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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

半世紀前(1975)のアーケードマシン(1)コインマシンその1

2025年01月05日 19時06分29秒 | 歴史

新年明けましておめでとうございます。旧年中は多くの方々より貴重な情報やご意見をいただき、どうもありがとうございました。本年も引き続きご指導、ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。

さて、今年の一発目は、1975年11月に刊行された「'76 遊戯機械名鑑」を主たる資料として、半世紀前、50年前のアーケード機を、今後何回かに分けてジャンルごとに見て行こうと思います。

'76 遊戯機械名鑑の表紙。刊行は1975年11月25日。

「'76 遊戯機械名鑑」は、5部に分かれており、第1部は「コインマシン」、以下、第2部が「メダルゲーム」、第3部が「小型乗り物機」、第4部が「大型遊園施設」、最後の第5部が「関連業者名簿」となっています。

第1部「コインマシン」は、さらに「ガン・ドライブゲーム機」、「ボールゲーム機」、「その他コインゲーム機」、「ジュークボックス他」に細分化されています。ビデオゲームは「その他のコインゲーム機」に分類されており、この頃のビデオゲームはまだそれだけで一章を設けられるほどの存在ではなかったようです。

【ガンゲーム】
「ガンゲーム」には14ページ56機種が掲載されていますが、旧型機も含まれています。「セガ・バルーン・ガン」や「セガ・バレット・マーク」などガンゲームをビデオ化した機種もごく少数含まれていますが、60年代から親しまれ続けているライフル銃が据え付けられているものも多く、1975年時点でもガンゲームはアーケードを支えるメインコンテンツだったことが窺われます。

もとは「ローゼン・エンタープライゼス」の「デイビッド・ローゼン」が米国から大量の中古ガンゲームを輸入して始まった日本のアーケード(関連記事:日本のゲーセンはいつから始まったのか?)ですが、ガンは比較的早い段階から国産品も作られるようになったジャンルで、'76 遊戯機械名鑑では、セガ、関西精機、三共精機(関連記事:「三共」についての備忘録(1) 三共以前の三共)、タイトーなど掲載機種の半分以上が国産品になっています。

「セガ・バレット・マーク」を含むページ。隣の「ガン・スモーク」は関西精機の最新鋭機で、ホログラム映像のガンマンが動く画期的なガンゲームだった。

「エレメカの雄」と言われた関西精機のガンゲームの一部。

古くから活躍していた三共も、いくつものガンゲームを作ってきた。

やはり老舗のタイトー、中村製作所のガンも見られる。

【ボールゲーム機】
「ボールゲーム機」はさらに「フリッパー」、「パチンコ」、「ボールゲーム」に細分化されています。いずれもガンゲームと同様、全ての機種が新製品というわけではありません。

「フリッパー」のほとんどは米国製ですが、セガの旧型機や三共精機の「ワールドシリーズ」こまやの「ベースボール」など、国産品が僅かですが含まれています。フリッパー機に参入しようとした国内メーカーは、セガ以外にもいくつかありましたが、ガンゲームほど国産化が進むことはありませんでした。

フリッパーでは数少ない国産機であるセガの旧型機。このこの名鑑の中では「アリババ」が最も新しい1973年製。セガがゲーム機の電子化(SS化)に取り組んで再びフリッパーを売り出すのは1976年。

「パチンコ」は、風営転用機ばかりでなく、アーケード用に作られたもので、ハンドルで小さな球を弾き上げるゲーム機も含んでいます。1975年は風営機の「アレンジボール」(関連記事:シリーズ絶滅種:アレンジボールを記憶に留めておこう)が流行り出しており、アーケードにも多く転用されました。

「パチンコ」のページの一部。風営機からの転用である「アレンジボール」は他のページでも見られる。

(つづく)


日本のゲーセンはいつから始まったのか?

2024年09月01日 17時18分57秒 | 歴史

関西精機」や「中村製作所(後のナムコ)」、三共ベンダー(後の三共精機→三共)など日本のコインマシンメーカーの古いところは1950年代後半に登場していますが、それらが創業した当時、コインマシンは温泉などの行楽地や百貨店の屋上遊園など他の施設の付帯施設に設置されるものでした。日本に単独の遊戯場である「ゲームアーケード」が現れたのはいつごろでしょうか。

去る5月、拙ブログではお馴染みのカナダのCaitlynが、自身のブログに「exploring the arcade in this 1961 gun corner photograph(1961年のガンコーナーの写真でアーケード探訪)」を掲載しました。そこには、米国のエンターテインメント業界誌「Cash Box」1961年4月15日号に掲載された日本のゲームセンターの記事が紹介されています。

Caitlynのブログより、「Cash Box」1961年4月15日号掲載の日本のゲームセンター事情の記事。

(記事の超訳)
日本人、米製アーケードゲームにハマる
(東京、日本) アーケードの経営者が、合衆国の様々なコインマシン機器輸出業者から機械を輸入した後に、米国製のアーケード及び娯楽機器への関心が高まっていると報告した。日本の家庭は夕食後の楽しみの延長に夜も開いているアーケードを楽しんでいる。国内(注・米国内)の多くの大手AM機器輸出業者は、新規ロケのオープンが継続している日本が成長市場であることに気付いている。

1961年の日本と言えば、まだ十分に豊かとは言えません。いや、むしろ「まだ貧しい」と表現する方が適切でしょう。「夕食後の楽しみの延長」も、当時のテレビ受像機の世帯普及率が63%とまだまだ低かったこともあろうかと思われます。とは言え、高度経済成長期の只中ではあり、1950年代末に始まるレジャーブームに見られるように、衣食住以外に多少の出費ができる程度の余裕が生まれていたことは確かなようです。

web版業界紙「ゲームマシン」2012年2月15日号のフロントページでは、「ローゼン・エンタープライゼス」(関連記事:ローゼン・エンタープライゼス1961(1)アーケードゲーム)が「1960年6月に日本で初めて開設したアーケード」として東京・日比谷の「日比谷ガンコーナー」を紹介しています。

web版業界紙「ゲームマシン」の2012年2月15日号に掲載されている、日比谷ガンコーナー。この写真自体は1980年夏に撮影されたものとのこと。

ローゼン・エンタープライゼスが1961年頃に頒布したカタログに掲載されている日比谷ガンコーナー。1980年の画像とは設置機種は違っても建物自体は同じなので雰囲気はよく似ている。

日本にゲームアーケードができ始めたのは1960年の事のようですが、「Cash Box1961年6月24日号の「Coin Machine Condition In The Far East(極東におけるコインマシンの状況)」と題した記事では、ローゼン・エンタープライゼスは100軒近くのロケを運営しているとあり、ゲーセンが猛烈な勢いで広がっていたいたことが窺われます。

ローゼン・エンタープライゼスが1961年頃に頒布したカタログに掲載されている大阪・梅田のゲームセンター、「ゲーム・オ・ラマ」。これも当時の最新の娯楽スポットだったのだろう。夥しいガンゲームに人が群がっている。

さらにこの記事では「ジュークボックスの大手輸入業者」の「ミハイル・コーガン」もアーケード分野にも進出していると報じています。「ミハイル・コーガン」が「タイトー」の創業者であることは、拙ブログをご高覧くださっている方々には今さら言うまでもないことでしょう。

ワタシはこれまで、1960年代初頭の日本の映画やTV番組でゲームセンターが写り込んでいるシーンを見かけると、そんな時代からゲーセンなんてあったのかと訝しく思っていたのですが、実はアーケードは当時の流行であったことが今回の調査で判明して疑問が晴れました。

ただ、初期の日本のゲームアーケードに並んでいた娯楽機の殆どは米国からの輸入品です。国産品は従来のロケーションに設置されましたが、アーケードに置かれるようになるまではまだ少し時間を要していたようです。


「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(2)

2024年08月25日 20時29分22秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
説ブログで昨年から引っ張り続けている謎のロケーション「アタミセンター」のオペレーターは、現存するAM施設のオペレーション企業「タイガー娯楽」であるとの情報を得た。
タイガー娯楽の前身は戦前の1938年熱海で開業した射的場で、戦時中に一度は店舗を失ったものの戦後再び射的場を復活させ、熱海大火があった1950年にはパチンコ店の運営にも参入した。

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さて、これまでタイガー娯楽の前身について判明している話を年代順に整理してみます。

1938 熱海で射的場を開業。スマートボールやビリヤードなども扱う総合遊戯場だった。
1945 戦時とのことで遊戯場を強制的に壊される(前回記事では言及せず)。
   終戦後、遊戯場跡でふかし芋を売る。
1947 射的場を新規オープン。
1950 (射的場を改装して)パチンコ店を始め、当たる(カッコ内は前回記事では言及せず)。

前回記事をご高覧くださったある方が、「名古屋から来たパチンコ店がオープンとの件について、名古屋には『タイガーレジャー』と言うオペレーターがいた」との情報をSNSを通じてくださいました。タイガーレジャー社長の松本昭夫氏は、70年代のオペレーターの業界団体であるJOUの理事を務めたこともあるそうです。設立は1972年とタイガー娯楽よりも新しいですが、経営母体が変わることで社史がリセットされることもあるので、これだけで無関係と断じることはできません。「’78遊戯機械総合年鑑」の「日本娯楽機械オペレーター協同組合 (JOU)」の名簿には確かにその名前が見つかるものの、現存しない会社で、詳細がわかりません。これについては今後の課題としておこうと思います。

さて、タイガー娯楽の前身が1950年に始めたというパチンコ店ですが、この年の4月には熱海大火と呼ばれる、中心市街地の7割が焼失する未曽有の大災害が発生しています。しかしソースである「コインジャーナル」1978年12月号のインタビュー記事では、そのパチンコ店が1950年のいつ頃、どこに建てられたかまでは言及されておらず、災害を辛くも免れたのか、それとも大火後の焼け跡にできたのかはわかりません。一方、アタミセンターは熱海大火で焼失した範囲の中にあるので、熱海大火以降に建てられたものであることはわかります。

赤色でマスクしている部分が熱海大火で焼失した地域。星印がアタミセンターの場所。

そして、アタミセンターの建物は赤線建築関連記事:幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町)であることから、アタミセンターの建物が当初からパチンコ店であったとは考えにくく、そのパチンコ店はアタミセンターとは別の場所にあったのではないかと思われます。

ただ、タイガー娯楽の前身がパチンコ店とは別にアタミセンターの地にカフェーを建てていた可能性も考えられます。階上の「銀馬車」(関連記事:新・幻の「アタミセンター」を求めて(2):初日の記録その1)はカフェー時代に得たノウハウを活かしていたと推測してもそれほど強引でもないでしょう。

もちろん1958年の売防法違反への罰則適用開始に伴い売りに出された物件をタイガー娯楽の前身が買い取ったという線も十分に考え得る話です。ただしその場合、「銀馬車」がどこから出てきたのかとの疑問は残ります。これも可能性の話ですが、「銀馬車」はテナントだったのかもしれません。

インタビュー記事では、熱海には3軒のパチンコ店を出店したと続いています。しかし連発式やオール20の禁止によりそのたびに新台を入れ換えなければならないのが面倒になって、「遊戯業界から足を洗い、ミカン屋となったりする」とあります。連発式の禁止は1955年3月、オール20の禁止は同年10月で、まだ赤線が残っていた時期です。カフェーで稼げるなら門外漢の「ミカン屋」を始める必要もないと思われ、実際「ミカン屋」はモノにならなかったようで、夫人から「もう商売をしないでくれ」と言われたとのことなので、やはり後に「アタミセンター」となるカフェーとタイガー娯楽はその時点では関係なかったのかもしれません。

結局のところ何を言っても当て推量ばかりで、「アタミセンター」の謎は一向に解ける気配がありません。タイガー娯楽は現存し、このインタビュー記事に答えていた早見儀信氏の次の世代に受け継がれているようですが、もしこの時代のお話をご存じであればぜひお聞かせ願いたいものです。

(おわり)


「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(1)

2024年08月18日 21時13分12秒 | 歴史

拙ブログでは、昨年12月にアップした記事「【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見?
を発端に、かつて静岡県熱海にあった娯楽場「アタミセンター」の謎を追求する記事を今年2月と4月にアップしました。

2月 幻の「アタミセンター」を求めてシリーズ(全4回)
失われた町、浜町(熱海市) 

旧浜町で発見した看板建築

「加奈」以前の浜町

最終回

4月 新・幻の「アタミセンター」を求めてシリーズ(全6回)
これまでの経緯

初日の記録その1

初日の記録その2

初日の記録その3

二日目の記録その1

これまでのまとめ(終)

これにより、「アタミセンター」は遅くとも1961年には存在し、1982年に消滅したことは突き止めましたが、その22年間のどの時期にどのような営業が行われたかまでは明らかにすることはできませんでした。判明している事は、1960年代半ばまでのどこかで「スーパーホームランゲーム」の直営宣伝場であったことと、ある時期から1972年までは空気銃を撃たせる遊技施設であったことの二点のみでした。

しかし、その後の調査により、「アタミセンター」をオペレートしていたのは、熱海地区では老舗のオペレーター、「タイガー娯楽」であることが新たにわかりました。

現在、ウェブ上を調べてヒットする遊園施設の求人広告によると、「タイガー娯楽」の設立は1966年とされています。しかし、コインジャーナル誌78年12月号に掲載された、当時の「タイガー娯楽」の社長のインタビュー記事によると、当時の社長の父が昭和12年(1938)熱海に射的場を開いたところから始まるそうです。その遊戯場は、射的だけでなく、コリントゲーム(関連記事:「パチンコ誕生博物館」館長杉山氏の新著「コリントゲーム史」のご紹介)、ボットル(標的にボールを投げるもの)、ビリヤードまでそろえた「総合遊戯場」だったとのことです。

コインジャーナル78年12月号に掲載された、当時のタイガー娯楽の社長である速水儀信氏のインタビュー記事。

このインタビューで早見氏は、戦争の敗色が濃厚となる1944年、45年には遊戯業であることから非国民呼ばわりされ、ゲームの標的に敵国の要人の顔を並べたと語っています。アメリカでも「Kill The Jap」などと謳う戦意高揚ゲームがあったのですから、この種のばかばかしさは洋の東西を問わないようです。

第二次大戦中に米国で作られていたゲーム機。「Kill The Jap」、「Smack A Jap」、「Bomb Hitler」などの文字が躍る。

終戦直後の「総合遊技場」は、コインジャーナルのインタビューでは、「(父は)商売の元手を失った」とする一方、「母は元の総合遊戯場跡でふかし芋を売り」とあります。そして昭和22年(1947)に射的場をオープンしたところこれが大当たりしたとあります。その3年後の昭和25年(1950)に「熱海大火」という大災害が発生しますが、インタビューでは「その年に名古屋から来たパチンコ店がオープンしたことに倣って自分もパチンコ屋を始めたところこれがまた当たった(要旨)」とのことです。「アタミセンター」は「熱海大火」をもろに受ける地域であったので、この時の「タイガー娯楽」の前身が経営していたパチンコ店は、「アタミセンター」とは無関係だったものと思われます。

(以下次号)


【続報】セガのMills機は海賊版などではなかった?

2024年07月14日 20時05分31秒 | 歴史

前回記事「【衝撃】セガ製Mills機、実は海賊版だった!?」において、「拙ブログでこれまで『セガは米国Mills社から金型と権利を買い取ってコピーした』との言説を事実として流布してきていたがその根拠とする資料が見つからない」と述べました。

しかしその後必死に捜索したところ、やっとその根拠を発見しました。それは米国在住の英国人、フレディ・ベイリー(Freddy Bailey)氏という方から受け取ったメールでした。てっきり雑誌の記事だとばかり思い込んでいたため、発見がここまで遅れてしまいました。

フレディ・ベイリー氏。米国の地域ケーブルテレビ「SOMATelevision」が放映する「Nostalgia Alley」と言うシリーズ番組でのインタビューより。

彼は長くAM業界で活躍してきた大ベテランで、ご本人は「Coin Machine Historian」と名乗られ、「歩く百科事典」と評する人もいます。ワタシは彼から「Freddyと呼んでくれ」と言われているので、畏れ多くも敢えて以下は「フレディ」とします。

フレディは、ワタシが拙ブログを始める以前にウェブ上で公開していたセガの古いスロットマシンのフライヤーを見てメールをくださり、以降現在に至るまで貴重な資料や知識をシェアしてくださっています。

問題のメールは2012年12月13日に受け取ったもので、セガの部分のみを要約すると、

1950年のジョンソン法成立後、Millsは工場をシカゴからリノに移し、マーティ・ブロムリーはシカゴにあったMillsのツール(予備の在庫だった)を購入した。

とのことです。ジョンソン法とは、州を超えてスロットマシンやその部品を運ぶことを禁じる法律です。これにより、当時の大手スロットマシンメーカーは、海外に拠点を移したり、廃業したりなどしましたが、Millsはギャンブルが公認されているネバダ州に移転しました。

「ブロムリーが購入したツールはシカゴにあった予備の在庫(原文は'Marty bought the Mills tooling that they had in Chicago, this was the back-up tooling that Mills had in stock.')」などは知らなければ言及できることではなく、またフレディ自身もブロムリーとは50年代の昔から深い付き合いがあったことから、十分信ずるに足る証言と思われます。

ただ、ブロムリーがミルズからツールを購入したことは事実だったとしても、それがどのような契約内容のうちに行われたものかは定かでありません。Service GamesとMillsにはそれぞれ見解が異なる部分があるようですが、どちらが合理であるかは今のワタシには判断が付きません。とりあえずは、前回の記事の趣旨へのカウンターとしてこのような言説もあるということを記録することが今回の趣旨です。

なお、フレディは現在も「Game World」という会社を運営し、元気に活躍されています。末永く頑張っていただきたいものです。