オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

それはポンから始まったのだけれども(2) 初期の国産ビデオゲーム

2017年07月30日 22時40分47秒 | ビデオゲーム
1972年にリリースされたATARI社の「PONG」以降、アメリカだけでなく、日本のゲームメーカーもビデオゲームの開発に取り組みました。とは言っても、このウェイブにすぐに対応できたのは当時の最大手であるセガとタイトーのみでした。

当初の国産のビデオゲームは、ワタシの記憶では、パドルでボールを打ち返すという、「PONG」が規定したゲーム性の延長線上にあるゲームがほとんどでしたが、中にはオリジナリティを感じさせるゲームもありました。

例えばタイトーは、パドルを人間の形にして2 ON 2のバスケットボールをモチーフとした「BASKETBALL(1974・フライヤーはこちら)」を独自に開発しています。

また、「SPEED RACE(1974・フライヤーはこちら)」は、ひょっとすると初のビデオによるカーレースゲームではないかと思います。

更に、1975年にリリースした「WESTERN GUN(フライヤーはこちら)」は、2種類のジョイスティックを持ち、当時としては先進的な操作系でした。

セガは、1974年に「BALOON GUN」というビデオガンゲームを発売しています。同年には、ATARI社が「QWAK!」というダックハントをテーマとするガンゲームを出してきており、私の知る限りでは、初の業務用ビデオガンゲームはこのどちらかになります。

また、「LAST INNING(製造年不詳・1974~5)」は、二人のプレイヤーが守備側と攻撃側に別れて対戦する野球ゲームでした。


「LAST INNING」(左)と「BALOON GUN」(右)。共に1975年に頒布された総合カタログより。

セガとタイトー以外の日本のゲーム機メーカーがビデオゲームに進出したのは何年頃であったか、定かな記憶がありません。ただ、「ブロック崩し」の名で広く知られているゲームの元祖であるATARI社の「BREAK OUT」(1976)が発売された以降であるように思います。

コインマシンのフライヤーを集めているサイト「The Arcade Flyers Archive」によれば、1976年に、ナムコが「BREAK OUT」を日本国内で売り出していますが、これは、当時のナムコがATARI社の日本法人である「アタリジャパン」社と協力関係にあり、ATARI製品の日本国内での販売をナムコが請け負っていたためで、ナムコが開発したゲームというわけではありませんでした。

The Arcade Flyers Archiveに頼ってさらに調べると、ユニバーサルが1977に頒布した「総合カタログ」には、BREAK OUTの類似品である「SCRATCH!」の名が掲載されています。


スクラッチの名前が見える、ユニバーサルの総合カタログ1977年版。「The Arcade Flyers Archive」では、ワタシのコレクションにはなぜか無い、「スクラッチ」の画像のページも掲載されている。

翌1978年になると、アイレムの「PT BLOCK」の名前が出てきます(フライヤーはこちら)。

また、同年には、三共というゲーム機メーカーがビデオゲームに参入し、「PYRAMID」というゲームを発売しています(フライヤーはこちら)。PYRAMIDは、パドルでボールを打ち返すという点ではブロック崩しの延長線上にあるゲームではありますが、ボールが当たったブロックは、消えるのではなく色が変わって、特定の全てのブロックの色が変わるとボーナス得点となるという、オリジナリティの高いゲームでした。

この三共というメーカーは、以前から比較的チープなメカを伴うコインマシンを開発していたメーカーでしたが、いきなりこれだけの、しかもカラーのビデオゲームを作ってしまったのは驚きでした。三共は、この後に「CASTLE TAKE」という、PYRAMIDと似たゲーム性のビデオゲームも発売しています。

三共が業界誌「アミューズメント産業」の1976年3月号に掲載した広告。この時点ではビデオゲームとは全く無縁なメーカーに見える。

「The Arcade Flyers Archive」は、全てのゲーム機のフライヤーを網羅しているわけではないので、ユニバーサルや三共以外にもビデオゲームを開発していた国内のメーカーがあってもおかしくはありません。実際、発売年は定かではないのですが、メダルゲームの盟主であったsigmaは、大画面で遊ばせるブロック崩しゲーム「Golden Nugget」を、自社店舗に大量に設置していました。もともとカジノ志向の強かった同社の事ですから、ラスベガスの老舗カジノの名前から命名したであろうことは想像に難くないこの機種は、BREAK OUTが大ヒットしてからほどなくして市場に出てきています。
(もう一回くらいつづく)
コメント (1)

それはポンから始まったのだけれども(1) 業務用ビデオゲームの黎明期の記憶

2017年07月24日 21時30分44秒 | ビデオゲーム
拙ブログを始めて1年半くらいになります。もともとコインマシンに関する古い話を記録しておこうと思い立って始めた拙ブログは、これまでに約70の記事をアップしてきました。しかし、このうち、メダルゲームやギャンブルゲームでない、純粋なビデオゲームをテーマとした記事は、「デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム」 と、「任天堂@ゲームセンター」 の2件だけです。

ワタシも以前は熱心なビデオゲームプレイヤーでしたので、語ろうと思えば語れるゲームはたくさんあるはずなのですが、いざビデオゲームについて何か述べようとすると、すぐに筆が止まってしまうのです。

その最も大きな理由は、いかに自己満足のための泡沫ブログと言えども、公開する以上はそのゲームができた当時の社会情勢や業界事情など、なにがしかの歴史資料的価値を多少なりとも含ませておきたいという欲が働くところにあります。しかし、ためしに書いては見るものの、結局は無名の一個人が過去に遊んだゲームのルールと感想を記録しただけのものとなってしまうため、これでは意味がないと没にすることを繰り返しておりました。しかし、現状ではあまりにもバランスが悪いので、ここでひとつビデオゲームの黎明期の記憶を記録しておいてみようと思います。

ワタシが初めて目にしたビデオゲームは米国ATARI社の「PONG」で、おそらくは1973年ころ、東横線都立大学駅近くにあったボウリング場「柿の木坂トーヨーボール」(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)でのことだったと思います。テレビのブラウン管と思しき画面に、プレイヤーの操作によって動く記号が表示されるゲーム機を見て、「これはいわゆる一つのコンピューターというやつに違いない」と興奮したものでした。何しろ当時はまだ、コンピューターというものはたいへん高価な最先端技術で、限られた場所でしか使われないモノだった時代です。それを自分で触って操作するなんて大変に未来的なことのように思えた時代でした。




PONGの筐体(上・画像出典/wikipedia)と、PONGのゲーム画面(下)。

実は、「PONG」以前に、「コンピュータースペース」(Syzygy Engineering / Nutting Associates 1971)というビデオゲーム機が、史上初のコインマシンとして世に出ていますが、日本には輸入されていないとのことで、ワタシもリアルタイムには見た覚えがありません。


コンピュータースペースの筐体(画像出典・wikipedia)。曲線と曲面を多用したFRPの筐体は、当時の未来的なイメージの典型のように見える。

「コンピュータースペース」は、二人のプレイヤーが、それぞれが操る宇宙船でドッグファイトを行うというゲーム性だったそうですが、画面中央の太陽(ブラックホール?)の引力の影響を受けるなど操作が難しすぎたために人気の方はさっぱりだったとのことです。このゲームは、1977年頃に、米国シネマトロニクス社など2、3のメーカーが「SPACE WARS」などのタイトルでリメイクしており、これらは日本でも見ることができましたが、確かに操作が難しく、少なくとも私にとってはそれほど熱中できるゲームではありませんでした。

「PONG」を開発したのは、コンピュータースペースを開発したノーラン・ブッシュネルという人物です。彼はコンピュータースペース開発の後、自らATARI社を設立して、より簡単なゲーム性の「PONG」というビデオゲームを1972年に世に送り出し、これが世界的な大ヒットとなりました。そのため、PONGが事実上の市場初のアーケード用ビデオゲームと目されています。

二人のプレイヤーが画面上で行うピンポンのようなゲームはたいへん流行し、翌1973年には多くのゲーム機メーカーが類似品を作り、日本でも、セガやタイトーが参入しました。


セガによる「PONG」の類似品(画像は1975年に頒布されたセガの総合カタログより。発行年と掲載されているゲーム機の製造年とは必ずしも一致しない)。タイトーも1973年には「エレポン(フライヤーはこちらで)」「デビスカップ(フライヤーはこちら)」他の類似品を出している。

ところで、今回の記事のタイトルは、アーケードゲーム業界紙の元編集長であった赤木真澄氏が著した「それはポンから始まった」という本から頂いています。同書は、日本語で書かれているという点でも稀有な、ビデオゲームとその業界の発展史であり、ゲームファンなら一度は読んでおきたい名著として、この機会に強くお勧めしておきたいと思います。お求めはAMAZON、または公式サイトからどうぞ。
(つづく)
コメント

メダルゲーム「TV21」(ジャトレ・1977)の謎 その後

2017年07月17日 00時25分22秒 | スロットマシン/メダルゲーム
前回の記事、「メダルゲーム『TV21』(ジャトレ・1977)の謎」で、「このゲームをジャトレが独自に開発したとは考えにくく、これからも元ネタを探していくつもり」という趣旨の事を述べました。その後、何か手がかりはないかと手持ちの資料をひっくり返していたら、米国SIRCOMA社の「AMUSEMENT 21」というゲーム機のフライヤーを発見しました。


SIRCOMA社の「AMUSEMENT 21(製造年不明)」のフライヤーの表と裏。

ワタシの記憶では、この「AMUSEMENT 21」のカードのデザインと画面のレイアウトは、ジャトレの「TV21」とほぼ同じと言ってよいものです。そして、こんな気になる一文があります。

「Winning hands are credited two for one. Double down play can be made on special hands」
(勝つとクレジットが2倍になる。 特別な手では倍賭けプレイをすることが可能)


「倍賭けプレイ(Double down)」とは、通常のブラックジャックのルールにあるダブルダウンを指しているようにも思えますが、「on special hands」という文言は、始めにベットしたメダルと同数まで追加ベットできる「TV21」の「ボーナスゲーム」を指しているようにも思われます。このフライヤーには、遊び方についてはこれ以上書かれていないので、どちらの意味であるかは判断が付きません。

ただ、SIRCOMA社ができたのは1979年です。ジャトレの「TV21」は1977年に出ていますので、これだけを見て、これがジャトレの元ネタとすると、時系列のつじつまが合いません。

しかし、SIRCOMA社にはさらに前身となる企業があります。この辺の歴史については過去の記事「ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3)米国内の動き」に少し詳しく述べていますのでご参照いただきたいのですが、かいつまんで説明すると、「William ”Si” Redd」という人物が、ビデオスロットやビデオポーカーを開発するため、1970年代に当時のアメリカのビデオスロットメーカーを全部自分の傘下に置いて「A-1 suplly」という複合企業体とし(その詳しい年代は不明)、1979年に「SIRCOMA」社に名前を変え、そして1981年にはさらに「IGT」社に名を変えて株式を公開して、やがて世界最大のスロットマシンメーカーへと成長していったという経緯を辿っています。

この辺の関係がわかるような資料はないかとあちこち探していたら、「King of the Slots: William "Si" Redd」という本の存在に行き当たりました。ウェブ上で立ち読みできる目次には、「A-1 Supply Company's gray-area video twenty-one slot machine」と言う文字が見えることから、A-1 Supply社がビデオブラックジャックを作っていたことは確実と思われます。そして、そのA-1 Supply社は、どうやら1975年には既にできているらしいことがわかりました。

ウェブ上では目次しかわからないので、決して安い本ではなかったのですが、購入することにしました。また辞書を片手に苦労して読むことになるのでしょうが、ここは越えなければならない壁です。本は今月末くらいに到着する予定です。今から楽しみです。


King of the Slots: William "Si" Redd」の表紙画像。Amazonから購入。
コメント

メダルゲーム「TV21」(ジャトレ・1977)の謎

2017年07月08日 23時31分19秒 | スロットマシン/メダルゲーム
1977年のころのこと。当時東横線都立大学駅にあった「キャメル」というゲーセン(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)で、ワタシは「TV21」というメダルゲームに滅法ハマりました。




業界誌「アミューズメント産業」1977年1月号に掲載された「TV21」の広告とその筐体部分のアップ。

ゲーム内容は、基本的にはビデオブラックジャックなのですが、ルールは若干複雑でした。ブラックジャックでは始めに2枚のカードが配られますが、このゲームでは1枚しか配られません。プレイヤーはその1枚を見て、通常のブラックジャックを行うか、それとも最高200倍になる「ボーナスゲーム」を行うかを選択しなければなりませんでした。

「ボーナスゲーム」は、ブラックジャックとは異なり、役ができるまでカードをヒットし、役ができないままカードの合計が21を超えると負けとなります。

「ボーナスゲーム」を選択すると、始めにベットしたメダルと同数まで追加ベットができました。「ボーナスゲーム」の役には以下のものがありました。

 ・5 CARDS 21 OR UNDER (×5)
 ・6-7-8 (×10・違ったかも?)
 ・6 CARDS 21 OR UNDER (×25)
 ・6-9-6 (×50)
 ・7-7-7 (×100)
 ・A-A-A (×200)

1977年と言うと、ビデオゲームはもう普及していましたが、メダルゲーム分野でCRTを使用した機械はまだほとんど無く、これ以前の機種ではユニバーサルが1976年に発売した「BIG & SMALL」くらいしか思い当たりません。sigmaが「TV・POKER」をお披露目したのは1978年の秋のことです(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(1))から、それよりも1年くらいは早く登場しています。



業界誌「アミューズメント産業」76年4月号に掲載されたユニバーサルの「BIG & SMALL」の広告(部分)。

この「TV21」を発売していたのは、「ジャトレ」という会社でした。社長の竹内清一氏は、現在の業界団体の一つ「日本アミューズメントマシン協会(JAMMA)」の前身である「全日本遊園協会(JAA)」という業界団体の監事を務めたこともあったようです。しかし、ワタシにとってジャトレは、ゲーム機メーカーとしての印象は限りなく薄く、業界におけるポジションが良くわからない会社です。

と言うのは、ジャトレは、当時これだけ完成度の高いメダルゲーム機を送り出していた割には、たいへん寡作なのです。また、失礼ながら技術力に優れているとは見受けられないジャトレが、特殊なノウハウを要するメダルゲームをいきなり開発できたとも思いにくいです。

ワタシは、おそらくジャトレには開発部隊が無く、よそから買ってきたものに自社ブランドを乗せて売っているのではないかと疑っています。それ自体は別に構わないのですが、この「TV21」を本当に開発したのはどこであるかがわからないのがワタシにとって癪の種になっています。

ヒントとして、「TV21」に表示されるカードのデザインは、sigmaの「TV・POKER」のそれと、おそらく同じと言えるほどよく似ています。このことから、比較的納得し易いのは、米国でサイ・レッド(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3))が作っていた電子ゲームの中に「TV21」の元ネタがあり、誰かがそれを何らかのルートでジャトレに売り込んだというストーリーなのですが、これを補強できるような資料は見つけられずにいます。

ただ、「TV21」の広告がアミューズメント産業誌に掲載された同じ年の11月号に、当時のバーリーの筐体と思しきキャビネットに入った全く同じ内容のゲーム機「JACK LOT」の宣伝が掲載されました。





業界誌「アミューズメント産業」77年11月号に掲載された「JACK LOT」の広告(上)と筐体のアップ部分(下)

「JACK LOT」の広告主である「関西トレード」という会社については、ジャトレ以上に良くわかりませんが、当時のバーリー製品の部品を扱う商社に見受けられるところから、現代のパチスロの元祖となる「ジェミニ」を開発した「大阪パブコ」社と、ひょっとすると何らかのつながりがあるところなのかもしれません。「ジェミニ」も、バーリーから筐体を供給してもらい、流用して作られていました。

そして、「JACK LOT」の筐体アップ部分をよく見ると、右下に電気用品取締法(電取法)申請中の文字が見えます(逆三角に〒マークは電取法を意味する)。ワタシは電取法には詳しくありませんが、当時、輸入されるゲーム機(国産機でも同様ですが)は電取法に照らして認可を受ける必要があったようで、これを怠ったために罰を受けたり稼働を停止させられた例も多くあります。このようなペナルティは、しばしば社会に悪影響を及ぼすギャンブルマシンや、「殺人ゲーム」として社会問題となった「デスレース」を封じ込めるための「別件逮捕」に使われました(関連記事:【ビデオ】【小ネタ】デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム)。

これは根拠と言うにははなはだ弱いですが、関西トレード社が扱っていた「JACK LOT」は、ジャトレが扱っていた「TV21」と同じもので、筐体で輸入されたか、基板またはROMの形で輸入されたかの違いという可能性も考えられそうです。これを証明するため、ワタシはこれからも、「TV21」もしくは「JACK LOT」と同じゲームをアメリカで探し続けたいと思います。

ジャトレは、1980年頃に一度倒産してしまいましたが、不屈の根性で復活し、現在も事業を継続しています。「NEWジャトレ」のブランドで発売したレーザーディスクによる実写映像を見せる脱衣ゲーム「野球拳」シリーズは、80年代中ごろから90年代中ごろにかけてそこそこヒットしたので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。
コメント (10)

新・ラスベガス半生中継 2017年GW 8日目(最終日)

2017年07月02日 18時51分25秒 | 半生中継
本日のブランチは、たまには変わったことをしてみたいという女房の提案で、フラミンゴとメリーランドの交差点近くにある「Yama Sushi」という寿司屋に行ってみた。全く経験のない店だが、評価は決して低くなく、また最後の一泊の宿であるサムズタウンまでの道すがらにあるということもあり、選んでみた。

肝心の寿司は、日本のマシな回転ずしと同等レベルか、モノによってはそれ以上のものもある。これで食べ放題20.95ドル(ディナータイムは23.95)なら腹は立たないが、ただ、ラスベガスには、これとさほど変わらない値段でもっと良い寿司屋もあり、ベストバイとまで言うには抵抗を感じる。


ウニや甘エビなど、一部一度しかオーダーできないネタもある。

この地の日中をどう過ごしたのか、記録となるものがなく、忘却。

夕食時。今日は金曜日なので、サムズタウンのシーフードバフェイの前まで来たが、少なくとも30分くらいは並ばされそうな雰囲気だったので、「並ぶよりもさっさと食べてゲームをしよう」という女房の意向により、カフェに相当する「T.G.I. FRIDAY」に行く。ここでワタシはシグネチャーメニューらしい「ジャックダニエルバーガー(13.5ドル)を注文。高いが、どうせコンプダラーで支払うつもりなので目をつぶる。女房はステーキにロブスターテイルを付けたもの(25ドルくらい)を注文。


(1)ジャックダニエルバーガー。パティは7オンス。1/3ポンドよりは大きいが、1/2ポンドには届かない。
(2)クラウンを外したところ。
(3)横から見たところ。開く口の大きさよりもずっと高い。
(4)女房が注文したステーキ&&ロブスター。付け合せはトマトとモツァレラのサラダ。


ハンバーガーはうまくないわけではないが、やはり高い。おそらく次回は無いと思う。

明日は太陽が昇る前にカジノを出てレンタカーを返却し、空港に向かうので、女房と二人で一晩中、ビデオポーカーのプログレッシブ付きトリプルプレイをする。プログレッシブは上段1350ドル、中段1100ドル、下段1500ドルになっていたが、女房がこの下段でロイヤルフラッシュをゲットする。去年に引き続き2滞在連続。今度こそ納税者ナンバーを取得して満額をもらいたいと思ったが、今回も叶わず、30%の税金を取られた。それでも手取りは1000ドルを超えているので良いとする。一方のワタシはこれと言って良いところなし。今回の巡礼の収支は久しぶりに結構なマイナスで終わった。

未明の4時ころ、カジノを出てレンタカーを返却し、帰路に就く。帰りの国際線はUAだったが、経由地のロサンゼルスのラウンジがリニューアルされており、明るく良い雰囲気になっていた。特に食べるものはずいぶん良くなっていたが、とはいうものの、TBITのスターアライアンスラウンジにはまだまだ遠く及ばない。生イチゴが食べ放題だったのはうれしかった。


ユナイテッドラウンジのイチゴ。女房は「アメリカのイチゴはおいしくない」と言うが、このイチゴは普通においしかった。

新・ラスベガス半生中継 2017年GW・完
コメント