オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ネバダ・ギャンブリング・ミュージアム(ネバダ州バージニアシティ)の思い出

2016年08月20日 23時39分04秒 | 歴史

ラスベガスのあるネバダ州は、19世紀半ば、米国における最初のメジャーな銀鉱である「カムストック・ロード(Comestock lode = カムストック鉱床)」が発見され、多量の銀(そしてまた金も)を産出したところから、「シルバーステイト」と言うニックネームがあります。

バージニアシティ」は、そのカムストック・ロードの発見によりできた町で、ピーク時の人口は2万5千人を超えるほど栄えていたそうです。そのようなブームタウンは、鉱山が閉鎖されるとゴーストタウンとなるものですが、現在のバージニアシティは、人口こそ850人ほどに減ったものの、ほぼ当時のままの姿で残る遺構を観光資源として、年間200万人以上が訪れる観光地となっています。日本で例えるなら、福島県会津の大内宿や、栃木県の日光江戸村に当たると言えるかもしれません。


バージニアシティの街並み。道路が舗装されていたり、新しい建造物も混じるなど、完全な状態ではないにしても、よくここまで残っていたものだと思わされる。

2007年、ワタシは、あるカジノ業界の知人から、そのバージニアシティにアメリカの古いカジノの設備やスロットマシンを展示する博物館があると教えられて、訪ねることにしました。


ネバダ・ギャンブリング・ミュージアムのフライヤー。

バージニアシティに行くには、「The biggest little city in the world」をスローガンとするカジノ都市リノがまずその玄関口となります。サンフランシスコ空港を経由して「リノ・タホ空港」に降り立ち、そこからレンタカーを借りて南へおよそ35㎞ほど行けばバージニアシティとなるのですが、ここの数少ない宿泊施設はどこも案外高かったので、ここよりさらに20kmほど南にあるネバダ州の州都、カーソンシティのモーテルに宿泊しました。

カーソンシティは、かつてカムストックロードで採掘された銀で銀貨を鋳造する造幣所だった建物を流用した「ネバダ・ステート・ミュージアム」のほか、19世紀に建造された州議会議事堂が今も現役で使用されているなど、オールドウェストの雰囲気が残る田舎町と言った風情で、以前にも、そしてこの時以降にも何度も訪れていますが、それはまた別の機会に記録しておきたいと思います。



田舎町でもカジノはちゃんとあるのがさすがネバダ。カーソンシティの町の中心部付近にあるカーソンナゲット(上)と、そこから車で南に10分くらいのところにあるファンダンゴ(下)。カーソンナゲットは、ラスベガスの「エル・コルテス」を想起させるような昔の雰囲気があり、ファンダンゴの方は逆にモダンな雰囲気がある。

さて、バージニアシティのメインストリートであるC通りの両側は、西部劇で見たことがあるような建物が軒を並べています。1960年代に子供時代を過ごしたワタシの世代は、TVや映画を通じて多少なりともこのような風景に慣らされ(馴らされ)ている部分があるので、懐かしささえ感じます。町中を歩いていると、予めGoogleのストリートビューで確かめておいた目的の看板を見つけることができました。


ネバダ・ギャンブリング・ミュージアムの看板。繁華街はアーケードになっていて、様々な看板がぶら下がっている。

建物に入ってすぐの部分は土産物店となっており、ここで入場料1.5ドル(安い!)を払うと、奥に続く「ギャンブリング・ミュージアム」に入ることができます。ミュージアムの入り口付近には、第二次大戦後からおそらく1970年代くらいまでの比較的新しい部類のアンティークスロットマシンが主に陳列されており、そして驚くことに、これらのいくつかは無料で遊ぶことができます。


(1)入り口手前に、町の歴史のビデオが上映される小部屋がある。
(2)カクテルウェイトレスのマネキン付きスロットマシン。設置されているカジノが火事になったが、無事に持ち出せたとのこと。
(3)ルーレットテーブル。これは売り物らしい?
(4)4つのスロットマシンを一つにした「Totem Pole(Bally,1975)」。75台しか生産されず、現在は殆どが解体されるか、または海外に流出しており、これは貴重な1台。タダで遊べた。


更に奥に進むと、コの字型をした通路の壁面に、おびただしい数のアンティークスロットマシンが壁一面に陳列されていました。


(1)通路左側の壁。
(2)通路右側のショウウィンドウ。
(3)通路の突き当りの壁。
(4)3の向かいのショウウィンドウ。


ワタシは、古いゲーム機を見るとなぜか心が躍り嬉しくなる性質ですが、これだけ大量に一堂に並べられてしまうと、まるで、大好物の食べ物をあれもこれもと並べて「さあ、好きなものを好きなだけ食いたまえ」とでも言われているようで、どこから手を付けて良いものかわからず、泣き笑い状態になってしまいました。

更に次の部屋に進むと、そこは19世紀のアメリカ西部のサルーンのような部屋となり、当時使用されていたルーレット、クラップス、そしてファロのテーブルが展示されていました。


(1)当時使用されていたルーレットホイール。側面の彫刻が手が込んでいる。
(2)当時のクラップス。現在のクラップスが別のゲームに見えるくらいシンプル。
(3)ファロテーブル。現在は絶滅しているが、開拓時代の西部で非常に人気があったゲーム。


さらに壁際のガラスウィンドウの中には、当時のキノ、チャッカラック、ハザードなどのゲーム器具の展示がありました。

ウィンドウの手前に見えるキノは、現代のアメリカでも盛んな数字当てゲームで、特にビデオゲーム化された「ビデオキノ」を熱心に遊ぶ人を見かけることは珍しくありませんが、そのルーツは、19世紀に鉄道の敷設などの肉体労働に従事した中国系移民によって持ち込まれた「白鳩票(パカピオ、英語ではpakapooなどと音写される)」にあります。


(1)ウィンドウの展示。
(2)キノ・グースという、数字が書かれた球を取り出す抽選機。ガラポンのようなもの。
(3)木製のキノ・グース。高さは30㎝くらいか。


現在でこそ1から80までの数字を使うキノですが、オリジナルの白鳩票では、すべて異なる千文字から成る「千字文」という古代中国で文字の学習に使われた詩の冒頭の一部を使っており、古くは万里の長城の建設資金を得るために行われていたとも伝えられる中国の伝統的な宝くじです・・・ というような話は、これまで本やインターネットなどで見聞していましたが、それがアメリカ国内で伝播されていった証拠の一端を実際に見るのは初めてだったので、たいへん興奮しました。


初期の西部でキノが行われていた様子を描いた絵画。辮髪の中国系移民が運営し、白人の紳士淑女も遊んでいたようだ。

ウィンドウの向こう側に見えていたのはダイスゲームの器具でした。

写真 ngm02
(1)3個のダイスを使った「チャッカラック」。一時、ラスベガスのニューヨーク・ニューヨークやトロピカーナで復活していたが、今でもあるのだろうか。
(2)インチキが仕込んであるチャッカラックのケージ。見えにくいが、赤い点が付いているダイス(最も奥にある一個)は、磁石に反応するイカサマダイス。
(3)グランド・ハザードというゲームのレイアウト。マカオで良く見る「大小(Sic-Bo)」とほぼ同じゲーム。
(4)グランド・ハザードを、ダイスを使わずにホイールで行うようにした器具。


この日ワタシは、結局140枚余りの写真を撮影し、デジカメのメモリもほぼ一杯になってしまいました。しかし、まだまだ撮り残しがあるように思ったので、いずれまた必ず来ようと決意して、この時は帰りました。

だが、しかし。翌々年の2009年、2年前の決意通りバージニアシティを再訪したところ、歩道のアーケードにぶら下がっていたギャンブリングミュージアムの大きな看板が見当たりません。はて、場所を間違えて覚えてしまったかと、南北に延びるさして大きくない繁華街を一往復してみましたが、やはり見つかりません。確かここだったはずと見当をつけて入った土産物店の奥には、確かにかつて展示室に繋がる通路があったと思しき形跡はありましたが、閉鎖され、入れなくなっておりました。

土産物屋のおばさんに、たどたどしい英語で、「えとあの、ギャンブリングミュージアムって、こちらではござんせんでしたかいの」と聞いたところ、「ミュージアムは先月で閉鎖して、コレクションは全部売り払っちゃった」との衝撃的なお話を伺いました。

それでも私は、その後も何度かこのバージニアシティを訪れています。一つには、周辺のリノやカーソンシティがカジノで遊ぶに適したところだからですが、ラスベガスでは味わえない、本物のオールドウェストの雰囲気が心地よいということもあります。もう5、6年くらいご無沙汰しているので、来年あたり、久しぶりにまた訪れてみようと思います。


RIO五輪に因んだ(こじつけた)スロットマシンの話

2016年08月07日 18時25分38秒 | スロットマシン/メダルゲーム
いよいよリオ五輪が始まりました。女房に言わせると、ワタシは「スポーツ観戦オタク」なんだそうで、確かに、ふだんからTVのスポーツ中継を好んで観ますし、旅行に行った先で、例えばアイスホッケーの試合でも行われていれば、わざわざ観戦に行くこともあります。

ワタシは特に、一般にマイナーと言われる種目を好む傾向が強く、その点では、日本時間の今朝放映されていた女子重量挙げ・48㎏級は、このオリンピックの最初の見どころでした。日本代表の三宅選手が、はじめのスナッチで2回連続して失敗した時は全く手に汗を握ったものでしたが、結果として銅メダルを獲得されたことは喜ばしいことです。また、他国の選手たちの活躍も、試技のたびに一緒になって力んで応援しておりました。やはり、最も原始的で、しかもプロがいない重量挙げという競技は、五輪にふさわしい種目の一つといえましょう。今回の五輪TV中継では、男子の放映は、最重量級しかないのが残念です。

さて、オリンピックと言えば、過去の記事「オリンピアというパチスロの元祖についての謎」で触れている「オリンピア」というパチスロの嚆矢となった遊技機が思い出されるわけです。


オリンピアのフライヤー(部分)。オリンピアのシンボルとその役が掲載されている。

1964年の東京オリンピックに因んで命名されたこの遊技機は、しかし、採り入れられているシンボルは、なぜこれが選ばれたのかと疑問に思うものが多いです。最高役である聖火シンボルは良いとしても、自転車、フェンシング、ヨットの各シンボルは、理解できないことはないとは言え、当時の日本にとってはポピュラーなスポーツではなかったはずで、他に候補はなかったのかと思います。また、馬シンボルは、馬術というよりは競馬のように見えます。中でも疑問の最たるものは、特殊役であるスキーシンボルで、なぜ一つだけ冬季競技が混じっているのでしょうか。

オリンピックがテーマとなっている他の遊技機は他にはあまり思いつきませんが、バーリー社が1975年に発表した「MEDALIST」は印象に残っています。


Bally MEDALIST(1975)。日本にはあまり輸入されなかったようで、ワタシは、銀座のゲームファンタジア(シグマ)でしか見た覚えはない。

5リールのこの機種は、コイン1枚の投入で、第1、第2、第3リールの3リールによるゲームができます。コイン2枚を投入すると、さらに、第2、第3、第4リールの3リールによるゲームができるようになります。さらに、コイン3枚を投入すると、第3、第4、第5リールの3リールによるゲームができるようになります。つまり、1回のゲームでコイン3枚を入れさせようと企んでいるわけです。しかし、5リールのすべてに7シンボルが停止すると、4万コイン(この写真の機種では1万コイン)という、当時としては破格の大当たりとなりました。

これと類似のゲーム性は、1972年に発表された「TWIN LIGHTNING」から見られます。この機種も5リールですが、第1、第2、第3リールによるゲームと、第3、第4、第5リールによるゲームに分けられていました。この機種はそこそこヒットしたので、MEDALISTはこれを更に拡張したものと言えるでしょう。なお、MEDALIST発表の2年後である1977年には、同じゲーム性を持つ1ドル機も発表されました。

ところで、冒頭で述べたオリンピアで使用されていたトークンは、片面が沖縄・首里城の守礼門が、そしてもう片面には聖火が描かれていました。


オリンピアで使用されていたメダル(片面)

聖火は、オリンピックテーマなら当然あって然るべき図柄ではありますが、1906年ころ、米国ミルズ社がフェイの「リバティ・ベル」を真似て作ったスロットマシンの筐体にも、なぜか聖火の図柄が用いられているのは、単なる偶然でしょうか。なんとなく、デザインの基本的な部分が似ているように思うのは考え過ぎ・・・?


ミルズ・リバティベル(1906?)


そのコイン投入口付近に聖火の図柄が。


その背面にもやはり聖火が。

さて、今夜は女子重量挙げ53㎏級を録画予約して寝なければ。