オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

新・ラスベガス半生中継 2017 年GW 初日。

2017年04月29日 16時22分38秒 | 半生中継
今回の旅程。4月28日午後4時羽田発サンフランシスコ経由リノ着。ネバダ州の州都カーソンシティで2泊、その後リノで2泊して、5月2日にラスベガスへ移動して4泊した後帰国。

サンフランシスコでは、コンコースでアンティークスロットマシンの展示が行われていました。10年くらい前にも同じ趣旨の展示が行われており、いつか拙ブログで記録しておこうと思っていたところ、今回2度目の遭遇ということで、帰国後の一発目はこのネタにしようかなどと考えています。今回の展示は、昨年12月から今年の6月まで行われるとのことでした。

リノには昼前に到着しましたが非常に涼しく、10分も外にいると手がかじかんできます。カーソンシティはリノから車で南へ25分ほどの距離ですが、夜は涼しいでは済まないくらいの気温になります。前に同じGWの季節に来たときは、雪がぱらつきました。さすがスキーリゾートだけあります。

予約したホテルでチェックインしようとしたら、「名前が見当たらない。何かドキュメントはあるか」と言われ、予約確認書を取り出したら、予約日が、28日から2泊とすべきところを、26日から2泊としてしまっており、ワタシはノーショウ扱いになっているとのことでした。久々にやらかしてしまった。満室で空きがないとのことなので、急遽近くのモーテルに飛び込びましたが、ラスベガスで泊まるホテルの倍くらいの値段になってしまいました。しまったなあ。

カーソンシティのカジノから、良いビデオポーカーがずいぶん無くなっており、大変残念です。カジノでも全くつかず、初日から結構痛い目にあってきたので、併設のカフェででかいハンバーガーをやけ食いして、今日は終わりです。居眠り運転などしないように、メラトニン飲んで寝ます。では、また。
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ネバダに行って参ります。

2017年04月28日 14時21分13秒 | 半生中継
本日よりアメリカネバダ州に行って参ります。
全8泊のうち、初めの2泊をカーソンシティ、次の2泊をリノ、残る4泊をラスベガスで過ごし、5月7日に帰国する予定です。
というわけで、拙ブログの通常の更新はしばらくお休みとさせていただきますが、旅の途中で何かしらのご報告でもできればとは思っております。
ご了承下さい。
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NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」

2017年04月23日 23時29分59秒 | スロットマシン/メダルゲーム
NASA(アメリカ航空宇宙局)と言えば、フリーズドライ食品をはじめ、さかさまでも書けるボールペン、放射性物質まで除去できる浄水器、マジックテープ、びっくりするほど水を吸い込む特殊雑巾、切ったものがくっつかない包丁など、生活便利グッズやアイディアグッズを数多く発明する機関として有名です(たくさんのNASAが発明したと言われるグッズの中には、騙りや事実誤認も含まれているようですが)。

1974年、sigmaは、「ウィナーズ・サークル(Winners Circle)」と称する、約2000万円もするというゲーム機を2台輸入しました。二人同時プレイが可能なこの競馬ゲーム機もまた、NASAの落し子だったそうです。


業界誌「アミューズメント産業1974年8月号に掲載されたウィナーズサークルの広告。

業界誌「アミューズメント産業」1974年6月号によれば、「電子技術をフルに応用して、競馬を再現する機械」として、「制御器にはIC千二十個とMSI(筆者注・LSIの誤植?その後調べたところ、昔はLSIよりも集積する素子が少ないMSI、あるいはSSIなどと言うものもあったのだそうです。MSI、SSIという概念は、現在はもうなくなっているとのことでした――2017.04.24修正)四個を用いており、心臓部は四則演算、指数計算、大数計算、数値制御、比較制御や、三元連立方程式などの演算能力を持っているという」のだそうです。当時と言えば、ただの電卓ですら1万円(現在の数万円くらいに当たる)もした時代でしたので、それを聞いて「よくわからないけどすごい! さすがNASA!」と感心してしまうのもやむを得ないゲーム機でした。

ウィナーズ・サークルを開発したのは、拙ブログではもう馴染み深い名前となっている米国バーリー社(関連記事:【歴史】米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(1)など)で、1973年の製品とされていますが、先述のアミューズメント産業誌の記事では、「直接の開発担当者は米国航空宇宙局(NASA)を失業した技術者二人」とあり、パソコンなどというものがなかったこの当時は、コンピューター技術はまだまだ民間には遠い存在であったことが伺われます。

ワタシはこの「ウィナーズ・サークル」を、1977年±1年くらいの時期に、渋谷のゲームファンタジアで見ています。しょっちゅう大量のメダルを払い出していた印象があるゲーム機で、自分もこれでメダルを稼ぎたいと思うのですが、二つの席はいつもメダルを大量に持っている常連と思しきおやじに占有されており、遊ぶことができませんでした。

sigmaが、後に同社のシグネチャータイトルとなる「ザ・ダービー」シリーズの第一作目「VΦ」を発表したのは1975年のことです。10席を備えたメカの競馬ゲーム機で、制御はYHP社のミニコンを搭載して行っていました。コンピューター技術の投入と今の時代でも通用しそうな洗練された筐体デザインは、ウィナーズ・サークルを大いに意識していたものと思われます。開発費用に糸目を付けなかった結果、「VΦ」の価格は5000万円にまでなったと伝えられていますが、この機械が他社のロケーションに設置されたという話は聞いたことがありません。


「ザ・ダービー・VΦ」1975年7月発表。ウィナーズ・サークルと同様8頭立て。レースプログラムは8レースが用意されている。通常は単勝のみベットでき、いくつかのレースは「エントリーレース」と称し、特定の3頭のいずれかが1着になれば単勝で当たったことになるというルールがあった。また、単勝に20枚以上ベットすると、連勝複式にもベットできるというシステムだったと記憶しているが、ワタシは1枚のメダルを惜しみながらベットするようなプレイヤーだったので、連勝複式などベットしたことはない。

今、ワタシが仕事やプライベートで使っているパソコンは、たぶんウィナーズ・サークルやザ・ダービー・VΦに搭載されたYHPのミニコンなど比較にならぬくらい高性能になっていると思われますが、その割に、オフィスソフトによる文書作成か、ラスベガスに行く際のホテルの価格比較か、あるいはエログロサイトの巡回に使う程度で、人を月に送るくらい偉大な大仕事なんてことにはまったく使っていないことを思うと、なんだか少しだけ申し訳ない気になります。
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セガ・エンタープライゼス@1966

2017年04月15日 01時29分30秒 | 歴史
日本にコイン作動式の娯楽機市場が現れたのは明治末期から昭和初期ころのようです。確認できる範囲では、日本娯楽機製作所(現ニチゴ)が、1911年(明治44年)に開業した宝塚ファミリーランドに自動木馬を納入しています。その後1931年(昭和6年)に浅草の松屋デパートの屋上に「スポーツランド」という娯楽施設を設けたのを皮切りに、1936年(昭和11年)頃には、北は北海道から南は九州別府まで、百貨店を中心に40カ所ほどに娯楽機器を納入していたようです。


日本娯楽機製作所が1936年頃に発行したカタログ「日本娯楽商報」より、納入実績を示すページ。40カ所の内約半分が百貨店などの小売店、残りはホテルや遊園地、それに観光地と思しき名が連なる。

しかし、第二次世界大戦時には、娯楽業は不要不急の産業として統制を受け、娯楽機に使用されていた金属は供出させられ、木材は銭湯の焚きつけなどに使われたりして、一旦はほぼ完全に消滅してしまいました。なお、米国にも似たような話はあって、例えばバーリー社は、戦時中はゲーム機の代わりに軍需物資を製造していたのだそうです(関連記事:バーリーに関する思い付き話)。

日本で再びコインマシン市場が本格的に展開されるようになるのは、おそらく1964年頃とワタシは認識しています(関連記事:コインマシンメーカーの老舗と「ペリスコープ」の話)。しかし、当時の数少ない娯楽機メーカーはそれぞれが思い思いに企業活動を行うだけで業界団体などはまだなく、また業界誌というものができるのは1972年頃なので、当時の様子を伝える資料を目にすることはほとんどありません。

現時点でワタシが持つ、戦後に作成された業界関連資料で最も古いものは、1966年にセガ・エンタープライゼス社が発行した「値段表」です(これよりもさらに古い、セガのスロットマシンのフライヤーもいくつかありますが、単に製品を紹介するだけのもので、また作成年が特定できないため、当時の状況を窺い知る資料にならないのが残念です)。


1966年にセガ・エンタープライゼス社が発行した値段表の表紙(1ページ)。上段に「お待たせいたしました セガの新しい値段表です!」と書かれている。

表紙をめくった次の2ページには、北は札幌から南は大分まで15カ所もの営業所が記載されており、この時期にはもう日本にもコインマシンが稼働する市場がそれなりに展開されていたことが窺われます。もっとも、この15営業所の中には、おそらく米軍関係の施設を主たる顧客とするところ(当時のセガは、日本を含むアジアの米軍基地に深く食い込んで商売をしていた)も少なからず含まれているとも想像されるので、必ずしも額面通りに受け取ることはできないと留保をつけておく必要はあると思います。


2ページ目。取引のある海外メーカーの名と国内の営業所の連絡先が記載されている。冒頭で「株式会社セガ・エンタープライゼスは極東に於ける最大にして又最も卓越した娯楽機械の会社です。」と述べ、グード図法風の世界地図をあしらって、セガがワールドワイドな会社であることをアピールしている。

次の3ページ目は、ジュークボックスと周辺機器類の値段表になっています。この種の配布物はプライオリティが高いものから順に掲載するのが常ですので、一番にジュークボックスが掲げられているところに時代を感じます。

その中でも筆頭に挙げられている「Sega "1000"」は初の国産ジュークボックスで、wikipediaによれば1962年に発売されているものとのことです。収録曲数が48曲と言うのは、同じページに記載されている米国ROCKOLA社製のジュークボックスと比較すると半分以下ですが、その分安く、大ヒットしたそうです。

また、ジュークボックスに入れるレコードも売っており、45回転SP盤の国産品が370円(中古100円)、輸入品は600円(中古200円)とあります。当時の芸能界にとってジュークボックスは大きな市場で、著名な歌手が営業のためにセガを訪れることも良くあったそうです。


3ページ目。ジュークボックスが並ぶ。「Sega "1000"」が安いとは言っても、当時の大卒初任給(厚生労働省が調査を開始したのが1968年からで、その時に3万600円とのことなので)の少なくとも7か月分でもまだ足りないくらいのものではあった。

4ページ目からようやくゲーム機が登場します。まずフリッパー・ピンボールのページから始まるところを見ると、やはりこれがこの時代の主流ゲーム機であったことが窺われます。

ところで、値段表には「FLIPPER GAMES フリッパー・ゲーム」と記述されています。実際、現在の日本では単に「フリッパー」と呼ばれることが多いですが、アメリカではこの種のゲーム機を「フリッパー・ピンボール」と呼ぶことはあっても、単に「フリッパー」と言うことはほとんど(全く、かも?)ありません。外資系のセガが、このときなぜ「ピンボール」または「フリッパー・ピンボール」と言わなかったのかはわかりませんが、日本で「フリッパー」と呼ばれるようになった原因は、セガのこの呼び方が広まったためかもしれません。

5ページ目は引き続きフリッパー・ピンボールと、ピンボールに並ぶもう一つの主流であったガンゲームが掲載されています。これらもほとんどは輸入品で、セガ製品は3つのガンゲームがあるだけです。

6ページ目は「OTHER」として、その他のゲーム機が掲載されています。やはりほとんどは輸入品ですが、「Skill Diga(スキル・ディガ)」というプライズ機(クレーンゲーム)がセガ製(国産品)です。「ディガ」とは「Digger(掘る人、掘る機械)」のことで、「Digger Machine」と言えば、アメリカではクレーンゲーム機を意味します。




4~6ページ。ウィリアムズ、バーリー、シカゴコイン、ゴットリーブなど米国のメーカーの名前が並ぶ。

7ページ目の上半分にはバーリー社、シカゴコイン社、ユナイテッド社らのボウリングゲームの名が並んでいます。1960年代には遊園地のゲームコーナーなどではよく見かけたゲームでしたが、1970年代中頃から徐々に姿を消してしまいました。大きな機械なので、場所を食いすぎるのも残れない理由だったのだと思います。
しかし昨年、お台場の「デックス東京」内にある「台場一丁目商店街」に行ったところ、そこの「一丁目プレイランド」に、シカゴコイン社のボウリングゲームが残っていました。残念ながら一部故障しておりましたが、とりあえず何十年ぶりかで遊ぶことはできました。

同ページの下半分には、10台買うとディスカウントするというパッケージプランと、最新型のゲーム機やジュークボックスが掲載されています。その中に「DALE」という会社の「AUTO DRIVER」という機械の名があるのですが、これはひょっとすると1970年にプロジェクター式のビデオポーカーを発売していたあのDale社でしょうか(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)。タイトルからしてドライブゲームのように思えます。どういうものであったかが気になったのでネット上を調べてみたら、画像が見つかりました


7ページ目。ボウリングゲームなど。


一丁目プレイランドに設置されていたシカゴコインズ社製のボウリングゲーム「GRAND Bowler」(1963)。

最後は裏表紙(8ページ目)ですが、ここには「屋外娯楽機械」と「モデルカー・レーシング」が紹介されています。しかし、「値段表」と言いながら、これらの値段は記載されていません。


8ページ。モデルカー・レーシングのサーキット場が12か所挙げられている。

当然のことながら、これら1966年のコインマシンはすべてメカをアナログで制御するものばかりです。メカを伴うゲーム機は現代もありますが、機械制御だけでなく、音響、点数表示など、どこかしらでデジタル技術が使われています。その結果、部品点数は減り、故障も少なくなり、値段は安くなりながらより高性能になりました。が、アナログのコインマシンを知る世代としては、においが違うというか、肌触りが違うというか、体温が違うというか、なんだかよくわからない差を感じて、つい「昔は良かったなあ」などとつぶやきたくなってしまうのがおやじの習性というものなのです。
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シリーズ絶滅種:「レッドドッグ」をラスベガスで見た記憶

2017年04月08日 13時42分47秒 | シリーズ絶滅種
どんなものにも流行り廃りはあるものです。コインマシン業界やギャンブル業界においても、かつては人気を博したのに今では全く顧みられなくなったものは珍しくありません。今後はそんなゲームを「シリーズ絶滅種」というジャンルにまとめ、少しずつ記録を増やしていこうと思います。その第一回目に取り上げるのは、「レッドドッグ(Red Dog)」というギャンブルゲームです。

確か1993年、ワタシにとって生涯二度目のラスベガス訪問時のことです。この時ワタシは、仕事仲間と共にラスベガス・ヒルトン(現ウェストゲート)に宿泊しました。当時はモノレールもなく、ラスベガス・ヒルトンは繁華街から孤立して聳え立つ巨大ホテルだったので、滞在何日目かの夜、少しは違うところに行こうと仲間たちと語り合い、とりあえず目の前に見えるサハラ(現SLS)まで歩いて移動することにしました。しかし、ラスベガスヒルトンの敷地は広く、宿泊棟から表通りのパラダイス通りに出るだけでも数百メートルは歩かされ、そこからさらにサハラまで1㎞弱、トータルではおそらく20分程度は歩いたと思います。これにより、「ラスベガスでは近くに見えるものも実は遠い」ということを初めて思い知りました。

サハラに到着し、パラダイス通り側にある裏口のようなエントランスからカジノに入ると、そこはすぐスポーツブックのエリアだったように記憶しています。しかし、当時からその壮大さが有名だったラスベガス・ヒルトンのスポーツブックエリアとはまるで違って、さほど広くもないエリアの頭上にいくつかのCRTモニターが設置されているだけで、めっぽうみすぼらしい施設だった記憶が残っています。そのスポーツブックのエリアを抜けた先のカジノエリアに、一見したところブラックジャックテーブルに見えるけれどもレイアウトが全く違う、初めて見るゲームがありました。それが「レッドドッグ」でした。

いったいどうやって遊ぶのだろうとしばらく観察していたら、ルールがわかってきました。

【レッドドッグのゲーム手順】
(1)プレイヤーが賭ける。
(2)ディーラーがシューから2枚のカードを取り出し、表向きにして並べ、
  2枚のカードのランクの間隔(スプレッド)がいくつであるかを示すレイアウト上の数字の上に
  赤い犬の人形を置く。
(3)この段階で、プレイヤーは賭け金を倍にレイズできる。
  ただし、2枚のカードが同じランクの時にはレイズはできない。
(4)ディーラーは3枚目のカードをシューから取り出して表向きに見せる。
  3枚目のカードがスプレッド内に収まるランクであればプレイヤーの勝ち。

例えば初めの2枚が5と9の場合は、3枚目が6 or 7 or 8であれば勝ちとなる(スプレッドは3)。

【レッドドッグのルール】
*カードのランクは、2を最低とし、Aを最高とする。
*2枚のカードのスプレッドがゼロの時(例:4-5、10-J)は引き分けとなり、3枚目は配られない。
*2枚のカードが同じランク(例:7-7)で、3枚目も同じランクの場合(スリー・オブ・ア・カインド)は11倍の配当が付く。スリー・オブ・ア・カインドが成立しない場合は引き分け。
*配当はスプレッドによって異なる。
 スプレッド=1: 5倍
 スプレッド=2: 4倍
 スプレッド=3: 2倍
 スプレッド=4以上: 1倍

このゲームでプレイヤーのテンションが上がるタイミングは、スプレッドが大きい時のレイズと、初めの2枚がペアで負けが無いことが確定し、あとは11倍の高配当を得られるかどうかで期待感が盛り上がる時であるように思いました。ただ、ルールが簡単で手を出しやすいところは良いのですが、全てのプレイヤーが同じ結果になってしまうところが今一つ妙味に欠けるように思いました。また、ひょっとするとカードカウンティングが有効なゲームかもしれないとも思いました。

この頃、レッドドッグは、ラスベガスの他のカジノでも見ることができました。ワタシの手元には、サーカスサーカスの別館のようなカジノ「スロッツ・ア・ファン」と、「インペリアルパレス(現Linq)」で配布されていたレッドドッグのインストラクションがあります。


スロッツ・ア・ファンが配布していたインストラクション。本来は二つ折りで、左は表紙側、右は中側。遊び方のほか、レッドドッグの歴史が紹介されている。


スロッツ・ア・ファンのクーポン。インストラクションにホチキス留めしてあった。このクーポンを添えて1ドルを賭け、勝つと2ドル貰えると書いてあるが、スプレッドが3以下の時はどうなるのだろうか。


インペリアルパレスのインストラクション。これも本来は二つ折りで、左は表紙側、右は中側。「速い勝負、エキサイティングなアクションがあなたを待っている。我々の最新カジノカードゲーム、レッドドッグ!」とある。「最新の」と謳っているところを見ると、レッドドッグはちょうどこの時期に、ラスベガスに新たに導入されようとしていたということだろうか。

スロッツ・ア・ファンのインストラクションによれば、「レッドドッグ」は、西部開拓時代の1920年から30年にかけて「エイシー・デューシー(Acey Deucy)」もしくは「イン・ビトゥイーン(In-Between)」と呼ばれ、西部一帯でたいへん人気があり、またたくさんのバリエーションもあったとのことです。

実は1970年代の半ばころの少年ジャンプ誌に、良く似たゲームをテーマとした漫画(タイトルは覚えておりません)が掲載されており、そこでは「インサート」と呼んでいましたが、これも多くのバリエーションの一つだったのかもしれません。

コインマシンの世界では、sigmaがビデオポーカー筐体の「HRシリーズ」で、「Between Card」というタイトルの、レッドドッグのバリエーションを発売しています。正確な発売時期は特定できませんが、HRシリーズの発売は1987年(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(6) 90年代のビデオポーカーとsigmaの終焉)ですので、それ以降であることはわかります。このゲームでは、3枚目のカードは画面上部からスクロールして現れる5枚の裏向きのカードからプレイヤーが選んで決める、と言うルールでした。また、スプレッドやスリー・オブ・ア・カインド以外にも様々な役が設定され、数百倍の高配当もありました。

また、これも正確な時期が特定できませんが、おそらく1990年代半ば、sigmaは「HRシリーズ」に続く「LOTUS DEAL」筐体でも、「Red Dog Poker」というタイトルを出しています。ゲームの内容は「Between Card」から若干変更され、通常のドローポーカーのように5枚のカードを裏向きに配り、このうち左右両端の2枚を表向きにした後、残った3枚から1枚を選ぶ形になりました。このタイトルは、1台の機械で複数のゲームが選べるマルチゲーム機の中でも見ることができました。


sigmaのレッドドッグポーカー。

しかし、ワタシがラスベガスに毎年行くようになった最初の年である1998年には、ラスベガスにレッドドッグの姿を確認することができませんでした。その後もラスベガスに行くたびにレッドドッグを探し続けましたが、その名前すら見ない状態が何年も続いたため、「レッドドッグ」はワタシ的絶滅種に認定されることとなりました。

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