オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「野村電機」と「データイースト」の謎

2020年07月26日 16時09分16秒 | メーカー・関連企業
昨年の3月3日、ワタシは「きっと誰も覚えていない大型メダル機「The Great Ocean Cup(恵通商事, 1975)」の記憶」という記事をアップしました。そこでは、業界誌「コインジャーナル」1976年6月号の記事を出典として、「野村電機」という会社が開発した、ボートレーステーマの「The Great Ocean Cup」と言う大型マスメダルゲームを取り上げています。

ワタシは「野村電機」というゲーム機メーカー(?)を知らなかったので、ブログの記事中で情報のご提供を訴えたところ、先月、ご高覧下さったTOMさんという方から、「業界紙『ゲームマシン』1976年8月15日号の記事では、野村電機の社長が、後にデータイーストの創業者となる福田哲夫氏となっている」との興味深いコメントをお寄せくださいました。


TOMさんが指摘する、野村電機の倒産を報じる記事(業界紙「ゲームマシン」1976年8月15日号3面より)。確かに社長は「福田哲夫」と記載されている。

TOMさんはその後の掲示板でのやり取りの中で、さらに野村電機は「The Great Ocean Cup」を作る前に、日本ブランズウィック社とコインオペレーションの光線銃を共同開発したというゲームマシン紙の記事をご紹介くださいました。しかし、その記事では、野村電機の社長に別人の名前が記載されており、謎が謎を呼ぶ展開になっていました。


野村電機が日本ブランズウィックと開発したコインオペレーションの光線銃の記事(業界紙「ゲームマシン」1974年11月10日号4面より)。この記事では、野村電機の社長は「野村良男」となっている。

ちょっと横道ですが、日本ブランズウィック社は、1961年に米国のブランズウィック社と三井物産の合弁会社として設立されたボウリング関連事業の総合商社でしたが、日本のボウリング市場の低迷により2007年に合弁が解消され、現存しません。
Brunswick」のブランドは、日本ではボウリング設備や用具で有名ですが、エアホッケーやプールテーブルなどでもその名を見かけることもありました。米国ではボウリングだけでなく、プレジャーボートの大手メーカーとして等、総合レジャー機器メーカーとしてもよく知られている大企業です。

コメントの内容の詳細については上記当該記事のコメント欄をご参照いただくとして、ワタシとしては、手元の資料にもう少し詳しい話はないものかとひっくり返してみたところ、データイーストの初のオリジナルビデオゲームと言っても良いと思われる「アストロファイター」のフライヤーに、興味深い記述を発見しました。




アストロファイターのフライヤーの表紙側(上)と中身側(下)。A3を二つ折りした4ページ構成。

フライヤーの裏表紙に当たる部分には、代表取締役社長としての福田哲夫氏の署名が入った「ごあいさつ」が掲載されています。画像では読みにくいので書き起こします(注と下線はワタシによる)。

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ごあいさつ
データイースト株式会社は、昭和51年(注1)、エレクトロニクス分野の第一線で活躍する技術者が、共通の目的のもとに結集した頭脳集団です。コンピューターを中心としたシステム・コンピュータ周辺機器、計測システム機器の開発・生産の必須化という今後の業界の方向を察知し、そのニーズに応えようというのが、その共通の目的でした。以後一転して、メダルマシン、ジャックロット(注2)を契機にスーパーブレーク(注3)、バルーンサーカス(注4)、スペースファイター(注5)等のゲーム機器を製造販売致して参りました。
私たちの原動力は<技術力>と<ユーザーに密着した機器開発>の一語に尽きます。今後もこの姿勢を崩さず、技術に一層の磨きをかけてゆく所存です。より一層のご指導とご鞭撻を仰ぎたくお願いする次第でございます。
代表取締役社長 福田哲夫(自筆署名)


注1:1976年。
注2:1977年発売のシングルメダル機(関連記事:メダルゲーム ジャトレ「TV21」の開発元が判明!)。
注3:ウィキペディアによれば、1976年発売のブロック崩しゲーム。販売時期が、「(ゲームメーカーとなる)契機」と言っているジャックロットよりも早いのはどういうこと?
注4:詳細不明。おそらくは米国Exidy社が1977年に開発した「Circus」という風船割りゲーム(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(3) スペースインベーダー(1978)以前のヒットゲーム)のコピーもしくは類似品と思われる。
注5:1978年発売の、スペースインベーダーの類似品。
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さて、ここまでについてまとめておこうと思います。
1974年:野村電機日本ブランズウィック社とコインオペレーションの光線銃ゲームを共同開発。この時の野村電機の社長は野村良男氏らしい。
1975年:野村電機、娯楽提供企業恵通商事の依頼で大型マスメダルゲーム開発。
1976年:野村電機倒産。この時の野村電機の社長は福田哲夫氏らしい。
   :福田哲夫氏がデータイースト立ち上げ。
1977年、データイースト、一人用メダルゲーム機「ジャックロット」発売。
不明(1977以降):データイースト、米国Exidy社のビデオゲーム「Circus」の類似品「バルーンサーカス」発売。
1979年:データイースト、スペースインベーダーの類似品「スペースファイター」発売。
1980年:データイースト、「アストロファイター」発売。

まだまだ謎の多い野村電機とデータイーストではありますが、少なくとも「野村電機」がAM産業に関わって来た実績の一部と、「データイースト」の出自の一部が垣間見えたことはワタシにとっては進歩です。特に、「ジャックロット(TV21)」がゲームメーカーとしてのデータイーストに強く関わっていたという事実は全く予期していなかった新事実でした。

ところで、ワタシも「アストロファイター」をそこそこプレイしましたが、当時のワタシの主たるホームであった「マジックランド都立大学店」に設置されていたものは、敵弾が僅か1ドットの微小な点で表されていました。ところが、よそでは敵弾が縦長の棒状であるバージョンを見ています。幅も2ドットくらいあったかもしれません。おそらくはバージョン違いという事なのでしょう。この辺にも何かエピソードがありそうなものですが、ご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。

【小ネタ】ビンゴ・ピンボールの謎ふたつ

2020年07月19日 21時03分56秒 | スロットマシン/メダルゲーム


sigmaが開発した、「ICビンゴ」と呼ばれるビンゴ・ピンボール機3台。2006年のゲームファンタジア新大久保にて。この画像を撮影した時点で、ビンゴ・ピンボールは既に絶滅危惧種だった。同店はワタシがこの画像を撮影した数年後にクローズしている。

拙ブログでは、「都立大学駅前のビリヤード場「アサヒ」とピン・ビンゴ」や、「埼玉レゲエ紀行(2):BAYONの記録その2 + パチンコ博物館(さいたま市)」などの他、何度かビンゴ・ピンボールに言及した記事を掲載しています。そのどこかでも述べていたと思いますが、ビンゴ・ピンボールは、ワタシが最も熱心に遊んだコインマシンの一つであり、いまでも機会さえあればぜひ遊びたいゲームです。

さて、そしてここがマニアの面倒なところなのですが、ワタシにはおそらく一筋縄ではいかないと思われるビンゴ・ピンボールに関する謎が二つあります。今回はその謎を書き留めておきたいと思います。

◆謎1:ビンゴ・ピンボールは、いつ、だれが日本に持ち込んだのか
ワタシは、まだメダルゲームという市場が確立していなかった頃、現在も営業が続く渋谷のボウリング場があるビルのゲームセンターで、ビンゴ機が10台くらいも並んでいるところを見た記憶があります。その頃のワタシはまだビンゴ・ピンボールの遊び方がまったくわかりませんでした。それがいつ頃のことだったのか定かな記憶はないのですが、少なくとも1973年には、自宅近くのボウリング場にできたメダルゲームコーナー(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)で、6カードタイプの「Ticker Tape (Bally, 1972)」や20穴タイプの「Double Up (Bally, 1971)」を遊んでいるので、それ以前のことであることは確かです。

現在ワタシの手元にある資料から確認できる、日本でビンゴ・ピンボールがオペレートされた最も古い時期は、1968年です。それは、sigmaの創業者である真鍋勝紀氏が東京・新小岩のボウリング場で開いたメダルゲームの実験店舗で、数台のビンゴ機を、スロットマシンとウィンターブックそれぞれ1台ずつとともに設置したものです(関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)。


これは1号店開設の翌年である1969年に、渋谷の道玄坂にあったボウリング場の一角に開設された実験店舗二号店の画像。左手に5台、正面に1台のビンゴ機が見える。業界誌「アミューズメント産業」1974年3月号P.10より。

それにしても、真鍋氏はなぜ、まだメダルゲームという市場が無かったころに、ルールが複雑なビンゴ・ピンボールを設置機種に選んだのでしょうか。真鍋氏は、客が来るたびに遊び方を説明していたのでしょうか。

少し話は飛びますが、真鍋氏は、その実験店舗に、後に真鍋氏自身が「自慢の発見」とも述べている「ウィンターブック」も設置しています。ひょっとして、ビンゴもウィンターブックも、日本で広まったその発端は真鍋氏だったのではないかと想像してみますが、裏付けはありません。

そうでないというならば、真鍋氏のチャレンジが始まる1968年以前に、既にだれかがビンゴ・ピンボールを日本に持ち込んでいて、既にある程度認識されていたということになりますが、だとすれば、それはだれで、いつ頃のことだったのでしょうか。ビンゴもウィンターブックも、アンダーグラウンドで違法なギャンブル営業に使われていた過去があるようなので、この謎の答えを見つけることは難しそうです。

◆謎2:「HIMIKO」というビンゴ機の謎 (ICビンゴの起源?)
sigmaは、早い段階から米国のビンゴ機を積極的に輸入してオペレートし、1970年代中頃には「ビンゴイン(Bingo Inn)」というビンゴ専門店まで始めています。しかし、当時の米国製のビンゴ機はデジタル技術などなかった時代のものなので、内部の機構が非常に複雑で、故障したときのメンテナンスが大変でした。そこでsigmaは、それまでアナログ回路だった部分をデジタル回路に置き換えた「ICビンゴ」を開発します。その「ICビンゴ」の起源も、ワタシにとっては謎となっています。

ワタシは、1980年頃に、渋谷のビンゴインで、「HIMIKO」というビンゴ機が2台並んで設置されているところを見ています。しかし、HIMIKOのプレイフィールドや筐体の側面などをよくよく見ると、HIMIKOは米国Bally社製の「CAN CAN(1961) BOUNTY(1963)【2020/08/16本記事コメントに従って修正】」を改造して作られているものであることがわかりました。CAN CAN BOUNTYと違う点は、バックグラスのアートワークと、クレジットメーターが7セグメントになっていること、それにサイドレール(プレイフィールド上のガラスを側面から支えている筐体のフレーム部分)が、握りやすい形の出っ張りを持った金属製になっていることでした。


CAN CAN (Bally, 1961)の筐体。HIMIKOはクレジットメーターをアナログの電磁カウンターから電子部品に置き換えていた。ワタシはそれに抵抗を感じて、積極的にHIMIKOを遊ぼうとは思えなかった。

その後、sigmaは「ICビンゴ」と名乗る、デジタル回路で制御するビンゴ機を次々と発表していきますが、その文脈で「HIMIKO」に言及されている話は全く見聞できていません。いったい「HIMIKO」は、どういう経緯、どういう位置づけで作られたものなのか、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせいただけませんでしょうか。


パチンコ誕生博物館オープン(3) 最終回:歴史の証拠を残すにはどうすればいいのか

2020年07月12日 22時38分05秒 | 歴史
今回は、前々回、前回に続いて「パチンコ誕生博物館」の記録の3回目です。

ところで、ワタシがこの博物館を知ったのは、最近拙ブログに何度か英語でコメントを残していってくれている「Caitlyn」という女性から教えていただいたからです。今年の5月24日にアップした記事「情報求む! 「Table Bingo」」で少しご紹介している「カナダにお住いの方」がまさに彼女です。

彼女にはまだ小さいお子さんがいらっしゃるということから、自身で博物館に見学に来ることが難しいとのことだったので、ワタシが博物館を見学する目的の半分は、彼女の目となることでした。ワタシは博物館で撮影した写真にいくらかの簡単な説明を付けて彼女に送ったところ、彼女は受け取って僅か1週間で、画像が豊富な立派な記事をご自身のブログに掲載されました。そこには過去二回の拙ブログ記事よりもはるかに良い画像資料がたくさん掲載されているので、他の写真もご覧になりたいという方はぜひとも彼女のブログ「so I bought a pinball machine」ご参照ください

Caitlynのブログ so I bought a pinball machine (トップページ)

パチンコ誕生博物館の記事 Niche Collections: Mr. Sugiyama's Pachinko Museum
(全文が表示されていない場合は記事末尾の「Read more »」をクリックしてください)

さて、展示機種のご紹介はCaitlynのブログにお任せするとして(Thank you so much, Caitlyn)、以降では杉山さんが自宅を改造してまで博物館を開いた動機や経緯について述べておきたいと思います。

現代のパチンコは、日本の先端技術産業をも巻き込み日本経済に多大な影響を及ぼす巨大産業であるにもかかわらず、そのルーツには定説というものがありません。館長の杉山さんはいつかその起源を解き明かしたいと考えて、15年の歳月をかけて世界各地に飛んで取材を行い資料を収集し、調査を重ねてようやく達した一つの結論を記した「パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽」という本を上梓したのが2008年のことでした。この本は絶版となってしまっていますが、全国の図書館で購入されているとのことですので、閲覧することは可能です。


「パチンコ誕生」の出版を報じる、2008年10月19日付けの日本経済新聞記事。

出版から半年後、銀座の画廊で、収集した機械を杉山さんの本業である美術作品とともに展示する展覧会を開いたところ大きな反響を呼び、杉山さんはパチンコの起源を明らかにした人としてNHKテレビなどにも出演されています。

ところが。その展覧会の後、杉山さんはパチンコの歴史の証拠であるコレクションを公共の博物館やパチンコ業界などに寄贈を申し出ますが、全て断られたのだそうです。

なんというバカなことを!

公的な博物館がこんなに貴重な歴史の証拠を引き取らない理由があるとすれば、それは「研究対象のジャンルが違う」か、もしくは「場所が無い」以外にはあり得ないと思います。もし、その文物に倫理的に好ましくないと思われる点があるから公的な場所での展示に馴染まないなどと考えて、これほど巨大な産業の歴史を無視するであれば、それは学究的な態度とは言えません。人文科学の否定です。

ワタシは、過去記事「溜め込んだ資料類の将来を案じて憂鬱になるの巻」で自分のコレクションの行く末を案じていますが、杉山さんは私などよりもはるかに人文学資料としての価値が高いコレクションで、同じ問題に直面しているのです。杉山さんは、これらコレクションの承継してくれる人を探すことが、この博物館をオープンした目的の一つだとおっしゃっています。

ワタシは、例え現物は残せなくともせめて写真にだけは残せないものかと提言申し上げたところ、杉山さんは眼を患って視力が低下しているため自分ではできないが、もしそんなことができるならそれはありがたいとおっしゃいました。

そこでワタシは、これらのコレクションをきれいな写真に撮って自費出版までするにはどのくらいの費用がかかるかをざっと調べてみたところ、単純に本を2千部を刷る費用だけで、最低の品質で100万円前後、ある程度満足できると思われるレベルの本を作るなら300万円程度はかかるらしいことがわかりました。実際にはこれに撮影にかかる費用が乗っかります。仮にそれを100万円(運搬代、スタジオ代、撮影費など。これが適正な見積もりかどうか全くわかりませんが)とすると合計で400万円が必要です。いまどきはクラウドファンディングなどという手法もありますが、1万円を出資してくれる人が400人も集まってくれるものでしょうか

杉山さんが博物館を開いた目的にはもう一つ、「正しいパチンコの起源を残したい」というものがあります。現在、一般的には「コリントゲーム起源説」が最も広く流布されているようです。しかし杉山さんは、自身の調査によって、欧米の「バガテール」が英国で「ウォールマシン」となり、これが日本に入ってパチンコに発展したという「ウォールマシン起源説」を唱えていらっしゃいます。

そしてもう一件、戦後パチンコが飛躍的な発展を遂げた原因とされている「正村ゲージ」についても、杉山さんは過去に出版された複数のパチンコの歴史本で、辻褄が合わない画像を用いて正村ゲージが説明されているとして、その是正も求めていらっしゃいます。杉山さんは膨大な資料を調べ上げてこの認識に至っているわけですが、その杉山説と対立する別の説が、すでに広く流布されているという現実があるのだそうです。

その対立する説は、メーカーを横断するパチンコ業界全体の重鎮と言える武内国栄氏が唱えている説です。杉山さんは、武内説の根拠とする画像に瑕疵があると指摘しているのですが、過去の(杉山さんが誤りと指摘している)歴史本の著者は、武内説を支持しており、杉山説に対して、

(1)武内氏は各メーカーを横断するパチンコ業界の代表と言える立場であり、メーカー全体を公平な立場で見ることができる人である。
(2)従ってその武内氏が言うことは業界の総意である。
(3)従って、武内氏の説の異説は受け容れる余地はない。

と反論しています。


杉山さんの、過去に出版されたパチンコ歴史本に記述されている正村ゲージに対する異議への反論の展示。

合理的な疑念が出されたからと言ってその説が間違いとは限りませんので、ワタシには真実はもちろんわかりません。しかし、綿密な調査によって得た認識により武内説に疑念を持つに至った合理的な理由を述べている杉山さんに対する反論は、論理性が乏しく、一種の権威主義を振りかざした恫喝のようにさえ見え、誠実さに欠けていると言わざるを得ないという印象を得ます。杉山さんは、自分の説は重鎮に逆らえない業界からは今や黙殺されているという認識でいるとのことですので、ワタシとしては、最低でも武内説とは異なる説もあるということを伝えていければと思っています。

(このシリーズおわり)

パチンコ誕生博物館オープン(2)展示内容

2020年07月05日 20時29分21秒 | 歴史
今回は、前回に引き続き、神奈川県横須賀市にオープンした「パチンコ誕生博物館」の記録を、というつもりではあるのですが。

普通なら、展示の内容と、そこで得た新たな知見とか認識とか自分なりに感じたことなどを文章と写真で残せば良いのですが、今回はそれだけでは済まない、別のミッションを得てしまったように思われ、はたしてどう書き進んで行ったものか、たいへん悩んでおります。

館長である杉山一夫さんが「パチンコ誕生博物館」を作った目的は、大きく二つあるそうです。一つは、パチンコの歴史について世間に広く流布されている「誤った」認識を正すこと、もう一つは、パチンコのルーツを突き止めたいとの一心で長い時間と多大な費用をかけて収集した歴史の証拠品であるコレクションの継承者を探すことです。

従って、普通に展示品の紹介とともに杉山さんが結論を得るに至るまでのご苦労を賞賛するだけでは不十分だと思うのですが、だからと言ってどうすればよいのか、名案がなかなか思い付きません。とりあえず、まずは「普通」に「パチンコ誕生博物館」で見たものを記録しておこうと思います。

「パチンコ誕生博物館」は、杉山さんの個人宅を改造して作られています。何しろもともと住居を目的として建てられた建造物ですから、博物館とするには不向きであるところを、展示室を7つに分け、さらには外壁も利用するという工夫を凝らすことによって実現させています。


パチンコ誕生博物館の外観。館長である杉山さんの自宅を改造し、7つの展示室のほかに、建物の外壁も利用している。

【「パチンコ誕生博物館の構成】
◆第1室:ガレージ
戦後間もなくからおよそ50年間に製造されたパチンコ台30数台を展示。1銭パチンコから、連発式、連発式禁止後の台、半ゲージ、正村ゲージ、チューリップ台、連発式、セブン機などが展示されている。また、初代のオリンピアやスマートボールも置かれている。


第1室の様子。(1)入り口から室内右側を見たところ。 (2)部屋の奥から(1)の側を見たところ。映っている人物はワタシと同じ時間帯に観覧した人。下段奥に、わずかにオリンピアが見えている。 (3)(2)の反対側の展示。単発式、連発式を経て下段のセブン機に至る。 (4)(3)の上部には年表が掲示されている。

◆第2室:倉庫
倉庫は、ピンボールの元とされているバガテールとコリントゲームの展示とその歴史に関する資料が展示されています。杉山さんの調査によると、フィンランドの「フォルトゥナ」が英国の「コリンシアンバガテール」になり、それがさらに「コリントゲーム」へとつながっているとのことです。

一般的には、パチンコの原型はコリントゲームとされていますが、杉山さんはその認識は誤りであり、19世紀末に英国に現れた、バガテールを立てた「ウォールマシン」がパチンコの原型と言う結論を導き出しています。


第2室の様子。(1)バガテールテーブルと杉山さん。ピンボールの歴史を語る際に良く使われている、アメリカの大統領リンカーンが興じているゲームの絵の元である。余談だが、背後の本棚に「ガロ」の背表紙が見えたのがうれしい。 (2)テーブルの背後にはコリントゲームのコレクションがたくさん陳列している。 (3)1900年頃の英国製ピン・バガテール。殆どコリントゲーム。 (4)第4室の壁に掲示されている、バガテールが世界でどのように発展していったかを示す系統図。日本においては、江戸末期に「玉転がし」というゲームに発展したほか、バガテールから派生したピンボールを元にスマートボールができたとされている。

◆第3室:アトリエ前
アトリエ前には、パチンコの進化の境目となる2台が展示されています。1台は「二十ノ扉」という、当時の人気ラジオ番組のタイトルをパクった機種です。この頃のパチンコは、玉がセーフ穴に入ると払い出される賞球はいちいち人の手で補充されていましたが、1950年、長崎一男という人が、賞球を自動的に補充するメカを発明し、「オール物の長崎」と呼ばれました。「オール物」とは、どの入賞口も同じ数の球を払い出すというものです。


アトリエ前の様子。(1)旧来期の「二十ノ扉」(1949頃)。盤面に見える「200」の文字は、賞球が2個であることを意味している。センターケースには「2000」と描かれており、「大当」に入賞すると20個の賞球が払い出され、空になったセンターケースには人力で賞球を補充していた。 (2)賞球を自動的に補充する機構を発明し、「オール物の長崎」と呼ばれた長崎一男の肖像。 (3)パチンコ大明神(1950)。この機種から、払い出す賞球が自動的に補充されるようになった。 (4)パチンコ大明神の背面。杉山さんの自作のターンテーブルに設置されており、背面の賞球補充メカが簡単に見られるようになっている。

◆第4室:アトリエ
アトリエでは、主に戦後のバラ釘から正村ゲージが成立する手前までのパチンコ台と、おもちゃのパチンコやスマートボールがたくさん展示されています。また、杉山さんのもう一つの興味の対象である映画と、それに関連するパチンコの展示もありました。


アトリエの様子。 (1)本来は版画家である杉山さんのプレス機の前で。背後には正村ゲージ以前のパチンコ台や映画関連資料が並ぶ。この写真には写っていないが、おもちゃのパチンコやスマートボールが手前にある。 (2)オール10の「赤い靴(鈴富商会、1950)」。当時ヒットした同名の映画をテーマに取り込んでいる。これにより、長崎一男のオール物がこの年代に既に搭載されていたことがわかる。 (3)バラ釘の「OLYMPIA(メーカー不詳、1940頃)。賞球はポケットにより5,4,3,2個と異なっていた。 (4)子供パチンコ自動菓子販売機(メーカー、製造年不明)。アウト穴が無く、どこかのポケットに入って菓子を払い出すまで遊べたようだ。バラ釘から正村ゲージまでの間の機種と思われる。

◆第5室:2階玄関
2階玄関には、僅かなスペースにスマートボールのおもちゃや、「モダンタイプ」という珍しい機種が展示されていました。


2階玄関に展示されている「モダンタイプ(メーカー不明、1952年頃)。正村ゲージだが、50年代とは思えない、曲線を多用したモダンなデザインになっている。しかしフレームをよく見ると木製のようで、玉受け皿と併せてやはり時代を感じさせる。輸出用として作られたと言われているが、観光ホテルの娯楽室にあったものとのこと。

◆第6室:2階
2階は、正村ゲージの成り立ちについて、実際の正村ゲージのパチンコ台のほか、正村を騙る偽物の正村ゲージ台などの展示とともに、詳しい説明パネルが展示されています。ここで杉山さんは、過去に出版されたパチンコの歴史関連の書籍に、実際には存在し得ない正村製品が掲載されていることを指摘し、是正を求めたが聞き入れられていない現状を訴えています。この辺は、杉山さんが苦労して私設博物館を作った動機である部分なので、伝えるワタシも慎重にならざるを得ないところですが、次回にこの件に関するワタシの思うところを述べたいと思います。


左が「地獄の閻魔大王(1951頃)」、右が正村商会による「オール15(1951年以降)」で、現存最古のオール15とされている。

上図の2台はほぼ同じゲージですが、天穴付近の部分が異なります。「地獄の閻魔大王」は、天穴付近がヨロイ釘で覆われた中に風車が1個あるところ、正村のオール15では、ヨロイ釘と風車の代わりに天釘4本が打たれています。正村ゲージは、これによって打ち出す玉の最初の狙いどころを誘導した点が画期的でした。

ところで、正村の台をよく見ると、天穴付近に釘を抜いた痕跡があります。これはあたかも「地獄の閻魔大王」のゲージからヨロイ釘と風車を除去した跡であるかのように見えます。


正村のオール15の天穴付近(左)と地獄の閻魔大王(右)の天穴付近。正村のオール15には「天四本」の釘が打たれ、地獄の閻魔大王に見られるヨロイ釘と風車を除去したかのような釘の痕跡と思しきものが見える。

しかしこの痕跡は、盤面のセル板(木の板を覆っているセルロイド製の板)にのみ開いているもので、その下の木の板の部分には穴が貫通していません。つまりこれは、正村商会が「地獄の閻魔大王」のころに一般的だったゲージを改良したものであることをアピールするために敢えて付けた痕跡であることを示すとともに、天穴付近を除いた他の部分、すなわち6穴と6風車、及び釘の配置は、正村ゲージが確立する前に既にあったことを示す重要な証拠となっています。

◆第7室:屋根裏部屋
最後の展示室となる屋根裏部屋に展示されているコレクションは、「現存する最古のパチンコ台」、「現存する最古のスマートボール」、「現存する最古の国産ピンボール機」、「現存する最古の国産ウォールマシン」など、これまで見てきたもの以上に極めて資料的価値の高いものが多いです。また、杉山さんは現存最古のパチンコ台のレプリカを作成し、見学者が実際に体験できるようにしてくださっています。


現存する最古のパチンコ台「岡式自動球遊機」(岡製作所、1929から1933年頃まで)とその背面。「自動球遊機」を標榜しているが、裏面のひもを引っ張ってボールをリセットするなど、オペレーションの殆どの部分は人力で行っていることがわかる。

第7室では、この岡式自動球遊機の他、現存する最古の国産ピンボール、スマートボール、米国のトレードスティミュレーターなどが展示されています。


第7室の様子のごく一部。(1)スマートボール類の展示。 (2)現存最古の国産ピンボール機「BASEBALL」(相浦遊戯器製作所、1930~1932頃) (3)「スマートボール」(帝国発明品商会、1935~1938年頃) (4)「GORUFU」(才田、1937頃)。

相浦遊戯器製作所の「BASEBALL」は、明らかに米国製ゲーム機のコピーです。同社は、このゲーム機のフライヤーの裏面に、日本国内のみならず「満州」における販売代理店を募集する広告を掲載しています。

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今回はちょっと長くなってしまいましたが、これでもずいぶん駆け足で記録してきたつもりです。このシリーズはもう1回、その他の展示の記録とともに、冒頭で申し上げた「重要なミッション」に関する、遊技機の歴史愛好家にとって重要なお知らせをしたいと考えております。

(つづく)