オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(2)

2024年08月25日 20時29分22秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
説ブログで昨年から引っ張り続けている謎のロケーション「アタミセンター」のオペレーターは、現存するAM施設のオペレーション企業「タイガー娯楽」であるとの情報を得た。
タイガー娯楽の前身は戦前の1938年熱海で開業した射的場で、戦時中に一度は店舗を失ったものの戦後再び射的場を復活させ、熱海大火があった1950年にはパチンコ店の運営にも参入した。

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さて、これまでタイガー娯楽の前身について判明している話を年代順に整理してみます。

1938 熱海で射的場を開業。スマートボールやビリヤードなども扱う総合遊戯場だった。
1945 戦時とのことで遊戯場を強制的に壊される(前回記事では言及せず)。
   終戦後、遊戯場跡でふかし芋を売る。
1947 射的場を新規オープン。
1950 (射的場を改装して)パチンコ店を始め、当たる(カッコ内は前回記事では言及せず)。

前回記事をご高覧くださったある方が、「名古屋から来たパチンコ店がオープンとの件について、名古屋には『タイガーレジャー』と言うオペレーターがいた」との情報をSNSを通じてくださいました。タイガーレジャー社長の松本昭夫氏は、70年代のオペレーターの業界団体であるJOUの理事を務めたこともあるそうです。設立は1972年とタイガー娯楽よりも新しいですが、経営母体が変わることで社史がリセットされることもあるので、これだけで無関係と断じることはできません。「’78遊戯機械総合年鑑」の「日本娯楽機械オペレーター協同組合 (JOU)」の名簿には確かにその名前が見つかるものの、現存しない会社で、詳細がわかりません。これについては今後の課題としておこうと思います。

さて、タイガー娯楽の前身が1950年に始めたというパチンコ店ですが、この年の4月には熱海大火と呼ばれる、中心市街地の7割が焼失する未曽有の大災害が発生しています。しかしソースである「コインジャーナル」1978年12月号のインタビュー記事では、そのパチンコ店が1950年のいつ頃、どこに建てられたかまでは言及されておらず、災害を辛くも免れたのか、それとも大火後の焼け跡にできたのかはわかりません。一方、アタミセンターは熱海大火で焼失した範囲の中にあるので、熱海大火以降に建てられたものであることはわかります。

赤色でマスクしている部分が熱海大火で焼失した地域。星印がアタミセンターの場所。

そして、アタミセンターの建物は赤線建築関連記事:幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町)であることから、アタミセンターの建物が当初からパチンコ店であったとは考えにくく、そのパチンコ店はアタミセンターとは別の場所にあったのではないかと思われます。

ただ、タイガー娯楽の前身がパチンコ店とは別にアタミセンターの地にカフェーを建てていた可能性も考えられます。階上の「銀馬車」(関連記事:新・幻の「アタミセンター」を求めて(2):初日の記録その1)はカフェー時代に得たノウハウを活かしていたと推測してもそれほど強引でもないでしょう。

もちろん1958年の売防法違反への罰則適用開始に伴い売りに出された物件をタイガー娯楽の前身が買い取ったという線も十分に考え得る話です。ただしその場合、「銀馬車」がどこから出てきたのかとの疑問は残ります。これも可能性の話ですが、「銀馬車」はテナントだったのかもしれません。

インタビュー記事では、熱海には3軒のパチンコ店を出店したと続いています。しかし連発式やオール20の禁止によりそのたびに新台を入れ換えなければならないのが面倒になって、「遊戯業界から足を洗い、ミカン屋となったりする」とあります。連発式の禁止は1955年3月、オール20の禁止は同年10月で、まだ赤線が残っていた時期です。カフェーで稼げるなら門外漢の「ミカン屋」を始める必要もないと思われ、実際「ミカン屋」はモノにならなかったようで、夫人から「もう商売をしないでくれ」と言われたとのことなので、やはり後に「アタミセンター」となるカフェーとタイガー娯楽はその時点では関係なかったのかもしれません。

結局のところ何を言っても当て推量ばかりで、「アタミセンター」の謎は一向に解ける気配がありません。タイガー娯楽は現存し、このインタビュー記事に答えていた早見儀信氏の次の世代に受け継がれているようですが、もしこの時代のお話をご存じであればぜひお聞かせ願いたいものです。

(おわり)


「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(1)

2024年08月18日 21時13分12秒 | 歴史

拙ブログでは、昨年12月にアップした記事「【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見?
を発端に、かつて静岡県熱海にあった娯楽場「アタミセンター」の謎を追求する記事を今年2月と4月にアップしました。

2月 幻の「アタミセンター」を求めてシリーズ(全4回)
失われた町、浜町(熱海市) 

旧浜町で発見した看板建築

「加奈」以前の浜町

最終回

4月 新・幻の「アタミセンター」を求めてシリーズ(全6回)
これまでの経緯

初日の記録その1

初日の記録その2

初日の記録その3

二日目の記録その1

これまでのまとめ(終)

これにより、「アタミセンター」は遅くとも1961年には存在し、1982年に消滅したことは突き止めましたが、その22年間のどの時期にどのような営業が行われたかまでは明らかにすることはできませんでした。判明している事は、1960年代半ばまでのどこかで「スーパーホームランゲーム」の直営宣伝場であったことと、ある時期から1972年までは空気銃を撃たせる遊技施設であったことの二点のみでした。

しかし、その後の調査により、「アタミセンター」をオペレートしていたのは、熱海地区では老舗のオペレーター、「タイガー娯楽」であることが新たにわかりました。

現在、ウェブ上を調べてヒットする遊園施設の求人広告によると、「タイガー娯楽」の設立は1966年とされています。しかし、コインジャーナル誌78年12月号に掲載された、当時の「タイガー娯楽」の社長のインタビュー記事によると、当時の社長の父が昭和12年(1938)熱海に射的場を開いたところから始まるそうです。その遊戯場は、射的だけでなく、コリントゲーム(関連記事:「パチンコ誕生博物館」館長杉山氏の新著「コリントゲーム史」のご紹介)、ボットル(標的にボールを投げるもの)、ビリヤードまでそろえた「総合遊戯場」だったとのことです。

コインジャーナル78年12月号に掲載された、当時のタイガー娯楽の社長である速水儀信氏のインタビュー記事。

このインタビューで早見氏は、戦争の敗色が濃厚となる1944年、45年には遊戯業であることから非国民呼ばわりされ、ゲームの標的に敵国の要人の顔を並べたと語っています。アメリカでも「Kill The Jap」などと謳う戦意高揚ゲームがあったのですから、この種のばかばかしさは洋の東西を問わないようです。

第二次大戦中に米国で作られていたゲーム機。「Kill The Jap」、「Smack A Jap」、「Bomb Hitler」などの文字が躍る。

終戦直後の「総合遊技場」は、コインジャーナルのインタビューでは、「(父は)商売の元手を失った」とする一方、「母は元の総合遊戯場跡でふかし芋を売り」とあります。そして昭和22年(1947)に射的場をオープンしたところこれが大当たりしたとあります。その3年後の昭和25年(1950)に「熱海大火」という大災害が発生しますが、インタビューでは「その年に名古屋から来たパチンコ店がオープンしたことに倣って自分もパチンコ屋を始めたところこれがまた当たった(要旨)」とのことです。「アタミセンター」は「熱海大火」をもろに受ける地域であったので、この時の「タイガー娯楽」の前身が経営していたパチンコ店は、「アタミセンター」とは無関係だったものと思われます。

(以下次号)


1977~8年のデータイースト

2024年08月11日 19時51分17秒 | メーカー・関連企業

ワタシの手元に、データイーストの古い総合カタログがあります。頒布時期は定かではありませんが、掲載されている機種から、早ければ1977年の後半、遅くとも1978年の前半であろうと推察できます。総合カタログは横に三等分して折りたたまれた全6ページの構成になっています。

おそらくデータイーストが1977年後半から1978年に頒布したと思われる総合カタログ。上が表紙側、下が内側。横に三等分した左右を内側に折りこみ、全6ページとなっている。

表紙側はとりあえず措いて、内側を1ページずつ詳しく見ていきます。なお、推奨サイズでなるべく大きく表示するために各ページは上下に二分割しています。

内側の3ページのうち、左のページ。

筆頭に掲載されている機種はメダルゲームの「ジャックロット」で、業界紙「ゲームマシン」1977年7月1日号の「話題のマシン」で紹介されています。ただ、このゲームはその半年余りも前の1977年1月にジャトレが売り出した「TV21」と酷似しており、一時紛糾しかけていたように見受けられる曰く付きの機種でした(関連記事:【訂正・追加等】メダルゲーム ジャトレ「TV21」の開発元が判明!)。

「ジャックロット」の下には、アップライト筐体の「バルーン」と「バルーンミニ」が掲載されています。ゲーム内容は米国Exidy社の「Circus」のコピーと言えるものでした。

「ジャックロット」の右に見えるテーブル筐体は、次ページに続く説明では「R-D型(2in1)」とあり、「ボウリングゲーム」と、爆雷を発射して潜水艦を沈めるゲームの2種類が遊べるとのことです。この「ボウリングゲーム」は、前述「バルーン」同様Exidy社の「ROBOT BOWL」、「潜水艦を沈めるゲーム」はやはりExidy社の「Depth Charge」のコピーと思われます。ただ、「ROBOT BOWL」の発売年は1977年ですが、「Depth Charge」の発売年は1978年で、この総合カタログの頒布年を1977年と言いきれない理由のひとつとなっています。

内側の3ページのうち、中央のページ。

横に3ページ続く中央のページには、「S-G型(2in1)」と「S-B型(2in1)」、それに「スーパーブレイク」の3種のテーブル筐体が掲載されています。

「S-G型(2in1)」は「スーパーブレイクII」(スーパーブレイクのバリエーション)と「ジプシージャグラー」の2種類が、「S-B型(2in1)」では「スーパーブレイクII」と「バルーンサーカスゲーム」の2種類のゲームが遊べるとあります。「S-G型」に見える「ジプシージャグラー」は米国Meadows games社が1978年に発表したビデオゲーム(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(3) スペースインベーダー(1978)以前のヒットゲーム)、「バルーンサーカス」は前出「バルーン」の同工異曲で、モニターを縦に置いているところが従来の風船割ゲームとは異なりました。

内側の3ページのうちの3ページ目。

最後の右ページには「バルーンサーカス」と「スーパーブレイクII」の2機種が掲載されています。この総合カタログが頒布された時期はテーブル筐体が急速に普及し始めた時期で、掲載内容もテーブル筐体が主流となっています。ただ、この頃は「筐体の使い回し」は行われても、まだ「汎用筐体」の概念は発生しておらず、ゲームは筐体売りが当たり前でした。

データイーストは、「野村電気」からスピンオフした福田哲夫氏によって1976年に設立されましたが、当初はここに見られるようにコピーばかりで、真にオリジナルと呼べる製品が出るのは「アストロファイター」が発売される1980年以降です(関連記事:「野村電機」と「データイースト」の謎)。その後数々のヒット作を開発して発展を重ね、ビデオゲームばかりでなく世界のピンボール界にも名を残しましたが、残念ながら現存しないことは皆さんもご存じのとおりです。


半世紀を経て正体が明らかになったゲーム「ジャンパー」(三共遊園設備)

2024年08月04日 19時52分51秒 | ピンボール・メカ

1960年代から1970年代に作られ、ワタシが小中学生の頃に商業施設の屋上や遊園地などで遊んだ国産AM機を今調べようと思っても、この時代の資料は極めて乏しく、いまだにタイトルやメーカーが特定できないものが少なくありません。

ワタシは拙ブログを始めて間もない2016年9月にアップした記事、「商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺」の中で、1972年~74年ころに遊んだ、名称不明のゲーム機の特徴を以下のように述べています。

手前のボール発射装置からボールを発射し、奥にセットされている人の顔の形をした的の目または口に入れるというもので、キャビネットには『これはオモシロイ!』という煽り文句と、『実用新案申請中』と言う掲示があった

ワタシは、間接情報は覚えているのに肝心のタイトルがまるで思い出せないことが悔しくて、このゲーム機に関する資料を探し続けてきました。そうして現在までに唯一見つかっていたものが、1971年9月に刊行された「’72コインマシン名鑑」でした。その66ページに掲載されている「ジャンパー(三共精機)」は、その筐体の形状やボールの発射ボタンが3個ある点はワタシの記憶に一致しますが、しかし標的の形状はワタシが探しているものとは明らかに異なります。一方で、「これはオモシロイ!」の煽り文句の一部と思しき文字が見えており、全く無関係というわけでもなさそうです。

’72コインマシン名鑑の66ページに記載されている「ジャンパー」と称するゲーム。標的の形状がワタシの記憶と明らかに異なるが、記憶にあるゲーム機と重なる部分が多い。

おそらく、コインマシン名鑑の編集時にメーカーが提出した写真が製品版とは異なっていた可能性が考えられますが、これはあくまでも推測に留まり確定した事実とは言えないので、これで結論とする事には不満が残ります。

ところが先週、まさにワタシが追い求めていた機械の画像が見つかりました。今はSNSが発達し、同じ趣味を持つ方々の投稿から新たな知識や資料を得る機会も増えました。その画像もX(旧ツイッター)に投稿されたものです。ワタシは投稿者にメッセージを送りブログへの使用の可否を尋ねたところ、ありがたくも快諾いただきました。

SNSにアップされていた「ジャンパー」のフライヤー画像。


フライヤーの部分拡大。ワタシの記憶と違って、「これはオモシロイ」には「!」は付いていなかった。また、「実用新案申請中」と記憶していた部分には「特許」と記されている。

ほぼ半世紀にわたって謎だった機種は、おかげで三共遊園設備の「ジャンパー」であることが判明しました。ただ、「'72コインマシン名鑑」の「ジャンパー」は「三共精機」製とされています。「三共精機」は、1971年に「三共遊園設備」から分離独立したもの(関連記事:「三共」についての備忘録(1) 三共以前の三共)であることから、「72コインマシン名鑑」が刊行された1971年9月20日時点で「三共精機」は既に分離独立を果たしており、三共遊園設備時代に開発販売が開始された「ジャンパー」の扱いが移管されていたことがわかります。

「ジャンパー」の画像をご提供くださったのは「ぜくう(@Area51_zek)」さんと言う方で、ワタシは面識はありませんが、これまでにもSNSを通じてたびたび資料をご提供いただいています。AMゲームの歴史研究家の間ではよく知られており、共著を含んで著書もいくつもありますので、オールドゲームに関心がある方は是非ご注目されることをお勧めいたします。なお、ぜくうさんの著書はAMAZONからも購入できます