オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【予告】近畿レゲエ紀行

2022年03月28日 21時23分01秒 | ロケーション

毎週日曜日更新を目指す拙ブログですが、先週末は奈良→大阪の弾丸ツァーに出かけており、更新が滞っただけでなくその告知さえもせぬまま日曜日が過ぎてしまいました。申し訳ありません。

また、本来ならば大阪を訪れる際にはご連絡をしておくべき方々がいらっしゃるのですが、今回は滞在時間が短かかったためお忍びとさせていただきました。不義理をしてしまってこちらも申し訳ありませんでした。

今回のツァーのメインは奈良の用件にありましたが、せっかくの機会ということで奈良駅前のCUEというゲームセンターのレトロゲームコーナーを探訪してまいりました。さらにその後大阪に向かって新世界周辺探訪後に心斎橋で一泊、翌日はシルバーボールプラネットでピンボールを堪能してから東京に戻ってまいりました。

そこで次回の更新では、その時の様子を「近畿レゲエ紀行」としてご報告することとして、今回はその予告ということでご勘弁願いたく存じます。

アミューズメントCUE奈良三条店のレトロゲームコーナーの一部。「レトロゲーム部はじめました」が嬉しい。

 

新世界。前回(2019年)来阪時にはなかった「矢場」。

 

かすが娯楽場の店内。前回来訪時(2019年)からメダルゲームコーナーがずいぶんと変わっていた。


「マジックトッパ―ズ (Magic Toppers)」の謎

2022年03月20日 16時39分52秒 | スロットマシン/メダルゲーム

Twetterに「#テレビの中のゲーセン」というハッシュタグがあります。
最近、そのタグを付けた投稿で、1975年に放映されたテレビドラマの画像がいくつかありました

Twitterに投稿されていた画像より。

ここで舞台となっているゲーセンは、かつて歌舞伎町にあった「ゲームファンタジア・ミラノ」(関連記事:ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地)のようです。

このドラマの撮影とほぼ同時期と思われる頃の、ゲームファンタジア・ミラノの店内画像。

テレビドラマの画像は、この店内画像の手前に写る「グループビンゴ」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975))の真後ろに見えるマスメダルゲーム機「マジックトッパーズ(Magic Tppers)」を挟んだアングルから撮影されているようです。

マジックトッパーズのビルボードがはっきりと見えるアングルの、ゲームファンタジア・ミラノの店内画像。ただしこの画像はドラマ撮影時とは異なる時期の風景。

マジックトッパーズは、それぞれ色が異なる5つの帽子のどれにボールが隠されているかを予想するゲームです。ベットが締め切られると、帽子が一つずつ持ち上がってその中を見せていきます。当たりとなる帽子は必ず最後に持ち上がり、予想が的中すると2枚から10枚のメダルが払い出されました。

ワタシは、この画像のマジックトッパーズと同機種かどうかはわからないのですが、少なくとも同じゲーム性の機械を、1970年頃に渋谷のボウリング場で見ています(関連記事:「メダルゲーム」の曙を見た記憶)。わざわざ「同機種かどうかはわからない」と付言するのは、同様のゲーム機が他にも見つかるからです。まず、1972年の業界のショウで、「ミラクルハット」という機種が「オリエンタル興業」から出展されています。

オリエンタル興業のミラクルハット(左下)。業界誌アミューズメント産業72年11月号45ページより。

オリエンタル興業はワタシにとってはよくわからない会社です。1977年のセガのプライスリストにはオリエンタル興業製のクレーンゲーム機やキディライドが掲載されており(関連記事:1977 Sega Price List (4):エレメカ系)、また1980年ころには「スーパースコープ」というプライズ機を製造販売しており、メーカーとしての活動自体は確認できます。しかし、メダルゲームという業態が確立されたかどうかという1972年の時点で、オリエンタル興業が「ミラクルハット」を独自に開発していたとは考えにくく、おそらくは海外から輸入したか、ひょっとするとコピーした可能性も考えられるのですが、裏付けは取れていません。

コインプッシャーを発明した英国のクロンプトン社関連記事:プッシャーに関する思いつき話(3):クロンプトン社の歴史1・「ペニー・フォールズ」誕生まで)も「マジックトッパーズ」を作っています。その販売年がいつ頃なのかは不明ですが、アミューズメント産業1975年3月号に掲載されているエスコ貿易の広告に出てきます。

 

クロンプトンによるマジックトッパーズのフライヤーと、アミューズメント産業1975年3月号のエスコ貿易の広告。TVドラマに写り込んでいた機械とは、筐体の形や参加可能人数が異なる。

sigmaは、1981年にはこのマジックトッパーズをリメイクしています。さすがに1カ所にメダル1枚しかベットできなかったオリジナルからは進化しており、20枚までベットできるようになっていました。

sigmaが1981年にリメイクした「マジックトッパーズ」のフライヤー。

テレビドラマに写りこんでいた「マジックトッパ―」がいつごろ、誰が作ったのかを知りたくてあれこれ調べたところ、以上のことまでは判明しましたが、本来目的としていた疑問の答えは何一つ判明しませんでした。


レトロビデオゲーム同人誌のご紹介

2022年03月13日 17時50分50秒 | ビデオゲーム

ウィキペディアでは日本語版のみならず英語版、イタリア語版でも採り上げられている「HSP」というプログラミングツールを90年代に開発した「おにたま」さんは、オールドゲームの記憶の保存活動も活発に行ってらっしゃいます。そのうちの一つで、おにたまさんが主宰する「おにたま放送局(OBS)」では、古くからゲーム業界で活躍されてきた識者とのトークを月一ペースで生放送しており、昔のゲーム業界に興味がある方は必見となっています。

そのおにたまさんが、昨年暮れに、「モナコGP大百科」と「ジャンプバグ大百科」という二つの同人誌を発行され、ワタシも先日これらを入手しました。

モナコGPは、1979年セガから発売されたドライブゲーム機です。この当時、ドライブゲームと言えばタイトーの「スピードレース」が大ヒットしていましたが、そこにセガは、ほぼ前例がなかったコックピット筐体(初のコックピット筐体は、同年夏に米国Exidy社が発売した「STAR FIRE」とされている)で殴り込みをかけました。

ゲームシステムも斬新で、残機制という概念を導入し、それまで時間制が当然だったレースゲームのスタンダードに挑戦するものでした。

モナコGP大百科の表紙。B6版50ページ。

一方、ジャンプバグは、1981年豊栄産業から発売されたビデオゲームです。しかし、豊栄産業はパブリッシャーで、実際の開発はアルファ電子だったと、この同人誌で知りました。アップライト筐体もあったようですが、日本国内ではほとんどがテーブル筐体で供給されていました。

実はワタシは、このジャンプバグと言うゲームを一度もプレイしたことがありません。ただ、他人が熱中して遊んでいるところをよく見ており、スペースインベーダーやギャラガの陰に隠れたビッグヒットと読んで差し支えないタイトルだったと思っています。この同人誌では、ジャンプバグの成功を「ジャンプアクションの革新」にあるとしています。また、開発者インタビューも読みごたえがあり、当時の業界の内幕を垣間覗くことができました。

ジャンプバグ大百科の表紙。B6版78ページ。

あまり語るとネタバレしてしまうのでご紹介はこのくらいに留めておきますが、この同人誌はネット通販で入手できます。どちらも1冊1650円と若干お高めではありますが、グラビア印刷に堪え裏写りしない上質紙が使用されており、その高い資料性のみならず、極めて上質な写真とレイアウトはプロが関わっているものと思われるお値打ち品です。

モナコGP大百科通販(BEEP通販)はこちら

ジャンプバグ大百科通販(BEEP通販)はこちら

蛇足ですが、みなさんがこのリンクからご購入されても、ワタシ個人には利益は全くありません。あくまでも、オールドゲームファンであればこの資料を一冊手元に置いておくことをお勧めすることだけが目的です。


プライズの上限価格、21年ぶりに改訂

2022年03月05日 21時51分53秒 | その他・一般

*毎週日曜日更新を目指す拙ブログですが、次の日曜日はお出かけの予定があるので、今日のうちに更新しておきます。

業界誌「アミューズメント産業」1975年10月号には、ゲームセンターのオペレーターの業界団体である「日本娯楽機械オペレーター協同組合(略称JOU・ジョウ)」によるプライズ機の景品の広告が掲載されています。

アミューズメント産業1975年10月号に掲載されている、JOUによるプライズ機の景品の広告。今ではメジャーとなったベビースターラーメン(この当時は10円だったと記憶している)も見える。

この頃、ゲームセンターのプライズマシンが提供できる景品の市価は、「ゲーム料金の3倍」とされていました。当時のゲーム料金は10円が相場でしたから、景品は30円が上限と言うことになります。

しかし、ゲームの結果によって景品を獲得するという遊技は風俗第7号営業(現在の4号営業≒パチンコ店)に限られているはずで、ゲームセンターのプライズ機は風営法違反となりかねない営業です。この矛盾を解消するため、プライズ機が風俗7号営業とされていた時代が70年代の前半頃にあったはずなのですが、その具体的な時期や風俗営業から外された理由などの詳細は判明しておらず、ワタシにとって究明すべき謎として残されています。この件についてご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお話をお聞かせください。

プライズ機の景品の上限価格は、その後200円、300円、ワタシの思い違いで、300円時代はどうもなかったようです(3/9追記))500円と時代に合わせて上がり続けてきましたが、それらは警察庁から口頭で業界のトップに伝えられるのみで、明文化されたのは2001年に通達された解釈運用基準からです。この時に「物品の市価」は「おおむね800円」とされ、長い間これが上限とされ続けてきました。

それが去る3月1日、警察庁生活安全局は、プライズ機が提供できる物品の小売価格を「おおむね1000円」に引き上げる通達を各都道府県警察などに送りました。

3月1日に通達された風適法解釈運用基準から、プライズ機が提供する物品の市価に言及している部分。

規制が緩むこと自体は歓迎できますが、しかし、この200円アップによりどの程度の変化が現れるのかはなんとも見当が付きません。日本の経済は長いあいだデフレと言われており、最近は所得は伸びない(むしろ下がっている)のに物価は上がるというスタグフレーションの様相を呈しつつあります。そんな中、アジア諸国の所得は伸び、既に日本と同等もしくは超えている部分もあるそうです。今回の規制の緩和が、上限価格800円では景品のレベルを維持できないことの現れではないかと言う不吉な懸念を感じますが、どうかこれが杞憂でありますように。