います。

またゴードンの特徴に、絵のハイライト以外の人物を単色で彩色するという手法がしばしば見られますが、これは、前任者であるアートが「Crescendo (1970)」で採っている手法です。




周辺人物を単色で彩色している例として、「King Pin (1973)」(上)と、前回の記事に掲載した「Crescendo (1970)」(下)の比較。

「Crescendo」は、アートの作風としてはかなり異質で、人物のタッチを除けばむしろゴードンの作風に近いようにも思えます。これは果たして、ゴードンがアートの影響を受けたのか、それともゴードンがアートに協力していたのか(時系列的にはあり得ないことではない)、あるいは全く関係ないのか、現時点では全く見当が付きません。ここでまた一つ新たな謎が出てきてしまいましたが、今までの調査で、アートとゴードンの接点に関する記述は全く見つけられていないため、今回はこれ以上追及しません。

他人様からいただいたアレンジボールのフライヤー画像から始まった、ワタシの長年の謎を解き明かす調査の記録は以上で終了です。思いがけず長引いてしまいましたが、なんとか年内に完結させることが出来ました。ご高覧くださっている皆様にとって、来年も良い年となりますようお祈り申し上げます。

(このシリーズおわり)


ピンボールのアートワークの話(5):当時のゴットリーブのアーティスト・その1:ロイとアート

2018年12月16日 20時59分25秒 | ピンボール・メカ
「ポインティ・ピープル」が描かれたのは1965年~1973年の9年間ですが、製品寿命自体は少なくとも数年程度はありますので、70年代の半ば過ぎくらいまではまだ「ポインティ・ピープル」はロケーションに残っていました。しかし、1976年前後ころから、それまでエレクトロ・メカニカル(EM)機構で作動していたピンボールに、電子技術であるソリッドステート(SS)が採り入れられるようになり、市場の機械も急速に入れ替えが進んで、「ポインティ・ピープル」が描かれた機械も消えていきました。

EMからSSに移行するちょうど境目のころに開発されていたタイトルの中には、旧式のEM機と新式のSS機の両方でリリースされたタイトルもいくつかあります。「そのようなタイトルの旧式(EM)の方はもっぱら日本に輸出されていたのだが、今は海外の好事家たちの需要で、日本にあるEM版が『逆輸入』される事態になっている」と、先日お会いした、拙ブログをご高覧くださっている方からうかがいました。

いきなり横道に逸れてしまいましたが、今回は、「ポインティ・ピープル」が全盛だった時期でも独自路線を貫いたGottliebのアートワークについて、調べたことを記録しておこうと思います。

Bally, Williams, Chicago Coinsの3社の機械に「ポインティ・ピープル」が描かれていた期間、Gottliebのアートワークを担当したアーティストは(少なくとも)3人います。

一人は、「ロイ・パーカー(Roy Parker、以降ロイとする)」と言う人で、筐体のアートワークを描くアーティストとしては、フリッパー装置が発明される1947年(注1)よりずっと前の1935年から、1966年までの間に300機種近く(バージョン違いも含む)を担当したようです。そのほとんどはGottliebの機械ですが、Chicago CoinsとWilliamsの機械も若干手掛けています。

(注1)一般的には、初めてフリッパーを装備したピンボールは1947年にGottliebが発表した「Humpty Dumpty」とされていますが、これは電気的に作動するフリッパーを装備した初の機種と言う意味です。電気を用いず、純粋にメカニカルな仕掛けのみで作動する「フリッパー」を備えたピンボール機はそれ以前から存在していました。なお、「Humpty Dumpty」のアートワークもロイの手によるものです。


ロイの作例として、「KINGS & QUEENS (Gottlieb, 1965)」のアートワーク。

ロイの画風を何と呼ぶものなのか、ワタシにはその知識がありませんが、デフォルメが殆どなく写実的傾向で描かれる人物は、見るからにオールドファッションドな印象を受けます。しかし、ロイの最後の作品が発表された1966年の時点では、ジェリーが描いた前衛的・先鋭的な「ポインティ・ピープル」はまだ3機種しかなかったころで、WilliamsやBallyにもロイと同傾向のアートワークは残っていました。

二人目は、「アート・ステンホルム(Art Stenholm、以降アートとする)」です。この人は、「ポインティ・ピープル」が登場する前年の1964年から、「ポインティ・ピープル」全盛の1971年まで活躍していたようです。アートの初期の作風はロイとよく似ており、ワタシには違いがあまり感じられません。


アートの初期作品から「KING OF DIAMOND (Gottlieb, 1967)」。前出のロイの「KINGS & QUEENS」と比較すると、タッチに若干の違いは感じるものの、全体から受ける印象はあまり変わらない。

アートのバックグラスアーティストとしてのキャリアは1964年から始まっており、はじめのうちはBallyとWilliamsの両方で描いていますが、1966年からGottliebに描くようになりました。その後は、1967年にいくつかWilliamsでの仕事が混じりますが、1968年半ば以降はGottlieb一社に絞られています。これは想像ですが、アートもクリスと同様ジェリーの作風を模倣するよう要請されたものの、これを拒否して、以降はGottliebに集中したのかもしれません。

アートは、1967~8年頃から若者を多く描くようになり、描かれる女性の服装にミニスカート(しかも時代が下るほど短くなる)が増えるなど、ファッションも現代的になっていきました。また、背景も、近景に対する単なる遠景だけでなく、デザインで埋める作品(SPIN-A-CARD (1969))も見られるようになって、いくらかモダンな印象を受けるようになります。しかし、やはり「ポインティ・ピープル」と比較すると、今一つ垢抜けない印象はぬぐい切れません。




アートのモダンな印象を受ける作品の例として、「SPIN-A-CARD (1969)」(上)とサイケ調の「CRESCENDO (1970)」(下)。ミニスカートの若い女性や背景に施されたデザインが時代の反映に見える。

ところで、「ポインティ・ピープル」以前のピンボールのアートワークと言えば、ロイの作品と同傾向のものが殆どでした。そんな時代の中で、1966年にWilliamsが発売した「8 Ball 」のアートワークは非常に異質です。


「8 Ball (Williams, 1966)」のアートワーク。コミカルな人物の造形は完成度が高く、現代でも通用しそうに見える。

この時代のピンボールで人物をマンガ的に描いている例は「King Pin (Williams, 1962)」や「Hot Line (Williams, 1966)」(共にアーティストは不明)のように、少数ながら他にもありますが、それらは「8 Ball」ほど完成された画風ではありません。この極めて異質なアートワークを描いたのは、これまでに拙ブログで何度か参照しているオランダのウェブサイト「PINSIDE」は、驚くことにアートだとしています

しかし、別のピンボール情報サイトである「The Internet Pinball Database」では、「8 Ball」のアートワークの作者名を特定しておらず、その他のウェブサイトを見ても「PINSIDE」を支持する情報は見つかりません。アートの作風は全作品を通じて概ね一貫しており、これをアートの手によるものとする説には大いに懐疑的にならざるを得ません。しかし、本当であれば、この時代にこのスタイルの作品をもっと残しておけば、「ポインティ・ピープル」と並ぶもう一つの潮流として残っていたかもしれないのにと、残念に思います。

長くなったので、三人目の「ゴードン・モリスン(Gordon Morison)」については次回へ。

(次回「ゴットリーブの3人のアーティスト・その2:ゴードン」につづく)

ピンボールのアートワークの話(4):ジェリーとクリスのその他の仕事&資料・その2

2018年12月14日 23時41分17秒 | ピンボール・メカ
ジェリーがグラフィック・アーティスト以外の仕事もしていたことは前回も述べましたが、今回のシリーズでこれまで何度か参照して来たオランダのウェブサイト「PINSIDE」の他の記事によれば、ジェリーは、バックグラスの絵を描き始めるよりも早い時期に、「ローチャージャー・キャビネット」をデザインし、また「スムーズ・ナイロンボタン」を発明したとされています。

これらの正体については、ウェブを検索しても関連する他の情報が出てこないのでよくわからないのですが、「ローチャージャー・キャビネット」は、従来は筐体の「ロックダウンバー」と呼ばれる部品の上面にあったコイン投入口を筐体の前面に移設した筐体のことだと思われます。


写真上が「ローチャージャー・キャビネット」と思われる筐体。コイン投入口(赤枠内)が筐体前面にある(「SERENADE (Williams, 1960)」より)。写真下はそれ以前の筐体で、コイン投入口がロックダウンバー上にある(「SEA WOLF (Wlliams, 1959)」より)。この変化により、Williamsの筐体はオペレーターのメンテナンス性が向上した。ちなみに、Ballyは1965年の遅い時期まで、コイン投入口を上記「SEA WOLF」と同様にロックダウンバー上に置いていた。

また「スムーズ・ナイロンボタン」は、プレイフィールドに埋め込まれ、ボールがその上を通過すると得点を得たりフィーチャーが作動する「ロールオーバーボタン」の一形態のことではないかと推測しています。もしこれらの理解に誤りがありましたら、ご指摘いただければありがたく存じます。


「スムーズ・ナイロンボタン」と思しきもの(赤矢印で示されているパーツ。「Big Deal (Williams, 1963)」のプレイフィールドより)。ボールがこの付近を通過するとボタン部分がプルプルと震えるが、スイッチが反応しているのかどうかがよくわからず、ワタシ個人としては歯がゆい印象を持った。

ジェリーについての情報には、英語以外の外国語のウェブサイトも複数見つかります。ドイツ語で記述された「Flippersammlung」中の記事「JERRY K. KELLEY」をGoogle翻訳にかけたところによれば、「ジャグラー」と呼ばれる謎のデザインも、実はジェリーの作品であることがわかりました。

「ジャグラー」は、ジェリーがピンボールのアートワークから離れる前年である1968年から1974年までのバーリー製ピンボール機のエプロン(筐体手前の、インストラクションカードなどが配置される部分)に描かれていたデザインで、ピンボールファンなら一度は必ず見ているはずです。この「ジャグラー」も、そう言えばポインティ・ピープルと言えそうです。


1968年から1974年までのBally製ピンボール機のエプロン部に描かれていた「ジャグラー」。

ジェリーは、ピンボールのバックグラスアーティストとしては多作とは言えませんが、ピンボールの歴史を語る上では間違いなく重要な人物のはずなのに、ウェブ上でヒットする情報が少なすぎるのは全く不当なことだと思います。

一方のクリスの人物像については、あまり情報がみつかりません。クリスはもともと「Advertising Posters」という会社に所属するアーティストで、晩年はフランスで芸術活動を続け、2009年の1月ごろに物故したとのことです。

前回の記事で参照したMardi-Gras-Man氏の投稿には、クリスが晩年フランスに戻って描いた作品がいくつか掲示されています。また、その投稿の中でMardi-Gras-Man氏は、クリスはGottliebのアーティスト「ゴードン・モリスン (Gordon Morison、以下ゴードンとする)」とは非常に親しい友人で、同じオフィスを分け合って使用していたと言っています。ゴードンについては、次回以降のGottliebの話でいくらか触れる予定でおります。

クリスは多作で、「ポインティ・ピープル」ではない作品も数多く残しています。それらもまた、ワタシの当時の思考や行動までを含む記憶をまざまざと蘇らせてくれる優れた作品で、カーペンターズが「イェスタデイ・ワンス・モア」でいみじくも歌っているように、「Still shines」で「So fine」なのです。

******** 今回、主に参照した参考資料メモ ********

★ジェリー関連
INTERNET PINBALL DATABASE
PINSIDE
Flippersammlung」(ドイツ語)

★クリス関連
INTERNET PINBALL DATABASE
PINSIDE

(次回「当時のゴットリーブのアーティスト・その1:ロイとアート」につづく)

ピンボールのアートワークの話(3):ジェリーとクリスのその他の仕事&資料・その1

2018年12月09日 17時21分54秒 | ピンボール・メカ
前回ご紹介したオランダのピンボール情報サイト「PINSIDE」の掲示板に、「ポインティ・ピープルの考察-マルケとケリーへの敬意」というトピックを発見しました。その中で、「Mardi-Gras-Man」と名乗るドイツ人と思しき人が、「ジェリーが死去する少し前の2000年に彼と話した」と言って、かなり詳しい話を投稿してくれています(他のウェブサイトの情報によると、ジェリーは2002年9月に80歳で亡くなっています)。

Mardi-Gras-Man氏によると、ジェリーは自身のスタイルを「現代アートワーク(the contemporary artwork)」と呼んでいたとのことです。そしてジェリーは、1960年代の早い時期からWilliamsでシャッフルボード機のデザインをしたり、1962年以降Williamsがピンボール事業から撤退する1999年までずっと使い続けた有名なWilliamsのロゴのデザインもしていました。


ジェリーが1962年にデザインしたWilliamsのロゴ。Williamsの歴代機種のフライヤーを調べると、1962年の途中からこのロゴが描かれるようになっている。このデザインにも「ポインティ・ピープル」に通じる特徴を感じる。

ジェリーは他にもアミューズメント業界のいろいろな分野で多くの仕事をしていました。Mardi-Gras-Man氏は、彼の最初のビッグヒットはBallyの新しいスロットマシンキャビネットだったと言っています。

これはびっくり!

Ballyがエレクトロメカニカル回路とホッパーでスロットマシンに革命を起こしたのは1964年のことです(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))。この時、スロットマシンのキャビネットも、従来とは一線を画す極めてモダンなルックスに生まれ変わりました。そして言われてみれば、このキャビネットのデザインにも、確かに「ポインティ・ピープル」に通じる直線と角の強調が感じられます。


Ballyがスロットマシンに革命を起こした最初の機種「マネー・ハニー (Model 742Aシリーズ)」から使われるようになった新型キャビネット。これ以降、MillsやJenningsなどそれまで大手とされてきた他のスロットマシンメーカーはことごとく駆逐され、業界はBallyの独擅場となった。

ジェリーは、ピンボール機のグラフィック・デザイナーとしては、Williamsで「Pot 'O' Gold (1965)」と「A-Go-Go (1966)」の2機種に「ポインティ・ピープル」を描いた後は、1966年12月に発売された「Capersville」以降、1作を除いて全てBallyで仕事をしています。そしてこれが、クリスがジェリーの仕事を引き継ぐきっかけとなりました。それまでWilliamsとChicago Coinsの仕事をしていたクリスは、Williamsからジェリーのスタイルを模倣するよう要請されて、1967年から「ポインティ・ピープル」を描くようになりました。

つまるところ、Williamsで「ポインティ・ピープル」を描いていたジェリーはBallyに移ってからも「ポインティ・ピープル」を描き、これによってWilliamsにできたジェリーの穴をクリスが埋めたという形です。ただ、クリスも1968年からぽつぽつとBallyの仕事もするようになっており、ジェリーが業界からいなくなる前年の1969年以降は、WilliamsとBally(とChicago Coins)の両方に典型的な「ポインティ・ピープル」を描いています。

クリスは1964年にアメリカにやってきたフランス人でした。彼は、ピンボール業界で仕事をすることになった時に、同じフランス人の「ルイス・レイノード(Louis Raynaud、以下ルイスとする)」と言う人を連れてきたのだそうです。そして、ワタシは今まで見逃してしまっていましたが、このルイスも、「Lady Luck (Williams, 1968)」と「ZODIAC (Williams, 1971)」という2つのタイトルで「ポインティ・ピープル」を描いています。





ルイスによるポインティ・ピープルの「Lady Luck」(上)と「ZODIAC」(下)。「ZODIAC」には、リプレイ機能を無効にした別バージョン「PLANETS」があり、これにも「ZODIAC」と同じアートワークが使われている。

ルイスはこの2タイトル(別バージョンを含めば3タイトル)を残しただけでピンボール界から姿を消してしまっていますが、その理由までは言及されていません。ワタシもルイスの名でウェブ上を検索してみましたが、ほとんどヒットしないため、詳しいことは何もわかりませんでした。

Mardi-Gras-Man氏は、「ジェリーの言葉から、彼は他人の手による、彼自身がひどいと評価する「ポインティ・ピープル」作品が自分の作品と誤解されるのが不本意で、自分のスタイルが模倣されることを好んでいないように察せられた」と言っています。

一方のクリスの方については、ジェリーをたいへん尊敬していたように見えると言っています。前回の記事でも触れた、「CHAMP (Williams, 1974)」にジェリーの作品を登場させた件も、クリス最後の「ポインティ・ピープル」となる「STAR POOL (Williams, 1974)」を描く時期に、ジェリーへの敬意を込めた「Hat-Tip(原義は帽子を軽く持ち上げるしぐさの挨拶。尊敬や感謝を表す)」のつもりであったのだろうとも言っています。

Mardi-Gras-Man氏の投稿は、前回の記事を書いている時点では曖昧だった部分を多少なりとも明らかにしたただけでなく、思いもよらない新事実もたくさん述べられており、非常に興味深いものでした。これらの情報をもたらしてくれたMardi-Gras-Man氏に対して、ワタシも「Hat-Tip」しておきたいと思います。

(「ジェリーとクリスのその他の仕事&資料・その2」につづく)

ピンボールのアートワークの話(2):ポインティ・ピープルを描いた二人のアーティスト

2018年12月02日 15時44分06秒 | ピンボール・メカ
【はじめにおことわり】今回の記事の多くの部分は、ネット上から得た情報を根拠としています。ネット上には緻密で詳細なデータがたくさん存在しますが、それらは正確性や網羅性が保証されているわけではないので、本記事中の記述とは異なる説が仮にあったとしても、必ずしもそれを否定するものではないことを予めご承知おきください。

「ポインティ・ピープル」を描いたアーティストは二人いました。一人は「ジェリー・ケリー(Jerry Kelley=以降本文中では「ジェリー」とする)」と言う人で、ピンボールのバックグラスアーティストとしては、1963年から1969年までの7年間で16機種程を手掛けたようです。「ポインティ・ピープル」は1965年の「Pot 'O' Gold (Williams)」で初めて描かれ、以降ジェリーは最後までこの画風を保ちますが、1968年以降は、通常のカーツーンと「ポインティ・ピープル」のハイブリッドのような画風に後退したものが混じるようになっています。


ジェリーの「ポインティ・ピープル」の初期作品「A-GO-GO (Williams, 1966)」のアートワーク。最前面にいるあご髭の人物はジェリー自らをモデルとしているらしい。この前年に発表された「Pot 'O' Gold」で描かれている人物も「ポインティ・ピープル」だが、全身潜水服姿のダイバーであるため典型例としてはわかりにくいので、次作となるこちらを紹介。


ジェリーのおそらく最後の仕事となる「Gator (Bally, 1969)」。「ポインティ・ピープル」の特徴はかなり控えめになっている。ワタシは高校時代に、この「Gator」を学校の近くの元ボウリング場だったゲームセンターでよく遊んでいた覚えがある。

もう一人は「クリスチャン・マルケ(Christian Marche=以降本文中では「クリス」とする)」と言う人です。こちらは1966年から1979年頃までの14年間にわたって、「PINBALL NEWS」2009年7月によれば150機種ものアートワークを担当していますが、「ポインティ・ピープル」を描き始めるのはジェリーよりも2年ほど遅い1967年からのようです。


クリスの「ポインティ・ピープル」の初期作品「Jolly Roger (Williams, 1967)」のアートワーク。尖る部分は指やつま先くらいだが、色使いや、前後に重なる部分が透過したり線を共有して描かれるなどの点が前述の「A-Go-Go」に通じる。この直前に発表された「Derby Day(Williams, 1967)」にもやはり「ポインティ・ピープル」の要素が感じられるが、人物よりも馬がメインで特徴がわかりにくいためこちらを紹介。

クリスはジェリーとは逆で、はじめのうちは尖る部分は手指などの極めて限られた部分にとどまっていましたが、1968年より徐々にその特徴を強めて行き、ジェリーのアートワークが見られなくなる1969年頃から1971年までは、典型的な「ポインティ・ピープル」の作品を多く描いています。前回の記事で触れた「STARDUST」も、1971年のクリスの作品です。

そのクリスも、1972年頃より再び「ポインティ・ピープル」の特徴が抑えられた作品が混じるようになり、また「ポインティ・ピープル」の手法を採らない新しい画風の作品も現れるようになっていきます。1974年には約20機種(バージョン違いを含む)のアートワークを担当していますが、このうち「ポインティ・ピープル」を描いたのは3機種(うち2機種はバージョン違い)に留まり、1975年以降は「ポインティ・ピープル」を一切描かなくなっています。


クリス後期の「ポインティ・ピープル」である「JUBILEE (Bally, 1973)」。人物やポーズは前出「STARDUST」を連想させるが、「ポインティ・ピープル」の特徴は後方の踊り子を除いてずいぶん抑えられている。


クリス最後の「ポインティ・ピープル」作品と思われる「STAR POOL (Williams, 1974)」。

クリスがどのような経緯でジェリーの「ポインティ・ピープル」を受け継いだのかはわかりません。オランダのウェブサイト「PINSIDE」には、「クリスはジェリーの画風を模倣するよう要請された」との記述が見えますが、誰が、いつ、なぜそのような要請をしたのかまでの言及は(少なくともそのページには)ありません。ただ、少なくともクリスがジェリーという先人を意識していたことは確かなようで、クリスは1974年に発売された「CHAMP (Bally)」のアートワークの中に、ジェリーが過去に手掛けたマシン2機種を描き込んでいます。「PINSIDE」はこれについて、「(クリスが)『ザ・チャンプ』と呼んだジェリーに対する彼の追懐なのかもしれない」と述べています。


クリスが描いた「CHAMP (Bally, 1974)」のアートワーク(部分)。矢印左がジェリーが手掛けた「MINIZAG (Bally, 1968)」、右がやはりジェリーが手掛けた「RockMakers (Bally, 1968)」。「CHAMP」のアートワーク自体は、「ポインティ・ピープル」の手法は全く採り入れていない。

ところで、ジェリーもクリスも、特定のピンボールメーカーの専属デザイナーと言うわけではなかったことがうかがえます。ジェリーはウィリアムズとバーリーの2社にまたがって「ポインティ・ピープル」を描いており、クリスはやはりウィリアムズ、バーリー、それにシカゴコインズの3社で描いています。

当時小学生~中学生だったワタシの記憶にいつまでも痕となって残るひっかき傷が付けられたのも、この二人によって複数のメーカーの数十もの機種に「ポインティ・ピープル」が描かれていたからであることがわかりました。そしてそれは同時に、「ポインティ・ピープル」を全く、一件たりとも採用しなかったゴットリーブと言うメーカーの独自性をワタシに意識させるものでもありました

(次回「ジェリーとクリスのその他の仕事&資料」につづく)