オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【補足情報】SEGA RETROさん、それ違うってば!のフォロー

2024年01月30日 21時18分50秒 | 訂正・追加等
前回記事「SEGA RETROさん、それ、違うってば!」をアップした翌日の1月29日(月)朝、お馴染のCaitlynからメッセージが届き、「SEGA RETROの記事を書いた人もあなたの最新の記事を読み、元ネタを事実であるかのように理解していたと恥じ入り、SEGA RETROの方は修正すると言っている」と教えてくれました。まずは知らせてくれてありがとう、Caitlyn。

「SEGA RETRO」の記事を書かれた方、ご理解下さりありがとうございます。もしあなたがワタシのあの記事で多少なりとも傷ついたのであれば大変申し訳なく思います。あの記事の意図は、ワタシのブログに起因する誤解に基づいた歴史が海外のウェブサイトで紹介されていることへの危惧と、その誤解を解く能力がワタシに欠けている焦りを表明するにとどまるもので、誤解を責め立てようなどとは全く意図しておりません。むしろワタシは、言葉の障壁を超えてAM業界の歴史を残そうと努力されている方に敬意を表します。

さて、この機会に改めて、「多分こうだったんじゃないか劇場」で述べられている内容のうち、オリンピアに直接関係する部分について、改めて創作部分を明確にしておこうと思います。まずは創作、フィクションから。

◆FICTION
(1)タイトーがサービスゲームズに倣ってスロットマシンの開発を決定したとする部分。
  →タイトーがオリンピア、もしくはスロットマシンの製造を決めた動機も時期も全く不明。

(2)タイトーがスロットマシンの開発を1960年に始めている部分。
  →資料(タイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」)では、オリンピアが世に出るまでの経緯を説明する文脈で「1960年ごろから準備し」と記述しているが、その時期にスロットマシン、もしくはオリンピアの開発を始めたとは判断できない。

(3)実在する「パシフィック工業」をモデルとする「パン・パシフィック工業」の設立を1960年としている部分、並びに「ロイヤルクラウン」が1963年以前に作られていたとする部分。
  →タイトーの公式見解ではパシフィック工業の設立年は1963年。それを信じるなら、パシフィック工業製品のシンボルである王冠エンブレムが付いている「ロイヤルクラウン」は1963年より前には存在しないはず。また1960年頃から準備を始め1964年に認可されたというオリンピアは、太東貿易が当初からスキルストップボタンを有する新たな風営機を目指して作っていたことになる(にわかには信じがたいストーリーではあるが)。

(4)タイトーはスロットマシンが売れなかったのでオリンピアに転用したとする部分。
  →「ロイヤルクラウン」と「オリンピア」は、どちらが先に作られたかはわからない。ロイヤルクラウンは、オリンピア市場が確立した後にタイトーがセガを模倣して製造した可能性も否定できない(これもまたにわかには信じがたいストーリーではあるが)。

(5)タイトーの抗議に対しサービスゲームズは自社の優位性を以てタイトーに協業案を飲ませたとする部分。
  →タイトーとセガの間でどんな協議が行われたかは全く不明。警察が仲立ちしたとの話を何かで見聞したことはあるがその真偽は不明。

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一方、事実と判断、もしくは強く推認できるのは以下の点です。

◆TRUE
(1)オリンピアは、1964年に風俗第7号営業の遊技機として認可された事実。
  →出典はタイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」。

(2)オリンピアの類似機種を作り始めたサービスゲームズにタイトーが抗議した事実。
  →出典はタイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」。ただし「サービスゲームズ」の部分は原典では「日本娯楽物産など」としている。また、抗議の内容は不明。

(3)タイトーがスロットマシン「ロイヤルクラウン」を作った事実。
  →出典は米国の業界誌「Cash Box」1968年7月号にタイトーが掲載した広告。

(4)タイトーの「ロイヤルクラウン」はセガのスロットマシンのコピーであると強く推認できる。
  →海外のレトロゲームのフォーラムに、「ロイヤルクラウン」をセガまたはミルズ製と誤認している愛好家がいる。

(5)タイトーとセガが共同で「株式会社オリンピア」を設立したと強く推認できる。
  →「株式会社オリンピア」は実在しており、日遊協の「パチスロ史~誕生から5号機まで~」では「販売はセガと太東貿易が行った(趣旨)」とある。

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「たぶんこうだったんじゃないか劇場」は、長年の謎で今後も判明することはおそらくないと思われるオリンピアができるまでの経緯を、自分を納得させるために創作したストーリーです。

拙ブログではそれまで意図的なフィクションを掲載したことが無かったので、あたかも事実、もしくは多少なりとも合理性を伴った推理であると誤解されたことはあったかもしれません。そのような方々にはお詫び申し上げます。



SEGA RETROさん、それ、違うってば!

2024年01月28日 19時07分21秒 | その他・一般

先日、ブログの管理者画面を見ていたところ、拙ブログに海外のウェブサイト「SEGA RETRO」からアクセスがあったことに気づきました。

「SEGA RETRO」は、「1940年代から今日までのセガについて可能な限りすべてをカバーすることを目指し」、「現在38,701 件の記事がある」(トップページより)とのことで、レトロゲームファンには興味深い記事が多く、ワタシもこれまでしばしば参照させていただいています。

SEGA RETROのトップページ。

拙ブログへのリンクが「SEGA RETRO」のどこに張られているのかとクリックしてみると、回胴式遊技機の嚆矢であるオリンピアを販売運営していた会社を説明する記事「Olympia (company)」からでした。

しかし、この「Olympia (company)」は事実に基づかないいわゆる「トンデモ」で、それもそのはずこの記事は、ワタシが一昨年に連載したおふざけ記事「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場」をソースとして書かれていたのです。

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場シリーズ:

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(1):プロローグ

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(2):第1幕/第2幕

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(3):第3幕

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(4):第4幕/第5幕

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(5):ファクトチェック

「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場」シリーズで使用した画像の一部。この物語は、タイトーが回胴式遊技機を開発して最終的にセガと協業するまでのストーリーを、断片的に判明している事実を混ぜて創作した、あくまでもフィクションである。

ワタシのこの一連のシリーズ記事は、毎回冒頭で「この物語は実際の出来事を基に創作したフィクションです」と断り書きを入れているのですが、「SEGA RETRO」の「Olympia (company)」はそれに言及せず、ワタシが創作した部分を「it is speculated(推測されている)」としてしまっています。さらに別記事「Olympia Star」でも同様の「曲解」が行われており、「SEGA RETRO」の読者がこのフィクションを真に受け、存在しなかった偽の歴史が信じ込まれてしまう可能性を危惧しています。

ゲームの歴史を残すことが目的の一つである拙ブログを参照、引用して拡散してくださること自体はむしろありがたく、感謝もいたしますが、情報を伝達する際にはソースの信頼性と言うものにもう少し神経を使っていただきたいものです。

なお、「SEGA RETRO」に掲載されている記事は、誰でも加筆、訂正ができるウィキシステムで作成されているそうです。そして「SEGA RETRO」は、ウィキペディアほど典拠についての要求が厳しくないようですので、はっきりとわからない点については自身で裏付けとなる補助情報を探すなど、読者の方で積極的に注意する必要があり、鵜呑みにするのは危険です。

こちらの意図を誤解なく伝えられるほどワタシは自分の英語能力に自信がないので、下手に指摘するのも憚られます。と言うことで、この「SEGA RETRO」、どうしたものかなあ。


【小ネタ】ラスベガスで大当たりを当てた時の税金の話

2024年01月21日 20時48分33秒 | 海外カジノ

拙ブログは2021年6月、「プログレッシブ・ジャックポットの進化の話」の中で、歌手の田端義夫さんがラスベガスで29万ドルの大当たりを引き当てたエピソードをご紹介して、「(当時のNHKの報道では)アメリカと日本の両方でかなりの額が税金に消えそう」と報じらている、としましたが、具体的にどのくらいのお金が田端さんの手元に残るのかは明言されておらず、下々としては気になるところでした。

先日、国会図書館でアサヒグラフのバックナンバーを眺めていたところ、偶然にもこの大当たりの記事を発見しました。

アサヒグラフ1979年9月14日号の、田畑義夫さんのジャックポットを報じる記事。モノクロだが見開き2ページで紹介されている。

この記事によると、田畑さんの奥方はメリーさん、ご息女はジャニスさんとおっしゃるとのことで、田畑さんは当時はまだ一般的ではなかった国際結婚をされていることを知りました(ただし、ウィキペディアによれば田端さんは3回離婚、4回結婚しているとのことで、これが何回目の結婚かは不明)。

それはさておき、問題は税金でいくら引かれるか、です。記事本文を読むと、「日本の国税庁によると、一回分の賭け金と50万円を引いた額の二分の一が税金となる」とあり、さらに「既に現地で三十パーセントほど差し引かれたということも聞いており、もちろんそれを引いた額に課税させていただく」と続いています。

さて、田端さんが当てた大当たりは29万ドルです。アサヒグラフによる邦貨換算では「約6400万円」とされているので、当時の為替レートは1ドル≒220.7円です。
ネバダ州では、海外からの旅行者がマシンゲームで1200ドル以上の当たりを引くと30%の税金が徴収されます。田端さんが大当たりを引いた機械はプログレッシブなので1万ドル未満の端数もあったはずですが、ここはざっと29万ドルで計算することにすると、ネバダ州での税額は8万7千ドルとなり、残るは20万3千ドル、邦貨換算で4480万2100円になります。

日本国内での税金の計算は、前述のとおり一回分の賭け金と50万円を引いた額の二分の一ということでした。1回の賭け金3ドルは662.1円ですから、4480万2100円から50万662円を引いた残りは4430万1438円で、この半分の2215万719円が日本国内で収める税金額となり、つまるところ田端さんの手元に残るお金は2265万1381円で、元の半分以下になってしまいました。

この大当たりが出た1979年当時、日本では「ジャンボ宝くじ」と称する大型宝くじが始まり、1等前後賞を合わせた賞金額は3000万円でしたから、それよりも低い金額となってしまいました(スロットマシンの確率がわからないので厳密な期待値の計算ができないためどちらが有利かは判断しません)。

現在の税制はこの当時とは違って、税金を払うのは日本国に対してだけで良くなっているはずなのですが、カジノでの税務処理は必ずしも統一されておらず、1200ドルを超えるジャックポットを出すたびに税金を取られている女房は少し憤慨しています。

関連する情報として、昨年、課税点となる1200ドルは何十年も前の基準であって現在なら5000ドルに相当するはずであるから法律を変えるべきだとの議論が行われているとの報道があったのですが、残念ながらまだ法改正があったとの報道は見ていません。次回の巡礼までに改正されていれば良いのですが(←大当たりが出せるつもりでいる目出度い人)。

24.01.22追記:SNSで、「現在の税額計算は、 『一回分の賭け金と50万円を引いた額の二分の一が税金』ではなく、 『一回分の賭け金と50万円を引いた額の二分の一に他の所得金額を加えて、その額に応じた税率で課税される』ではないか」とのご指摘をいただきました。ワタシは税金には詳しくありませんが、とりあえず本文の計算は、他の所得を考慮しない、あくまでも29万ドルだけを考えたものとの前提での計算とご承知おきいただければ幸いです。

コメントをくださった方、どうもありがとうございました。またお気づきのことがありましたらご指摘ください。


【補足】前回提示したいくつかの謎について続報

2024年01月14日 20時33分35秒 | 初期の国産メダルゲーム機

前回の記事「【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり」の中で「よくわからない」と言っていた部分について、ご高覧くださった方々からSNSやコメントなどでいくつかの情報をいただきました。どうもありがとうございます。そこで今回は、前回の補足としていただいた情報を整理、記録しておこうと思います。

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まずはセガが作ったBallyのコピー品について。ワタシが知る限り、セガはBallyのコピーと思しきスロットマシンを3機種作っています。
一つは前回の記事でご紹介した「ボーナスライン」、残りのふたつは「ボーナスツイン (Bonus Twin)」と「ラッキーダブル (Lucky Double)」です。しかし、これらがいつごろ作られたものなのかは今までずっと謎でした。

「ボーナスツイン」は、3リール3ラインで2つのプログレッシブジャックポットが搭載されています。これはBallyの「スーパージャックポット (1970)」のコピーと思われます。

「ボーナスツイン」(上)とBallyの「スーパージャックポット」(下)。スーパージャックポットの筐体画像はゴーストタイプで「ラッキーダブル」とは異るが、フライヤーの左下には通常のモデルのペイアウトテーブルも掲載されており、セガはこちらをコピーしたものと考えられる。

「ラッキーダブル」は5リール1ラインですが、右の4つのリールでBallyの4リール1ラインマシン「スーパーコンチネンタル (1970)」と同一のゲームを行います。ただし、最も左のリールはペイラインに「LUCKY DOUBLE」のシンボルが停止すると配当が2倍になるフィーチャーがあり、ペイアウト率を考えると、リールに配されている絵柄の構成はBally製品とは異なると思われます。

Bally製品には「ラッキーダブル」と同一のゲーム性を持つ製品が見当たらず、おそらくセガが「ボーナスライン」の部材を使い回してオリジナリティを出そうとしたのかなあと疑いますが、ゲーム性としてはあまり優れているとは言えないと思います。

「ラッキーダブル」のフライヤー(上)と、Ballyの「スーパーコンチネンタル」のフライヤー(スウェーデン版)(下)。

いただいた情報によると、これらセガの3機種のうち、「ボーナスライン」は1973年製、「ボーナスツイン」と「ラッキーダブル」は1974年製であるとのことです。これにセガの他のメダルゲームを含めて製造時期の早い順に並べると、

1973
ボーナスライン

シルバーフォールズ

1974
ファイブスター96

ファロ

ラッキーダブル

ハーネスレース

ボーナスツイン

となるとのことで、その通りであれば国産初のメダルゲーム機はボーナスライン、国産初の大型メダル機がシルバーフォールズと言うことになります。

ただ、だとすると少し腑に落ちない点があります。Ballyのコピーを作ったのであれば、当時のセガには払い出し機構にホッパーを搭載する技術はあったはずです。しかし、この頃のセガは他のメダルゲーム機にはホッパーを使っていません。ホッパーはスライサーよりもコストがかかるという理由であれば、ホッパー搭載のスロットマシンを作った理由はやはりカジノ向けのつもりということだったのではないかとの疑念も払拭しきれません。

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もう一件、「アスコット」については、拙ブログではおなじみのCaitlynが自身のブログで採り上げ、米国のコインマシン業界誌「Cash Box」1966年12月17日号の記事が紹介されています。そこでは1966年にロンドンで開催されたトレーディングショウ「ATEショウ英国のディストリビューターからセガの『アスコット』が出展された」と報告されています。

改めて前回ご紹介した総合カタログに掲載されてる「アスコット」と、単体のフライヤーの「アスコット」を見直してみると、若干の差異があります。

頒布時期不明の「アスコット」のフライヤーの筐体部分(上)と、74年に頒布されたフライヤーに掲載されている「アスコット」の部分(下)の比較。フライヤーの方には、ゲームのインストラクション部分に英国の通貨単位である「1d」の表示が見える。また、電光ルーレット盤の構成が双方で異なっている。

ワタシはこれまで、「ボーナスライン」などのBallyのコピー品、及び「アスコット」については、フライヤーが存在するという事実以外は全く何も知りませんでした。それが、ご高覧くださる皆さまのおかげでこれらの背景が少しですがわかってきました。本当にありがたいことです。どうぞこれからもお気づきのことがございましたらご教示いただけますようお願い申し上げます。


【謹賀新年】初の国産メダルゲーム機発売から51年目の始まり

2024年01月07日 18時43分11秒 | 初期の国産メダルゲーム機

今年2024年は、初の国産メダルゲーム機「シルバーフォールズ」(関連記事:初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ)が発売されてから51年目となります。セガは、シルバーフォールズが発売された翌1974年に、おそらく日本初のメダルゲーム機の総合カタログを頒布しました。

セガが1974年に頒布したメダルゲームカタログ。二つ折り全4ページで構成されている。

「総合カタログ」とは言っても、なにしろまだメダルゲームは国産化が始まったばかりなので、それほど多くの製品はありません。嵩を増やすため(もしくは在庫処理のため)に、スロットマシンとして製造したウィンザーシリーズをメダルゲームに転用することは理解できますが、「アスコット」、「ボーナスライン」、それに「ファイブスター96」の3製品については詳しいことがわかりません。

アスコット」は、米国エヴァンス社の「ウィンターブック」のコピーのように見えます。拙ブログではおなじみのCaitlynが作成している「外国人のためのエレメカアーケードゲームガイド」では1966年の製品としています。

エヴァンス社の「ウィンターブック」。この個体はかつてsigmaが自社のロケで稼働させていたものと思われる。

しかし、1966年はまだ日本のAM市場にメダルゲームと言うジャンルは成立していません。一体セガは誰を相手にするつもりで「アスコット」を作ったのでしょうか。海外輸出用でしょうか。

次に「ボーナスライン」ですが、これは米国Bally社のスロットマシン「EXTRA LINE (1971)」のコピーのように見えます。

Ballyの「EXTRA LINE」のフライヤー。

セガは、ウィンザーシリーズを最後に海外のスロットマシン市場から撤退したと思っていた(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4) セガのスロットマシンその2)のですが、この「ボーナスライン」はメダルゲームとするつもりだったのでしょうか。セガは他にも「ラッキーダブル」及び「ボーナスツイン」の、二つのBally製品のコピーを作っていますが、製造年はいずれも不明です。(24/1/7追記:SNSで、ラッキーダブルとボーナスツインは共に74年製のようであるとご教示いただきました! ありがとうございます!!

ファイブスター96」もよくわからない機種です。ここでは最高96枚のメダルを払い出すメダルゲームとして紹介していますが、1977年に頒布した価格表ではオリンピア機と並べて「ライセンスマシン」(つまり、風営機)として売り出しています。しかし、風営機であれば96枚もの大量の払い出しが認められるはずがなく、おそらくルールが改変されているはずですが、詳しいことはわかりません。

1977に頒布された価格表から、風営機としてのファイブスター96の部分。オリンピアマークIIIと共に掲載されている。

また、それ以前の1975年ころには「ファイブスターQ」を発売していますが、こちらはAM機(プライズ機)です。

「ファイブスターQ」のフライヤーの表裏。アレンジボールのバリエーションだった(と思われる)「ファイブスター96」とは機構が全く異なる。

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さて、遅れましたが、明けましておめでとうございます。今年もこんな具合で古い娯楽機の記憶や謎などについてつらつらと書き散らかしていこうと思います。もし、ご高覧くださる皆さまに思うところなどがございましたら、コメント欄にてお聞かせいただければ幸甚です。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。