日本にコイン作動式の娯楽機市場が現れたのは明治末期から昭和初期ころのようです。確認できる範囲では、日本娯楽機製作所(現ニチゴ)が、1911年(明治44年)に開業した宝塚ファミリーランドに自動木馬を納入しています。その後1931年(昭和6年)に浅草の松屋デパートの屋上に「スポーツランド」という娯楽施設を設けたのを皮切りに、1936年(昭和11年)頃には、北は北海道から南は九州別府まで、百貨店を中心に40カ所ほどに娯楽機器を納入していたようです。
日本娯楽機製作所が1936年頃に発行したカタログ「日本娯楽商報」より、納入実績を示すページ。40カ所の内約半分が百貨店などの小売店、残りはホテルや遊園地、それに観光地と思しき名が連なる。
しかし、第二次世界大戦時には、娯楽業は不要不急の産業として統制を受け、娯楽機に使用されていた金属は供出させられ、木材は銭湯の焚きつけなどに使われたりして、一旦はほぼ完全に消滅してしまいました。なお、米国にも似たような話はあって、例えばバーリー社は、戦時中はゲーム機の代わりに軍需物資を製造していたのだそうです(
関連記事:バーリーに関する思い付き話)。
日本で再びコインマシン市場が本格的に展開されるようになるのは、おそらく1964年頃とワタシは認識しています(
関連記事:コインマシンメーカーの老舗と「ペリスコープ」の話)。しかし、当時の数少ない娯楽機メーカーはそれぞれが思い思いに企業活動を行うだけで業界団体などはまだなく、また業界誌というものができるのは1972年頃なので、当時の様子を伝える資料を目にすることはほとんどありません。
現時点でワタシが持つ、戦後に作成された業界関連資料で最も古いものは、1966年にセガ・エンタープライゼス社が発行した「値段表」です(これよりもさらに古い、セガのスロットマシンのフライヤーもいくつかありますが、単に製品を紹介するだけのもので、また作成年が特定できないため、当時の状況を窺い知る資料にならないのが残念です)。
1966年にセガ・エンタープライゼス社が発行した値段表の表紙(1ページ)。上段に「お待たせいたしました セガの新しい値段表です!」と書かれている。
表紙をめくった次の2ページには、北は札幌から南は大分まで15カ所もの営業所が記載されており、この時期にはもう日本にもコインマシンが稼働する市場がそれなりに展開されていたことが窺われます。もっとも、この15営業所の中には、おそらく米軍関係の施設を主たる顧客とするところ(当時のセガは、日本を含むアジアの米軍基地に深く食い込んで商売をしていた)も少なからず含まれているとも想像されるので、必ずしも額面通りに受け取ることはできないと留保をつけておく必要はあると思います。
2ページ目。取引のある海外メーカーの名と国内の営業所の連絡先が記載されている。冒頭で「株式会社セガ・エンタープライゼスは極東に於ける最大にして又最も卓越した娯楽機械の会社です。」と述べ、グード図法風の世界地図をあしらって、セガがワールドワイドな会社であることをアピールしている。
次の3ページ目は、ジュークボックスと周辺機器類の値段表になっています。この種の配布物はプライオリティが高いものから順に掲載するのが常ですので、一番にジュークボックスが掲げられているところに時代を感じます。
その中でも筆頭に挙げられている「Sega "1000"」は初の国産ジュークボックスで、wikipediaによれば1962年に発売されているものとのことです。収録曲数が48曲と言うのは、同じページに記載されている米国ROCKOLA社製のジュークボックスと比較すると半分以下ですが、その分安く、大ヒットしたそうです。
また、ジュークボックスに入れるレコードも売っており、45回転SP盤の国産品が370円(中古100円)、輸入品は600円(中古200円)とあります。当時の芸能界にとってジュークボックスは大きな市場で、著名な歌手が営業のためにセガを訪れることも良くあったそうです。
3ページ目。ジュークボックスが並ぶ。「Sega "1000"」が安いとは言っても、当時の大卒初任給(厚生労働省が調査を開始したのが1968年からで、その時に3万600円とのことなので)の少なくとも7か月分でもまだ足りないくらいのものではあった。
4ページ目からようやくゲーム機が登場します。まずフリッパー・ピンボールのページから始まるところを見ると、やはりこれがこの時代の主流ゲーム機であったことが窺われます。
ところで、値段表には「FLIPPER GAMES フリッパー・ゲーム」と記述されています。実際、現在の日本では単に「フリッパー」と呼ばれることが多いですが、アメリカではこの種のゲーム機を「フリッパー・ピンボール」と呼ぶことはあっても、単に「フリッパー」と言うことはほとんど(全く、かも?)ありません。外資系のセガが、このときなぜ「ピンボール」または「フリッパー・ピンボール」と言わなかったのかはわかりませんが、日本で「フリッパー」と呼ばれるようになった原因は、セガのこの呼び方が広まったためかもしれません。
5ページ目は引き続きフリッパー・ピンボールと、ピンボールに並ぶもう一つの主流であったガンゲームが掲載されています。これらもほとんどは輸入品で、セガ製品は3つのガンゲームがあるだけです。
6ページ目は「OTHER」として、その他のゲーム機が掲載されています。やはりほとんどは輸入品ですが、「Skill Diga(スキル・ディガ)」というプライズ機(クレーンゲーム)がセガ製(国産品)です。「ディガ」とは「Digger(掘る人、掘る機械)」のことで、「Digger Machine」と言えば、アメリカではクレーンゲーム機を意味します。
4~6ページ。ウィリアムズ、バーリー、シカゴコイン、ゴットリーブなど米国のメーカーの名前が並ぶ。
7ページ目の上半分にはバーリー社、シカゴコイン社、ユナイテッド社らのボウリングゲームの名が並んでいます。1960年代には遊園地のゲームコーナーなどではよく見かけたゲームでしたが、1970年代中頃から徐々に姿を消してしまいました。大きな機械なので、場所を食いすぎるのも残れない理由だったのだと思います。
しかし昨年、お台場の「デックス東京」内にある「台場一丁目商店街」に行ったところ、そこの「一丁目プレイランド」に、シカゴコイン社のボウリングゲームが残っていました。残念ながら一部故障しておりましたが、とりあえず何十年ぶりかで遊ぶことはできました。
同ページの下半分には、10台買うとディスカウントするというパッケージプランと、最新型のゲーム機やジュークボックスが掲載されています。その中に「DALE」という会社の「AUTO DRIVER」という機械の名があるのですが、これはひょっとすると1970年にプロジェクター式のビデオポーカーを発売していたあのDale社でしょうか(
関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)。タイトルからしてドライブゲームのように思えます。どういうものであったかが気になったのでネット上を調べてみたら、
画像が見つかりました。
7ページ目。ボウリングゲームなど。
一丁目プレイランドに設置されていたシカゴコインズ社製のボウリングゲーム「GRAND Bowler」(1963)。
最後は裏表紙(8ページ目)ですが、ここには「屋外娯楽機械」と「モデルカー・レーシング」が紹介されています。しかし、「値段表」と言いながら、これらの値段は記載されていません。
8ページ。モデルカー・レーシングのサーキット場が12か所挙げられている。
当然のことながら、これら1966年のコインマシンはすべてメカをアナログで制御するものばかりです。メカを伴うゲーム機は現代もありますが、機械制御だけでなく、音響、点数表示など、どこかしらでデジタル技術が使われています。その結果、部品点数は減り、故障も少なくなり、値段は安くなりながらより高性能になりました。が、アナログのコインマシンを知る世代としては、においが違うというか、肌触りが違うというか、体温が違うというか、なんだかよくわからない差を感じて、つい「昔は良かったなあ」などとつぶやきたくなってしまうのがおやじの習性というものなのです。