オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

プッシャーに関する思いつき話(6):日本のプッシャー

2018年09月30日 20時53分18秒 | 歴史

◆巻きメダルという運営手法
sigmaは、プッシャーのプレイフィールドに、25枚、あるいは50枚のメダルを棒金状に巻いた「巻きメダル」を置き、これを落とすことを目標とさせる営業戦略を、少なくとも70年代半ばには既に行っていました。その「巻きメダル」の包み紙は、金と赤のストライプの地にスロットマシンのシンボルを散りばめたデザインで、かなりのプレミアム感を感じたものでした。

この手法をまねるオペレーターも多くいましたが、たいていは色セロファンに5枚~10枚程度のメダルを包んだ「おひねり」と呼ばれるものをプレイフィールドに数個置くというやりかたで、あまりおトク感はなかったように思います。「シルクハット」というゲームセンターを運営するマタハリーは、sigmaのように棒金状の巻きメダルを置いていましたが、その包み紙は質素だったので、気持ちの盛り上がりに欠けました。

余談ですが、80年代、sigmaは「The Derby MKIII」を購入したオペレーターに対してメダルゲーム場運営のノウハウを指導するというサービスを行っていました。マタハリーがこれを積極的に利用したのか、あるいは徹底的にsigmaを模倣したのかはわかりませんが、まるでsigmaの弟子のように見える時期がありました。

その後、プレイフィールドにメダルを積み上げて円形のタワーを作るオペレーターも現れました。見た目のインパクトは大きいのですが、タワーの作成にはかなりの時間がかかるので、後にタワーを簡単に作れるツールなどと言うものを売りだす関連業者も現れました。セガは、2016年に機械がタワーを自動的に作る「バベルのメダルタワー」というプッシャーを開発し、ヒットしています。

◆国産プッシャーの変遷
初の国産プッシャーは、セガが1974年に発売した「シルバー・フォールズ」になると思います。1983年には「ペニー・オーシャン」を発売していますが、この間に他のプッシャーは見当たりません。ただ一つ、「マジックミラクルハット」というプッシャーが1980年代の前半頃に出しているはずではありますが、残念ながら資料が見当たらず、詳しいことが思い出せません。メダルをプランジャーで発射し、搖動する帽子型のチャッカーに入るとプレイフィールド中央に配された帽子型のメダルプールから大量の(当時のレベルで)メダルがプレイフィールドに払い出されるというものでした。


左からシルバーフォールズ、ペニーオーシャン。

タイトーも、1975年に「ギャラクシー・フォールズ」、1982年に「ミステリー・ホールズ」、1986年に「ドリーミー・フォールズ」と、ポツポツとプッシャーを開発しています。


左からギャラクシー・フォールズ、ミステリー・ホールズ、ドリーミー・フォールズ。

タイトーは他にももう一つか二つのプッシャー作っていたと思うのですが、これも資料がなく、思い出せません。記憶にあるのは、おそらく80年前半~中ごろで、筐体上部の投入口からピンパネルに投入されたメダルはまず階段状のプレイフィールドを落ちていくのですが、場合によってはメダルはそこで滞留し、最下段の本来のプレイフィールドまで落ちないというものです。滞留したメダルは、以降に投入したメダルに押し出されることがあるので、場合によっては1枚投入したメダルで複数のメダルがメインのプレイフィールドに落ちるというところがミソでした。

90年代の初期、セガは「ゴールデン・ウェーブ」と「ウェスタン・ドリーム」を発売しました。左右に動くスタートチャッカーとすごろく形式のジャックポット機能を持つ「ウェスタン・ドリーム」は大ヒットしました。また、後からスタートチャッカ―の動作を利用したオリジナルのジャックポットギミックを作るオペレーターも多くいました。これ以降、日本のメーカーが開発するプッシャーは、「スタートチャッカー」と「(電光ルーレットやビデオスロットなどの)抽選機構」による「ジャックポット機構」が搭載されるのが標準となっていきました。


左より、セガのゴールデン・ウェーブ、ウェスタンドリーム。

1997年、コナミが発売した「ドラゴンパレス」は10席の大型プッシャーで、メダルが左右に動く櫛の歯状のチャッカ―を通るとビデオスロットが始動するという抽選機構を持っていました。ドラゴンパレスにはプログレッシブジャックポットが搭載され、最大で1000枚と言う、従来のプッシャーには例のない大量のメダルがプレイフィールドに払い出されることで、大きな人気を集めました。しかしドラゴンパレスには手持ちのメダルが少ないと十分に遊べないという欠点があり、やがてお金を払ってメダルを借りるプレイヤーは寄り付かず、大量の預けメダルを持っているプレイヤーだけが残るという状況になってきたため、この頃からメダルの値下げを行うロケがぽつぽつと出てくるようになっていきました。


コナミのドラゴンパレス。従来のプッシャーには無い破格のジャックポット機能を持っていた。

ジャックポット機構が一般化しても、プレイフィールドに巻きメダルやおひねりが置かれるオペレーションは相変わらず続けられていましたが、巻きメダルやおひねりの作成と補充は、オペレーターにとっては負担でした。そのため、某メーカーでは、巻きメダルを自動的に補充するプッシャーが提案されたこともあったとのことですが、巻きメダルの運営ポリシーは店舗ごとに異なるので汎用性が低いなどの理由で実現に至ることはありませんでした。

コナミが2001年に発売した10人用大型プッシャー「フォーチュン・オーブ」は、その問題に対するソリューションを搭載していました。すなわち、プレイフィールドに、巻きメダルの代わりにアクリル製のボールを置き、これを落とすと、落としたボールを使った物理的なルーレット抽選を行うというものです。ボールは自動的に機械内に回収され、ボールの補充はビデオスロットの結果によって自動的に行われるシステムは全く画期的で、オペレーターの利便性だけでなく、物理抽選が楽しいゲームとしてプレイヤーにも熱狂的に受け容れられ、爆発的にヒットしました。

「フォーチュン・オーブ」は、「チャッカ―めがけてメダルを投入する」という「ドラゴンパレス」のスタイルを踏襲しており、この2機種が立て続けに大ヒットしたため、その後に開発される大型プッシャーも、類似のゲームシステムを採用するようになっていきました。その結果、日本におけるプッシャーは、コインをチャッカ―に通してビデオスロットを回すことを目的とする、パチンコのセブン機と何ら変わることの無いゲームへと変貌しました

プッシャーを楽しむためには大量のメダルを必要とするようになると、多くのロケーションは客を繋ぎ止めるためにメダルの値下げを始めました。もともと1000円で50枚が相場だったメダルの貸出料金が、はじめのうちこそ1000円で80枚くらいに留まっていましたが、ライバル店舗と差を付けるために、やがて1000円で100枚、120枚、150枚と値下げ競争が始まり、そのうち3千円で1千枚、1万円で1万枚などと言う店まで出てきてしまいました。

メダルの単価が下がっても、メダルを湯水のように投入するプッシャーならばなんとか帳尻は合います。しかし、投入枚数に限界があるスロットマシンやビデオポーカーなど他のジャンルの機械では採算が取れません。その結果、オペレーターはプッシャー以外のゲーム機を買ってくれなくなりました。メーカーも、売れないとわかっている機械は開発できません。この状態がここ10数年ほど続いてきて、今、メダルゲームの新機種は殆どプッシャーか、現金を併用できる4号転用機(パチンコ、パチスロ)ばかりになっています。これは全く危機的な状況と言えます。

これに対するソリューションとして、例えば異なる単価のメダルを使用するなどの方法も理論的には考えられますが、ロケーションにとっては新たな設備投資を要し、負担は避けられません。また、プレイヤーの意識が追い付いてくるものかどうかという不安もあります。

プッシャーは、メダルゲームという市場を確かに発展させましたが、それは同時にカタストロフへの進行を加速させたようにも思います。業界が打てる次の一手は何になるのでしょうか。

(おわり)


プッシャーに関する思いつき話(5):クロンプトン社の歴史3・1977年以降

2018年09月29日 23時09分09秒 | 歴史

来週、10月5日(金)よりラスベガスに行って参ります。帰国は次の週の13日(土)になりますので、今週は今日と明日の2回で、このプッシャーの話を完結させておきたいと思います。

◆前回まで
1934年 誕生したジム・クロンプトンは、兄のアルフレッドと共に10代の頃からコインマシンビジネスを始めていた。

1947年 「クロンプトン・リミテッド」社を設立し、少額のペイアウトのあるゲーム機を多く開発してそれぞれで成功をおさめてきた。

1963年 コインプッシャーという全く新しいコンセプトのゲーム「ホイール・ア・ウィン」を開発したが成功には至らなかった。

1966年 「ホイール・ア・ウィン」の失敗を教訓として、次のコインプッシャーとして「ペニー・フォールズ」を開発した。

1973年 大量のコインプッシャーを日本に輸出する。この時の日本の代理店は「ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス」社だと思われる。

1974年 コインプッシャーを米国の見本市で初公開し、大好評を得る。


*******************  これより今回の記事  *******************

有料記事の抜粋は前回で終了しましたが、原典において年代が特定できる最も新しいエピソードは1976年の出来事です。結びでは、現在のクロンプトンはラスベガスに魅入られており、今後ネバダのゲーミング市場への進出を目指す、と言うようなことが述べられていますが、それがいつの時点のことなのかは判然としません。そこで今回は、別のソースから、1977年以降のクロンプトンについて、判明している部分について記録していきます(これまでに述べてきたことと重複する部分もありますが、ご容赦ください)。

1977年 日本の輸入総代理店だった「ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス」社が不渡り事故を起こす。おそらくこれにより、クロンプトン社は日本の窓口を一時失うことになったものと思われる。

1979年 sigmaが、米国SIRCOMA社(現在のIGT社の前身)の日本における輸入代理店となる。この当時、SIRCOMA社がクロンプトン社の米国における輸入代理店であった縁で、日本ではsigmaがクロンプトン社の新たな代理店となる。以降sigmaは、長期にわたって多くのクロンプトン・プッシャーを日本に輸入する。

 
sigmaが輸入したクロンプトン・プッシャーは数々あるが、ワタシが熱中して遊んだ機種を二つだけ挙げておく。左は「MOONRAKER」(1980年頃)。ピンパネルの背後で「10、25、50」の3種のランプが一つずつ順繰りに点灯しており、投入したコインがピンパネル中央のロールオーバーを通過すると、その時点で点灯していたランプの枚数のコインがコインボウルに直接払い出された。なお、ランプの点灯時間は「10」が最も長く、「50」はほんの一瞬しかない。
右は「CASH ROULETTE」(1995年頃?)。左右にスライドするルーレットは「5、10、25、50」のエリアに分かれ、それぞれにLEDが1個配され、「MOONRAKER」と同じ要領で順繰りに点灯する。投入したコインがこのルーレットを通過すると、その時点で点灯していたLEDの枚数のコインがコインボウルに直接払い出された。sigmaではこの機種を、径が大きくメダル単価が高い「ダラートークン」用として多用していた(この画像は「NEW YORK NEW YORK」となっているが、アートワークが異なるだけで、筐体やゲーム内容はCASH ROULETTEと概ね同じ)。


1980年代 ジムの息子のゴードン、ジョン、それにリチャードがクロンプトン社を引き継ぐ。

1996年 米国ICE社、クロンプトンと同盟関係を結び、プッシャーの輸入を開始する。

ICE社とは、1982年に設立された米国のディストリビューター及びゲーム機メーカーで、リデンプション機、プライズ機、エアホッケー、バスケットボールなど、キッズやファミリー向けの機種を幅広く大量に扱っており、現在も業界の大手企業として盛業中です。

2001年 sigmaが2000年にアルゼに吸収合併されたが、クロンプトンの日本代理店の権利は、元sigma社員が立ち上げた「ナンキ・トレーディング」に移る。

しかし日本では、90年代半ば以降より、独自のアイディアを投入したプッシャーを開発する国内メーカーが次々と現れるようになり、その結果、日本国内でのクロンプトンの出番は少なくなっていきました。また、英国においてもプッシャービジネス事情に変化があり(これが、日本への輸出が減少したという意味かどうかは不明)、クロンプトンは深刻な財政問題を抱えるようになってしまいました。

2002年 クロンプトンが米国ICE社に買収される。

ICE社は、南北のアメリカにおけるコインプッシャーの最大のディストリビューターであり、そしてコインプッシャーはオペレーターにとってお金を稼ぐ重要なジャンルであると認識していたため、クロンプトン救済のために買収することにして、クロンプトンは英国においてコインプッシャーの生産を続けることが出来ました。

2000年台後半 為替相場の変動で英ポンド高・米ドル安となり、クロンプトンの機械を輸入するという商売が難しくなったので、ICE社は自国でライセンス生産するための開発手段を持つ準備を始める(この話のネタ元は、2008年11月に刊行された米国の業界誌「RePlay Magazine」の記事なので、それが行われたのはそれ以前となります。記事には明言されていませんが、時期的に2007年から2008年にかけて発生した「世界金融危機(リーマンショック)」が関係しているのかもしれません)。

2007年 兄アルフと共に会社を立ち上げ、アルフの死後も会社を盛り立てて大きく発展させたジム・クロンプトン死去。

2010年 ジムの長男であるゴードンは自分で「Game Concept」という会社を興して、「STRICTLY DISCO」と言う6人用センターピースプッシャーをデザインし、これは米国セガ社から発売された。

2012年 ゴードンはこの年、「クロンプトン」のブランド名を乗せた「The Crompton Coaster」を発売した。向かいあった二人用の筐体を組み合わせて4人用、6人用、8人用にアレンジできる。詳細は不明。

2013年 3人用プッシャー「CAROUSEL」発売。内容は「Spinna Winna」に似る。これも詳細は不明だが、僅かに見つかる資料では「2P PLAY」とあるので、英国内専用かもしれない。

◆その他
・ジムの長男のゴードンが興した「Game Concept」社の設立年は不明。

・ICEのカタログの最新版にはプッシャーが掲載されていない。

クロンプトンの歴史は以上で終了です。明日アップ予定の次回は最終回として、日本のプッシャー事情について述べておきたいと思います。

(つづく)


プッシャーに関する思いつき話(4):クロンプトン社の歴史2・「ペニー・フォールズ」誕生以降

2018年09月23日 22時10分06秒 | 歴史

◆前回の概要
・1934年、ジム(13歳)と兄のアルフレッド(17歳)の兄弟が、既存のピン・テーブル機をコインマシンに改造して初めてのゲーム機商売を始めたところ、1週間で元を取った。その後も古いピン・テーブルを買っては改造してロケーションに設置する仕事を続ける。

・1940年、ロンドン大空襲が始まり、以降第二次大戦の間を通してゲーム機商売をしている場合ではなくなる。

・戦後すぐに商売に戻り、商機ありと見た1947年に「クロンプトン・リミテッド」社を設立する。この年を以てクロンプトン社の始まりとなる。

・1955年、少額のペイアウトのあるゲーム機「フィルム・スター」が大成功する。これ以降、クロンプトンはペイアウトのあるゲーム機を精力的に開発する。

・1963年、10人用センターピース「ホイール・ア・ウィン」発売。コインプッシャーという、かつてない全く新しいコンセプトのゲーム機であったが、ハズレ穴が丸見えな構造のため成功はしなかった。

・1966年、「ホイール・ア・ウィン」の欠点を見直して新たに開発した12人用センターピース「ペニー・フォールズ」が大成功し、「コインプッシャー」というジャンルが確立される。

******************** ここから今回の記事の始まり **********************
◆プッシャーゲーム確立後
1969年 法改正により、AWP(注・「Amusement With Prize」のこと。少額の払い出しがあるゲームの一カテゴリー)など払い出しのあるゲーム機のオペレーションに対して法外な税が課せられた。その結果、国のあちこちで、機械を海岸に引っ張り出して(注・ゲーム機を設置するロケーションは海沿いの行楽地が多かった)火を放つ抗議がオペレーターたちによって行われた。業界の懸命なロビー活動が功を奏し、税制の見直しが行われ、税額は従来のレベルまで大幅に下げられた。

1971年 英国通貨に10進法が導入されたことに伴って硬貨が改鋳され、それまでのプッシャーがそのままでは使えなくなるため、数千のプッシャーの改造が必要になった。「ペニー・フォールズ」に次いで人気となっていた「ケイク・ウォーク」は、新硬貨に対応した最初の機械である「ダブル・フォールズ」に造り替えられた。


ダブル・フォールズ。70年代の日本のメダルゲーム市場でもたいへんポピュラーな機種だった。

1973年 日本への輸出が20万ポンドに及ぶ記録破りの取引となる注・この頃、日本では「ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス」社がクロンプトンをはじめ英国のゲーム機メーカーの輸入総代理店となっていたので、その取引と思われる関連記事:プッシャーに関する思いつき話(2):日本におけるクロンプトン。「ペニー・フォールズ」や「スクリューボール」にはさらに10万ポンドの価値があった(注・日本で生産する場合のライセンス料の意味だろうか? なお、「スクリューボール」は相手のゴールにボールを打ち合う対戦型のフリッパーゲームのようなものだが、ワタシはこれを日本で見たことは無い)。

1974年 米国のトレードショウで、「ペニー・フォールズ」が紹介される。米国にとっては初めて見るコインプッシャーで、大反響を呼び、ほどなくして米国への輸出が始まった。余談だが、この時、スタッフの一人が宿泊したホテルで黒人のポーターの幽霊と出会う。

1976年 今やクロンプトンが発明したコインプッシャーは、北米のみならず、欧州、更にはイスラム圏にさえ外国人観光客専用の娯楽センターで使用するためとして購入され、地球上に行き渡った。

******************** 有料記事の抜粋はここまで **********************

元の記事の全容は、1921年のジム・クロンプトンの誕生から1976年までの出来事ですが、英国の国内的な話や日本では紹介されていないゲーム機の話が多く、ここではその中からクロンプトン社の歩みの概略と、プッシャーに直接関係する部分に絞って抜粋しました。本来ならば翻訳全文を掲載したいところですが、有料で公開している情報を無断で無料公開することの是非に不安があるのと、そもそも長いうえに翻訳が拙いということもあるので、もし興味がございましたら原文を当たっていただければと思います。有料(5英ポンド)の原文は、こちらの掲示板でのやり取りのうち、「JC」と名乗る方のメッセージ中の「company's history」のリンク先にあります。

ワタシにとっては、世界初のコインプッシャーはクロンプトン社の「ホイール・ア・ウィン」であり、その失敗を教訓に1966年に開発した「ペニー・フォールズ」によってコインプッシャーというジャンルが確立されたという事実が明らかになったことが大きな収穫でした。これは、現代リールマシンの基本要件を規定したチャールズ・フェイの「リバティ・ベル」に匹敵するエポックメイキングな出来事であり、もっと広く(そしてもっと詳しく)知られて然るべきストーリーだと思います

また、1973年の日本への輸出が記録破りの取引だったという話にも大いに興味を惹かれます。世界のゲーム機業界にとってまだ新ジャンルと言っても過言ではないコインプッシャーと、黎明期にあった日本のメダルゲーム市場との邂逅は、両者にとって大変な幸運だったと思います。もしプッシャーと言うジャンルが無かったら、日本のメダルゲーム市場は案外早く衰退していたかもしれません。特に90年代半ば以降の日本では、プッシャーは、オペレーターとメーカーの双方から、困った時に何かと頼れる手堅いジャンルとされ続けてきたように思います。もっとも、それが嵩じて、現在のメダルゲーム業界は大型プッシャーばかりに客が付くようになってしまっており、これはこれで危機的状況であるとは思います。

クロンプトンについては、次回にもう1回だけ、1977年以降から現在に至るまでについて、判明している分を記録しておきたいと思います。

(つづく)


プッシャーに関する思いつき話(3):クロンプトン社の歴史1・「ペニー・フォールズ」誕生まで

2018年09月16日 19時35分51秒 | 歴史

前回の記事で言及したジム・クロンプトン氏によるクロンプトン社の歴史を読み終えました。翻訳文をマイクロソフト・オフィスのワードに記録していったところ、全16ページ、文字数約2万の大作になりました。英語能力がかなりお粗末な方であるワタシはたいへん疲れました。

この記事は、読み物としては興味深い部分も多々あるのですが、今回のテーマであるプッシャーの話はあまり多くはありませんでした。そして、プッシャー以外のクロンプトン社のゲーム機は我々にはほとんどなじみがなく、またここに貼り付けられるような画像もないこともあって、大幅に省略してまとめたいと思います。今回は前半部分として、まず創業者の一人であるジムの誕生から、ゲーム機の開発とオペレートに携わる過程と、ペニー・フォールズができるまでの概略です。なお、文中の敬称は省略します。

◆会社設立前
1921年 1月12日、ジム・クロンプトン誕生。兄にアルフレッド(以下、アルフとする)とデニスがいた。

1934年 ジム(13歳)とアルフ(17歳)は、「シルバーカップ」というピン・テーブル(バガテルゲーム)を30シリングで購入し、これにコインスロット、ボール挙上器、プランジャーを取り付けた。まだ商売の経験が無かった二人は母の魚料理レストランに設置させてもらい、1ゲームの料金を1ペニーで営業したところ、1週間で元を取ってしまった(注:この時代の英国の通貨は、12ペンスで1シリング、20シリングで1ポンドだった。30シリングは360ペンスになる)。その後の数年間、兄弟は古いピン・テーブルを10シリングで買い付けてコインマシンに改造するという仕事を続けた。電源は、乾電池か、またはカーバッテリーを使用していた。

1939年 あり合わせの材料で「Jig Ball」というゲームを作って人気を得たが、翌年からナチス・ドイツによるロンドン大空襲が始まってゲーム機商売どころではなくなり、短い成功に終わる。

1945年 第二次大戦が終わると、二人の兄弟は倉庫に保管していたゲーム機を修理、修復して、すぐに商売に戻った。この頃、あるオペレーターから請け負った修復作業のために作業場を借り、ゲーム機だけでなく折り畳み式のテーブルを作ったりもした。

◆会社設立からペニー・フォールズの誕生まで
1947年 当時の機械の殆どは、入手が困難な米国製だったので、自分たちもメーカーになれる絶好のチャンスだと考え、「クロンプトン・リミテッド」社を設立する。この頃のジムは、アルフを手伝う傍ら、市場でも働いていた。

1951年 アルフはロンドンからラムズゲートに引っ越して機械の製造を行ったが、ジムはロケに設置済みの機械のメンテナンスのためにロンドンに残った。

1955年 コインマシン初のマルチプレイヤー機「フィルム・スター」発売。8人用のセンターピース(注・フロアの中央に設置するタイプのゲーム機)で、1ゲームの料金は1ペニーだった。当時の有名な映画スター数名がフィーチャーされ、ゲームに勝つと2~6ペンスが払い出された。
「フィルム・スター」は大ヒットしたので、アルフはジムを呼び寄せて機械の宣伝を手伝わせた。「フィルム・スター」は、1960年まで生産が続けられた。

1959年 パッカーズレーンの広い作業場を購入し引っ越す。このプロパティは今もジムが所有している(注・本記事執筆時。それがいつなのかは不明だが、2000年代と思われる)。この後、クロンプトンは、「フィルム・スター」のようにペイアウトのあるゲームを多く開発する。

1963年 10人用の円形筐体のセンターピース「ホイール・ア・ウィン」発売。これが史上初のコインプッシャーだったが、ヒットはしなかった。クロンプトンはこの理由を、ハズレ穴がプレイフィールドの真ん中にあって機械がお金を掠め取る仕組みが丸見えだったためとしている。

1966年 アルフ死去(39歳)。銀行から会社に社長がいないと指摘されたためにジムが就任して「ホイール・ア・ウィン」の改良版と言える「ペニー・フォールズ」を発表する。「ペニー・フォールズ」のプッシャーは直線的に動き、ハズレ穴はプレイヤーの視野から隠された。こうして従来のゲーム機にない全く新しいコンセプトであるプッシャーゲームが定着した。


ペニー・フォールズの筐体(左)。


プッシャーに関する思いつき話(2):日本におけるクロンプトン

2018年09月09日 18時16分02秒 | 歴史

プッシャーの歴史に首を突っ込んではみたものの、資料も情報もあまりにも少なくて難儀しております。そこで昨日、前回の記事で言及した英国のウェブサイトの有料情報のアクセス権をついに購入(費用は年間5ポンド)してしまいました。

有料エリアには、クロンプトンの創業者であるジム・クロンプトン氏によるクロンプトンの歴史全7章があり、今回はそれを解読して概要を記録しておこうと思っていたのですが、当然ながら記述は英語のため読み下しに若干苦労しており、まだ半分程度しか翻訳できておりません。そこで今回は、日本におけるクロンプトン社製品の扱われ方についていくつか述べて、お茶を濁しておこうと思います。

日本のメダルゲーム業界においても、「クロンプトン」は長い間プッシャーの代表的なメーカーでした。1970年代の前半から中ごろにかけて、英国の娯楽機メーカー数社の輸入総代理店をしていた「ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス」と言うディストリビューターは、その取扱商品の中でもクロンプトンの「ニュー・ペニー・フォールズ」を、「メダルゲームのロールスロイス」と喩えて大きく扱っていました。


業界誌「アミューズメント産業」1973年7月号に掲載された「ジャパン・オーバーシーズ・ビジネス」社の広告。「ニュー・ペニー・フォールズ」を「ロールスロイス」と謳う宣伝は、その後クロンプトン社の日本の代理店となったsigmaにも引き継がれた。

そのジャパン・オーバーシーズ・ビジネス社は、1977年の夏ごろに不渡事故を起こしてしまいます。それが結局どのように終息したのかまではわかりませんが、クロンプトン社との輸入代理店としての繋がりは、おそらくこの機会に解消されてしまったものと思われます。

そして1979年、sigmaが米国IGT社の前身であるSIRCOMA社(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)の日本における総輸入代理店となった時、SIRCOMA社は米国でのクロンプトンの輸入総代理店だった縁により、sigmaが日本の新たなクロンプトンの輸入総代理店になったようです。



sigmaが1980年前後頃に頒布した、クロンプトン・プッシャーのフライヤーの表と裏。三つ折りの表裏に5機種が掲載されている。スプラッシュダウン、グランドキャニオン、ペニーフォールシングルサイドが新製品とされている。

sigmaはその後もクロンプトンのプッシャーをいろいろ輸入していましたが、2000年にアルゼ社に吸収された時、sigmaの社員の中には、アルゼ以外の会社に移ったり、自分で新たな会社を興したりする人たちも多くいました。そのうちのひとつに、おそらくはsigma時代のコネクションで始めたものと思われる、クロンプトンの製品を日本で輸入販売する会社があったのですが、それが何と言う会社で、いつ設立されたものだったかを確認できる資料が見当たりません。その会社は少なくとも一度、AOUショウかJAMMAショウに出展しているところを見ているはずなのに、全く我ながら不覚です。この社名や時期などについてご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただけますようお願い申し上げます。確か、「カジノ・ナイト(Casino Nights, 2000年)」や「ラクソー(Laxor, 2000年頃)などを扱っていたように思います。


カジノ・ナイト(上の機種)。2000年頃にクロンプトンが頒布した総合カタログより。

(つづく・次回はクロンプトン社の歴史の概要の予定)