オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「三共」についての備忘録(6) 三共に関するエピソードあれこれ(前半)

2023年03月26日 20時20分19秒 | メーカー・関連企業

戦後日本のAM業界を支えたのに忘却の危機にある三共の名を少しでもネット上に残しておこうと始めた今回のシリーズをご高覧くださったある事情通の方から、「当時の関係者から聞いた」とする興味深いお話をSNSを通じて伺いました。

あくまでも話者の記憶に基づくお話なので正確性は担保されませんが、その妥当性は聞いた側が状況証拠を積み上げて判断すべきところかと思います。オーラルヒストリーとはそういうものでありましょう。今回は、そのような三共とその周辺のちょっとしたこぼれ話で締めくくろうと思います。

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前回の記事で、ガンゲーム「チューハンター」は、三共遊園設備が自社の広告に記載していたが、関東電気工業児童遊園設備も自社の製品であるがごとく宣伝している旨を述べました。

児童遊園設備名義のチューハンターのフライヤー(上)と、製造品目にチューハンターを挙げる関東電気工業の雑誌広告(下)。

かように謎に包まれるチューハンターですが、今回伺ったお話では、

児童遊園設備三共精機(※)は協力会社の関係にあった。

●「チューハンター」は関西精機の「コンバットガン」と三共精機の「ねずみ退治」(※)をミックスして発案された。

●チューハンターのねずみの模型は児童遊園設備が三共精機から購入(※)していた

(※)三共遊園設備と三共精機が混同されているように思われる。

なのだそうです。また、本シリーズの2回目(「三共」についての備忘録(2) 三共遊園設備のAM機(前半))では、ワタシは「『ねずみ退治』で使われているねずみの人形は『チューハンター』のものと同じものではないかと述べましたが、このお話が正しければ、チューハンターはねずみ退治の後に児童遊園設備が作ったものということになります。

児童遊園設備がいつ頃消えたのかと調べを進めたところ、'69遊戯機械年鑑巻末の「各社の沿革と営業品目」には児童遊園設備の項目が見られず、そしていくつかの企業は「主な業界内取引先」として児童遊園設備の名を挙げているにも関わらず、協力関係にあったはずの三共遊園設備(お話では三共精機と言っていますが)は挙げていないことを発見しました。

これだけで断言するのは早計ですが、どこかの段階で、児童遊園設備は'69遊戯機械年鑑が編集されている段階で既に消滅しており、三共遊園設備がその遺産を受け継いだとするストーリーは考えられると思います。どこかの段階で、児童遊園設備は消滅して、三共遊園設備がその遺産を受け継いだとするストーリーは考えられると思います。(修正・2023/4/1)

関東電気工業については言及がないのですが、その代わりに「児童遊園設備の下請けとして三鷹市新川の三鷹遊機王将を組み立てていた」と述べています。三鷹市新川は、児童遊園設備があった三鷹市下連雀の南、関東電気工業があった三鷹市中原の北に接する地域で、これら三社は互いにご近所の関係にあったようです。

児童遊園設備による王将のフライヤー。

この「王将」のバックグラスに描かれている二人の人物にはモデルがいるそうです。今回窺ったお話に、

●児童遊園設備は東京・昭島市の「日本遊園設備」と言うゲーム機メーカーが解散した時に、一派が新たに東京都三鷹市に設立した会社。

●「王将」のバックグラスに描かれる人物は、児童遊園設備設立の中心となった兄弟がモデルで、本人たちも気に入っていた。

●日本遊園設備解散後、別の一派は「ホープ自動車」に移り、同社のAM業界参入に寄与した。

とのエピソードがありました。ここでは日本遊園設備の所在地を「昭島市」としていますが、残されている日本遊園設備のフライヤーには「武蔵野市」と書かれています。また、奥付が無く出版日が特定できない'69遊戯機械年鑑にはまだ日本遊園設備の名は残っています。そしてホープ自動車がAM業界に参入したのはウィキペディアでは1963年、他の資料では1965年としており(「昭和49年(注・1974年)とする資料もみつかりますが、これは社名を「ホープ」に変更した年と混同しているものと思います)これを信じるなら日本遊園設備と児童遊園設備とホープ自動車が同時に存在していた時期があったことになり、「日本遊園設備が解散した時」とのお話とは齟齬が生じます。

ひょっとするとワタシの手元の資料からは見えない別の事実がある可能性もあるので迂闊に疑うことは致しませんが、少なくともこのお話を唯一絶対に正しい事実であるかのようにお伝えすることは避けておきたいと思います。

なお、ホープ自動車は1951年に「ホープ商会」として設立され、オート3輪など自動車の製造を行い、ヒットした「ホープスター」はスズキの「ジムニー」の原型になっていたそうです。AM業界参入後は、遊戯用小型乗物機の製造のほか、ナムコが販売していたワニワニパニックの製造も担っていたとのことですが、2017年、折からの市場縮小に抗えず、残念ながら倒産しています。

ところで、ここでお詫びです。前回、今回が最終回と申し上げましたが、お話をまとめきれなかったので、さらにあと1回続けさせていただきたいと思います。申し訳ありません。

つづく


「三共」についての備忘録(5) 三共精機と三共のAM機

2023年03月19日 18時50分20秒 | メーカー・関連企業

つい数日前に、三共ベンダーからここに至るまでの沿革についてより詳しいことがわかりました。出典は「遊戯機械総合年鑑」の79年版及び80年版です。

1959 4月 三共ベンダー設立
1966 6月 三共遊園設備に改称
1971 ?月 三共精機が分離独立
1976 11月 三共遊園設備と三共精機を合併して三共に社名変更

出典には、三共精機が分離独立した時期については1971年としか書かれていません。合併が76年11月ということなので、1976年にリリースされたものは三共精機または三共遊園設備から受け継いだものと判断してもよさそうではあります。

【1】アメリカンフットボール(1976)

アメリカンフットボールのフライヤー。三共精機名義。

この「アメリカンフットボール」は、ポップバンパーを備えた国産のフリッパーマシンです。フライヤーでは「ユニークなデジタル得点表示と電子音、IC使用」と謳っています。それまでは比較的単純な構造のEM機(中には電気を殆ど使わないものもあった)を作っていた三共精機(と、三共遊園設備)ですが、今後はテクノロジーの変化に適応していく必要があると認識していたのでしょう。

ところで、ワタシは過去記事「 初期の国産フリッパー・ピンボール機:ターキーボール(関東電気工業、1972)」において、「関東電気工業は、「ターキー」の後にもフリッパーピンボールを少なくとももう一つ作っていたはずと思う(確かアメリカンフットボールテーマ)」と述べていますが、それはこの機械のことだったようです。

三共と関東電気工業には不思議な一致点があります。まず、「アメリカンフットボール」と「ターキーボール」のポップバンパーはどちらも同じ機構(すなわちセガと同じ?)のようです。そして関東電気工業と三共遊園設備ともに、多くの人の記憶に残っているガンゲーム「チューハンター」を記載する広告が残っています。

話はさらにややこしくなりますが、「児童遊園設備」という三共遊園設備とよく似た社名の会社があって、ここも自社の名前で「チューハンター」のフライヤーを頒布しています。この児童遊園設備と関東電気工業はご近所(ともに東京都三鷹市)の間柄で、両社とも「王将」というゲーム機の名前を挙げている広告があります。ひょっとするとこれら三社は、協力会社とか元請けと下請けの関係のようなものがあるのかもしれませんが、謎です。

【2】アドバンテージ(1976~1977?)

アドバンテージのフライヤーを掲載するweb版ゲームマシン2021年5月15日号の一部。

ワタシは「アドバンテージ」のフライヤーは持っていないのですが、日本製のポップバンパー付きピンボール機の存在は貴重なので、フライヤーが掲載されているweb版ゲームマシン2021年5月15日号をご紹介することで言及しておきたいと思います。

「アドバンテージ」は「アメリカンフットボール」に続くSS機です。しかし、この時期に機械のSS化に励んでいたのは米国のピンボール機メーカーも同様で、多くのノウハウが蓄積されている彼らはより複雑で面白いゲーム機を次々と生み出していました。果敢に挑んできた三共でしたが、残念ながらこれらには太刀打ちできなかったようで、これ以降はフリッパー機から手を引いてしまいました。

なお、「アドバンテージ」のフライヤーは「三共」の名義ですが、少なくとも三共を名乗りながらも「旧社名 三共精機(株)」と併記しているアミューズメント産業1976年11月号の広告にも掲載されているところから、アドバンテージは三共精機から受け継いだタイトルではないかと思います。

【3】アーチェリー(1976)

アーチェリーのフライヤー。三共名義。

業界誌の広告を見ると、これも上述の「アドバンテージ」とほぼ同じ時期に掲載が始まっているので、三共精機から受け継いでいると思われます。

フライヤーにはことさら書かれていませんが、得点などの表示に7セグが使われており、ここでも電子化への移行が見られます。とは言え、この頃は例えばレジャックの「ピカデリー」のように、いわゆる「駄菓子屋ゲーム」にもIC化の波が押し寄せてきていました。三共もこの流れに取り残されぬよう奮闘していたことが窺われます。

【4】総合カタログ(1976以降1978以前?)

総合カタログの表紙側(上)と中側(下)。

しかし、ここに掲載されている製品は、1機種を除いてアミューズメント産業誌1976年11月号の広告に掲載されており、三共遊園設備から受け継ぐ遺産ばかりです。

三共は1977年以降もそれなりに新製品を出し続けてはいますが、SCロケ向けの小型のものが殆どです。ワタシは、ビデオゲームが台頭しつつあるAM業界において三共はもう「過去の人」になりつつあるかのように感じていたので、そんな三共が1978年にビデオゲーム「キャッスルテイク」をリリースしたときはいくらかの驚きを得たものでした。三共のビデオゲームについてはいずれ機会を改めて触れようと思います。

【5】ニュースペースクレーンII(1985)

ニュースペースクレーンIIのフライヤー。三共名義。

三共は、1980年まではメーカーとオペレーターの業界団体である全日本遊園協会(JAA)の会員でしたが、JAA解散後は1982年よりオペレーターの業界団体である日本アミューズメント・オペレーター協会(NAO)の会員となっています。

ワタシは、三共はこの時期にメーカーであることをやめたのかと思っていたのですが、「ニュースペースクレーンII」を1985年にリリースしています。

三共は少なくとも1973年の段階で「スペースクレーン」というプライズ機を製造販売していました。そして1977年にはその改良版である「ニュースペースクレーン」をリリースしており、なかなかのロングラン機種となって三共を支えていたようです。

スペースクレーン(左)とニュースペースクレーン(右)。

(次回「三共に関するいくつかのエピソード」(最終回)につづく)


「三共」についての備忘録(4) 三共精機のAM機

2023年03月12日 17時58分07秒 | メーカー・関連企業

三共遊園設備」から「三共精機」が分離独立したのが1971年、そして両社が再び合併して「三共」となったのが1976年です。この流れがわかれば、資料に記載されている社名からその機械の製造時期をある程度見当をつけることができそうに思えますが、調べを進めるうちにそう簡単にはいかないことがわかってきました。

例えば、当時の業界団体の子会社であった日本出版企画制作1971年9月に発行した「'72コインマシン名鑑」には、三共精機と三共遊園設備の連名で広告が打たれており、そこには前回記事で三共遊園設備製として採り上げた「アポロムーン」の名も掲載されています。

「'72コインマシン名鑑」に掲載されている三共精機と三共遊園設備の連名の広告。「製造品目」の上から三番目に「アポロムーン」が記載されている。

しかし、「'74/'75遊戯機械年鑑」ではアポロムーンは「三共精機」の製品として掲載されており、もし、こちらだけしか見ていなければ、アポロムーンは三共精機が発足した1971年以降の製品であるように思えてしまいます。

「'74/'75遊戯機械名鑑」の「アポロムーン」の部分(47ページ)。「三共精機」の製品ととされている。

1970年代半ば以前の資料は非常に乏しいため、どれがそうであるかを確認することが困難なのですが、他の三共精機製品についてもアポロムーンと同様に三共遊園設備から受け継いでいる可能性はあります。ご高覧くださる皆様におかれましては、その点ご留意いただけますようお願いいたします。

************* これより本文 **************

【1】アタックNo.1(1972以前)

アタックNo.1のフライヤー。「三共精機」の名で頒布されている。

女子バレーボールをテーマとするゲームです。フライヤーの説明によると、こちら側からボールを奥に向かって打ち出して相手コートに入れば1点を得ますが、ネット際ではブロッカーが出たり引っ込んだりしてこれを妨害しようとするようです。ゲームは時間制で、そのタイマーは相手チームの得点として表示されます。相手チームの得点が15点に達する前に自分が15点を入れれば再ゲーム、と言うことのようです。このタイマーは、バレーボールのルールをうまく採り入れていると思います。

フライヤー以外の資料では、1972年10月に刊行された「'73コインマシン名鑑」に記載があるので、この機械は1972年以前には存在していることはわかりました。

しかし、「アタックNo.1」と聞いて一般の人が想起するのは、「週刊マーガレット」誌に連載されTVアニメ化までされた大ヒット漫画の方でしょう。週刊誌連載は1968年1月から1970年12月まで、TVアニメ放映は1969年12月から1971年11月末までで、この機械の製作年が1971年だとすると、いくらか出遅れの感が否めません。

コインマシン名鑑には必ずしも最新機種のみが掲載されているわけではないので、これも「アポロムーン」のように三共遊園設備から三共精機が受け継いだものである可能性をどうしても捨てきれません。とは言うものの、前述の1971年9月に発行された「'72コインマシン名鑑」に掲載されている三共遊園設備と三共精機連名の広告にはその名が見えず、本当に三共精機で作られているのかもしれません。謎です。

【2】キックボクシング(時期不明・1971年以降?)

キックボクシングのフライヤー。

日本で「キックボクシング」なるスポーツ興業がブームとなったのは、1960年代の終わり頃から1970年代初頭にかけてのことでした。沢村忠さんというスーパースターの必殺技「真空飛び膝蹴り」は、戦後復興期における「力道山の空手チョップ」さながらに、多くの日本国民を沸かせたものです。彼を主人公とした漫画「キックの鬼」も折からの「スポ根ブーム」に乗ってヒットし、TVアニメ化もされましたが、それも先述の「アタックNo.1」と同様、三共精機ができる前のことです。

ただ、全日本遊園70年11月号には、これとはまるで異なる三共遊園設備製の「キックボクシング」が同年のAMショウ出展機種として掲載されている(関連記事:第九回アミューズメントマシンショウ(2)出展機種画像1)ので、今回の「キックボクシング」は素直に三共精機製と考えて良いのかもしれません。たて続けに同テーマのゲームを作ろうと思うほど、当時のキックボクシングの人気が高かったということなのでしょう。

全日本遊園70年11月号41ページの、三共遊園設備製の「キックボクシング」の部分。左隣にはやはりキックボクシングテーマの「ジャンボキック」(日本展望娯楽)が掲載されているが、そちらは写真がホープ自動車製の「Baby Gang」に入れ替わっている。

【3】ウルトラマンA(1972~3年?)

ウルトラマンAのフライヤー。

ウルトラマンAがTVで放映されていたのは1972年からだそうですから、これは疑いなく三共精機が作ったものと言ってよさそうです。

フライヤーの説明を読むと、回転するウルトラマンAからボールを発射して取り囲んでいる怪獣に当てると得点になるようですが、この頃のワタシはもう中学生になっており、さすがに怪獣モノへの興味も失っていたせいか、このゲーム機を見ている可能性はあるはずなのに記憶には残っていません。

気になるのは、フライヤーの左下に、三共精機の名とともに「日本娯楽機」の名が記載されている点です。日本娯楽機は、大正時代ににおける自動販売機の発明を皮切りに、戦前からずっと日本の遊園・AM業界の発展をけん引してきた遠藤嘉一さんが社長を務めていた老舗です(関連記事:AM産業と業界誌の謎(2))。

ライバルであるはずの二社がどのような経緯でウルトラマンAの版権を分けることになったのかはわからず、いろいろと想像が広がってしまいます。

【4】アクロバット(1971年以降1976年以前?)

アクロバットのフライヤーと、プレイフィールド部分の拡大図。

10円硬貨を使ったプライズ機です。筐体上部のコイン投入口に10円硬貨を入れると、硬貨は白いガイドに従ってプレイフィールド内に落ちてきます。プレイフィールドの左上部には猫が描かれた回転盤が回っており、その回転盤の長い切れ込みに硬貨が入ると、硬貨は回転盤の4時の方向にある、カギ型のポケットに運ばれます。そこで筐体上の赤いボタンを押すと、硬貨はプレイフィールドの右側に射出され、盤面の三角形のピンに当たりながら落ち、「景品」と書かれた区画に入れば景品が出てきます。回転盤の長い切れ込みに硬貨を入れるのはスキルマターですが、その後は運次第のゲームです。

このゲーム機は、ワタシにとって少々ややこしいです。と言うのも、1970年頃にほぼ同じ内容の「ニューコインパンチ」と言うゲーム機が「サニックコーポレーション」から発売されているのです。

サニックコーポレーションの「コインパンチ」のフライヤー。この回転盤にセクシャルコンテンツが含まれるのでお子様は見てはいけません。

サニックコーポレーションは、1970年に「サニー東京」から社名変更された会社で、サニックコーポレーションの名前で紹介されている製品も三共精機のケースと同様に実は1970年より早い時期から作られていた可能性があります。

アクロバットとニューコインパンチはどちらが先に作られどちらが真似たのかは今のところ不明です。フライヤーのセンスから想像すると、アクロバットの方が後にできているように思えますが、そうだとしても、どのような経緯で同じような機械を作ることになったのかが別の謎として残ります。「ニューコインパンチ」については若干思うところもあるので、いずれ機会を改めて述べたいと思います。

(次回「『三共』についての備忘録(5) 三共のAM機」につづく)


「三共」についての備忘録(3) 三共遊園設備のAM機(後半)

2023年03月05日 21時05分59秒 | メーカー・関連企業

今回は、前回に引き続き三共遊園設備の名で発表されているゲーム機の後半です。繰り返しになりますが、これで三共遊園設備の製品を網羅しているわけではない点にはご留意ください何かご存じのことがございましたら、コメント欄にてお知らせいただけますようお願いいたします。

【6】ベースボール(1969年以前)

ベースボールのフライヤー。

70年代初頭くらいまでの日本では、フリッパーが付かない、比較的簡易なピンボール機がたくさん作られており、これもその一つです。手持ちの資料から見当をつけてしらみつぶしに調べたところ、「’69遊戯機械名鑑」にこの機械が掲載されていました。

’69遊戯機械名鑑に記載されている三共遊園設備のベースボール。フライヤーとはアートワークが異なる。

ただ、同書には「児童遊園設備」社による同名の製品も掲載されています。大阪万博のエキスポランドに設置されたゲーム機リストの中にもやはり「ベースボール」の名が見えますが、これがどちらを指しているのかはわかりません。やはり製品名は一意に特定できるものであってほしいです。

こちらは同じく’69遊戯機械名鑑より、児童遊園設備製のベースボール。ゲーム性やバックグラスの得点表示が三共遊園設備のものとよく似ているが、どちらが先に作られたかは不明。

【7】ボクシング(時期不明)

ボクシングのフライヤー。筐体に描かれているボクサーの絵が「ミニボクシング」のボクサー像と同じように見えるが、どちらが先に作られたのだろうか。

薄れて見づらいが、明るさとコントラストを調整すると下の方に「三共遊園設備株式会社」の文字が見える。

いわゆる力試しのパンチングボールで、ゲーム結果は7段階のランプで表示されます。セガ1960年代の早い段階から、打撃の強さをアナログメーターで表示する同種の機械を作っています(関連記事: 「パンチング・バッグ」(sega, 1962)のフライヤーから思ったこと)が、素人考えでは三共遊園設備の方がより単純な機構で安く作れそうに感じます。

こちらはセガの「パンチングバッグ」のフライヤー。ゲーム結果は正面のアナログメーターで表示される。

それにしても、上述「ベースボール」に続き、これもまったく安直なネーミングで困ります。1970年に開催された大阪万国博覧会の遊園施設「エキスポランド」に設置されたゲーム機の中にも「ボクシング」の名はあるのですが、それがこの機械を指しているとは確信できません。やはり製品名は一意に特定できる(以下略)。

【8】キャリバー50(時期不明1970?)

キャリバー50のフライヤー。

(2023年3月13日追記)フライヤー以外の資料では、全日本遊園1970年7月号に掲載された三共遊園設備の広告に掲載されています。この2号前、5月号の広告にはないので、1970年生と見て良いかと思われます。(追記終わり)

「キャリバー50」とは重機関銃の名称だそうで、口径が0.50インチであったことからそう呼ばれたとのことです。ゲームのタイトルに使われるくらいですからよほど有名だったのかもしれませんが、このような暗喩的なタイトルは、三共遊園設備の時代には珍しい、モダンなネーミングだと思います。1989年にViscoが作ってSetaが売った「Cal. 50」と言うビデオゲームがありましたが、ネーミングセンスでは引けを取りません。

なお、ワタシはこのゲームを見た記憶がありません。

【9】アポロムーン(時期不明)

アポロムーンのフライヤー。

1969年アポロ11号が初めて有人での月面着陸を果たすと、当時の日本ではちょっとした「アポロブーム」が起き、AM業界でもこれにあやかったゲーム機がいくつも開発されました。

しかし、「アポロムーン」の名は、1970年の大阪万博のエキスポランドに設置されたゲーム機のリストには見られず、また全日本遊園1970年11月号が報じる同年10月に開催された第9回アミューズメントマシンショウの出展機種の中にも含まれていません。

と言うことは、アポロムーンの発表年は1970年以降なのかと推論したくなりますが、アポロ計画自体は月面着陸以前からしばしばニュースで耳にしてはいたので、ひょっとすると60年代に作られていてもおかしくは無いようにも思えます。つまるところ、アポロムーンの発表時期は、現時点では全く見当が付きません

フライヤーの画像を見ると、プレイフィールドにはフリッパーと思しきものが僅かに写っており、またキャビネットの側面にはフリッパーボタンらしきものがあって、どうもアポロムーンには「フリッパー」が装備されていたように思われます。

フライヤー画像より、筐体下部の拡大図。プレイフィールド最下段には2インチのフリッパーと思しきものが見え、筐体側面のボタンはフリッパーボタンと思われる。

過去記事「初期の国産フリッパー・ピンボール機:こまや製作所製の2機種」でも述べているように、ワタシには1971年以前の国産ピンボール機でフリッパーを備えたゲーム機の記憶が曖昧です。何かご存じのことがございましたら、ぜひお聞かせください。

(次回 「『三共』についての備忘録(4) 三共精機のAM機」につづく)