オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ, 1974)

2018年03月24日 16時11分45秒 | 初期の国産メダルゲーム機
「競馬」は、海外でも古くからペイアウトのあるコインマシンに採り入れられてきたテーマです。日本でも、メダルゲーム機の開発を始めたごく早い時期から現代に至るまで、多くの競馬ゲームが作られてきました。

ワタシは、初の国産競馬ゲーム機は、セガの「ハーネスレース」(Harness Race, 1974)であると考えています。これには若干の注釈が必要だと思うのですが、それは本文の最後で改めて触れることにして、まずは本題から記録していきます。




ハーネスレースのフライヤー。A3判を二つ折りにしているうち、表紙側(上)と中側(下)。

ハーネスレースとは、馬に一人乗りの二輪馬車を引かせて行う競馬のことです。日本でも「繋駕(けいが)速歩競走」と称して細々と行われてはいましたが、あまりになじみが薄いためか、フライヤーには平凡社の百科事典の解説が記載されています。セガの「ハーネスレース」は、その名の通り騎手が乗る車を引っ張る馬の人形がトラックを走行しました。


「ハーネスレース」のフライヤーから、プレイフィールド部分のアップ。車輪の付いた台に騎手が乗っている人形が確認できる。ときに、スケール感がおかしい観客席の観衆と同じタッチの絵は、1970年代中頃から80年くらいまでの時期にセガが製造していたフリッパー・ピンボール機をはじめ多くのゲーム機で見られるが、このアーティストの名前は残念ながら伝わっていない。

「ハーネスレース」のレースプログラムは毎ゲーム同じで、5頭立ての連複のみ、1番人気の3倍から大穴の28倍まで10種類の組み合わせがありました。一つの組み合わせにメダル4枚までベットでき、ベット数はLEDランプの点灯数で示していました。まだ払い出し機構にホッパーが使われない時代で、大量のメダルを払い出すことができなかった時代のことなので、これでも用が足りていたのでしょう。

また、この頃のメダルゲーム機はクレジット機能という概念も無かった時代でもあったので、メダルを1枚投入するたびに任意の一か所にベットするというスタイルだったのですが、「ハーネスレース」では、メダル投入後にベットボタンを拳などで強く叩くと、その衝撃に同時に反応した全ての組み合わせにメダルがベットされたことになってしまうという設計上の不備が発見されてしまいました。この不正行為は比較的よく広まったため、ロケーションによっては二つのL字型の金属板をボタンの左右を挟むように取り付けるなどして、ボタンを叩けないようにする改造を行うところもありました。


コントロールパネル部分のアップ。

ハーネスレースでは、各馬が1着になる確率をビルボードに明示していたので、レース結果を毎回記録して次の出目を予想する人を良く見かけたものでした。そんなことをしても出目の予想の材料としては意味はないのですが、それを意味があると錯覚させる演出は秀逸だったと思います。


ハーネスレースのビルボードのアップ。組み合わせのオッズと、各馬が1着になる確率が明示されている。

この1着になる確率の掲示を見たとき、既に中学校の数学の時間で確率は習っていたワタシは、この数字から連複の確率も計算できるのではないかと思いました。そして、いつか暇なときに計算してみようと思いはしたのですが、それから今日までの40年余りの間、ずっと放置しておりました。しかし、このたび本記事を書くことを好機として、長年の積み残し案件を解決することにしました。

実際の着順を決めるアルゴリズムはわかりませんが、1着になる確率が高い馬ほど2着になる確率も高いことは明らかです。そこで、ある馬を1着とした場合、それ以外のすべての馬の1着になる確率(A)を合計した数(B)に対して、1着以外の各馬の(A)が占める割合が2着になる確率であると考え、これを1~5の馬それぞれが1着になった場合のすべてについて計算してみました。


ハーネスレースの各出目の出現率とペイアウト率。「トゥルーオッズ」とは、フルペイとする場合の配当率のこと。「P/O」はペイアウト率のことで、トゥルーオッズに対してゲームオッズが何%あるかを示している。

その結果、「ハーネスレース」の平均ペイアウト率は70.5%と判明しました。同時期の「ファロ」の平均ペイアウト率が85.2%だったので、おそらくハーネスレースもそのくらいかと思っていたので、これは意外なほどに低い設定です。仮に全てのオッズを+1したとしても、平均ペイアウト率は80.5%にしかなりません。

特に気になるのは、オッズの高い組合せの方がペイアウト率が高く設定されているという点です。多くのカジノのゲームでは、オッズが高い賭けほどペイアウト率を抑えるのが通例なのですが、「ハーネスレース」はその逆の傾向を示しています。

もう一つ、組合せ「1-4」と「2-3」の出現率は殆ど同じなのにオッズに1倍の差がある点も気になります。これにより、「1-4」のペイアウト率が異様に低く、逆に「2-3」が(比較の上では)お買い得になっています。

この表を見て思うこととして、本当は手を出しちゃいけないゲームだけど、どうしても遊ばなければならないなら、常に「4-5」一点張りに徹するのが、ワタシからの推奨手という結論に達しました。今は表計算ソフトなどという便利なものがあるので計算自体は案外簡単にできましたが、長年抱えていた懸案事項が解決して、ワタシは今とても清々しい気分です

さて、話変わって「ハーネスレース」の機構についても述べておこうと思います。ダートの静電植毛されたプレイフィールドの下には、トラックを一周する台があり、この台の上に、プレイフィールド上の各馬を引き付ける磁石が乗っていました。この磁石は、台の上で前後に動くようになっており、馬の全体的な移動は台を走行させて行い、順位の差は台上の磁石を前後させることで付けていました。


ハーネスレースの機構概念図。トラックを一周する台(クリーム色の直方体)の上に各馬に対応する磁石(赤い円)が付いている。磁石は、台の上で一定の範囲で前後する。

ハーネスレースは、定価410万円、業者価格で320万円(1977年に発行されたプライスリストによる)という、当時としてはたいへん高価な機械でしたが、数か月前に発売されたファロ(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)とともに、当時のほとんどのメダルゲーム場に設置される大ヒット機となりました。

「ハーネスレース」が発売されてからおよそ半年くらい後のこと。「フジ・エンタープライズ」という会社が、「ハーネスデラックス」(Harness Delux)という機種の広告を、業界誌アミューズメント産業の1975年5月号に掲載しました。


フジ・エンタープライズが業界誌に掲載した「ハーネスデラックス」の広告。

よく見ると、コントロールパネルの仕様はオリジナルとほとんど同じに見うけられます。観客席の絵もオリジナルと雰囲気は似ていますが、これは新たに描きおこしているようです。おそらくは、セガの「ハーネスレース」を土台として、主に外装を作り直したものと思われます。合皮張りのアームレストや本体は、確かにオリジナルよりもはるかに豪華に見えます・・・

・・・と思っていたら、フジ・エンタープライズはその年の業界のトレーディングショウに、「ハーネスデラックス・トウェンティ」という機種を出してきたようです。


アミューズメント産業誌1975年12月号に掲載された、ショウに出品された製品紹介から、「ハーネスデラックス・トウェンティ」のページ。

詳しいことはわからないのですが、「ハーネスデラックス・トウェンティ」は、席数を20席に大幅に拡張し、長さはオリジナルよりも倍以上のサイズとなっているので、全く新規に開発したものと思われます。これがどの程度売れたのかはわかりませんが、席によってはフィニッシュラインが遠くて見づらく、またゲーム時間も長くなってしまうので、あまり普及しなかったのではないかと思います。

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冒頭で「初の国産メダル競馬ゲーム機はセガのハーネスレースだがこれには若干の注釈が必要」と述べた件についてご説明いたします。ワタシはこれまで、初の国産メダルゲーム機はセガの「ファロ(FARO, 1974)」と「シルバーフォールズ(Silver Falls, 1974)だと何度か述べてまいりました。

しかし、ゲームの結果によって払い出しが行われるゲーム機自体は、ファロ以前から既に国内で製造されていました。そのような機械は、日本にまだメダルゲームというジャンルが定着する以前の1960年代から、飲食店などで違法なギャンブル機として使われていました(関連記事:ロタミントの記憶 / セガのスロットマシンに関する思いつき話)。

AM業界では、そのようなアングラ市場での稼働を前提とするゲーム機を「Gマシン」(GはGambleのG)と呼んでいます。拙ブログでは、Gマシンはメダルゲームとして作られたものではないという理解から、メダルゲームとは区別して考える方針でおり、従って初の国産メダルゲーム機はあくまでも「ファロ」であるとするのがワタシの見解です。「ハーネスレース」も同様で、それ以前から競馬をテーマとしたGマシンは存在していましたが、メダルゲームとしての初の競馬ゲーム機は、セガの「ハーネスレース」であると判断しています。

そもそもメダルゲームというジャンル自体が海外のギャンブル機から始まったものですし、またメダルゲーム機だってGマシンに転用することは可能であり、そしてその逆もまた真で、メダルゲームとGマシンの本質的なゲーム性には違いはありません。しかし、良い喩えではないかもしれませんが、天然の鮭と養殖の鮭を混同して扱ってしまうと、どこかで何らかの支障が生じる予感がするのに似た警戒感があって、ワタシはメダルゲーム機とGマシンは区別することにしています。


(競馬ゲームその2につづく)

初期の国産メダルゲーム機(2) ダブルアップ / スピナコイン

2018年03月21日 15時57分22秒 | 初期の国産メダルゲーム機
「ダブルアップ」(Double Up)は1974年にセガから発売された一人用メダルゲーム機です。


「ダブルアップ」(1974)のフライヤー。

一見してどんなゲームなのか見当がつかない、不思議な筐体です。肝心な部分をアップで見ると、こうなっています。


筐体の主要部分とプレイフィールドのアップ。

コントロールパネルの前面には、ピンボールゲーム機のプランジャー(ボールを打ち出す竿)のようなものが見えます。また、プレイフィールドにはメダルが6枚落ちているのが見えます。さて、これでゲーム内容が想像できるでしょうか。このゲームは、「メダル投入口にメダルを1枚投入し、その後プランジャーを引いて離すと、メダルはくるくるとスピンしながらプレイフィールド上を彷徨い、最終的に4つの円のいずれかの中に倒れて留まれば勝ちとなる」というものでした。

勝てばメダルが2枚出て来るのですが、このゲームが考えたなと思わされる点は、ゲームに負けても、次に投入したメダルで勝てばメダルが4枚、さらにそれで失敗しても次のメダルで勝てばメダルが6枚出るというように、継続してプレイすればそれまでの負けを取り返せるので、なかなかゲームをやめることができないところにあります。しかし、プレイを継続する場合、プレイフィールドに残ったメダルが邪魔になることもあります。そこで、プランジャーの向きを左右に動かしてメダルを打ち出す方向を調整できるようになっていました。

プレイフィールド上に残ったメダルは、ゲームに勝つか、継続プレイが10回に達するか、またはリセットボタンを押すと、「ベルトコンベアの要領で回収される」とフライヤーには書かれていますが、それが実際にどんな動作だったかは記憶にありません。

ワタシはこのゲームを、たしか目蒲線(現・目黒線)武蔵小山駅のアーケード街で見かけています。何度かトライし、何度かは成功しましたが、まるで機械が目で見て結果を判定しているかのようなテクノロジーが大いに不思議だったものでした。フライヤーには「光導電素子(こうどうでんそし)による、感知回路」とあり、調べるとどうも「当たる光の量によって抵抗値が変化する」電子部品ということのようで、メダルが円形の窓を塞ぐことによって入って来る光の量が減少すると当たりと判断するということなのかと思われます。まだパソコンなどと言うものは存在せず、単純な電卓でさえ1万円もした1974年時点でもこういう技術が既に実用化されていたと聞くと、ちょっと意外な感じもします。

セガは、翌1975年に、「ダブルアップ」と同じ筐体を使った「スピナコイン」(Spinna Coin)を発売しています。


「スピナコイン」(1975)の筐体画像。1975年か76年に発行されたセガのメダルゲーム総合カタログより。

こちらは、私は実際にロケーションで見た覚えがありません。ゲームの勝利条件は「ダブルアップ」と同じであろうことはわかりますが、バックグラスを見ても、どういう条件で何枚のメダルが払い出されるのかがわかりません。間違って動画でもアップされていないかと期待して「sega "spinna coin"」のキーワードでググってみたところ、たったの3件しかヒットせず、うち2件は拙ブログでした(ありゃま)が、最後の1件はなんと「PENNYMACHINES.CO.UK」という英国のサイトのフォーラムでした。

そこにあった3件の投稿をメモしておこうと思います。

スピナコイン 投稿者:treefrog 2013年2月14日(木)10:06pm
セガのスピナコインという珍しいアーケードゲームがebayに出ていた。
出品者が言うには、「これは試作品で、遊び方は、コインをプレイフィールドに打ち込み、スピンするコインを4つのスポットのいずれかに着地させる。もし成功すると、ディスプレイパネルに示される量を獲得する」とのこと。おそらくUKには絶対に輸入されていないであろう。

Re:スピナコイン 投稿者:malcymal 2013年2月15日(金)9:58am
うーむ、これがどのくらい古いか定かではないが、おそらく80年代ではないかと思う(←ワタシ注・いえ、1975年です)。セガは今もコインプッシャーを作っており、私は似たタイプの機械を現代のゲーセンで見たことがある。コインは円内に着地する必要があり、失敗するたびにプレイフィールドは機械仕掛けで傾き、コインはキャッシュボックスかホッパーに回収される。これは非常に古い、面白い趣向のゲームがベースになっている。私は、移動遊園地の、ペニー硬貨を木製の台に転がし入れ、四角の中に入るといくらかのコインがもらえるゲームを思い出す。私は去年の祭日に、すべてが手作りの農場に似た場所で、まさにこれに似たゲームを遊んだ。それは楽しく、いくらかのブリテンの牛と豚を連れて橋を渡ってペニー硬貨を得ようとチャレンジした(ワタシ注・何を言ってるのか全然わかりません(泣))。

Re:スピナコイン 投稿者:andycdotp 2013年2月15日(金)11:18am
あああ、昔のPinna Co ラリったナウなヤングを誘い込んでハメるためにナイトクラブに置かれるような機械だね:p
なんちゅう恐ろしい機械だ(@Д@)


いやー、難しい(汗)。ワタシは半分くらいしかわかりませんでした。英語に堪能な方は、上のハイパーリンクからご自分でご確認して、ご面倒でなければこちらでご教示いただければありがたいです。

ところで、「ダブルアップ」や「スピナコイン」に類似したゲーム性を持つゲーム機としては、以前の記事で触れた「DING-A-BELL」(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)があります。


DING-A-BELLのフライヤー。製造年不明、英国デニス・ジェザード社製

「DING-A-BELL」は、プランジャーでメダルを弾き飛ばすのではなく、スリットからメダルを投入し、プレイフィールドに開いている丸い穴に入れば勝ちというゲームで、穴に入らずプレイフィールドに溜まったメダルの回収は、プレイフィールドを機械仕掛けで傾けて行っていました。「DING-A-BELL」のメーカーである「Dennis Jezzard」社は英国イングランドの企業なので、2番目にコメントしているmalcymalさんが言っている「似たタイプの機械」とは、ひょっとするとこのゲーム機のことなのかもしれません。

結局のところ、「スピナコイン」の配当がどうなっているのかはわかりませんでした。バックグラスの配当表を見て推測すると、メダルがスピンしている間、点灯する配当のランプが一定の法則で移動し、メダルが静止した時点で移動が止まって、その時に点灯していた数のメダルが払い出されたものと思います。そして、3つある配当表は、最初のゲームでは下段、継続ゲームの2回目で中段、継続ゲーム3回目で上段が使われるのではないかと考えてみました。


スピナコインのバックグラス部分のアップ。配当表が3段階あるように見える。

(つづく)

初期の国産メダルゲーム機(1) マッチマップ(Match'em Up, SEGA, 1975)

2018年03月18日 15時13分26秒 | 初期の国産メダルゲーム機
2月28日、記事「セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975)」に、「ファンさん」という方からこのようなコメントをいただきました。

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(前略)昔のメダルゲームってすごく夢がありました。今でもいろいろなマシンを思い出します。左右のランプが点滅し、どちらの点灯状態で止まるかを当てる「マッチマップ」や、ビデオポーカーではない機械式(反転フラップ式っていうんでしょうか?)のポーカーなんかはすっごく興奮しました。
もし、これらのカタログなどの資料がありましたら(貴殿の主旨とは違うかもしてませんが)記事にして頂けたらと思います。

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拙ブログは、デジタル社会となった現代に、歴史の深い地層に埋もれこのままでは永遠に忘れ去られてしまいかねない古いコインマシンの情報をブログとして残すことで、その保存と、あわよくば拡散のタネとすることも目的の一つとしておりますので、ファンさんのご希望はこの趣旨のど真ん中、ボウリング用語で言えばジャストポケットを突いております。良い機会をいただきましたので、今回から数回にかけて、初期の国産メダルゲーム機からいくつかを掘り返しておこうと思います。

拙ブログでは既に何度か主張していることですが、日本のゲームセンター業界に、今でいう「メダルゲーム」というジャンルが登場したのが1969年、定着したと言えるのが1972年、そして国産のメダルゲーム機が発売されるようになったのが1974年です(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)。セガはこの年に4機種、翌75年にも4機種を発売しました。

【セガ・1974年発売】
・ファロ (Faro)
・シルバーフォールズ (Silver Falls)
・ダブルアップ (Double up)
・ハーネスレース (Harness Race)

【セガ・1975年発売】
・マッチマップ (Match'em-Up)
・グループビンゴ (Group Bingo)
・スピナコイン (Spinna Coin)
・プントバンコ (Punt Banko)

これらのうち、ファロとグループビンゴの2機種については過去の記事である程度詳しく触れました(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶、 セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975))ので、今回は「マッチマップ」について述べようと思います。

コメントでファンさんがおっしゃっていた「マッチマップ(Match'em Up)」とは、セガが1975年に発売したシングルメダル機です。


マッチマップの筐体画像。1975~6年頃に発行された「セガ・メダルゲーム・マシン総合カタログ」より。

「マッチマップ」は、メダルを1枚投入すると、ガラス面の最下段に描かれた左右二つの絵柄が交互に点灯するので、プレイヤーはコンパネにある左右二つのボタンのどちらかを押して点滅を止め、押したボタンと点灯する絵柄の左右が一致すれば勝ち、異なければその場でゲームオーバーになるというゲームでした。ゲーム中には、効果音として、低い音とそれより少し高い音が絵柄の点灯に合わせて鳴っていたように思いますが、定かな記憶ではありません。

ゲームに勝った場合、プレイヤーは、「PAY」ボタンを押してメダル2枚の配当を受け取ってゲームを終了するか、もしくは「UP」ボタンを押して配当のすべてを賭けて次のステップに進むかを選択しなければなりません。「UP」ボタンを押すと、今度は一段階上に描かれている左右の絵柄が同じように交互に点灯を始めるので、やはり左右二つのボタンのどちらかを押して点滅を止めます。勝てば受け取れる配当は4枚となり、負ければそこでゲームが終わります。


マッチマップのガラス面のアップ。最下段から最上段まで全6段階が示され、各段階にはギャンブルテーマの絵柄2つが左右に分かれて配されており、ゲームではこれが交互に点灯する。それぞれの段階の最も右側に、その段階で勝てば得られるメダル数(2、4、8、16、32、64)が表示されている。

ステップアップは最大で5回まで可能で、最後まで勝ち続ければ配当のメダルは64枚になりました。現在の子供用メダルゲーム機の最高払い出し枚数が99枚であることに比べれば、この64枚という数字は「たったの」と思いますが、同じ年に発売された大型メダルゲーム機「グループビンゴ」でさえ最高払い出し枚数は96枚だった時代ですので、当時としてはこれでも十分にスリルあるゲームだったのでしょう。とは言うものの、ワタシはたぶん1975年ころに「マッチマップ」を少なくとも一度は遊んでいますが、あまりにも単純すぎる上に、インチキをしているに違いないと信じていたため、熱中するには至りませんでした。

マッチマップがどの程度普及したものかはわかりませんが、少なくとも「ファロ」のように、どこでも見られる機種ではなかったように思います。業界誌アミューズメント産業の75年12月号には、同年に行われたトレーディングショウに出展されたメダルゲーム機としてマッチマップの類似品「ビッグチャンス」が掲載されています。ガラス面のデザインはオリジナルの「マッチマップ」よりもわかりやすくなっているとは思いますが、ワタシはこの機種を実際にロケーションで見た記憶がありません。ビッグチャンスの出展社であるエスコ貿易の社長は、後にセガの社長となる中山隼雄氏で、この時期既にセガとは取引があったはずなので、ひょっとするとOEMなのかも・・・?? 

アミューズメント産業の75年12月号に、「ビッグチャンス」の部分。

(つづく)

セガのマスビンゴゲーム(4) ビンゴパーティー(Bingo Party, 1992)とそのシリーズ

2018年03月11日 16時30分41秒 | スロットマシン/メダルゲーム
セガのマスビンゴ機のシリーズには、前回述べた「サーカス系」の他に、「パーティー系」というものがありました。

実際のところ、ワタシはこの「パーティー系」にはさほど熱中しませんでした。当時としては破格に大きく迫力があった筐体を眺めることはあるものの、実際にメダルを投入して遊んだ経験は数えるほどです。また、手持ちの資料もあまり充実しているとは言えません。

しかし、そうは言っても「パーティー系」は、「サーカス系」と共に、セガのマスビンゴゲームの双璧をなすシリーズなので、まるっきり無視するわけにもいきません。幸いワタシは、開発関係者からパーティー系の開発にまつわるエピソードを僅かながらも聞いているので、今回はその辺を中心に進めて行こうと思います。

「パーティー系」の初代「ビンゴパーティー」(1992)は、「ビンゴサーカスはアドバンスドプレイヤー向けなので、もっと初心者にやさしいビンゴを作れ」というミッションから開発が始まったものだそうです。企画担当者は、「初心者向けという事であればひと目見ただけで理屈抜きに興味を惹くような筐体が必要だ」と考え、抽選機構の原案として、直径2mくらいの透明カプセルを回転させてカラフルなボールを舞い上げる筐体案を提案しました。しかし、これはメカの開発担当者から、「そんなに大きなものを動かすなんて狂気の沙汰だ」と抵抗があったそうです。そこで企画側は代替案として、カプセルを固定とする代わりにワールドビンゴのようにボールを空気で吹き上げる抽選機を再提案しました。しかしこの空気を使う案は、「ワールドビンゴ」での悪夢(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(1)グループビンゴからワールドビンゴまで)がまだ記憶に新しいメカ開発担当側にとっては大きな回転カプセル以上の強い抵抗があったそうです。最終的に、企画担当側の「常識的な大きさのものを動かしても誰も驚いてくれない」との説得にメカ担当側が折れて、開発がスタートしたとのことです。この決定は、セガの技術力と企業力のアピールともなり、以下に続くシリーズにもそのコンセプトが受け継がれていくことになりました。




ビンゴパーティーのフライヤー。A3サイズが二つ折りになっており、画像は表紙側(上)と中側(下)。

「パーティー系」は、初代の「ビンゴパーティー」以降、全7機種が開発、発売されました。

・ビンゴパーティー(Bingo Party, 1992)
・ビンゴパーティー・マルチカード(Bingo Party Multi Card, 1994)
・ビンゴパーティー・スペシャル(Bingo Party Multi Card, 1994)
・ビンゴパーティー・フェニックス(Bingo Party Phoenix, 1996)
・ビンゴパーティー・スプラッシュ(Bingo Party Splash, 2002)
・ビンゴパーティー・スプラッシュSP(Bingo Party Splash SP, 2004)
・ビンゴパーティー・パイレーツ(Bingo Party Pirates, 2007)

ビンゴパーティー・スペシャル」のゲーム内容は「マルチカード」と同じでしたが、抽選機構はサテライトから切り離され、自由にレイアウトできるサテライトは16台まで増設可能というものでした。最近アジアを中心に世界のカジノで導入が進んでいる「ETG(Electronic Table Game)」を想起させるこのシステムには先見性が感じられます。

 

ビンゴパーティーマルチカード(上)とビンゴパーティースペシャル(下)。セガ総合カタログ1998年版より。

「スペシャル」が作られたころの日本は、ちょうどバブルが弾けて世の中が不景気になってきたと言われ始めた時期でした。レジャー産業においては、従来のように大きな費用をかけずに楽しめるものが好まれるようになり、「安・近・短」などというキーワードも生まれました。そしてその条件に合致する典型的なレジャーであるゲームセンターは、世間からは不景気などどこ吹く風の絶好調の分野と思われていました。確かに、当時のメダルゲームは3度目のブームと言ってもよいくらいに盛り上がっており、「スペシャル」はそんな社会情勢の中で、豪華版というポジションで作られたものです。

「スペシャル」はまた、当時セガが狙っていた海外のカジノ市場も視野に入れていました。当時のセガは、米国のネバダ州ラスベガスにオフィスを置いてカジノ進出を目指しており、競馬ゲーム機の「ロイヤルアスコット」とともにカリブ海域のリゾート地や北米のインディアンカジノ、あるいはヨーロッパにもいくらか出荷した実績があったようです。しかし、なぜか2000年前後頃に、セガのカジノ進出計画は頓挫してしまいました。セガというメーカーは、逆境に弱いのかなんなのか、困難にぶつかるとけっこう簡単に諦めるというイメージがありますが、これもその例の一つだと思います。

「フェニックス」までは初代から変わらなかったパーティー系の筐体は、「スプラッシュ」で一新されました。球形だったカプセルは、薬のカプセルのような横に長い形状となるとともに、野球ボールくらいの大きさだったボールはハンドボールくらいの大きさになりました。また、液晶モニターを採用したサテライトのデザインも、当時としては非常に洗練されたものになりました。


ビンゴパーティースプラッシュSPの筐体とサテライト。セガのニュースリリースより。

これには、従来の大きさに慣れてしまったプレイヤーに対し、より大型化することで今以上のインパクトを与えてマンネリ感を払拭する意図がありました。新しいカプセルの形状は、球形のカプセルを単純に大型化すると天井高の問題で導入できないロケーションが出てくるため、横方向のみを大型化させた結果でした。ボールの大型化は、カプセルの容積が大きくなったのに従来の大きさのままでは見栄えがしないための対応策でした。

「スプラッシュ」ではさらに、プレイヤー自身がカプセルの角度を変えることでボールの撹拌状況を変化させ、意図する番号のボールをより選び出しやすくできると思わせるフィーチャーが付加されました。実効性は殆どありませんでしたが、ゲームの結果に介入できるかもという錯覚と、大きなものを自分で操作できる気持ち良さがそれなりにウケてはいたようです。

しかし、「スプラッシュ」のころにはゲームセンターの好景気も退潮傾向に移りはじめており、また筐体価格の高額化やコナミの「ドラゴンパレス」に端を発する大型プッシャー機の台頭により、それ以前の機種ほど普及はしなかったように思います。そして、「スプラッシュ」のコンバージョンである「ビンゴパーティー・パイレーツ」を最後に、パーティー系は供給されなくなりました。

メダルの単価が極端に安くなってしまった昨今、この種のゲームはのべつまくなしにメダルを投入できる大型プッシャー機と比較してインカム的に見劣りがするので、ロケーションに買ってもらえなくなっているいう状況が発生しています。ゲームのバリエーションの縮小はメダルゲーム全体にとって全く好ましくない事であることは間違いありません。この状況を打破するシステムとして、プリペイドカードやICカードをメダルゲームにも応用することも考えられているようですが、これはこれで新たな設備投資を要するなどロケーションの負担が大きい部分もあり、すぐには実現できそうもありません。このままではメダルゲームは衰退の一途を辿っていきそうな予感もして、やきもきしてしまいます。

(このシリーズおわり)

セガのマスビンゴゲーム(3) ビンゴサーカス(Bingo Circus, 1989)とその後継機種

2018年03月04日 17時48分37秒 | スロットマシン/メダルゲーム

日本で初のマスメダルビンゴであるグループビンゴが発売されたのは1975年ですが、それから「ビンゴサーカス(Bingo Circus)」が発売される1989年までの14年の間に世に出たマスメダルビンゴ機は、前々回で言及したセガの「ワールドビンゴ(1986)」と、タイトーの「カラービンゴ(1977)」しかありませんでした(「カラービンゴ」は少しだけ思い出深い機械なので、いずれ機会を改めて述べてみたいと思います)。つまり、ビンゴサーカス発売時点では、ビンゴはまだマスメダルゲームを支えるジャンルとは言えない状況でした。


ビンゴサーカスのフライヤー。


「ビンゴサーカス」の抽選機構は、前回詳しく述べた「グループビンゴ」を手本として、円形の浅いすり鉢状のプレイフィールドにボールを投入して番号を決定していますが、グループビンゴのプレイフィールドは固定されていたのに対し、ビンゴサーカスでは反時計回りに回転するように変化しました。そして「ビンゴサーカス」の名は、この円形のプレイフィールドをサーカスが演じられる「リング」に見立てて命名されたものです。フライヤーの筐体画像では見えませんが、屋根の下にあるジャックポット表示の短辺側の反対面には、リングリングサーカスの惹句をもじった「The Greatest GAME On Earth」の文言が描かれていました。

「ビンゴサーカス」は25穴のインラインタイプで、キーフィーチャーには「マジックスクウェア」が採用されていました。「マジックスクウェア」とは、縦5×横5のビンゴカード上の、四隅の四つの数字をローテートできるフィーチャーです(下図参照)。


マジックスクウェアの説明図。A~Dに示される四つのスポットごとに数字を回転させることができる。このフィーチャーの元ネタであるバーリー社のビンゴ・ピンボールでは、4つのマジックスクウェアをカードの左上に固めて、最も右の縦ラインを固定、最も下の横ラインをマジックラインとしたタイプもある。

「マジックスクウェア」自体は、バーリーのビンゴピンボールでは1950年代半ばから見られるキーフィーチャーですが、ビンゴサーカスが画期的だったのは、これをすべてのゲーム参加者が無条件に使えるようにしたところにあります。従来のビンゴ機のキーフィーチャーは、ベットするたびに行われる内部抽選に当選しなければ使えないのがお約束のルールだったので、これはコペルニクス的転回とも言うべき大改革でした。これにより、メダルを豊富に持つハイローラーでないと十分に楽しめないゲームだったビンゴが、それほどメダルを持っていない人でも楽しめるゲームになりました。

しかし、抽選によって有効となるキーフィーチャーは、よりたくさんのメダルをベットさせるための仕掛けでもありました。ビンゴサーカスはその仕掛けを放棄したので、このままでは高いインカムが望めない懸念が出てきます。そこでビンゴサーカスでは、ビンゴカードに設定される縦5本、横5本、斜め2本の合計12本のペイラインを、メダルが1枚ベットされるたびに1本ずつ有効にしていくという、スロットマシン(リールマシン)では既にポピュラーだった「マルチペイライン」の概念を導入しました。これにより、全てのペイラインを有効とするのに必要なメダル10枚を、事実上のミニマムベットとしました。

ラインは12本あるのにメダル10枚で全てのペイラインが有効になることには若干の説明を要するかもしれません。マジックスクウェアのビンゴカードでは、縦横それぞれの中央のラインはマジックスクウェアに絡まず、番号の並びを変えることができません。そこで、メダル8枚目まではマジックスクウェアに絡むラインを1本ずつ有効にして、9枚目で右下がりと縦中央の2本のラインを有効に、10枚目では右上がりと横中央の2本のラインを有効にすることで、メダル10枚で全ラインを有効にしていました。


マルチペイラインの説明図。メダルを1枚ベットするたびに、矢印1、矢印2・・・ の順に有効となる。9ベット目では、右下がりと縦中央ラインの2本が有効となり、メダル10ベット目では右上がりと横中央ラインの2本が有効となる。右上がりのラインは「スーパーライン」で、他のラインと異なる赤色で示されていた。

これは、番号が固定されているラインを他のラインと等価に扱うことを不合理と考えたということもあるでしょうが、それ以上に、ワンアクションでメダル10枚をベットすることになる「10ベットボタン」を1回押すだけでミニマムベットを満たすことができるようになる利点の方がより大きな理由でしょう。いずれにしても、優れた工夫だと思います。

また、メダル10枚目で有効となる右上がりのラインは、3インラインや4インラインの配当が2倍となり、5インラインが完成すると筐体の屋根の下に7セグで表示されているジャックポットが獲得できる「スーパーライン」とすることで、メダルを10枚ベットする動機を強めていました(正確には、表示されているジャックポットと、その時の5インラインのスコアの合計が獲得できました)。

こうして最低限のインカムを稼ぐ仕掛けを作りはしたものの、まだキーフィーチャーを抽選で有効にするタイプに比べると弱いのではないかと思われます。しかし実際に稼働してみると、ミニマムベットで遊ぶプレイヤーはむしろ少なく、1回のゲームに相当量のメダルをベットするプレイヤーが続出しました。もともとハイローラーは、より強い刺激を求めて高いスコアを得るためにたくさんのメダルをベットする気が満々ですし、それほど豊富にメダルを持っていない人でも、毎回10枚ものメダルをベットしているうちに金銭感覚が麻痺してくる上、キーフィーチャーは保証されているので多少のメダルの節約を考えるよりもスコアを上げたいという気持ちも働いたように思われます。


ビンゴサーカスのペイテーブル。10段階あり、前半の5段階までは上がり幅が小さいため、ミニマムベットの範囲でもたいてい3~4段階は進んだ。

キーフィーチャーこそ無償化したビンゴサーカスにも、ベットによる抽選で有効となるフィーチャーが3種類用意されていました。カードの四つの角をすべて点灯させると200枚または500枚の大量メダルが獲得できる「4コーナー」は、四隅がマジックスクウェアで動かせるこのゲームではそれなりに期待が高まるフィーチャーでした。また、特定の二つの番号の組み合わせのどちらかが点灯すればばもう一つの番号も有効となる「ツインナンバー」は、1番と25番、7番と13番の組み合わせがありました。ビンゴカード上の番号は毎回ランダムに決定されていましたが、ツインナンバーのこの4つの数字だけは、常にカード上の決まった位置にありました。


フライヤーより、ビンゴサーカスのサテライト部分のアップ。左上側にフィーチャーの表示がある。

もう一つの有料フィーチャーである「エキストラスポット」は、動かすことができない縦横の両中央ライン上に設定された5個のスポットのいずれかが、ボールが入らなくても有効となるフィーチャーです。ビンゴサーカスでは、4コーナーを除けば、必ず一つはこのライン上のどこかが点灯する必要があるので、一つでも有効となればチャンスは大きく膨らみます。とりわけセンタースポットの威力は強力でした。エキストラスポットは複数が有効になることもあり、エキストラスポットだけでもう3インラインが完成することもありました。ただ、エキストラスポットが点灯するとスコアが上がりにくくなりました。また、せっかく有効となったエキストラスポットの番号にボールが入ってしまうという不運もしょっちゅうありました。


エキストラスポットの説明図。縦と横の中央のラインの★のスポットが抽選により有効になる。

機械動作部分が多い機器の宿命とも言えることですが、ビンゴサーカスは故障が多く、オペレーターにとっては厄介な機械だったとの声もありました。しかしプレイヤーの支持は強く、ロケの運営に欠かせない機器の座を得て、続編の「ビンゴプラネット」が発売される1997年まで8年を要するロングラン機ともなりました。

 
ビンゴプラネットのフライヤー。「超ロングランの『ビンゴサーカス』がパワーアップ!」の文字が見える。

ビンゴプラネットは、宇宙空間をテーマとして、ブラックライトと蛍光色を多用したファンタスティックなルックスになり、有料のキーフィーチャーも大きく変わりましたが、ゲームの基本である抽選機構と無料で使える「マジックスクウェア」はそのまま受け継がれました。

そして「無料のマジックスクウェア」は、更なる続編である「ビンゴパレード」(2005)と「ビンゴギャラクシー」(2007)にも受け継がれています。これはセガが手を抜いたということではなく、マジックスクウェアは、無料で使えるキーフィーチャーとしては最も優れた究極の方法であったのだと思います。ビンゴパレードの開発者(ビンゴサーカスの開発者とは異なる)からじかに聞いた話では、ビンゴサーカスに対するリスペクトの思いを込めて、「ビンゴサーカス3代目」を意味する「BC3」の文字が、サテライトの隅に目立たない色でこっそりと描かれているそうです。

こうして連綿と続いてきた「ビンゴサーカスシリーズ」は、残念ながらビンゴギャラクシーを最後に出てきておりません。現時点で最も最後に発売されたマスビンゴ機は「ビンゴドロップ」(2012)ですが、これまでのビンゴサーカスシリーズとは抽選機構もフィーチャーも大きく異なる、全く別のビンゴゲームでした。しかし大型プッシャー機全盛という時流の変化もあるでしょうが、ビンゴサーカスシリーズの最後の機種である「ビンゴギャラクシー」はまだ稼働を続けているにもかかわらず、これは全く普及しないまま忘れ去られてしまいました。セガとしては、おそらくはマンネリを避けたいと考えたのだと思います。ゲーム内容は非常によく考えて作られていたとは思うのですが、20年以上に渡って続いていたビンゴサーカスシリーズのファンを切り捨てた決定には大いに疑問を感じます。

ちょっと余談ですが、ビンゴサーカスは台湾にも輸出され、日本以上の大ヒットとなりました。台湾はギャンブルは禁じられていますが、当時は日本のパチンコとメダルゲーム機によるギャンブル営業が大ブームとなっており、ビンゴサーカスは数百台が輸入され、さらに現地でその倍のコピー品が作られたとも聞いています。台湾では、店がゲームに独自のプレミアムを付けて営業するということがよく行われ、ビンゴサーカスの場合は、スコアが最高に上がった状態でスーパーラインに5並びが完成すると法外なボーナスを支払うということが行われていたとのことです。これにより、プレイヤーはみな10ベットボタンを叩きまくっていたそうです。また、台湾の人たちはプログレッシブジャックポットは自分が入れたカネを他人に奪われるようで嫌う気性があるとのことで、ビンゴサーカスの台湾版は、ジャックポットがプログレッシブにはなっていなかったそうです。

(おわり。次回は、セガのマスビンゴのもう一つの流れであるビンゴパーティーシリーズの予定)