オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

メダルゲーム機「THE DIE IS CAST」(TAITO、1987?)の記憶

2016年09月19日 22時13分39秒 | スロットマシン/メダルゲーム

拙ブログの記事を書く際は、なるべく画像を多く掲載しようと心がけていますが、掲載する画像の選定や、それを掲載に適した形に加工する作業が思いのほか手間がかかります。それが億劫となり、最近は更新頻度が落ちる傾向が続いており、そしてまた、忘れないうちにあれもこれも記録しておこうと欲張って記事が肥大化しがちであることもその傾向の一因となっております。

拙ブログは、元々自分の記憶を記録しておくことを主目的としておりますが、ご高覧いただく読者様も僅かとは言えいらっしゃり、また、やはりある程度の頻度で更新しないことには、自分自身のモチベーションの維持にも影響してきますので、今後は記事作成の負荷が小さい小ネタの割合を増やして、更新頻度を上げられるよう努力していこうと思います。

というわけで今回は、タイトーのあるメダルゲーム機のひとつに関する記憶を記録していこうと思います。

1980年代中ごろのこと。当時、業務用ゲーム業界は、年に2度、トレーディングショウを開催しておりました。それらのショウでは、ゲーム機メーカーは競って新製品のお披露目を行い、バイヤーにアピールします。しかし、そのような晴れの舞台で紹介された機械の中には、結局日の目を見ずに消えていくゲーム機もあります。

タイトー社が1987年(ひょっとすると1988だったかも)(時期を特定できる資料を発見したため修正・2024.05.19)に発表した「THE DIE IS CAST」も、そんな不遇のゲーム機の一つでした。


THE DIE IS CASTのフライヤー。

「THE DIE IS CAST」の筐体には3本の透明なチューブがあり、それぞれに一つずつ、発泡スチロール製のダイスが入っています。ゲームが始まると、チューブの下から空気が吹き出して、ダイスを宙に舞い上げます。一定時間後、送風が止まってダイスはチューブの下面に落ちつき、この時のダイスの上面の目でゲームを行います。

この当時、画像認識やRFIDといった技術はまだあまり普及しておらず、機械がダイスの目を自動的に読み取ることは、人々に強い驚きを与えるものでした。おそらくタイトー社は、そこを一つのセールスポイントとしていたに違いありません。このゲーム機では、筐体上部のビルボード部分に隠した1台のカメラを移動させて、三つのダイスの画像を一つずつ取り込み、画像認識技術によってダイスの目を判断していました。

しかし、このゲームにはいくつかの問題がありました。まず、当時の画像認識技術はまだ精度が低く、人間よりも機械の方がゲーム結果の認識に時間を要することがしばしばあり、これがプレイヤーにとってはストレスになりました。

また、発泡スチロールのダイスを風で吹き上げるという機構は、例えば静電気でダイスがチューブに貼り付き落ちて来ないとか、常に埃にさらされているダイスが経年で真っ黒になって画像認識ができなくなるなどのトラブルが懸念されます。

ゲームのルールも、ワタシとしては首をひねりたくなるところがあります。このゲームではA、B、C3つのダイスを使われていますが、ゲームの結果に関係するのはこのうちAとBの二つだけです。

プレイヤーは、AとBの二つのダイスの目の合計がいくつであるかを予想するか、またはAB二つのダイスの合計が小の目(2~6)か大の目(8~12)のいずれになるかを予想するというもので、残る一つのCは、オッズを決定するために使われていました。このCの目によっては、本来の確率よりも高いオッズとなることもありますが、逆に、より不利な配当しか受けられない場合もあります。

Cによるオッズの工夫は、まあ考えたなとは思いますが、3個のダイスを使ったギャンブルゲームとしては「大小」や「チャッカラック」が既に広く認知されており、素直にそれらを再現していれば良かったのにと思うのですが、おそらく、開発途中にあちこちからいろいろな意見が出て、最終的にこの形に落ち着かざるを得なかったのかもしれません。

真の理由が何であったのかは私には知る由もありませんが、「THE DIE IS CAST」が製品となって世に出ることはありませんでした。


商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺

2016年09月11日 17時26分44秒 | ロケーション
■目黒ステーションビル
運営元は不明。いわゆるJR(当時は国鉄)目黒駅の駅ビルで、現在「atre1」と名乗っているビルです。自宅からは若干遠かったものの、その気になれば徒歩でも行き来できない距離でもないので、1970年代の前半頃は、近所の友達同士でときどき行っていました。

メインのゲーム機はやはりピンボール機で、
・「BAZZAR」(Bally、1966) 二つのフリッパーの間隔が閉じる「Ziper Fliper」が特徴。
・「EXPO」(Williams、1969)
・「Doodle Bug」(Williams、1971)
・「KLONDIKE」(Williams、1971)
・「Olympic Hockey」(Williams、1972)
・「SPANISH EYE」(Williams、1972)
などが記憶にあります。


上記6機種のピンボール機のうち、SPANISH EYEとOlympic Hockeyの2機種。セガが1972年に発行したプライスリストより。

ピンボール以外で記憶にある機械で、現在画像を持っているものにはこんなのがあります。


「NIGHT RIDER」(セガ、1970):バイクのドライブゲーム。ゲーム中のBGMに、ポール・アンカの「ダイアナ」を流していた。



「Pro Bowler」(セガ、1972):テンピンボウリングをかなり忠実に再現したゲーム機(でも実は米国Williams社の同種製品のパクリ)。ゲーム料金が、当時としては高い1回50円(他のゲームは1回10円~30円だった)だったが、ボウリングブームのさなかだったこともあって良く遊んだ。


「DERBY DAY」(セガ、製造年不明):パチンコ型のプライズ機。3頭の馬がトラックを回り、自分がゲーム開始時に選んだ馬が一等でフィニッシュすると景品が出る。何もしないでいると、自分が選んだ馬は他の馬よりも遅くなるようにできている。弾いた球が通過したロールオーバーの数字の馬が早く進む。



「ATTACKⅡ」(セガ、製造年不明):レバーで戦車を操作して、三方の壁面に配置された、敵戦車が描かれたボタンのうち、点灯したものを砲身で突くと得点。一定の点数を獲得すると賞品のメダルが払い出された。

今思うと、セガの製品がやたらと多かったことに気づきます。また、この頃のセガが扱っていた輸入ピンボールはウィリアムズとバーリー、それにシカゴコイン各社の製品のみのようで、ゴットリーブ製品は扱っていませんでした。ということは、このロケーションの運営は、セガか、少なくともセガと密接な関係にあったオペレーターであったことが推察されます。

【余談1】
目黒ステーションビルの隣には「目黒ターミナルビル(現atre2)」という商業ビルが並立しており、この屋上のゲームコーナーにも何度か行っているはずなのですが、「KING TUT」(Bally,1969)というピンボールのゲーム料金が破格の10円(当時のピンボール機のゲーム料金は、新しい機種は30円、古い機種は20円が多かった)だったこと以外の記憶がほとんどありません。古代エジプトをテーマとしたこの機械のタイトルが「ツタンカーメン王」の意味であることを知ったのは、インターネットが発達した1990年代以降のことでした。
KING TUTの資料 (The Internet Pinball Databaseより)

【余談2】
目黒ステーションビルで遊んでいたある日、若い女性(多くは制服の女子高生だったように思います。当時のワタシから見たら全員がお姉さん)が大挙して屋上にやってきたことがあります。ゲームコーナーの外はイベント広場のようになっており、どうやらそこで某男性新人歌手の新曲キャンペーンが行われるということらしく、みなさん手に手にその歌手のレコードやポスターと思しきものを持っていました。ワタシと友人も、野次馬根性で、女性集団の外側から覗き込んでみましたが、イベントはなかなか始まらず、確かそのうち小雨も降り出してきたような気もします。業を煮やして「チケット(あるいはレコードだったか)買ってる人だけでも入れてよ」などと叫ぶ声も、一群の後方から飛んでいました。

しばらくしてから、イベントの主催者側と思しき人が出てきて、「××(目当ての歌手名)は、先ほどこのビルの3階までは来たのですが、危ないということで、本当に残念なんですが、戻られました」と言うような内容のイベント中止のアナウンスを、しどろもどろになりながらしておりました。元々さして興味があるわけでもなかったワタシ達はさっさと屋内に引っ込んだので、その後どうやって混乱を収拾したのかはわかりません。ともあれ、今も「野口五郎さん」という歌手の名を聞くと、この時のことが懐かしく思い出されます。あの時売り出していた曲は「青いリンゴ」だったな。

■セイフ―チェーン西小山
運営元不明。それどころか実は、この3階建て(うろ覚え。2階建てだったかも)のスーパーが「セイフ―」だったのか「セイユー」だったのかすら、今に至ってもはっきりしておりません。

ワタシが通っていた中学校の学区域の東端付近は、目蒲線(当時。現在の目黒線)西小山駅を最寄駅としていたため、この地域から通学している級友の家に遊びに行った折りに、そのセイフ―だかセイユーだかには数回行きました。1972年~74年のことです。

このゲームコーナーで記憶に残っているのは、たった三つのコインマシンだけです。一つは玉入れゲームの類で、手前のボール発射装置からテニスボールくらいの大きさのボールを発射して、奥にセットされている人の顔の形をした的の目または口に入れるというものでした。キャビネットには「これはオモシロイ!」という煽り文句と、「実用新案申請中」と言う掲示がありました。確かに、友人どもと一緒に騒ぎながらやっていれば、それなりにオモシロイものではありましたが、他で見たことはなく、それほど普及しなかったようです。

二つ目は、いわゆるクレーンゲームです。一度も獲れたためしはありません。

セガの「スキルディガ(Skill Diga)」。西小山で見たものと同型機かどうかは不明だが、昔のクレーンゲームは、現在主流の「UFOキャッチャー」とは違って、だいたいこのようなスタイルだった。なお、米国では、プライズを掴み取るクレーンゲームを「Digger(掘る人、掘る道具などの意)」と称することが多く、「ディガ(Diga)」は、それが転訛したものと思われる。

最後は、野球をテーマとするピンボールゲーム2機種です。このうち、特に記憶に残っているのは1機種で、打ち出した球がヒットのロールオーバーを通過すると、その球はそのまま盤上にあるダイヤモンド上の塁にランナーとしてセットされます。続いて打った球がまたヒットのロールオーバーを通過すると、ダイヤモンドが90度回転して、ランナーの球は進塁し、今打った球は新たなランナーとして1塁にセットされます。他に二塁打、三塁打、ホームランもあり、それぞれによって適切な角度だけダイヤモンドが回転しました。ホームインした球は自動的にダイヤモンドから外れ、得点表示となるエリアに送られました。また、ヒットのロールオーバーの左には玉が3つ入ると三振アウト、右には玉が4つ入るとフォアボールとなるポケットがありました。

このゲーム機の製造元と製造年は不明ですが、プランジャー(ボールを打ち出す竿)へのボールのセットは、プランジャーの下に付いているレバーを手で押して行う手動式でした。このような機構は1960年代初頭以前のピンボール機に見られるもので、従ってこの機械もかなり古いモノであるという見当はつきます。

そしてまた、このゲーム機は、前述の「これはオモシロイ」と謳っていた国産の玉入れゲームなどと比較すると、ゲームデザインや機械構造が格段に洗練されており、日本国内でゼロから作り上げられたものとは思いにくいです。

10年くらい前のあるとき、インターネットでゲーム関連のウェブサイトをあちこちうろついていたところ、この野球ゲームに良く似た機械が掲載されているメーカーのカタログを発見しました。


日本娯楽機が1936年頃に発行したカタログの部分。セイフ(ユ?)ーチェーンの屋上に設置されていた2種類の野球ゲームに良く似た機種が掲載されている。

日本娯楽機」の名は、これまで拙ブログに何度か出てきています。この2機種のうち、右側の「最新式野球ゲーム機」が、特に記憶に残っている方です。左の「高級野球ゲーム」も、ダイヤモンドの形に見覚えがありますが、どんな動作をしていたかは覚えていません。ただ、「最新式」の方が面白かったことは覚えています。

この日本娯楽機の創業者である遠藤嘉一氏は、1920年代はじめころから、衛生用品や菓子などの自販機、すなわちコインマシンを開発していたそうです。その後、海外の娯楽機を輸入して遊園場の運営に乗り出し、更に輸入したゲーム機をベースに自身でもゲーム機を開発していたとのことで、現代のパチンコのルーツは、遠藤氏がそうやって作ったゲーム機にあるという説も有力です。

その更に後日、あるきっかけから、動画サイト「YOU TUBE」に、米国のRockola社が1933年か34年に作っていた「WORLD SERIES」というゲーム機の動画がいくつかアップされているのを発見しました。
(以下はyoutubeに投稿されている「WORLD SERIES」の動画です。モバイル機器でのアクセスにはご注意ください。)
Rockola 1934 World Series Pinball Machine For Sale
Rockola World Series Pinball Machine

これらの動画に見られるWORLD SERIESは、ワタシの記憶とは異なる点もいくらかあります(ワタシの記憶違いの可能性もある)が、重要な部分は概ね一致しているように思います。Rockola(現Rock-Ora)社は、1927年に創業した米国のコインマシンメーカーですが、とりわけジュークボックスのブランドとしてたいへん有名です。かなり複雑で精緻な機械動作を要するジュークボックスを作るだけの技術があれば、この程度のゲーム機を作ることも容易であったろうと思われます。

ということは、ワタシが遊んでいたあの野球ゲーム機は、ひょっとすると、日本娯楽機が、Rockola社のWORLD SERIESを手本に作ったものなのかもしれません。そして更にひょっとすると、セイフ(ユ?)ーの屋上は、かねてからデパートの屋上遊園を手掛けていた日本娯楽機が運営していたのかもしれません。

現代の大型スーパーにもゲームコーナーを備える店舗は多いですが、設置されているゲーム機のバリエーションという点では、製品寿命の長かった昔の方が豊富であったように思えます。これも時代の流れで仕方のないことなのかもしれませんが、残念なことです。

商業施設の屋上の記憶(1) 渋谷

2016年09月04日 00時33分52秒 | ロケーション

注記:橙色の文字は2024年7月20日に追記・修正した部分。

1960年代から70年代後半ころまで、デパートや駅ビル、あるいは少し大きなスーパーなどの商業施設の屋上には、たいていゲームコーナーが設置されていたものでした。今ほどゲームセンターと言うものがあちこちになかった時代、ワタシにとってこれらは、コインマシンに触れることができる数少ない場所の一つでした。

今回は、記憶に残る商業施設の屋上の話を記録していこうと思います。ただ、1972年以前の資料は乏しく、掲載できるろくな画像がありません。

■東急百貨店東横店
日本娯楽機(当時。現ニチゴ)による運営。私が未就学児童であった1960年代の半ばから小学生だった1972年頃までの間、親に手を引かれてしばしば行ったデパートです。そのうちの何回かに1回くらいはその屋上のゲームコーナーで少しだけ遊ばせてもらっていたものでした。

東急百貨店東横店は、やれ東館だ西館だと何かと複雑な作りになっており、ワタシは最後まで位置関係が掴めずにおりました。最近ネット上を調べたところ、百貨店のレイアウトを図解するサイトを発見しましたので、メモしておこうと思います。


1972年ころの東急百貨店東横店の屋上の風景。業界誌「アミューズメント産業」の1972年7月号より(以下2点も同じ)。上記サイトにより、屋上遊園があったのは東1号館であることがわかった。


中央館に近いところから、東1号館方向を臨むアングルだと思わる。


この風景は自分が幼少のころに遊んでいた時の記憶とマッチする。

ここで遊んだコインマシンはいろいろあるはずですが、タイトルさえ覚えていないものが殆どです。僅かに思い出せるものだけでも挙げておこうと思います。

・「王将」(製造元製造年不明 児童遊園設備、1968):弾き入れた鋼球が、盤面に配置された将棋の駒の形をしたロールオーバーを通過すると得点になる国産ピンボール機。最も高い得点が稼げるのは「王将」の1000点で、他に歩や香車、飛車角などのロールオーバーがあり、駒の格により確か100点~500点程度が加算されたように思います。1ゲームは10球程度、4000点で再ゲームができたように記憶していますが、定かではありません。

・「ウルトラアタック」(製造元製造年不明 日本展望娯楽、1971頃):ウルトラセブンをテーマにしたフリッパー付き国産ピンボール機。これはyoutubeで動画が公開されているのを発見しました→ https://www.youtube.com/watch?v=ZPGP91T95mk

・エビスボール:(ひまわり製作所/水野商会、製造年不明 1974以前):硬貨を投入すると、笑い声が響き渡ってゲームが始まる国産ピンボールのビンゴゲーム。

・「Knock Out ミニボクシング」(名称不詳、関西精機?、製造年不明 三共遊園設備、1970以前):レバーでボクシンググラブを操作し、筐体の向こう側で左右にウェービングするボクサー像の鼻柱を打つ。

・「ネズミ退治 ねずみ退治」(名称不詳、製造元、製造年不明 三共遊園設備、1970以前):ベルト上を左から右に高速移動するネズミの模型をタイミングよく叩く。

・「アポロ77名称、製造元、製造年不明 日本遊園設備、1969以前):螺旋や宙返りなど、ローラーコースターのような複雑なコースに鋼球を高速で発射して、筐体上部で回転する月面の穴に入れる。

現在の東急百貨店東横店は、東横線渋谷駅の移転に伴い解体中ですが、そうなる直前の2013年に、最後の姿を見ておこうと訪れてみました。

この時点の運営もニチゴによるものです。ゲームコーナーは申し訳程度に残るのみで、広い屋上の多くの部分は乗り物類で占められていましたが、平日の日中ということもあるでしょうが、数えるほどの親子連れがいるだけで、閑散としていました。屋上の一角には、長いこと閉鎖されたままと思しき飲食のスタンドがあり、この時代、百貨店の屋上の役割は終わってしまったのかと寂しく感じました。


閉店直前の屋上遊園の様子。奥のテントがゲームコーナー。


ワタシの記憶では、この左側がゲームコーナーだった。この時は、柵で区切られ、従業員用の通路とバックヤードになっていたように見えた。写真右下は、長く閉じられたままになっていると思しき飲食のスタンド。


ゲームコーナー内の様子。殆どが幼児・小児向けの機器。


そして寂しいお知らせが…


■東急文化会館屋上
ナムコによる運営。移転前の東横線渋谷駅の、明治通りを挟んだ向かいにあり、屋上のプラネタリウムのドームは、長い間渋谷を象徴する風景のひとつでした。これも、東横線渋谷駅の移転に伴い解体され、現在跡地には「ヒカリエ」が建っています。

文化会館の屋上へは、ワタシが小学生のころ、小学校の天文クラブの活動としてプラネタリウムに行ったついでに立ち寄ったことが数回程度あったきりでしたが、その頃は「BallyHOO」(バーリー、1969)というピンボール機で延々遊んでいたものでした。また、SEGAのいくつかのエレメカ機などを覚えています。メインであるエレベーターホールの外の一部にもテント掛けで拡張したゲームコーナーがあり、ここには

・「クレージー15ゲーム」(こまや製作所、1960年代)


・「ガンファイト」(セガ、1972頃)


・アンタッチャブル(関西精機、製造年不明)


などのほか、国産のエレメカ器がおそらく10数台程度設置されていました。

それから少しの時が過ぎ、ワタシが大学生となり、渋谷界隈を根城とするようになった1980年前後にも、しばしば覗きに行きました。エレベーターを降りて右手の壁に米国製のピンボールが5、6台設置されていたのは昔と変わりませんでしたが、ビデオゲームの比率が飛躍的に高くなっているところに時代の変化を感じたものでした。

世界初の喋るピンボール「GORGAR」(ウィリアムズ、1979)のバックグラスには、機械が喋っている内容(英語)を説明した手書きPOPが貼られていたり、やはり世界初の喋るビデオゲーム「スピーク&レスキュー」(サン電子、1980)や、画面を二分割し、潜水艦で互いに相手の艦隊を撃破する対戦型ビデオゲーム「Fire One」(エキシディ、1979)、それにナムコのビデオゲーム第二弾「キューティーQ」(ナムコ、1979)などの他、テント掛けの拡張部分には、小学生時代に見たアナログ機も依然として多く残っていました。

長くなりましたので、「商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺」に続きます。