オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

カジノのチップの話

2020年08月30日 20時37分42秒 | その他・一般
今回はチップの話です。チップと言ってもカジノのチップ(Chip)のことで、「心付け」を意味する「チップ(Tip)」ではありません。もし、拙ブログの更新を多少なりとも楽しみにしている方がいらっしゃるのであれば、今回はつまらないこと請け合いですので、予めお詫び申し上げておきます。


チップの各部名称。メーカーによっては異なる名称を用いている場合もある。

ワタシが小学校の4年生か5年生くらいの頃のこと。当時、近所の電器屋の娘と、互いに読み終えたマンガ週刊誌を時々交換していました。あるとき、そうしてウチにやってきた少女漫画の中に、カジノを描いている漫画をみつけました。それは、主人公のおねえちゃんがカジノに入り、周囲の人々に「お金は持ってんのかい、お嬢ちゃん」とからかわれ、「お金ならある」と言って1枚のコインを取り出してまた笑われるのですが、そのコインで回したスロットマシンが大当たりとなる、というところから始まっていました。

主人公はその後ポーカールームで女ギャンブラーと戦い、フルハウスができて内心勝ったと喜んでいる(絵には「ポーカーフェイス」と言う書き文字が添えられていた)その女ギャンブラーを、主人公はクワッズ(それともストレートフラッシュだったか)で下して大量のチップを獲得し、そのチップで何かを買うだったか借金を返すだったかするという内容でした。

残念なことに、この漫画の作者もタイトルも、記憶にありません。ただ、この時ワタシは、チップがお金の代わりになる(らしい)と言う事実に強い興味を持ってしまいました。ワタシが「ねじ式」に傾倒したのも同じ時期(関連記事:まんがアックス第119号・「特集つげ義春」発売中!)でしたが、やはりこの頃のワタシはヘンな子供だったようです。

■チップのサイズ
さて、ようやく本題です。
ネバダ州のレギュレーションを見ると、バカラ以外のゲームで使用するチップの直径は1.55インチ(約39㎜)と定められており、バカラに限ってはこれ以外に1.6875インチ(約43㎜)のサイズも認められています。この39㎜とか43㎜というサイズがどこから出てきたものかはわかりませんが、少なくとも米国ではネバダ州に限らずどこでも共通であるように見えます。もっとも、チップトレイやラックなど什器の関係もあるので、例えレギュレーションの縛りが無かったとしても、標準サイズから外れるチップを作っても普及はしないとは思われます。

欧州では円形の「ジェトン(jeton)」、あるいは特に高額の場合は、長方形や楕円形の「プラーク(plaque)」と呼ばれるものが使われているようですが、ワタシは欧州のカジノは30年近く前にモナコに一度行ったことがあるだけなので、実態はよく知りません。ただ、唯一のモナコで見たルーレットではアメリカンタイプのチップが使われていたように記憶しています。
トレーディングショウなどで見るジェトンは、大きさはまちまちで、縁が丸くベベルされており、そしてやたらと軽く、見た目は豪華っぽいのですが手には馴染みにくく感じます。
プラークは、米国でも大きなポーカートーナメントで見かけることがありますが、一般のテーブルでは見たことはありません。ひょっとするとハイリミットテーブルでは使われているのでしょうか。


ヨーロッパのチップメーカー「ブルゴーニュ・エ・グラッセ」が25年位前に頒布したカタログからスキャンした、様々なプラークとジェトンの例。左下のプラークにはアトランティックシティのシーザーズパレスの銘が入っているので、米国でも使われている例はあるのかもしれない。同社は昨年日本のエンゼルプレイングカード社が買収したGPIグループの一員である(関連記事:新ラスベガス半生中継2019年G2Eショウ(4) DAY 2:G2Eショウその2)。


■チップの材質
冒頭の画像にあるように、標準的なチップはいくつかの部位から構成されています。ボディの材質には、クレイ合成樹脂(いわゆるプラスチック)、セラミックなどの種類があります。

・クレイ(Clay)
クレイ(Clay)は「土、粘土」の意味で、19世紀末頃から作られているそうですが、現在見られる「クレイチップ」は、火を付ければ燃えます。つまり、本来の意味でのクレイではありません。摩耗しやすく、長年使われているチップは角が丸まって厚みも変わってくるにもかかわらず、チップの素材としては最も人気が高いです。そのせいかホームユースとして売られているポーカーチップにも「クレイ」あるいは「クレイ・コンポジット」を謳うものが多く見受けられますが、それらはたいていカジノで使われているクレイチップとは似ても似つかない、安っぽいものです。カジノ品質のクレイチップが売られている例は少なく、また安い場合でも1枚当たり1ドル程度もして、個人で持とうとすると案外費用がかかります。後述するセラミック製に対抗しようとしたのか、インレイを拡張したタイプもあります。


インレイを拡張したタイプのクレイチップ。モールドがインレイにかかっている。

・プラスチック
プラスチックはクレイに比較して耐久性に優れるせいか、しばしば見かけます。中にはかなり精巧な技術を要すると思しき構造のものもありますが、いかんせん大量生産品のように見えて、ワタシにはなんとなく安っぽく感じられてしまいます(個人の感想です)。

一口にプラスチックと言っても様々な種類があり(クレイも結局はプラスチックの一種と思われる)、ホームユースとして売られているごく安価なプラスチック製のチップは、実に全く見るからに安っぽいです。


プラスチック素材のチップ。色の異なる部分は異なるパーツを組み合わせて作られているとのことだが、カジノグレードのチップではパーツ間の継ぎ目というものがまるで感じられない。

・セラミック
セラミック製のチップが現れたのは1980年台の半ばころなのだそうです。セラミック製のチップにはモールドが無く、インレイの代わりにほぼ全面にデザインが施せるので凝った絵柄にできて華やかなので、2000年前後頃には結構流行っていたように見受けられました。耐摩耗性も高そうですが、しかし、長年使用していると絵が剥げ落ちてくるようで、ワタシの経験でも、表面の絵が薄くなっているものがしばしばありました。そのためかどうかはわかりませんが、最近はあまり見かけなくなりました。


セラミック製のチップ。面全体にデザインが施せるので華やかではある。

これら三つの素材のうち、使用感が良いのは何といってもクレイです。セラミックも手触り自体は悪くはないのですが、何となくクレイの代用品的な印象が残ってしまいます(個人の感想です)。プラスチックはワタシ的には論外な素材です。


上からクレイ、プラスチック、セラミックを並べた素材別の比較。

チップの重さはまちまちです。カジノで使われているチップは8~10g程度であるようですが、ポーカートーナメントではもっと重いチップが使われている場合が多いように思います。重さの違いは、素材自体の比重のほか、中の錘の有無などによるらしいです。

■インレイ
インレイは、ビニールのような素材であることが多いですが、製造コストを下げる目的で、ホットスタンプと呼ばれる、箔をボディに押しただけで済ませたものもあります。また、プラスチック製のチップでは金属のコイン状のものがはめ込まれているものもあります。


インレイの例。通常タイプ(上)、ホットスタンプを押したもの(左下)、金属性のコインがはめ込まれているタイプ(右下)。

■インサート
クレイのインサートのデザインにも、単純なものから複雑なものまでさまざまあります。不思議なのは、色ごとに異なるクレイ素材が使われているのですが、まるで塗装ででもあるかのように、素材間の継ぎ目が全く感じられません。クレイチップの製造過程ではかなりの高温と高圧を要するとは聞くのですが、詳しい製法は企業秘密として公開されておらず、謎です。


インサートの種類の例。一般論として、デノミが高い方がインサートの数が多く、デザインも複雑になることが多いが、法則というほどのことでもない。

■チップの色
デノミ(額面)と色については、地域によってはカジノを監督する機関が規則を設けているところもありますが、ネバダ州では色に関する規則はなく、従ってネバダ州のカジノで使われている1ドルチップには、青、白、グレー、橙、茶色などが見られます。


ネバダ州ラスベガスで使用されている1ドルチップ各種。

とは言え、そんなネバダでも、5ドル以上のデノミのチップについてはなぜかすべてのカジノを通じて概ね統一されたカラーリングが施されている場合がほとんどで、会話の中では色でデノミを指す場合もあります。


ネバダで見られるチップの、デノミごとの色の典型例。5ドルは赤基調、25ドルは緑基調、100ドルは黒基調でそれぞれ概ね統一されている。画像はワタシが20年位前にラスベガスのギャンブラーズ・ジェネラル・ストアで購入した、バド・ジョーンズ社製(ここも今では前述のGPIグループの一員)のクレイチップ。300枚セットで300ドルだったが、その後同店でクレイチップをまとめて販売しているところを見たことが無く、ラッキーだった。

■最後に
ワタシはチップをしばしば持ち帰ります。特に現存しないカジノのチップは、当時本当に訪れていたことのいい証拠となります。とはいえ換金性のあるものですから、あまりデノミの高いチップはさすがに持ち帰ることができません。昔は5ドルチップを持ち帰っていましたが、クラップスを覚えてからは1ドルチップが普通に入手できるようになったので、今ではもっぱら1ドルチップを持ち帰っています。穴を開けてボールチェーンを通せば、土産用に売られているトランプやダイスよりはいくらか気の利いた土産物となり、そしてなによりたいへん安くすむので重宝しています。今後カジノに行かれる方がいらっしゃいましたら、ご参考にしていただければと思います。

新日本企画(SNK)のメダルゲーム

2020年08月23日 22時04分04秒 | スロットマシン/メダルゲーム
新日本企画(以下、「SNK」とする)と言えば、1978年に創業し、その後さまざまな紆余曲折を経ながらも現存するゲームメーカーです。創業当初は、ブロック崩しの「センカンヤマト」や、タイトーの許諾を得た「T.T.スペースインベーダー」などを製造していましたが、翌79年にはオリジナルのドットイートゲーム「サファリラリー」を発売し、さらに80年には固定画面縦シューティング「サスケVS.コマンダー」や「オズマウォーズ」など、現在のレゲエファンにとっては感涙物のタイトルを発売しています。

SNKはその後も多くのAM用ビデオゲーム機を開発していきましたが、1990年には「凄いゲームを連れて帰ろう」をキャッチフレーズとする、AMとコンシューマを橋渡しするような「NEO GEO」システムを売り出しました。SNKは、このNEO GEOで多くの対戦格闘ゲームを作って、当時の絶対的人気機種だった「ストリートファイターII」のカプコンに対抗しうるメーカーとなるばかりでなく、その後に活きるたくさんの知的財産を生みだしました。

しかし、そのSNKの公式ウェブサイトの「SNKヒストリーサイト」というページでは、1986年以前については実に全くあきれるくらい簡単な記述しかありません。


「SNKヒストリーサイト」の1978年の画面。この次はいきなり1986年に飛んでおり、79年から85年についての記述は無い。

SNKは86年以前の歴史をなぜこんなにぞんざいに扱うのでしょうか。まさか資料が無いという事なのでしょうか。あるいは、この時期はSNKにとって思い出したくない黒歴史ででもあるのでしょうか。そう言えば、ワタシは知っています。SNKは1980年台初頭にメダルゲームを開発・発売していることを。ひょっとして、それが黒歴史の正体だったりするのでしょうか(妄想)。今回はそのSNKのメダルゲームを思い出しておこうと思います。

SNKのメダルゲームで発売時期が特定できるものとしては、1980年に発売された「メダルゲーム」で、これは、SNKが独自に開発したビデオシングルメダルの汎用筐体でした。当初は3タイトルが同時に発売され、翌81年にはさらに3タイトルが追加されています。


SNKの「メダルゲーム機」のフライヤー。1980年に発売された3タイトルに新たな3タイトルを追加して、1981年に頒布されたもの。この香ばしいバニーガールのイラストはだれが描いたのかが気になる。

1981年頃、ワタシは渋谷のゲームファンタジア(現・マクドナルド渋谷店)で、このSNK製の「メダルゲーム」を遊んだ記憶があります。それらのうち「バイバイゲーム」は「レッドドッグ」というカジノゲーム(関連記事:「レッドドッグ」をラスベガスで見た記憶)のゲーム性が採り入れられていて、結構喜んで遊んだものでした。

それにしても、このフライヤーのどこにも、筐体名やシリーズ名のようなものが掲げられていないのはどういう事でしょう。普通なら、「SNK・××メダルシリーズ」などと命名して、単品ではなくシリーズとして購入されることを期待するものだと思うのですが。これはフライヤーだけでなく、業界紙誌に掲載していた広告でも同様でした。


ゲームマシン紙1981年1月15日号37面に掲載されたSNKの広告。「メダルゲーム各種」というだけで、シリーズらしいアピールはない。

SNKのメダルゲームをもう一つ。それがいつのことだったか記憶が定かではありませんが、おそらく1981~82年頃だったと思います。銀座の「ゲームファンタジア・ポ二ー」で、「DIAMOND DERBY」という一人用ビデオ競馬のメダルゲームを見かけました。


DIAMOND DERBYのフライヤー。いつ頃の機械であったかが思い出せない。

その時、ワタシは珍しくそこそこ多くのメダルを持っていたので、この初めて見るゲームで遊んでみたのですが、本命ばかりにベットしているのに全然当たりません。だんだんと疑心暗鬼になってきたワタシは、オッズの高い組合せ上位3つを除く全てにベットするということを数ゲーム繰り返したのですが、それでも当たらないので、最後に最も高配当の1カ所を除いてすべてにベットするということを3回ほど繰り返しましたが、ただの一度もヒットしませんでした。

もちろん、完全にナチュラルディールであってもこのようなことが起きる可能性はゼロでないことは理解しています。しかし、この結果はあまりにも論外に思えました。それ以降、ワタシは新日本企画というメーカーをある種の偏見を通して見るようになってしまい、のめり込むようなゲームはその後は一つも出てきませんでした。

「FARO」に関する備忘録

2020年08月16日 15時26分53秒 | シリーズ絶滅種
今回は「FARO」の歴史や遊び方などを、忘れないように残しておこうと思います。

と言っても、ワタシが「国産初のメダルゲーム機」と認定する、セガの「FARO」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)のことではありません。米国の西部開拓時代に大流行したカードゲームの「FARO」のことです。


1910年のネバダ州リノにおけるFAROの様子。たくさんのチップがベットされ、周囲には見物人が群がっており、当時のFAROの人気のほどが窺える。

「FARO」は、今でこそ忘れられたゲームですが、19世紀半ばから20世紀半ばまでは、米国の西部で最も人気のあるギャンブルゲームのひとつでした。ネバダ州バージニアシティにある「Delta Saloon」というレストランでは、往時にすべての財産を失って自殺した者を3人まで出したという逸話が残るFAROテーブルを「Suicide Table (自殺テーブル)」と呼んで展示しており、(関連記事:ネバダ・ギャンブリング・ミュージアム(ネバダ州バージニアシティ)の思い出)観光名物の一つとなっています。






ネバダ州バージニアシティの「Delta Saloon」に展示されている自殺テーブル(上)、それに見入る観光客たち(中)、および「Delta Saloon」の外観(下)。Delta Saloonは、数年前まではバーリーの60~70年代のスロットマシンを稼働させるカジノエリアもあったが、現在はただのレストランとなっており、マシンは展示品の一つとなっている(関連記事:新・ラスベガス半生中継 2017年GW カーソンシティ2日目の記録)。

■名前の由来

ゲーム名「FARO」は「PHARO」と記述されることもあり、「エジプトの王を意味する「ファラオ(Pharaoh)」から転訛したものと言われています。調べると、「古いフランスのカードに、ハートのキングとしてエジプトの王が描かれていたものがあったことに由来する」としている資料が複数見つかります。しかし、この説に対して、「ハートのキングがこのゲームで特に意味を持つと言うわけでもなく、また、たくさんの古いカードを調べたが、その説を裏付けるようなデザインのカードを見た例がない」と、疑問を呈している人もいます。

また、このゲームには「Bucking the Tiger」との異名(これは「虎に立ち向かう」とでも訳せばよいのでしょうか?)があり、その由来については、

・初期のカードの裏に虎の絵が描かれていた
・このゲームの道具を輸送する箱に、虎の絵が描かれていた
・このゲームが行われている場所では、それを示すために、外壁に虎の絵が描かれた看板を掲げていた
・多くの賭博場で、ファロのテーブルの上に虎の油絵が掲げられていた

など諸説ありますが、確定はしていないようです。ある人は、「証拠は無いが」と前置きした上で、「19世紀中頃は、虎はファロゲームを司る神と考えられており、『虎に立ち向かう』とか『虎の尻尾をひねる(Twisting the tiger’s tail)』という言葉は、ファロで遊ぶことを婉曲的に言ったものだと思われる。実際、ファロが代表的なゲームであった頃は、賭博場がたくさんあるような通りや地域は、しばしば『虎の小路(tiger alley)』とか『虎の町(tiger town)』と言われていた」と言っています。


1860年代のバージニアシティにおけるFAROテーブル。確かに背後の壁に虎の絵が掲げられている。

■ファロの歴史

英国のパブで人気があった「バセット(Basset)」と言うゲームがフランスに渡り、1691年に時の王ルイ14世がこれを違法としたのを受けて、ジョン・ロウ(John Law 1671-1729)というスコットランド人エコノミストが、法に抵触しないように改造したゲームが原型とされています。

ある評伝によれば、ロウはギャンブル依存症を疑いたくなるようなばくち打ちです。フランスにいた時には、ルイ14世の甥であるオルレアン家当主のフィリップ二世(後のルイジアナ州ニューオーリーンズの名の由来となる人物)を巻き込んで、ギャンブルでたいへんな借金を作ってしまい、ルイ14世によってフランスから追い出されてしまいます。王にしてみれば、自分が禁止したバセットを改造して合法にしてしまったロウに対して面白くない感情もあったのかもしれません。

ロウが考案したゲームの米国への伝来は、1717年ごろ、北米大陸の、後にルイジアナ州ニューオーリーンズとなる地域に、当のジョン・ロウによってもたらされたとされているようです。1803年、その土地が米国によって1500万ドルで買い取られたのを境に、ロウのゲームはミシシッピ流域をリバーボートに乗って急速に普及します。シャープスと呼ばれるプロギャンブラーたちはこのゲームを大いに支持し、「ギャンブラーのゲーム(Game of the Gambler)」と称されました。ファロが行われている風景は、当時の絵や写真にも多く残されており、いかに盛んであったかが伺われます。

しかし、ハウスエッジが小さいゲームであったため胴元に嫌われ、近代から現代へと時代が移るに連れて次第に稼動が減って行きます。また、胴元が少ない利益をカバーしようと不正を行うようになったため急速に客離れが起きたと記述している資料もあります。そんなこんなで、最も高い人気を誇っていたはずのゲームは、1950年代にはネバダ州全体でも僅かに5台のテーブルが稼動しているのみにまで衰退しました。1985年には、リノのラマダというカジノに唯一残っていたテーブルが撤去され、かくしてFAROは絶滅しました。

■FAROの道具

・レイアウト(layout):レイアウトには、AからKまでのカードが、7を折り返し点とする二列の配置で描かれています。描かれるカードのスーツは多くの場合スペードですが、スーツはゲームの勝敗には関係しません。


FAROテーブルのレイアウト。多くの場合、スペードのカードが描かれるが、スーツ自体には意味はない。ラスベガス近郊のヘンダーソン博物館の展示より。

・ディーリングボックス(dealing box):ゲームに使用するカードを入れる箱です。上面には、カードより一回り小さいくらいの大きさの窓が開いており、パックの一番上のカードが何であるかが見えるようになっています。ディーリングボックスの中にはばねが仕込まれていて、セットされたカードは常に窓に押し付けられる形で保持されています。窓の上から見えている一番上のカードを指で横方向にずらすと、そのカードだけがボックスの外に出てきて、次のカードがボックスの最上部に現れます。


ディーリングボックス。バージニアシティのネバダギャンブリングミュージアム(現存せず)の展示より。

・ケースキーパー(casekeeper):ゲームに使用されたカードを記録しておくそろばんです。これによって、ディーリングボックスの中にどのカードが何枚残っているかが一目でわかります。レイアウト同様、ここでもカードの象徴としてスペードのカードが描かれていることが多いですが、ワタシはハートのカードが描かれているケースキーパーを見たこともあります。


ケースキーパー。バージニアシティのDelta Saloonに展示されている「自殺テーブル」より。

・チップ(chip):レイアウトの上に現金の代わりに置いて賭けを行います。
・カパー(copper):チップよりも少し径が小さい6角形のコマで、これをチップの上に置くと、そのカードが負けカードとなることを予想することを意味します。


チップとその上に置かれたカパー。

■基本的な遊び方

・52枚のカードをよくシャッフルし、表面を上にしてディーリングボックスにセットします。

・最初の1ゲームでは、一番上の既に見えているカードは「ソーダ(Soda)」と言って、ゲームには使用しません。ソーダを捨てて次に出てきたカードが1ゲームめの「負け」カードとなります。

・負けカードを抜き取り、次に出てきたカードが「勝ち」カードとなります。これで1ゲームが終了です。この後、「コーリング・ザ・ターン」(後述)までゲームを続けます。

★賭け方

・勝ちカードへの賭け(図の(1))
 レイアウト上の、勝ちカードと予想されるランクの絵の上にチップを置きます。

・負けカードへの賭け(図の(2))
 レイアウト上の、負けカードと予想されるランクの絵の上にチップを置き、その上に更にカパーを置きます。

・スプリット賭け(図の(3)~(6))
 レイアウト上の複数のカードの絵の間にチップを置くと、それらのランクすべてに賭けたことを意味します。形としては、左右2枚の中間、上下2枚の中間、上下左右4枚の中間、6-7-8の3枚の中間があります。チップ上にカパーを置けば、指定するカードのいずれかが負けカードになることを予想することを示します。

・コーナーベット(図の(7)~(8))
 スプリットベットの変形で、レイアウト上のカードの絵の角にチップを置く方法です。レイアウトの外側の角にチップを置くと、そのカードと、一枚飛ばした次のカードの2枚に賭けたことを表し、レイアウトの内側の角にチップを置くと、そのカードと、その斜め上(または下)のカードの2枚に賭けたことを表します。チップ上にカパーを置けば、指定するカードのいずれかが負けカードになることを予想することを示します。

・ハイカード賭け(図の(9))
 勝ちカードが負けカードよりも高いランクであることを予想する賭けです。レイアウト上の「HIGH CARD」の部分にチップを置きます。また、このチップの上にカパーを置くと、負けカードの方が高いランクであることを予想していることを意味します。なお、ファロにおいては、エース(A)は最も低いランクとして扱われます。


FAROの賭け方の図。

・予想が的中すると、賭け金の1倍の配当を得ます。

・勝ちカードと予想したランクが負けカードになるか、または逆に負けカードと予想したランクが勝ちカードになると、賭け金を失います。

・勝ちカードと負けカード両方に同じランクのカードが現れた場合は、そのランクに賭けられている賭け金の半額が胴元の取り分として徴収されます。

・賭けたランクが勝ちカードでも負けカードでもない場合は勝負無しとなります。その場合は、チップをそのままにして次のゲームに引き続き賭けても良いですし、チップを引き上げて改めて別の場所に賭け直しても構いません。

・コーリング・ザ・ターン(例外的な賭け)
 52枚のカードをディーリングボックスにセットすると、一番上のカードは最初から見えているのでゲームには使用しないため、51枚のカードでゲームを続けて行くことになります。1ゲームごとに2枚ずつ使用して行くと、ディーリングボックスの中には最終的に3枚のカードが残ります。コーリング・ザ・ターンは、この残りの3枚の出現順を予想する賭けです。通常は、的中すると4倍の配当が支払われますが、残り3枚の中に同じランクが2枚入っている場合は、配当は2倍になります。3枚とも同じランクの場合は、この賭けは行われません。

■トリビア

・「OK牧場の決闘」で有名な「ワイアット・アープ」は、バージニアシティでファロテーブルのオーナーだったことがある。

・そのアープの活躍を描いた1993年製作の米映画「トゥームストーン」(主演:カート・ラッセル、ヴァル・キルマー 監督:ジョージ・P・コスマトス)に、このファロが登場する。しかし、ファロに関する描写には誤りが多く、なかでもレイアウトのデザインがでたらめで、「一体製作者たちは何を考えているのか」と憤っている人もいる。

・日本のゲーム機メーカーのセガ社は、1974年の「ファロ(FARO)」に続き、その2年後に「プント・バンコ(PUNTO BANCO=カードゲームのバカラのバリエーション)」という、8人用のメダルゲーム機を発売しているが、これも本来のプント・バンコとは何の関連性も無い、ルーレットをモチーフとしたゲームだった。当時のセガ社に、いったい何があったのだろうか。

浅草・三松館を惜しみつつ追懐する

2020年08月09日 21時50分42秒 | ロケーション
今年の1月、浅草六区にあった「三松館」が閉店するというニュースに接し、いずれ拙ブログでも取り上げなければと思っていたのですが、なかなか手を付けられないままもう閉店から半年以上も経過してしまいました。何しろ浅草の名物の一つでしたから、ウェブ上には既にたくさんの関連情報が見つかるので今さらながらなのですが、それでも一応ワタシなりの記録をとどめておこうと思います。

「三松館」とは、今や絶滅危惧種である遊技「スマートボール」と「アレンジボール」(関連記事:シリーズ絶滅種:アレンジボールを記憶に留めておこう)専門の遊技場です。開業は1948年とのことですから、70年以上の歴史を持つロケーションでした。

三松館の末期は、週末と祝日のみの営業でした。建物と遊技機の老朽化からそろそろ潮時と閉店を決められたそうです。今後建物は壊されるが、遊技機は区役所や福祉施設などに寄贈すると聞いています。その後どうなったのか追跡調査はしていませんが、多少なりとも廃棄されずに済んだ台があるならなによりです。




三松館のエントランス(上・人物はワタシの女房)と店内(下)。店内左手の壁沿いにはアレンジボールが並んで設置されていたが、故障で稼働していないものも少なからずあった。この画像は2010年に撮影したもの。




スマートボールの機械と裏側。光が透過すると美しい青いガラス製のボールは、後になって作られたものと思われる。


スマートボールの製造元の銘板。パチンコ誕生博物館(関連記事:【特報】パチンコ誕生博物館オープン(1))によれば、三葉産業は最後のスマートボール製造企業だった。


   
 
アレンジボール各種。いずれも1978年~79年頃の機械のように見える。ほとんどはさとみ(サミー)の製品だが、太陽電子の機械もわずかながらあった(最後の画像)。

ワタシがこの三松館に初めて行ったのは1990年頃だったように思います。勤め先の後輩数名と、仕事をさぼって昼間から、既に天然記念物級の希少ゲームとなっていたスマートボール(とアレンジボール)を経験しに訪れ、出た玉との交換でポラロイド写真を1枚撮ってもらいました。

大阪の「ニュースター」もそうでした(関連記事:大阪レゲエ紀行2019(1) DAY 1・午前)が、今のスマートボールは、パチンコやパチスロのように目を血走らせて熱中するようなゲームではありません。この程度なら、保護者同伴であれば18歳未満の年少者にも遊ばせても良いではないかと思われる程度の射幸性です。海外では、子供向けの娯楽として、ゲームの結果によって払い出されるチケットを貯めて景品と交換できる「リデンプションゲーム」というジャンルが存在しますが、日本でもその程度のことは許してもいいのではないかと思います。それがAM業界の守備範囲なのか、それとも4号業界の守備範囲なのかはわかりませんが、どこでもいいからそろそろ風適法を見直そうという機運が高まって欲しい関連記事:ゲーセンと法律の話(3)新概念「特定遊興飲食店」をゲーム業界に活かせないものか)ものです。

【小ネタ】SEGASA (AKA Sonic)とSEGAの関係メモ

2020年08月02日 20時48分43秒 | メーカー・関連企業
最近、Twitterで、「SEGASA」というゲーム機メーカーの名を2度ほど聞く機会があったので、ワタシが認識するところの「SEGASA」についてメモしておこうと思います。

ワタシの手元にも一つだけSEGASAのフライヤーがあります。これを入手したのがいつ頃だったか、定かな記憶はないのですが、おそらく1990年前後頃のことだったと思います。




SEGASAのフライヤーの表紙側(上)と中身側(下)。ワタシが唯一持つSEGASAのフライヤー。頒布時期は不明だが、1975年より後のことと思われる(詳細は後述)。

表紙の社屋と思しき建造物に、日本のセガが1970年台半ばまで使用していた旧ロゴの書体で描かれた「SEGASA」の文字があしらわれています。このフライヤーを入手した当時のワタシは、いったいこの会社はセガとどんな関係にあるのか不思議でたまらず、いつかこの謎を解きたいと思ったものでした。

それから約30年が経つ間に、いろいろな情報源から、SEGASAはセガ創立の黒幕であったマーティン・ブロムリー関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)とバート・シーゲル(後にATARIの社長を歴任するローレンス・デビッド・シーゲルの父)によって1968年に設立されたスペインのゲーム機メーカーであるという認識に達しました。例えるなら、セガの生みの親が「レメアー&スチュワート」であるなら、ブロムリーはセガの祖父にあたり、SEGASAはセガの祖父がよその女と作った子供にあたる存在と言えるのではないでしょうか。

SEGASAができた1960年代の終わりころというと、セガがスロットマシンメーカーであることに見切りを付けようとしていたころ(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4) セガのスロットマシンその2)です。当時のブロムリーがセガに対してどの程度の影響力があったのかは不明ですが、SEGASAは日米のセガの子会社というわけではなかったようです。ただ、少なくともセガの幹部との付き合いは継続していたらしく、SEGASAはセガのゲームをヨーロッパで供給していました。ただし、それらは日本から輸入したものではなく、ヨーロッパで部品を調達して製造していたそうです。

それと同じように、SEGASAはピンボールにおいても、米国の大手メーカーの製品とそっくりな、しかしアートワークやフィーチャーなどがオリジナルとちょっと(ものによってはかなり)異なる、一見パクリのコピー品に見えるものも多く作っていました。それらの中には、オリジナルから正式に許諾を得ていたものもあるそうですが、全てがそうであったわけでもないように見えます。

SEGASAは1975年頃になると「SONIC」という商号(フライヤーに見える「D.B.A. SONIC」は、「ビジネス名ソニック(Doing Business As SONIC)」の意味)を使うようになります。これは、日本のセガがこの頃にロゴを変更したことに伴うものであろうとの推測もありますが、真相はわかりません。いずれにしても、このSONICブランドのSEGASA製ピンボール機は日本にも結構入ってきており、ワタシもエプロンに描かれたSONICのロゴをよく見かけたものでした。ただ、ワタシには、「ソニックのピンボールってなんかあんまりおもしろいと思えないのよねー」という印象が残っています。


SONICブランドのピンボール機に描かれていたロゴ。この画像は「BUTTERFLY (Sonic, 1977)」のエプロンから。

ソニック・ザ・ヘッジホッグ」と言えば今やセガの顔ですが、こちらのソニックが初めて世に出たのは1991年のことですので、その15年くらいも前に使われていたSEGASAのビジネスネームであるSONICとの間には何の関係もなさそうです

SEGASAを調べていると、1970年代の前半頃には米国のピンボールメーカーWilliams社と縁が深い「Seeburg」社がその半分の株式を持つとか、英国のスロットマシンメーカーJPM社が絡んでくるとか、なんだかよくわからない話がいろいろと出てくるのですが、これらはまだ調査できておらず、今ここで記録できるほどまとまった話はありませんので、これらはおいおい調べていきたいと思っております。現時点では、

・SEGASAは、日本のセガ設立の黒幕だったマーティン・ブロムリーがスペインに作ったゲーム機メーカー。
・SEGASAは、日米のセガの子会社というわけではないが、繋がりが全くなかったわけでもない。
・SEGASAは、1975年頃から「SONIC」というビジネスネーム(ブランド名)を使うようになった。
・SONIC(SEGASA)のピンボールは、1970年代から80年代にかけて、日本にも多く入ってきている。
・「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」とは関係ない。


とまとめておきたいと思います。