オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ポパイ@1979年(1):AMゲームは「カッコいい」ものだった(らしい)

2020年11月29日 15時53分17秒 | 歴史
1976年に創刊され今も刊行が続くマガジンハウス(旧平凡出版)の情報誌「ポパイ(POPEYE)」は、刊行当初から米国(特に西海岸)の流行やファッション、ライフスタイルを主とした、当時の価値観で「カッコいい」風俗文化を紹介していました。

1970年代の終わりころになると、「ポパイ」に感化されてそのスタイルを真似る「シティボーイ」と呼ばれる男子が巷に溢れました。当時ワタシが通っていた大学のキャンパスでも、男子学生4人のうち3人はそんな「シティボーイ」だったように思います(ワタシは残る1人の方でしたが)。「ポパイ」は当時の男子にとって「カッコよくあるため」の絶対的なマニュアルでした。

その男子がカッコよくあるためのマニュアルである「ポパイ」が、1979年の4月25日号で、「ゲームのことしか頭にないのだ! POPEYE GAME BOOK」という特集記事を掲載しました。


「ポパイ」1979年4月25日号の表紙。表紙に大きく「POPEYE GAME BOOK」と掲げられている。

特集記事全体は39ページに及びますが、扱っているゲームのジャンルは多様で、AMゲームに関する部分はこのうち8ページに過ぎません。その中に、ビデオゲーム、ピンボール、ビンゴ、スロットマシンのトピックが散らばっています。


ビデオゲームが掲載されているページ(断片的に4ページ)。


フリッパーとビンゴ・ピンボールが掲載されているページ(見開き2ページ)。ピンボール機の情報も混じる。


スロットマシンが掲載されているページ(2ページ)。同じページにピンボールの情報も混じる。

記事本文は、「ポパイ」全体に共通する、口語体交じりの馴れ馴れしい文体で書かれており、突っ込みたくなる部分もありますが、目次には故・中藤保則氏(関連記事:TV報道番組に見る1978年のAM業界(1))のお名前が記されているところを見ると、少なくともそれなりのソースに基づいて書かれているであろうことは想像できます。


「ポパイ」1979年4月25日号の目次より、特集記事の部分。「中藤保則」氏の名前や、ATARIの「フットボール」、「ピンボール」の文字が見える。

今回は、この1979年当時のAMゲームの状況を知る貴重な資料を拙ブログに記録しておきたいと思います。しかし、さすがに1回にまとめるにはボリュームが大きすぎるので、今回は全体の概要をご紹介するに留め、次回から4回に分けて、順次詳細をご紹介していこうと思います。

【今後の更新予定】
■12/6更新予定:ビデオゲーム
・フットボール (ATARI, 1979)
・スペース・インベーダー (TAITO, 1978)
・ジービー (namco, 1978)
・ドライブゲーム
  スーパースピードレース (TAITO, 1978)
  スパークリング・コーナー (SEGA, 1976?)
  ザ・ドライバー (関西精機, 1978?)

■12/13更新予定:フリッパー・ピンボール
・ローテーションVIII (MIDWAY, 1978)
・ウィナー (SEGA, 1971)
・スーパーマン (ATARI, 1979)
・チャーリーズ・エンジェル (Gottlieb, 1978)
・ヌージェント (STERN, 1978)
・プレイボーイ (Bally, 1978)
・フラッシュ (Williams, 1978)
・アドベンチャー (SEGA, 1979)

■12/20更新予定:ビンゴ・ピンボール
・オリエント (Bally, 1967)
・ミス・アメリカ・サプリーム (Bally, 1976)
・ギャラクシー (Bally, 1978)
・遊び方解説

■12/27更新予定:スロットマシン
・初期のセガのメカスロット各種
・スロットマシンキング・サイ・レッド
・アンティークスロット
・必勝法

(つづく)

「パンチング・バッグ」(sega, 1962)のフライヤーから思ったこと

2020年11月22日 21時16分53秒 | ピンボール・メカ
ワタシの手元に、セガの「パンチング・バッグ」というエレメカ機のフライヤーがあります。


セガの「パンチング・バッグ」のフライヤー。

ワタシがこの機械をJR(当時は国鉄)目黒駅ビルの屋上(関連記事:商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺)で遊んだのは1971年の事でしたが、その時点で既にかなり古いもののように見えました。この「パンチング・バッグ」がいつ頃発売されたものかをネット上を調べてみたところ、1962年としているウェブサイトがありました。

しかし、このフライヤーに記載されている営業所・出張所数は30軒もあり、まだ日本にAM市場が確立していたとは言えなかった1962年のものとも思えません

試しに、ワタシが持っているセガの値段表1966年版(関連記事:セガ・エンタープライゼス@1966)を見てみると、これには15軒の営業所しか記載されていません。1962年には30件あった営業所が4年の間にここまで縮小したとは考えにくいです。


1966年の値段表に記載されている営業所。15の営業所が記載されている。

次に、1970年に頒布されたセガの会社案内を見ると、そこには40軒の営業所・出張所が記載されています。


1970年の会社案内に記載されている営業所・出張所。こちらには40の営業所・出張所が記載されている。

年代を特定できる資料によれば、
1966年 15軒
1970年 40軒
の営業所・出張所があったと言うことであり、30軒の営業所が記載されている「パンチング・バッグ」のフライヤーが頒布されたのは、この両者間のいつかであると考えるのが妥当だと思われます。

一方で、「パンチング・バッグ」には英語表記のフライヤーもあります。


英文表記の「パンチング・バッグ」のフライヤー。

セガは、元々日本を含むアジア圏の米軍基地を相手にスロットマシンを売るために設立されたと言う経緯がある(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1) まずは過去記事から概説)会社なので、この英文表記のフライヤーも米軍基地もしくは海外輸出用として作成されたものなのでしょう。そうであれば、まず当時の本来の顧客向けとして1962年にパンチング・バッグ」が開発され、日本のAM市場が発達した後に日本語表記のフライヤーが作成されたものと考えれば、辻褄は合いそうです。

この種のパンチング・バッグはその後も思い出したように各社から作られており、セガも「KO PUNCH」という新製品を1981年に発売しています。


「KO PUNCH (Sega, 1981)」のフライヤー。

1981年と言えば、ビデオゲームがブームとなり、モニターに何らかの絵を表示する技術が広く浸透してきた時代です。「KO PUNCH」にもカラーモニターが付いており、ゲーム中、ボクサーの絵がさまざまにアニメーションを行うのですが、どうもその時の姿勢によって、バッグを叩いて与えることができるダメージに差が出てくるようでした。今、フライヤーを読んでもやはりそのような機能があったことが記されています。セガは昔から「何か一つヘンなことをしないと気が済まない」という性状があり、それが良い方に転ぶこともありましたが、逆に余計なひと味になってしまっている例も少なからずあり、これもどちらかと言えば「余計なひと味」であったように思います。

ゲーム場チェーン「マジックランド」の記憶

2020年11月15日 20時21分24秒 | ロケーション
sigmaと言えば、メダルゲームを主とするゲーム場「ゲームファンタジア」(関連記事:ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地)をチェーン展開し、「メダルゲームのsigma」という揺るぎない定評を築き上げたオペレーターです。

そのsigmaが、メダルゲームではない、一般のゲームに重点を置いたロケーションである「マジックランド」の第一号店をオープンしたのは、1979年2月のことで、場所はワタシの家の最寄り駅である東横線都立大学駅の駅前でした。


マジックランドのオープンを報じる記事。業界紙ゲームマシンの1979年3月15日号5面より。記事では「ワンダーランド」と誤った屋号で紹介されている。

ゲームマシン紙の報道では、「これまでアダルト向けの店舗を展開してきたが、マジックランドはあらゆる客層へのニーズに応えられる新シリーズ」という位置づけとされています。

実は、このマジックランドは当初、ウチのもう一つの最寄り駅であり、都立大学駅の隣駅である学芸大学駅の、かつてレストラン街だったが長い間閉鎖されたままになっていた地下街にできるはずでした。その下ろしっぱなしになっていた入り口のシャッターにマジックランドのシンボルであるピエロと店のロゴが描かれたのは1978年の事だったと記憶しています。しかし、当時はまだゲーセン=不良のたまり場という固定観念が強い時代であったせいか、どうも地元住民の反対があったらしく、出店計画は撤回されてしまいました。シャッターに描かれたペイントが塗りつぶされてその事実を知ったワタシはおおいに落胆したものでした。

都立大学駅前の立地は、かつて「後楽園」というパチンコ店(関連記事:オリンピアとワタシの関わりの記録)だったことが出店を容易にしたのかどうかはわかりませんが、とにかく自宅からほど近いところに、住宅街にしては結構な規模のゲーセンができることは、ワタシにとっては嬉しいことでした。その頃のワタシは大学生になって間もないと同時に風適法の縛りもない頃だったので、ときどき深夜に家を抜け出して一晩中ピンボールとビデオゲームで遊んでいました。

オープンした1979年2月というと、タイトーのスペースインベーダーが既にブームになっていたころでしたが、まだぎりぎりアップライト筐体が主流でした。しかし、業界ではテーブル筐体が急激に広まり始めた時期であり(関連記事:TV報道番組に見る1978年のAM業界(5):インベーダーブーム直前とテーブル筐体の台頭)、このマジックランドでも「Straight Flush (Taito, 1979)」、「Monkey Magic (Nintendo, 1979)」、「Carnival (Sega, 1980)」、「Astro Fighter (Data East, 1980)など国産の新製品は続々とテーブル筐体で設置されていきました。

このマジックランド都立大学店ではいろいろな想い出があります。ピンボール機が充実している店でしたが、開店当初は1回50円だったゲーム料金が、ビデオゲームに合わせてすぐに100円に値上がりしたまま定着したように記憶しています。それでも、レーンチェンジを初めて採用した「Fire Power (Williams, 1980)」、「Superman (ATARI, 1980)」、「Six Million Dollar Man (Bally, 1979)」、「Flash (Williams, 1978)」などに特に熱中し、「Middle Earth(ATARI, 1978)」ではいつも「毒島」という名前しか知らない人と月間チャンピオンを競っていたものでした。この頃のBallyのピンボールにはハズレがなかったことと、ATARIのワイドボディが非常に先進的に見えたのが印象的な時期でした。

AM業界がビデオゲームブームとなる1979年以降、sigmaは新規出店だけでなく、それまで「ゲームファンタジア」としていたロケのいくつかを「マジックランド」に変えるなどして、東京都内では結構な店舗数になっていたと思います。しかし、ビデオゲームブームが終わって再びメダルゲームブームがやってくる90年代初頭から中ころにかけて、再び業態を転換するか、またはクローズしていたと思うのですが、この辺の記憶が定かではありせん。どちら様でも、マジックランドがいつ頃全滅してしまったのかご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただければありがたく存じます。


【小ネタ】GOAL KICK(SEGA, 1974)

2020年11月08日 15時53分58秒 | ビデオゲーム
最低限、毎週日曜更新を目指している拙ブログですが、今週末は福岡の親せきの家に来ており、今は博多駅の喫茶店で慌てて今週分の原稿を書いているところです。今夜9時ころの飛行機で東京に戻ります。

というわけで、今週はセガのビデオゲーム「GOAL KICK (1974)」についての小ネタを取り上げてお茶を濁しておこうと思います。




GOAL KICK (SEGA, 1974)のフライヤーの表と裏。

「GOAL KICK (SEGA, 1974)」は、2Pで対戦する「パドル&ボール」ゲームですが、一つしかないゴールを目指して攻守が変わるという、当時としては非常に珍しいルールを導入したゲームです。裏面に書いてある[遊び方]によると、

(1)シューター(攻)はパドルでボールをキャッチし、シュートボタンでゴールめがけてボールを放つ(放ったボールは必ずゴールに向かう)。

(2)キーパー(守)は、パドルを操作してシューターの放つシュートを防ぐ。防げなければ1点を失う。

(3)攻守どちらのプレイヤーの操作によらない「ディフェンス」が常時左右に動いており、シューターが放ったボールを弾き返す。

(4)シューターは、キーパーまたはディフェンスに弾かれたボールをキャッチできなければ1点を失い、攻守が交代する。

という内容になっています。面白いかどうかは別として、攻守の区別があるという点で、「パドル&ボール」の先駆であるATARIの「PONG」及びその類似ゲームとはひと味違うゲーム性にはなっていると思います。

実はワタシはこのゲームの記憶が殆どありません。それでも今回このゲームを取り上げたのは、フライヤーおもて面のこの文句にジワるものがあったからです。

●いままでのTVゲーム機に比べ、I.C.数が30%アップ(当社比)したため、攻防に一段と迫力が増し、ゲームが面白くなりました。(原文ママ)

ビデオゲームにCPUが使われたのは1977年(関連記事:CPUを初めて使った? CRASH COURSE(SEGA, 1977))のことらしいので、ここでいう「I.C.」とはおそらくTTLのことでしょう。論理回路が増えればより複雑なことをしやすくなるであろうことは、今であれば見当がつかないこともありません。しかし、まだパソコンブームと言うものが起きる前で、コンピューターの知識を持つ一般人などほとんどいなかった1974年当時、「I.C.が30%アップ(当社比)」が何を意味するものなのか、多少なりとも理解する人がどれだけいたことでしょうか。

いや、しかし、ジワるポイントはそこではなくて、「30%アップ(当社比)」という、まるで食料品や消耗品の購買意欲促進用惹句のような記述がワタシにはグッと来たのでした。

「I.C.30%アップ(当社比)」の意味が分からなくても、「お値段は据え置き!」とでも言うのであれば、「おお、それは買わなければ損だ!」と勘違いする人もいたかもしれませんが、あいにく「GOAL KICK」は他と比較してもお高い部類でした。GOAL KICKの発売から3年後の1977年のセガの値段表を見ても、他のパドル&ボールゲームは高いものでも40万円のところ、GOAL KICKはそれより15%もお高く46万円、おそらく発売直後はもっと高かった可能性もあります。


セガが1977年に頒布した値段表から、GOAL KICKが掲載されている部分。

部品取り用の基板であれば、「15%値上げ、でもICは30%増量」はおトクと言えるのかもしれませんが、しかしこれはオペレーションに使う前提で販売されるものです。ひょっとして、TTLの使用数に糸目をつけなかった結果値段が高くなってしまったので、これに対する弁解をする必要が生じた上での「30%アップ(当社比)だったのではないでしょうか。いや、あてずっぽうの想像ですけど。


食料品や消耗品の増量パッケージの例。

ユニバーサル1977

2020年11月01日 19時46分47秒 | メーカー・関連企業
ユニバーサル社が1982年に頒布した会社案内によれば、同社の創業は、1967年に栃木県小山市に興した「株式会社ユニバーサルリース」だそうです。創業当初はジュークボックスやゲーム機のレンタル、販売、サービスなどを行っており、ゲーム機メーカーというわけではなかったようです。社長である岡田和生氏自身は、会社設立以前からAM関連の仕事に就いて現在につながる人脈を築いてきたと言いう話も聞きますが、それらの中には名誉棄損と訴えられかねない怪しい話も多いので、ここでは単に岡田氏のAM業界でのキャリアはユニバーサルよりも早くから始まっていたという事実を示すにとどめておきます。

ユニバーサルの最初の製品は、1970年にリリースした「Time80」というパチンコ機を改造したプライズ機とされています。Time80は大ヒットし、日本の初期のAM史にその名を残していますが、ただ、ユニバーサル以外にも「Time80」を売り出している会社がいくつかあって、ワタシは混乱をきたしています。どなたか詳しい方がいらっしゃいましたらご教示いただけませんでしょうか。


ユニバーサルではない「Time80」の一例として、日本自動販売機株式会社が業界誌「アミューズメント産業」1972年4月号に掲載した広告。画像は無いが、フライヤーでは「類似品、粗悪品にご注意ください」とまで訴えている。

その後の調査で、ユニバーサルの創立者である岡田和生氏の実兄、岡田正生氏が、Time80の販売拡大のため、当時タイトーの子会社となっていた日本自動販売機へ移籍してTime80を販売していたことが判明しました。出典はアミューズメントジャーナル2017年1月号の「時代の目撃者たち 第19回」。なお、その記事では、Time80の発売は1972年となっています。(2021年1月21日追加


日本自動販売機社は、「Game Mate」のブランドマークを付けた製品を1960年代から開発製造していますが、ユニバーサルとの関係については見聞したことがなく、この「Time80」は謎です。同社は1975年以降その名を見なくなりましたが、「昭和遊園機械」と協業していたと思われる痕跡もあるので、吸収合併されているのかもしれません。

ユニバーサルは1975年8月に自社工場を建て、以降精力的に各種のAM機を製造していきます。
今回は、その新工場建設から間もない1977年10月に頒布されたユニバーサルの総合カタログをご紹介しようと思います。


「ユニバーサル総合カタログ 77」の表紙。頒布時期は77年10月。


2ページ目の「ご挨拶」は省略して、3ページ目の「小型メダル機」。

「小型メダル機」のページとしていますが、左上の「ICBM」は、「Time80」のニューバージョンともいうべきプライズ機です。
右上の「ミニルーレット」はコナミの「ピカデリーサーカス」の類似品ですが、右下の「スーパーマシン」は「ウィンターブック」のバリエーションであり、ピカデリーサーカスの模倣品が多かった子供用シングルメダル機としてはひねりが加わっています。


4ページと5ページ目。見開きの「大型メダル機」。おそらく当時のユニバーサルが最も力を入れていたと思われる大型メダル2機種を誇らしげに紹介している。

「ビッグアンドスモール」はこのフライヤーを頒布する前年に発売され、同年8月にはすぐにニューバージョンが出ているはずです(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(7) ユニバーサル その2b)が、ここではなぜか旧バージョンの筐体が掲載されています。


6ページ目。大型メダル機「スーパースター」と「ニューケンタッキーダービー」が掲載されている。

「スーパースター」は1975年発売の旧型機なので一段小さい扱いになるのはわかります。「ケンタッキーダービー」もやはり1975年発売ですが、ただ、この画像は「ニューケンタッキーダービー」となっています。ワタシはこの機種については記憶が無く、調査が必要です。


7ページ目。両替機。


プライスリスト。

1977年10月と言えば、AM業界ではそろそろインベーダーブームに火が付きかけているころです(関連記事:TV報道番組に見る1978年のAM業界(5):インベーダーブーム直前とテーブル筐体の台頭)が、この時点では、ユニバーサルはまだビデオゲームへはそれほど力を入れていないことが見て取れます。

1978年のビデオゲームブーム後のユニバーサルは、メダルゲームからは手を引いて、その代わりにパチスロやカジノ向けスロットマシンへと伸びていきました。また、ビデオゲームも積極的に開発し、「ギャラクシーウォーズ」をはじめ、人の記憶に残るタイトルを数多くリリースしていきました。