【前回のあらすじ】
説ブログで昨年から引っ張り続けている謎のロケーション「アタミセンター」のオペレーターは、現存するAM施設のオペレーション企業「タイガー娯楽」であるとの情報を得た。
タイガー娯楽の前身は戦前の1938年に熱海で開業した射的場で、戦時中に一度は店舗を失ったものの戦後再び射的場を復活させ、熱海大火があった1950年にはパチンコ店の運営にも参入した。
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さて、これまでタイガー娯楽の前身について判明している話を年代順に整理してみます。
1938 熱海で射的場を開業。スマートボールやビリヤードなども扱う総合遊戯場だった。
1945 戦時とのことで遊戯場を強制的に壊される(前回記事では言及せず)。
終戦後、遊戯場跡でふかし芋を売る。
1947 射的場を新規オープン。
1950 (射的場を改装して)パチンコ店を始め、当たる(カッコ内は前回記事では言及せず)。
前回記事をご高覧くださったある方が、「名古屋から来たパチンコ店がオープンとの件について、名古屋には『タイガーレジャー』と言うオペレーターがいた」との情報をSNSを通じてくださいました。タイガーレジャー社長の松本昭夫氏は、70年代のオペレーターの業界団体であるJOUの理事を務めたこともあるそうです。設立は1972年とタイガー娯楽よりも新しいですが、経営母体が変わることで社史がリセットされることもあるので、これだけで無関係と断じることはできません。「’78遊戯機械総合年鑑」の「日本娯楽機械オペレーター協同組合 (JOU)」の名簿には確かにその名前が見つかるものの、現存しない会社で、詳細がわかりません。これについては今後の課題としておこうと思います。
さて、タイガー娯楽の前身が1950年に始めたというパチンコ店ですが、この年の4月には熱海大火と呼ばれる、中心市街地の7割が焼失する未曽有の大災害が発生しています。しかしソースである「コインジャーナル」1978年12月号のインタビュー記事では、そのパチンコ店が1950年のいつ頃、どこに建てられたかまでは言及されておらず、災害を辛くも免れたのか、それとも大火後の焼け跡にできたのかはわかりません。一方、アタミセンターは熱海大火で焼失した範囲の中にあるので、熱海大火以降に建てられたものであることはわかります。
赤色でマスクしている部分が熱海大火で焼失した地域。星印がアタミセンターの場所。
そして、アタミセンターの建物は赤線建築(関連記事:幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町)であることから、アタミセンターの建物が当初からパチンコ店であったとは考えにくく、そのパチンコ店はアタミセンターとは別の場所にあったのではないかと思われます。
ただ、タイガー娯楽の前身がパチンコ店とは別にアタミセンターの地にカフェーを建てていた可能性も考えられます。階上の「銀馬車」(関連記事:新・幻の「アタミセンター」を求めて(2):初日の記録その1)はカフェー時代に得たノウハウを活かしていたと推測してもそれほど強引でもないでしょう。
もちろん1958年の売防法違反への罰則適用開始に伴い売りに出された物件をタイガー娯楽の前身が買い取ったという線も十分に考え得る話です。ただしその場合、「銀馬車」がどこから出てきたのかとの疑問は残ります。これも可能性の話ですが、「銀馬車」はテナントだったのかもしれません。
インタビュー記事では、熱海には3軒のパチンコ店を出店したと続いています。しかし連発式やオール20の禁止によりそのたびに新台を入れ換えなければならないのが面倒になって、「遊戯業界から足を洗い、ミカン屋となったりする」とあります。連発式の禁止は1955年3月、オール20の禁止は同年10月で、まだ赤線が残っていた時期です。カフェーで稼げるなら門外漢の「ミカン屋」を始める必要もないと思われ、実際「ミカン屋」はモノにならなかったようで、夫人から「もう商売をしないでくれ」と言われたとのことなので、やはり後に「アタミセンター」となるカフェーとタイガー娯楽はその時点では関係なかったのかもしれません。
結局のところ何を言っても当て推量ばかりで、「アタミセンター」の謎は一向に解ける気配がありません。タイガー娯楽は現存し、このインタビュー記事に答えていた早見儀信氏の次の世代に受け継がれているようですが、もしこの時代のお話をご存じであればぜひお聞かせ願いたいものです。
(おわり)