オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

シリーズ絶滅種:アレンジボールを記憶に留めておこう

2018年01月28日 18時00分21秒 | シリーズ絶滅種
1970年代、風俗第七号営業(現・第四号営業=つまりパチンコ・パチスロ店)で稼働する遊技機に、「アレンジボール」と呼ばれるゲームがありました。これがいつごろから始まったものか、ワタシは詳しくを知りませんが、少なくとも1973年には既に存在していたようです。その多くはパチンコ店に併設されましたが、1970年代の中頃には専門店ができる程度にはポピュラーになっていました。


写真1:業界誌「アミューズメント産業」1973年1月号に掲載されたアレンジボールの広告。筐体には「BingoLet」の文字が見えるが、宣伝文の中では「アレンジボール」と謳っている。なお、広告主の「株式会社さとみ」はその後「サミー」となり、更にその後セガを吸収して現在は「セガサミー」となっている。


写真2:写真1の改良版と思しき機種のフライヤー。いつごろのものかは不明だが、周辺の状況から、1973~1975年の間だと推測される。

アレンジボールは、オリンピア(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)同様、メダルを使用するゲームでした。メダルの貸出料金は、当初は100円で2枚でしたが、1980年前後頃に200円で3枚に値上げされました。筐体にこのメダルを投入すると、16発のパチンコ玉が打てるようになります。この玉は機械に封入されており、取り出すことはできません。


写真3:アレンジボールで使用されたメダル。メダルゲームの25Φメダルよりもやや大きく、厚い。

ゲームの内容は、1番~16番までの数字による4×4のビンゴゲームです。打ち出した玉が入ったポケットの番号が盤面上部中央のビンゴカード上に点灯し、縦または横1列が点灯するか、または中央の4個が点灯すれば得点を獲得します。ゲーム終了後は精算ボタンを押すことで得点分のメダルが払い出されます。

得点は、縦1列が1点、横1列が2点、中央の4つ(JP)が3点と設定されていました。もし、全ての数字を点灯させることができれば合計得点は15点となりますが、法律による制約で、何点獲得しようとも、1回のゲームの最高払い出しメダル数は5枚までとされていました。

アレンジボールは、ビンゴゲームだけでもゲームとして成立しますが、当初には、盤面中央の穴に入ると7番が点灯するとともにメダルが1枚払い出されるというフィーチャーがあり、プレイヤーにとってはかなり嬉しいオマケでした。しかしこれはそれほどしばしば起きることではありません。そこで、1975年頃、「Buffalo」という後継機種が登場しました。この機種では、天穴に玉が入ると、得点にかかわらずメダルが得られる役物が動作するものでした。


写真4:セガの総合カタログ1975年版より、アレンジボール「Buffalo」の部分。玉が天穴(1)に入ると、下にあるバッファロー役物(2)の角がゆっくりと上下に一往復する。この役物に玉が1個入ると、それだけで直ちにメダルが1枚払い出される。角が作動し始めると、数字を狙うよりも角を狙って玉を打ち出すという点で、本来のビンゴというゲーム性を壊していたと言えるかもしれない。1ゲームの最後の一発がうっかり天穴に入ると、作動中に次のゲームを始めようと急いでメダルを投入するのだが、それで良い思いができた記憶はあまりない。

「アレンジボール」と呼ばれる遊技機のメーカーにはもうひとつ、「太陽電子」がありました。太陽電子は自社の機械を「チャレンジボール」と称し、リングタイプ(円状に並んだ番号ランプが4つ以上連続すれば勝ち)などビンゴタイプとは異なるバリエーションを精力的に開発していたように思います。ワタシがバイトをしていた時のダイエー碑文谷店のゲームコーナー(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)でも、太陽電子製のチャレンジボールを改造したメダルゲーム機の島がありました。

1978年頃になると、アレンジボールは電動役物を取り入れるなどより進化し、またメダルの値上げに伴い1ゲームの最高払い出しメダル数が10枚と緩和されました。しかし、ライバルであるパチンコに、現在の「セブン機」の走りとなる「フィーバー」が登場することにより下火となりかけたため、1980年代になると、アレンジボールでもスリーセブンが揃うことで一気に打ち止めとなる爆裂(当時としては)機が登場するようになりました。ワタシも、この時代まではしばしばアレンジボールを遊んでいました。

しかし、様々なアイディアとテクノロジーを導入してその寿命を延ばしてきたアレンジボールの人気も、1980年代中ころには衰えてきます。この頃にはサミーとなっていたさとみは撤退し、残る太陽電子は「アレパチ」と呼ばれる別の方向に延びて行こうとしたようですが、ワタシはこの面白さが理解できず、ほとんど遊んでいないため、一時はそこそこ支持されていたようだけど現在はもうないんじゃないかな? という程度の理解しかありません。

伸び得る方向性を全て消費し尽くしてしまったアレンジボールが今後復活することは無いでしょう。そして現在のパチンコも似たような状況に陥りつつあると思うのですが、果たしてパチンコ業界は次の一手を生み出すことができるものでしょうか。

セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(2) リズムシステム実在の証拠発見

2018年01月21日 14時12分39秒 | 歴史
ワタシの手元に、宛先を「ラスベガス」の「SEGA」とする郵便物があります。それは1枚の紙を折り畳んで手紙の体裁にしたもので、開くとジェニングス(かつてあったスロットマシンメーカー。バーリーが1964年にスロットマシンに革命を起こすまでは、ミルズ社とトップの座を競う大手メーカーだった)の新製品のフライヤーとなっています。差出人は明記されていませんが、消印やフライヤーの内容から、「MAR-MATIC Sales, Inc. 」という、ジェニングスに関連する販社のようです。


画像3:宛先がラスベガスで、宛名が「SEGA」となっている郵便物の宛名部分。添えられているメモは、手紙に同封されていたものなのか、それとも後から誰かが付け加えたものなのかは不明で、誰が誰に向けて書いたものかもわからない。「これがジェニングスの最新のフライヤーである。彼らは大量払い出し機構のマシンを売り出しているところも見せているが、そのフライヤーはまだない」とある。


画像4:折り畳まれた郵便物を開いた、内側の面。ジェニングスの新製品「galaxy」と、取扱業者である「Mar-Matic」社を紹介するフライヤーとなっている。

この郵便の宛先は、前回(セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(1))の画像1にある住所とほぼ一致するので、その「Service Games」が、この「SEGA」と同一であることは間違いないでしょう。そして、「galaxy」の製造年は、日本に「セガ・エンタープライゼス」ができた翌年の1966年(1961年とする新資料発見。文脈には影響せず/2020年3月28日追記)ですから、時系列上の齟齬もありません。以上から、ラスベガスにService Gamesのオフィスがあった時期は1957年以降で、その後どこかのタイミングで社名を「SEGA」に変え、少なくとも1966年までは存続していたことがわかります。

日本のセガが、なぜラスベガスにオフィスを置いた(移した?)のか、その理由はわかりません。単純に、(おそらくはジョンソン法が免除されている)ネバダにスロットマシンを売り込むつもりだっただけかもしれません。ただ、ブロムリーは、世界をまたぐシンジケートを活用して税の支払いを回避したり、アジアやヨーロッパの米軍基地に食い込むため倫理に反する手段も積極的に駆使するような人物であったため、アメリカのある業界誌が70年代に彼を特集した記事を掲載した際には「White Collar Bandit(ホワイトカラーの盗賊、の意。スロットマシンの別名「One Armed Bandit」に引っかけているのかもしれない)」と言うタイトルを付けています。また、ワタシに資料を下さったCoin Machine Historianも「金儲けの天才」と評するくらいでしたので、日本のセガの発展のためというよりは、その壮大なシンジケートの金儲けシステムの一環として設立されたものだったことは間違いないでしょう。

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さて、これまで長々とラスベガスのセガについて愚にもつかない推測(≒妄想)を拡げて参りましたが、今回ワタシが本当に記録しておきたい事柄は、実はセガとは全然関係しないところにあります。

早いものでもう一年以上も前のことになりますが、ワタシは2016年12月29日に、「リズムボーイズ ―― スロットマシンの必勝法の話」という記事をアップしました。詳細は本文をご高覧いただくとして、一部を要約すると、「1975年に刊行された『カジノプレイ入門』というハウツー本に、かつて『リズムボーイズ』と呼ばれる人たちによってスロットマシンが攻略された逸話が記述されており、長年それを裏付ける他の資料を探していたら、『Scarne's New Complete Guide To GAMBLING』という本がその元ネタであろうことを発見した」という内容でした。

しかし、ワタシはこれまでアメリカのギャンブルに関する展示のある公設・私設の博物館をいくつも見て回ったり、あるいはスロットマシンに関する書籍類にも目を通して来ましたが、元ネタ以外でリズムボーイに言及されている展示や解説を見たことがありません。そのため、元ネタの著者であるスカーニー氏の証言だけでは「リズムボーイズ」や「リズムシステム」の存在を確信することができず、ワタシはその後もリズムボーイズに関する直接の証拠を探し続けておりました。

そして今回、セガの歴史を調べている最中に、意外なところで意外なものを発見してしまいました。それが、このラスベガスのセガに宛てられたジェニングスのフライヤーです。ポイントは、galaxyのセールスポイントの記述にありました。


画像5:ラスベガスのセガに届いた手紙の宛名側の面。郵便物の体裁の時には内側に折り込まれていた部分に、今回の新製品のセールスポイントが列挙されている。


画像6:画像5から、不正防止機能を謳った部分の拡大図。「銀行の金庫室のように造り上げた防護。組み込まれる不正防止機構」とある。

そこには、galaxyに組み込まれている不正防止機構として、

*Anti-spoon (スプーン防止)
*Anti-rhythm (リズム防止)
*Anti-drill (ドリル防止)

の三つが謳われています。このうち2番目の「リズム」こそが「リズムシステム」を指すものと思われ、これはリズムシステムが実在したことを明瞭に示す証拠と言えましょう。その他の「スプーン」や「ドリル」も元ネタの中で言及されていた不正の方法で、同じく実在したことがわかります。「Scane's New Complete Guide To GAMBLING」では、リズムボーイズが1950年前後の出来事として記述されていたものですが、galaxyが製造された1966年時点でも、オペレーターにはまだリズムシステムの記憶が払拭されていなかったことが窺われます。

今回のこの発見によって、「リズムボーイズ(システム)」が都市伝説や作り話の類でないとの確信を得ることはできました。ただ、まだまだ関連資料は極めて乏しいと言わざるを得ないので、今後も他に言及している文献や、できれば「当時5ドルで売り出された10ページのパンフレット」の現物のような直接の証拠は探し続けようと思います。

(このシリーズ終わり)

セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(1)

2018年01月14日 18時29分53秒 | 歴史
ワタシの手元には、おそらく1950年代から70年くらいまでの間の、セガの旧式のスロットマシンのフライヤーがいくらかあります。しかし、情報があまりにも少ないため、それらがいつごろ作られ、いつごろ頒布されたのかがわかりません。そこでワタシは、15年ほど前からまとめてウェブ上で公開し、何か情報があったら教えてくださいと訴えてきました。

あるとき、それを見た「Coin Machine Historian(コインマシンの歴史家)」を名乗る米国在住の英国人からメールが届きました。以来メールをやり取りする中で、その方が長くコインマシン業界に携わってきた方であることがわかり、古い話をいろいろ教えてくださいました。ワタシもまた、手持ちの資料を寄贈するなどしてお付き合いさせていただき、現在もSNSで繋がりを持っています。

そのCoin Machine Historianが、「セガは昔、ラスベガスにオフィスがあったんだ」と言って、セガの古いスロットマシンのフライヤー画像を下さったことがあります。それは、ワタシが持っているフライヤーのいくつかとほぼ同一で、表面には「Service Games (Japan) inc.」との社名が印刷されていましたが、「(Japan)」の部分を消すように、「OUR NEW ADDRESS: 2115-17-19 North Main Street LAS VEGAS, NEVADA」というスタンプが押されていました。セガは、90年代の一時期にゲーミングに進出しようとしてラスベガスにオフィスを持っていた(結局挫折して、後から来たコナミに追い付き追い越されてしまいましたが)ことがありますが、このフライヤーは、それとはまた別の時期の話であることは明らかです。


画像1:Coin Machine Historianからいただいた、ラスベガスを新所在地とするフライヤーの部分。


画像2:こちらはワタシが所有する、同形機種のフライヤーの同じ部分。「Manufactured By SEGA incorporated」と印刷されたステッカーが貼られている。「SEGA」は、「Service Games」という二つの単語のそれぞれ最初の2文字を取って命名されたという話は比較的よく知られている。

Coin Machine Historianは、ラスベガスのフライヤーが頒布された正確な時期は把握しておらず、単に60年代と言うところまでしかわかりませんでしたが、これがワタシが持つフライヤーが作られた時期を特定する手がかりになるかもしれません。

セガの歴史はかなり複雑で、社名から年代を推測するのが難しいです。まず、日本のセガの創立には、「Martin Bromley(マーティン・ブロムリー、以下ブロムリー)」という人物が全てのカギを握っているようです(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)。1952年、ブロムリーは、スロットマシンの余剰在庫をどうにかする方策として、アジア・極東地域の米軍基地に目を付け、レメアーとスチュワートと言う二人の従業員を日本に送り込み、1952年には「レメアー&スチュワート」という会社を設立しました。それが紆余曲折を経て「セガ・エンタープライゼス」となるのが1965年のことです。まずこの辺の経緯をまとめてみます。

1940 ブロムリー、ホノルルに「スタンダード・ゲームズ」設立
1945 「スタンダード・ゲームズ」が「Service Games」となる
1952 ブロムリー、日本に「レメアー&スチュワート」設立
1954 デイビッド・ローゼン、日本に「ローゼン・エンタープライゼス」設立
1957 「レメアー&スチュワート」が「Service Games Japan」となる
1960 Service Games Japan、日本娯楽物産と日本機械製造に分裂
1964 日本娯楽物産、日本機械製造を吸収し再び統一する(存続会社は日本娯楽物産)
1965 日本娯楽物産とローゼン・エンタープライゼスが合併、「セガ・エンタープライゼス」となる

「Service Games Japan」のフライヤーを流用し、「我々の新しい所在地」と言っているのですから、ラスベガスにオフィスがあったとしたら、それは早くとも1957年以降であることは確実だと思われます。しかし、もともと「Service Games Japan」は、ブロムリーが世界に築き上げたシンジケートの一パートに過ぎず、同じ時期にはパナマにも「Club Specialty Overseas」という会社を建てるなど、世界各地でセガ以外の名称でも活動をしていたという事実や、「SEGA」の文字が1965年よりも早い段階でブランド名として使われていた事もあって、これ以上の推測を難しくしています。

しかし、あるとき手持ちの資料をひっくり返していたところ、60年代のラスベガスに、まちがいなくセガのオフィスがあったことを証明する別の資料を発見しました。

(次回に続く)

ラスベガス半生中継・2017年9~10月 (7) 最終回

2018年01月08日 13時30分58秒 | 海外カジノ
何度も言ってしまいますが、今回のG2Eでは新しいイノベーションを感じさせるものはありませんでした。それでも敢えて収穫と言えるものがあるとすれば、ゲーミング業界は苦しんでいるという事実を改めて認識させられたことでしょうか。スキルベースドゲーミングも、仮に開拓の余地があったとしても、ビデオスロットがそうであったのと同じように、短期間のうちに発展の余地を無くしてしまうことが容易に予想されます。

一つ可能性があるとすれば、それはカジノというフォーマットとは異なる、新しい市場ではないでしょうか。その一例として、現在は「eスポーツ」がその新しいフォーマットとなろうとしているのかもしれません。今回のG2Eでは、コインセレクターの大手だったJCM社が、eスポーツの実演、実況のシステムを出展していました。


JCMが出展していたeスポーツシステム。(1)全体像 (2)実況とプレイヤー (3)対戦中のゲームを表示するゲームモニター (4)コスプレのコンパニオンもいた。

しかし、eスポーツは、他のプロスポーツと同様、選ばれた者たちが人間技こととは思えない超絶技を繰り出すことでゲームが成立するもので、誰でもプレイヤーになれるわけではありません。カジノとしては、このフォーマットにどういう形で関与することでマネーメーカーとしていくのか、考えなければならない課題は山積みだと思います。

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◆今回食べたもの
【1】ザリガニ パラダイスバフェイ(シーフードナイト)@フレモント $23

現地で合流した仲間と行った、カニが食べ放題となるフレモントのシーフードナイトバフェイに、ゆでザリガニがありました。アメリカ南部の郷土料理ですが、扱っているバフェイは少ないので、ワタシは本来の目当てのカニもそこそこに、このザリガニばかり食べていました。なお、フレモントでザリガニを扱うのはシーフードナイトに限られているようで、その他の日にはありませんでした。

【2】ホット・パストラミ スポーツデリ@サムズタウン $8.99

3日目のさして早いわけでもない夜、エクスカリバーに宿泊している仲間からフレモントにいる私に、「今日はまだ夕ごはんを食べてないので夜食に付き合わないか。ついては車が無いので迎えに来い」との電話がありました。なんちゅう図々しい申し出であろうかとは思いますが、サムズタウンのスポーツデリなら付き合うと言って、エクスカリバーに向かいました。なぜ店を指定したかというと、初日にサムズタウンに来た際に、コンプキヨスクで10ドルのクーポンが出ていたからでした。

店の前でどれを食べようかと逡巡していたら、後から来たおっさんに、「ここならホットパストラミが一番だぜ!」と強く勧められたので注文してみました。ついでに、なんと読むのかわからない謎の飲み物があったのでそれも注文してみたら、ルートビアでした。まあ、悪くはなかったです。

【3】ルーベン・サンドイッチ スポーツデリ@サムズタウン $8.99


このカフェではすでに何度もハンバーガーを食べているので、その代わりのつもりで注文してみたものですが、サムズタウンで食べたホット・パストラミとあまり区別がつきませんでした。

【4】ストライクコンボ ボウリングスナックバー@サムズタウン $8.99


チーズバーガー(本来は$6.99)、16オンスドリンク(本来は$2.49)、フライ(本来は$2.99)のお得コンボメニュー。ボウリング場併設のスナックバーですが、案外しっかりしたハンバーガーでした。

【5】オックステールスープ マーケットストリートカフェ@カリフォルニア $11.99


かねてから気になっていた、夜の11時以降からしか提供されないこのカフェのシグネチャーメニューを、最後の夜にいただいてみました。大きな牛の尻尾の骨が4,5こほども入っており、それぞれの骨にはとろけるように煮込まれた肉がたっぷり付いています。ごはんが付いてくるのは日系人客が多いからでしょうか。シアントロ(シャンツァイ)も付いています。

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◆今回のジャックポット

最後の夜、サムズタウンでロイヤル様が降臨してくれました。ここのプログレッシブは$1500からスタートするので、なかなかおトクです。

(ラスベガス半生中継・2017年9~10月 終わり)

ラスベガス半生中継・2017年9~10月 (6) G2Eショウ・気になった機械その2

2018年01月04日 14時50分42秒 | 海外カジノ
昨年の暮れ、スター・ウォーズの最新作「最後のジェダイ」を観てきました。ご存知の方も多いと思いますが、今回のスター・ウォーズにはカジノのシーンが出てきます。そこで行われているゲームは架空のものですが、サイコロのようなものを投げたり、メカニカルなスロットマシンや未だにコインスロットにコインを投入している事をうかがわせる描写があるなど、そのカジノで行われていることは、現在我々が生きるノンフィクションの世界で行われているギャンブルゲームと地続きのハードウェア、ソフトウェアであるように見えました。


「最後のジェダイ」に登場した、3本のリールの代わりに3枚の円盤が同心円状に配置されているスロットマシンは、今もアンティークスロットマシンとして人気が高いこのLittle Duke triple jackpot side vender (Jennings, 1932)を想起させる。「side vender」とは、筐体の横にガムの自販機が取り付けられたモデルであることを意味する。この写真は、sigmaの創業者である故・真鍋勝紀氏がかつてコレクションしていたもの。

スター・ウォーズの1作目(エピソードIV・新たなる希望)では、R2-D2とチューバッカがチェスの類と思しきゲームに興じるシーンがありました。チェスというソフトウェアは現実にも存在しますが、それを、立体画像という架空のハードウェアで表現することによって、映画の中で描かれている世界は我々が生きる世界とは異なる別空間であることを感じさせたものでしたが、このカジノシーンにはそのような「センス・オブ・ワンダー」がありません。

もちろんそこには、カジノであることを示すためにステレオタイプな演出が必要だったという事情もあったのかもしれません。しかし、前回ワタシは、「スロットマシンの進歩は、ソフト、ハード両面共にいよいよ限界に達し、手詰まりとなったように思う」と述べましたが、物理や確率などの自然の法則や、技術的制約から自由であるはずのフィクションの世界でさえ新たなギャンブルのフォーマットが提示できないのであれば、現実の世界において画期的な次の一手がなかなか出てこないのも無理はない、と思いました。

まあ、そうは言っても、今後もスロットマシンはその時々の最先端の技術を使って(その多くは単なる装飾的な意味しか持たないものではあろうけれども)作り続けられることではありましょう。あるいは、マカオが新たなゲーミング市場となって以降、多くのメーカーが中国の文物をテーマとするスロットマシンを開発するようになったように、市場を席巻する新しいテーマが生まれる可能性もあります。次はひょっとすると、カジノが解禁されようとしているニッポンのジャパンだったりするかもしれません。我々プレイヤーは、その時を無責任に待ち続けていれば良いだけのことです。

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2年ほど前から始まった業界の再編も一段落した感があり、期待のスキルベースドゲーミングやVRも未だ確たる方向性が見出だせていないことに加えて、スロットマシンのイノベーションもない今回のG2Eショウは、見どころというものが殆どありませんでしたが、もう一つだけ記録しておきたいゲームがありました。

主にテーブルゲームのイクイップメントを手掛ける「TCSJOHN HUXLEY」という企業があります。もともと、TCSはルーレットで使用するチップを自動的にソートする「チッパーチャンプ」という機械で成功した会社で、一方のJOHN HUXLEYは、ルーレットのホイールやゲームテーブルのメーカーとして定評のある会社でした。この両社が合併して(TCSがJOHN HUXLEYを買収した)現在の社名となり、デジタル技術を導入した新たなゲームテーブルを数年前から出展してきています。それが、今回はゲームテーブルだけでなく、「GAMEBALL」という、バカラの変形ゲーム機を出展してきました。


GAMEBALL BACCARAT。ほぼ正方形のプレイフィールドを囲むように、各辺に2台のサテライトが設置されている。




GAMEBALL BACCARATのプレイフィールド(上)とサテライト画面(下)

正方形のプレイフィールドは斜めに赤(バンカー)と青(プレイヤー)に塗り分けられ、それぞれのエリアに3個ずつのドームがあり、ドーム内には12面体のダイスが1個ずつ入っています。このダイスがカードの代わりとなるわけですが、カードの場合は2からAまで13種類の目があるところ、このダイスには「10」の目がありません。このため、まだ厳密に計算していませんが、勝ち負けの確率はオリジナルのバカラと変わらないけれども、タイの発生率は低くなると思います。

3つのドームのうち1つは、オリジナルのバカラでの3枚目のカードに相当するドームで、通常は金色のカバーで中身が隠されています。ゲームが始まると、赤、青それぞれの2つのドームの内部が回転して、最初の手を決めます。その後、3枚目のカードが必要な場合には金色のカバーが開いて、3つめのダイスが回転します。

一見したところ豪華で目新しそうに見えるこのゲームには、しかし致命的な欠点があります。というのは、1回のゲームに要する時間が、最短で17秒、最長では70秒もかかるのです。一般的なバカラプレイヤーは、日本のパチンコプレイヤーなどとは違って、期待感を煽るような長々とした演出は望んでいません(自分でカードを絞れる場合を除く)。そんなところで気を持たせられるよりも、さっさと結果を出して次のゲームに移りたいと思うものです。こんなに時間がかかるようでは、プレイヤーをイライラさせる効果しかありません。

ましてや、今回の出展ではミニマムベットが$1に設定されており、ただでさえハウスエッジが低いバカラというゲームで単位時間当たりのゲーム数が少なくなってしまうようでは、人件費を払っても従来の人間がオペレートする方がよほど収益が上がりそうで、カジノ側からの需要もないでしょう。

ワタシとしては、このような意欲的な試みで、しかもアナログなゲームには、応援したいという心情が強いです。なので、敢えてここに記録しておきますが、しかし、全く残念ではありますが、次回の出展は無いでしょう。これを糧としてTCSJOHNHUXLEYがどう変わっていくのかは、今後の興味ではあります。