オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

Pick'em @Louisiana

2016年04月30日 23時56分36秒 | 海外カジノ
今、ルイジアナ州ニューオーリーンズに来ています。ワタシにとっては初の米国南部です。亜熱帯気候とのことで、確かに高温多湿です。今まで、米国というと、殆どウェストコーストの乾燥した地帯ばかりだったので、まるでアメリカでないようです。

ここ、ルイジアナにもコマーシャルカジノが少数ですが存在し、そのうちの一つであるHarrah's は、メインストリートであるキャナル通り沿いで、更にニューオーリーンズの観光名所であるフレンチマーケットのすぐそばにあり、ワタシの滞在するホテルからも行きやすいです。

ニューオーリーンズのHarrah's。

しかしこのHarrah'sは、テーブルゲームのミニマムが少し高いです。クラップスミニマムは、平日だというのに15ドルで、その上フィールドベットは、2も12も共にpays doubleなので、手を出しにくいです。

スロットマシン(ビデオポーカーなども含む)のレートは至って普通で、過去にシカゴ近郊のリバーボートカジノで見た、スロットマシンのデノミが最低1ドルなどということはありません。ただ、ビデオポーカーのオッズは95~97%台くらいにされており、ラスベガスのローカル基準からすると渋いです。

それでもひとつ偉い点を挙げると、ここのビデオポーカーにはピッケムポーカーがインストールされている台が多いです。3OKのオッズが4倍(フルペイは5倍)、さらにSFが200倍(フルペイは239.8倍)で、P/Oは96%台ですが、どれも渋いビデオポーカーの中から無理矢理選べと言われたら、これが一つの候補となります。

ピッケムは、長く遊びやすいゲームのはずなのですが、今回ワタシがやったときは全然遊べず、次から次へとお金が無くなっていきましたが、これが最後と投入した20ドルで、ピッケムの目的である4OKが出てくれました。


ピッケムの4OKの出現頻度は通常のビデオポーカーより低いので、これが出てくれると満足できます。

本日よりニューオーリーンズを発ち、ラスベガスに向かいます。ラスベガスの最初の宿は、The Orleansです。狙ったわけではありませんが、この機会に本家となんちゃってを見比べてみようと思います。

更新スケジュール一時変更のお知らせ

2016年04月26日 00時40分47秒 | その他・一般
まだ始めて間もない拙ブログは、これまで毎週日曜日、及び隔週水曜日に更新するつもりで進めてまいりました。

この方針は当分変えるつもりはないのですが、今週から始まるゴールデンウィークには米国に旅行するため、当分の間更新スケジュールが不定期となることを予めお知らせ申し上げます。

ワタシがゴールデンウィークに米国に出かけるようになって久しいです。初期のころはラスベガスだけで過ごしていましたが、10年くらい前から、リノやカーソンシティなど、ネバダ州の他の地域にも行くようになり、さらに数年前より、ネバダ以外の州にも足を向けるようになってきました。今年も、旅程の前半はニューオーリーンズ、後半はラスベガスに滞在します。

旅行中は、ワタシがかつて運営していたウェブサイト「東京ラスベガス(など)ランド」でやっていた、「ラスベガス半生中継」のようなご報告が出来ればと考えています。実現いたしまし折には、皆様のご高覧を賜れば幸甚です。


2006年のラスベガスG2Eショウでバーリー社が配っていたギブアウェイから、プレ創立75周年記念ロゴ。そういえば今年はプレ創立85周年になるわけだが、何かやってくれるのだろうか。

都立大学駅前のビリヤード場「アサヒ」とピン・ビンゴ

2016年04月24日 14時08分11秒 | ロケーション

70年代中ごろから後半にかけて、ワタシは高校生でした。このくらいの年齢の男子となると、そろそろビリヤードという大人のゲームにも興味を惹くようになるもので、ワタシもさほど頻繁というわけでもないものの、東横線都立大学駅前の「アサヒ」というビリヤード場(当時は「プールバー」なんてしゃらくさいものはなかった)に出入りするようになりました。

「アサヒ」は、片目が不自由な婆さまがほぼ一人で切り盛りしており、ワタシはその婆さまに、ブリッジの作り方やビリヤードの基本を教わりました。この婆さまは、見かけはどこにでもいそうな小さな老女ですが、常連を相手に玉を突くその姿は、今で言えばジブリアニメに登場する女海賊に通じるカッコ良さがあり、心の中では尊敬の意を込めて「メッカチ婆さん」と呼んでいました。

「アサヒ」の店内の隅には、2台の「ピン・ビンゴ」機が設置されていました。「ピン・ビンゴ」とは、1951年ころからアメリカで作られ始めたピンボールゲームの一種で、単に「ビンゴ」と呼ばれることも多いですが、パーティーなどでおなじみのビンゴと区別する意味で「ピン・ビンゴ(ピンボールのビンゴ、の意)」と呼ぶこともあり、拙ブログではこの呼称を用います。

ピン・ビンゴは、ゲームの結果によって払い出しが行われるゲームのため、アメリカではスロットマシンと同様のギャンブル機とみなされ、禁止されるケースも多々あったそうです。日本でも、ゲーム業界にメダルゲームと言うジャンルが確立する1972年以前から、既にアンダーグラウンドを含むゲーム市場に出回っていたようです。

ピン・ビンゴの外見はフリッパー・ピンボール機によく似ていますが、バックグラスには数字の部分がランプで点灯するビンゴカードが描かれており、そしてプレイフィールドには1から25までの数字が振られた25個の穴(注1)が開いています。ゲームは、このプレイフィールドに、最終的に5個のボールを打ち出し(注2)て、ボールが入った穴の番号が、ビンゴカード上で、縦、横、斜めのいずれかに3個以上並べば勝ち、というゲームです(注3)。

注1:ピン・ビンゴは、25穴タイプのほか、カラーセクションタイプの20穴タイプがポピュラーだったが、24穴タイプなどという変則的な機種もごく少数あった。

注2: 「エキストラボール」というフィーチャーにより、場合によっては6球以上のボールを打ち出すケースもある。

注3:勝利条件にもいくらかのバリエーションがあり、色分けされたビンゴカードの同色エリア内に3個以上入れば勝ち、というものもある。

ゲーム自体はメダル1枚(または硬貨=以下同じ)からでも遊べますが、メダルが投入されるたびにゲーム機内部で抽選が行われて、勝った時に受け取れるスコアが増えたり増えなかったり、あるいは勝ち易くなる特殊ルール(ピン・ビンゴでは「フィーチャー=feature」と言う)が発動したりしなかったりするものですから、より高いスコア、より勝ち易いフィーチャーを目指して、財力のある人なら、1回のゲームで何十枚、場合によっては百枚以上ものメダルを投入することもあるゲームだったので、うっかりすると相当の金額を費やしてしまうゲームでした。


1980年代以降に日本のシグマ社が開発したピン・ビンゴ。シグマはピン・ビンゴの面白さを最も良く理解するオペレーターで、早い段階から自社ロケにピン・ビンゴを積極的に導入するだけでなく、ピン・ビンゴ専門のゲーム場も運営していた。しかし、心臓部がメカとリレースイッチの塊である米国製のマシンはメンテナンスが大変だったため、これをIC化した「ICビンゴ」を自社で開発するに至った。


ピン・ビンゴのプレイフィールド。番号が振られた穴が25個と、最下段に、打ち直しとなるボールリターン穴が1個、開いている。


ピン・ビンゴのバックグラス。中央にビンゴカード、その周囲に各種フィーチャー類、下半分に獲得できるスコアの表示がある。コインを投入するごとに機械内部で抽選が行われ、ランプが点灯したフィーチャーやスコアが、そのゲームで有効になる。

「アサヒ」では、10円硬貨を投入し、勝った際のスコアはクレジットメーターに加算され再ゲームに使えるという運営がなされていました。ただし、メーターのクレジットはビリヤードのサービス券に換えるという貼り紙があり、小規模ながらもギャンブル機として使用されていたようです。しかしワタシは、ビリヤード券にするより、ピン・ビンゴで遊んでいた方が良かったということもありますが、そもそもそんなに多くのクレジットを勝ち取ることが出来なかったので、換えようもありませんでした。

ピン・ビンゴは、ワタシがおそらく最も熱中したゲーム機の一つと言って良いと思います。ワタシは次第に、「アサヒ」に出入する主たる理由が、ビリヤードよりもピン・ビンゴの方に移って行きました。あるとき、入店するなり200円だったか300円だったかを10円硬貨に両替するようの頼んだら、メッカチ婆さんは、学生服姿のワタシに硬貨を手渡ししながら、「あんまり夢中にならないでね」と注意してくれたりもしました。

「アサヒ」に設置されていた2台のピン・ビンゴのうち、ワタシがよくプレイしたのは、バーリー社の「BIG SHOW」(1956)という機種でした。もう片方は、BIG SHOWよりも勝ち易く面白そうに見えたのですが、常連と思しき先客がいることが多く、たまに空いていても、いくら硬貨を投入してもスコアは上がらずフィーチャーも発動せずで全く面白いゲームができなかったのでやり込むに至らず、機種名が思い出せません。ただ、フィーチャーの一つである「マジックナンバー」のパターンが、他の機種ではあまり見たことのない、変則的な形だったことだけ覚えています。

BIG SHOWに関する情報(英語)。私はBIG SHOWについては貼れる画像を持っていないので、こちらのウェブサイトを参照していただければ幸いです。ピン・ビンゴファンの方にとっては、このサイトはブックマーク必須です。なお、画像には大きいものがあるので、モバイルからのアクセスにはご注意ください。

当時の「アサヒ」の常連と思しき客の中には、スカーフェイスにダブルのスーツ姿の、全く絵に描いたようなマル暴っぽい人もおり、その人がピン・ビンゴのために千円単位で10円硬貨に両替するところを見かけたりもしました。そう言えば、昭和30年代の貸本劇画やTV、映画に多かった和製ハードボイルドのドラマでは、ビリヤードとギャングはなぜか親和性が高く描かれていたようにも思います。ワタシは怪しそうな人にはなるべく近づかないように心掛けていたので、声をかけられて何かに誘われるなどと言うようなこともありませんでしたが、これは、もしかしたらメッカチ婆さんが何らかの配慮をしてくれていたのかもしれないと、今にして思います。その「アサヒ」は、確か1980年代の前半頃に閉店し、その後周囲の土地と併せて大きなマンションのようなものが建ってしまいました。

1990年前後、日本でプールバーがブームになったころ、ワタシは、友人どもと一緒に都立大学駅の隣駅である学芸大学駅商店街のビリヤード店に入ったところ、偶然にもそこにあのメッカチ婆さんがおり、久しぶりに挨拶することができました。しかし、そのころのワタシは、もうビリヤードにはさしたる熱意もなくなっていたので、それ以降店を訪れることもなく、そのビリヤード店もいつの間にかなくなってしまいました。


オリンピアというパチスロの元祖についての謎

2016年04月17日 18時49分07秒 | 風営機
日本で、スロットマシンに似た形状のゲームで、払い出されたメダルは景品と交換することが許容されている遊技機は、一般には「パチスロ」と呼ばれていますが、法律上は「回胴式遊技機」と言い、更に業界における用語としては「オリンピアマシン」と言います。

「オリンピアマシン」の名の由来は、1964年に風俗営業の許可を得た、現在のパチスロの元祖となる「オリンピア・スター」機にあることは間違いがないでしょう。このオリンピア・スターは、世に流布されている話では、セガが作ったことになっているとするものが多いです。



オリンピア・スターのフライヤー。

確かに、筐体はセガの「ダルマ筐体」ですし、大筋においては間違いではないと思うのですが、だがしかし、やはりゲーム機メーカーの大手であるタイトーは、1993年に創立40周年記念として刊行した社史「遊びづくり四十年のあゆみ」(非売品)において、異なる見解を示しています。そこには、「太東貿易(筆者注・タイトーの前身)が昭和三十五年(筆者注・1960年)ごろから準備し、三十九年に風俗営業法七号の許可を取り、日本で初めて営業を開始した」と記述されています。

更に同書には、「太東貿易が苦労して風営七号許可を取るや、どさくさに紛れて他社も扱いだした。他人に苦労させておいて、自分はおいしい部分のみいただこうというやり方に、コーガン(筆者注・タイトーの創業者)が怒り、日本娯楽物産などの他社に抗議するという一幕もあった」とあります。この「日本娯楽物産」は、現在のセガの前身となる企業の一つです。


「遊びづくり四十年のあゆみ」表紙

タイトーの主張が虚偽であるなどと言うつもりはありませんが、それにしては一つ、腑に落ちない点があります。と言うのは、セガは1950年代から米国ミルズ社のコピー機を製造しており、オリンピア・スターを作る基礎的な技術を持っていましたが、一方のタイトーは、当時、スロットマシンを製造できる技術を持っていることを伺わせる資料が全然出てこないのです。そんなタイトーが、一体どうやって風俗営業第七号の許可を取ることができたのかが謎なのです。

その後、タイトーと日本娯楽物産(=セガ)の間でどのような話し合いが行われたのかは全く不明ですが、結局、「株式会社オリンピア」という会社を共同で立ち上げ、製造をセガ、販売の多くをタイトーが受け持つという形で決着します。この「株式会社オリンピア」は、現存するパチスロメーカーの「株式会社オリンピア」とは全く関係ありません。


「オリンピア・スター」機の右上部に取り付けられている、オリンピア社の銘板。

その現存する株式会社オリンピアは、自社のウェブサイトで「パチスロ産業の歴史」というページを公開しています。なかなか面白いのですが、しかし、そこで「オリンピアマシン」として紹介している画像は、どう見てもセガの海外輸出用のスロットマシンで、オリンピアマシンではありません。パチスロ(オリンピアマシン)とスロットマシンを混同してしまうのは、パチスロメーカーとしてはいかがなものかと思います(株式会社オリンピア パチスロ産業の歴史

余談ですが、タイトーの社史本、「遊びづくり四十年のあゆみ」をお持ちの方がいらっしゃいましたら、適価でお譲りいただけませんでしょうか。コメント欄にてご連絡いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

セガのスロットマシンに関する思いつき話

2016年04月13日 23時03分41秒 | スロットマシン/メダルゲーム
1970年から72年の毎冬、ワタシは、両親とその仲間に長野県のスキー場に連れて行ってもらうことで、スキーを覚えました。

このうちの、おそらく1971年か72年のどちらかだと思うのですが、数台の車に分乗しスキー場に向かうその途中、休憩として入ったどこかのドライブインで、ワタシは、10円硬貨を投入し当たると10円硬貨が払い出されるセガ製のスロットマシンが数台設置されてるところを見ています。このドライブインには、他にもやはり10円硬貨を払い出すルーレット機(メーカー、機種名は不明)があり、一つ年上の「トシちゃん」と呼んでいたあんちゃんは、それでいくらか小遣いを増やすことに成功していました。

もちろんこれらは違法営業のはずですが、当時はこの種の機械賭博が横行していた時期だったようで、到着した宿の近くの食堂にも、やはり10円硬貨で作動するセガ製のスロットマシン1台と、当時でさえ古びた印象を受ける木製のキャビネットのゲーム機(それが「Winter Book(ウィンターブック)」という一世を風靡したギャンブル機であることを知ったのは、ずっと後になってからのことです)1台が設置されていました。

ウィンターブックそのものではないけれど、その類似機種。アメリカ製。日本ではこれを小型化した模倣品が多く製造され、「ダービーゲーム」という通称でアンダーグラウンド市場に広く普及した。

この時のスロットマシンの方は、標準的なフルーツシンボルではなく、動物のシンボルが使われており、左リールに一つ出現するだけで当たりとなるチェリーに相当するシンボルは、青いチンパンジーの絵柄だったことを覚えています。ワタシは、どこかよそのおじさんと仲良く一緒にこのスロットマシンを遊んでいたのですが、それは、違法賭博である点を除けば、むしろほほえましい言える風景だったかもしれません。

当時、日本国内にはびこっていたスロットマシンの多くは、セガの製品であったと思います。セガは、1950年代の初めころ、「マーティン・ブロムリー」という人物によって、日本でスロットマシンを製造販売するために設立された会社と言って良いと思います。セガ(当時はサービスゲームズ社)は、当時のスロットマシンメーカーの最大手であるミルズ社の、アジア太平洋地区のディストリビューターとなり、ほどなくして自社でミルズ製品のコピーを製造するようになったようです。これには、1952年にアメリカで成立した、スロットマシンやその部品を州を越えて運ぶことを禁じる「ジョンソン法」が関係しているものと思われます。

セガは、始めのうちはミルズ社の「ハイトップ」と呼ばれるキャビネットの機械を製造していましたが、1960年前後に、その姿から「ダルマ」と俗称されるオリジナルのキャビネットを開発します。ワタシがスキー旅行で見た機種もその「ダルマ」でした。「ダルマ」キャビネットのセガスロットは、日本を含むアジア地域の米軍基地に設置される以外に、ヨーロッパにも多く輸出されていました。ワタシは10年以上前から、この時代のセガのスロットマシンのフライヤーコレクションをweb上で公開していますが、それを見てメールを寄越してくる外国人は、アメリカよりもヨーロッパ方面の方々が圧倒的に多いところを観ると、セガスロットのコレクターは、アメリカよりもむしろヨーロッパに多いようです。


ハイトップ筐体。ミルズ社製のものは、戦後から60年代初めにかけてのアメリカで、たぶん最も普及した。


セガのオリジナル筐体。通称「ダルマ」。中身はミルズ社製のコピー。

1964年、米国バーリー社が革命的なスロットマシン「マネー・ハニー」を発表してからは、セガのスロットマシンも時代遅れとなっていきます。それでも1970年前後ころには、バーリー製品を髣髴とさせる新しいデザインのキャビネットを開発して展開を続けていたようですが、中のメカは従来からのミルズ製品から大きく変わるものではなく、それほど普及はしなかったようです。その新筐体の在庫は、日本国内でメダルゲームに転用されたり、パチスロの元祖である「オリンピア」シリーズの「マークIII」に流用されるなどしていました。


バーリーの筐体に倣い、胴の部分が大きく光ってアピール性を強めてはいるが、内部のメカは旧態依然で、ホッパーは搭載されていない。


パチスロの元祖、オリンピアのシリーズ3作目。一世代、及び二世代前のオリンピアのキャビネットは「ダルマ」筐体だった(右の筐体)。