オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

CPUを初めて使った? CRASH COURSE(SEGA, 1977)

2020年05月31日 18時29分41秒 | ビデオゲーム
ブログネタを探すつもりで過去の資料をひっくり返していたら、セガの「CRASH COURSE」(1977)のフライヤーに目が留まりました。



セガ「CRASH COURSE」(1977)フライヤーの表(上)と裏(下)。

「CRASH COURSE」は2P対戦で、1PでもCPUを相手に遊ぶことができました。0.5秒程度置きに1ブロック分進行する矢印の進行方向を、上下左右の4つのボタンで操作して画面上にブロックを置いていき、相手の矢印の進行を妨げ、または閉じ込めるというゲームで、このゲーム性は後に「初のコンピュータグラフィックス映画」と謳われた「トロン(TRON)」という映画でも採り入れられています。

しかしこの「CRASH COURSE」は、その前年に米国のグレムリン(Gremlin)社が、同社にとって初のビデオゲームとして発表した「Blockade」と同じものに見えます。


Gremlinの「Blockade」 (1976)のフライヤー。

グレムリン社は1971年に創立され、「Blockade」以前は一般に「ウォール・ゲーム」と呼ばれる電光点灯式のゲーム機を主に作っていた会社です。そのグレムリン社は、1978年にセガに買収されて子会社になっています。

さて、なぜ「CRASH COURSE」のフライヤーに目が留まったかというと、そこに書かれている「初のCPU・TVゲーム」という文言に気づいたからです。

それ以前のビデオゲーム、例えばピンポンゲームやブロック崩しゲームなどは、コンピュータープログラムに相当する部分を、「TTL(Transistor-transistor-logic)」というIC部品を組み合わせて作っていました。それは、「電子ブロック」という玩具みたいなものだったと言えるかもしれません。

TTLでロジックを組むためには多くのICを要するため、基板が大きくなりがちです。従って、CPUを導入し、ロジックはプログラムROMに格納されているプログラムに置き換えるという新技術は、基板上の部品数を減らすことになり、将来的にはコンパクトなシステム基板への発展に繋がっていきます。

というわけで、CPUの登場はビデオゲームにおいては大きな技術革新の一つであり、だからこそセガもフライヤーで謳ったのだと思います。しかし、まだデジタル技術が一般に浸透しているとは言えなかったその当時、どれだけのオペレーターがその意味を理解していたものでしょうか。いや、理解どころか、「CPU? うまいもんずらか?」と首をかしげるか、良くて「なんだかわからんがすごい(らしい)」と思うのがせいぜいだったのではないかと想像します。ちなみにグレムリンは、「グレムリンの技術力によるイノベーション」程度のアピールしかしていません。セガがグレムリンを傘下に収めたのも、このグレムリンの技術力を取り入れるためだったと聞いています。

しかし、1975年に発表された米国ミッドウェイ社の「Gun Fight」は、すでにCPUを積んでいたという情報を何かで読んだこともあり、セガのハッタリが本当に事実なのかどうか、よくわからないところもあります。この辺、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、何卒ご教示いただけますようお願い申し上げます。


Midwayの「Gun Fight」(1975)のフライヤー。

オマケ情報。TAITOもセガと同様、「Blockade」に類似するゲーム「BARRICADE II」と「HUSTLE」の二つを1977年に出しています。



TAITOの「BARRICADE II」(1977・上)と「HUSTLE」(1977・下)のフライヤー。

それにしても、以前にも拙ブログのどこかでも言いましたが、70年代は、同じ内容のゲームが異なるメーカーから名前を変えて発売される例がたくさんあるだけでなく、筐体やフライヤーにライセンス関係を示していないことも珍しくないため、どれが元祖でどれが正規許諾品でどれが無断コピーあるいは海賊版なのか、なかなか判別がつかない、厄介な時期です。

情報求む! 「Table Bingo」

2020年05月24日 18時31分16秒 | ピンボール・メカ
最近、カナダにお住いの方と、eメールでいろいろと情報のやり取りをしています。始まりは、その方が拙ブログの記事「セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975)」を見て、詳しいことを教えてくれまいかとeメールを送って来てくださったことからでした。

その方はフリッパー・ピンボールファンで、IFPA(International Flipper Pinball Association)が公認する大会にもしばしば出場し、時には入賞もされていらっしゃるようです。また、フリッパーだけでなく、ビンゴ・ピンボールや、なんと日本のパチンコやスマートボール、アレンジボールにも強い興味をお持ちで、それらもいくらかコレクションされていらっしゃるとのことで、ワタシが忘れていたことを思い出させてくれる興味深い写真を送ってきてくださいます。

この方自身も、オールドゲーム機の画像がいろいろと掲載されていてレゲエファンには楽しめる”so I bought a pinball machine ”というブログを公開されています。その中の記事の一つ、”exploring the arcade in Supaidaman (ep 13) (1978)”という記事では、1978年に日本で放映されたTVシリーズ「スパイダーマン」から、劇中で舞台となるゲームセンターに設置されている機械を紹介されています。記事にエンベッドされているyoutube動画の4’52辺りから5’38辺りまでの短い時間ですが、懐かしい風景が見られますので、ご興味がありましたらご覧ください。

さて、その方から、「こんなビンゴ・ピンボール機の画像があるのだけれど、詳細を知らないか」という趣旨のメールをいただきました。



テーブル筐体に入ったビンゴ機の全体(上)とプレイフィールド部分(下)。

画像の出どころは”Danny Leach's bingo site”というウェブサイトでした。この画像を発見したサイトのオーサーと思しき人は、この画像にはいくつかの方法でアクセスできていたが、 「403_forbidden」と出るようになって見られなくなったと言っています。そこでワタシも画像で検索してみたところ、これはオークションに出品された時の画像であることが判明しました。出品されたのは2019年2月28日で、現在は「終了」となっています。

出品者による説明としては、

②激安売切り BINGO テーブルゲーム機 喫茶店 フリッパー ピンボール 昭和レトロ 激レア 希少の出品です!!

激安1,000円売切りスタートです!!
カギがない為通電のみ確認となります。

サイズ
幅約940×奥行約740×高さ約650mm

使用品ですので、汚れやすれ等ありますが全体的には綺麗な商品だと思います。
画像の物が全てです。
画像でもご確認下さい。
神経質な方、使用品のご理解の無い方や落札後48時間以内にご連絡を頂けない方の入札はご遠慮下さい。
ノークレーム、ノーリターンでお願いします。
直接手渡し可能です。


とあるだけで、メーカーやゲーム料金のデノミの説明はありませんでした。オークションの方では、60のビッドがあり、38,610円で落札して終了したようです。

実はワタシ、このゲームを一度だけ遊んだ記憶があります。ただ、それがいつ、どこでのことだったかが思い出せません。なんとなく、渋谷センター街にかつてあった「みとや」というゲーセンの2階で、80年代の前半くらいのことだったのではないかと思うのですが、まったく定かではなく、そうでない可能性も高いです。

ただ、遊んだ印象は残っていて、ボールもピンも小さく、ピンに当たったボールの跳ね方がオリジナルとはずいぶん違い、台をゆするボールコントロールもできないことから、面白いと思えるものではありませんでした

拙ブログをご高覧下さっている皆様の中に、このテーブル筐体のビンゴについてご存知のことがございましたら、ぜひお話をお聞かせいただきたく存じます。なにとぞよろしくお願いいたします。

サブロック-3D(Sega, 1982)と他の3Dビデオゲームの記憶

2020年05月17日 17時56分35秒 | ビデオゲーム
平面からものが飛び出して見える「立体視」は、ずいぶん古くからさまざまな手法で試みられて来ており、ことほど左様に「立体視」は多くの人の興味をそそる視覚効果であることが窺えます。映画の世界でも、古くは赤と青のフィルターメガネを通して見る手法から始まり、その後もときどき思い出したかのように出てきたものでした。

従って、「見るゲーム」を意味するビデオゲーム(「ビデオ(video)」の語源「videre」は、ラテン語で「見る」の意味)においても立体視を試みようとするのは自然なことと言えましょう。それを世界で初めて実現したのは、「サブロック-3D (SUBROC-3D)」(Sega, 1982)でした。




「SUBROC-3D」のフライヤー。1枚を三つに折った6ページ構成で、上が表紙側、下が中身側。表紙には円形の穴が開いており、そこを通して裏表紙側右のイラストの宇宙船が見えるように折りたたまれていた。この画像は、保存状態が良くなかったフライヤーをページごとにスキャンしており、一部尺が切れているところがあるものを無理やり実際の状態に近い状態に復元してある。

原理としては、一つの画面に左目用と右目用の二つの画像を交互に高速に切り替えて表示し、これに同期してシャッターが開閉する左目用レンズと右目用レンズを通して画面を見ることで立体視が得られる、というものでした。このシステムは、セガが松下電器産業と共同開発したとフライヤーには書かれています。

ワタシが「サブロック-3D」を初めて見たのは、明治通りの宮益坂近くにあり現在も営業が続いている「渋谷ボウル」のビル内にあったゲームコーナーでした。「ゲームコーナー」と言っても、この当時はまるまるワンフロアがゲーム場となっていたように記憶しています。セガの機械がやたらと多かったのは、そこがおそらくセガによるオペレーションだったからでしょう。

当時のワタシはミーハーでしたから、さっそく試してみたところ、確かにエネミーがこちらに向かって画面を飛び出て迫ってくるように見え、その効果には相当に驚き感心したことを覚えています。

ビデオゲーム業界では、サブロック-3Dの後、他社からも似た原理による立体視を売りにするゲーム機が断続的に売り出されました。

◆1985年 「バトルバード(Battle Bird)」(Irem)

バトルバードのフライヤーの表(左)と裏(右)。

◆1986年 「3-DサンダーセプターII(3-D Thunder Ceptor II)」(namco)

サンダーセプターのフライヤーの表(左)と裏(右)。このフライヤーは3D機能のない普通タイプで、3Dバージョンはこの半年後くらいに発売された。

◆1989年 「コンチネンタルサーカス(Continental Circus)」(TAITO)



コンチネンタルサーカスのフライヤー。二つ折りの4ページ構成。表紙側(上)と中側(下)

だがしかし。これらのゲーム機は、いずれもヒットと呼べるほど普及した印象がありません。ワタシの記憶では、最も良く見かけたのはコンチネンタルサーカス、次いでサンダーセプターで、バトルバードはほんの2、3か所でしか見た記憶がありません。

その原因として、一つには筐体が高価だったこともあろうかと想像しますが、それ以上に、いずれも専用のフィルターを通して画面を見ないと意味のある映像が見えないという欠点があったことも挙げられるのではないかと思います。バトルバードなどは、プレイヤー以外はゲーム画面を見ることができない造りになっていました。

現在は裸眼で立体映像が見られる技術も発達し、カジノのスロットマシンでも導入する機種が増えています。それらも、出始めのころから比べるとグラフィックの質は向上しているように思えますが、しかしまだ「ノベルティ・マシン(変わり種ゲーム機)」の域を完全に脱し切れていないように思えます。

立体視と言えば、数年前には家庭用のテレビモニターに3D機能が搭載され、各社が懸命に売り込んでいたこともありましたが、現在は全く見かけなくなりました。今のTVモニター業界の力の入れ所は、4Kとか8Kと言った高精細画像に完全にシフトしています。

多くの人が興味を示すくせに、いざ実現してもたいして売れない「立体視」は、実はそれほど強い需要がある技術ではなさそうです。ワタシの経験でも、なるほどファーストインパクトは大きいのですが、それはゲーム(テレビの場合は放映コンテンツ)を楽しむというよりも、視覚効果を楽しんでいるのでした。そしてその効果の刺激に慣れてくると、3Dはむしろゲームを楽しむ邪魔になっているように思ったものでした。

3Dという技術は、成功すれば多大な富が得られるという妄想を産む点で錬金術に似ていますが、錬金術と違ってなまじ実現できてしまうのでなお性質が悪いと言えるかもしれません。今のワタシは、3D技術は、視覚効果を見せることを主とするコンテンツであれば効果的ではあるが、視覚効果は従に過ぎないビデオゲーム分野では報われることのない技術だと考えています。これを裏切るタイトルが将来出て来てくれる方がうれしいとは思うのですが。

スイカシンボルに関するファイナルアンサー

2020年05月10日 18時19分21秒 | スロットマシン/メダルゲーム

長年の謎が解明したと思ったら、時をおかずに追加情報に触れるということはたまにあることです。今回はスロットマシンのスイカシンボルの謎がそうでした。

前々回の記事「【訂正・追加等】スロットマシンのスイカ・初登場時期が判明!」で、スイカシンボルがスロットマシンに初めて取り入れられたのは1937年であるということを、ラスベガス近郊の「クラーク・カウンティ・ミュージアム(Clark County Museum)」と言う博物館の展示から突き止めたと述べました。ただ、博物館の展示には、それがどこのメーカーのなんという機種だったかまでは記述されておらず、謎を完全に解明したとまでは言えない状態でした。

しかし、GWだと言うのに「STAY HOME」で外に出られないこの機会に、手元にある英語表記のスロットマシン関連書籍を苦労しながら読んでいたところ、この最後の謎について更に詳しい記述を発見してしまいました。

それはカリフォルア州アルカディアにかつてあった「Post-Era Books」という出版社が1979年に刊行した「MILLS of the THIRTIES」という本の中にありました。


Slot Machines of Yesteryear MILLS of the THIRTIESの表紙。

このP.127に、おそらくはその機種の広告と思しきイラストと宣伝文句が掲載されています。


おそらくは新機種の広告かと思われる。イラストには「david green」との署名? が見られる。

(以下、文面の超訳)
熟したスイカ同様にジューシーなミルズの新製品メロン・ベルは、プレイヤーへのアピールが滴り落ちています。人々はあっさりとこのマシンに熱狂します。いまだかつてない最高にリッチなベルマシンです! (人物のセリフ)ああ、スイカだ!


つまり、初めてスイカシンボルを採用した機種の名は「メロン・ベル(Melon Bell)」と言うようです。

余談ですが、米国では「スイカ(と、フライドチキン)は黒人の食べ物」と言う固定観念があるそうで、これらの食べ物は差別を意図した表現に使われることもしばしばあります。このイラストがそうであったとは思いませんが、「カルピス」のシンボルマークのように、今ではちょっと使えない表現だと思います。

さらに、このページをめくった次のP.128とP.129では、見開きで製品の説明と筐体の画像が続きます。


本文にはこれらの画像についての説明がないが、おそらく前ページの画像と併せて「メロン・ベル」のフライヤーではないかと思われる。

(以下、左ページ文面の超訳)
従来のフルーツシンボルに新たなキャラクター、緑と赤がみずみずしいスイカが加わりました。従来のキャラクターもリール上にあり、それらはすべて従来通りの当たりと標準的なジャックポットを提供しています。スイカは、「メロン・ジャックポット」という、ベルマシンに新たに加わった更なる大当たりのためのシンボルです。

メロンベル
巨大なメロンジャックポットを搭載

このジャックポットは手で補充し、コインで$10を収納します。前に張り出した美しく洗練された枠はマシンの前面全体を支配しているため、コインだけが目に入ります。スイカシンボルは、3つのリールに頻繁に現れますので、プレイヤーはいつもハンドルを引くたびにジャックポットを意識してスイカシンボルに注目するようになります。

スイカジャックポットがヒットすると、ロケーションのオーナーは開錠し、中身の全てがプレイヤーの手に入ります。つまりこれは装飾用のダミーではありません。それは現実の賞金で、夢ではありません。そして、実際に直接プレイヤーに払い出されることはプレイヤーにとってプレイする強い動機になります。
ジャックポットがヒットするたびに、オペレーターのみが参照できる内部機構に記録されます。そして賞金のコインを補充すると機械は再びワイルドなマネーメイキングレースを開始します。あなたはこれほどまでに素早くお金を稼ぐものを他に見ることはないでしょう。


スイカシンボルに関するファイナルアンサーをまとめます。
・スイカシンボルが初めて登場したのは1937年。
・初めてスイカシンボルを採用した機種は、Mills社の「Melon Bell」。
・スイカシンボルが揃うと、$10分のコイン(200枚)が払い出された。


ところで、実は、今回の出典とした本は、AM業界の生き字引と言っても過言ではないある方が、「スロットマシンの歴史に触れている拙ブログの資料に」とお譲りくださった何冊かのご本のうちの1冊でした。おかげさまでまた一つ、謎を解明することができました。これからも大事に使わせていただきます。本当にありがとうございました。


ラスベガス・1991年から現在までの流れ。

2020年05月03日 14時34分43秒 | 海外カジノ

ゴールデンウィークと言えば、毎年女房とラスベガス(と、可能ならもう一都市)を巡礼するのが、結婚以来ずっと続くウチの習わしでした。本当なら今年も、今頃はラスベガスで女房と二人並んでギャースカ言いながらビデオポーカーやバッファロー(アリストクラート社のビデオスロット)を打っているはずだったのですが、折からのコロナ騒ぎのため、ラスベガスどころか家を出るのも食料品の買い物の時に限って、STAY HOMEを極力守っています。

愚痴はともかくとして、ワタシが初めてラスベガスに行ったのは1991年のことで、サンズ(現在、ヴィニーシャンとパラッソが建つところ)に宿泊しました。サンズと言えば、トウモロコシのようなタワー棟が有名な風景でしたが、奥の敷地には2階建てのアパートのような宿泊棟がたくさんあり、ワタシの部屋はそちらの方でした。これらの宿泊棟のうちの一つに、カプコンUSAが借り切っていると思しき棟があり、企業ロゴの立て看板が花壇に立っていたことを覚えています。

今回は、その時のラスベガスの風景の記録と、それから現在に至るまでのラスベガスの変化のワタシの認識を記録しておこうと思います。当時はデジカメなどと言うものはなく、いわゆるレンズ付きフィルムで撮影したものですが、ネガが行方不明となっており、僅かに発見された紙焼きをスキャンしたものです。


画像1:ファッションショーモールの前から南向きにサンズを臨む。ストリップを挟んだ向かいにミラージのマーキーが見える。ミラージがオープンしたのはこの前年の1990年およそ2年前となる1989年の11月。


画像2:画像1からストリップを横断し、北側を臨んだところ。左端にファッションショーモールが見える。この頃のファッションショーモールは規模が今ほど大きくはなかった。今はもうないフロンティア、デザートイン(現ウィン)、スターダスト(現在何かが建設中)も見える。このころはストリップエリアにも広い範囲で空が見えた。


画像3:サンズの前から向かいのシーザーズパレス。今はこの右手にフォーラムショップスが建っている。


画像4:シーザーズパレスの前から東を臨む。この時点ですでにクローズしているノブ・ヒル(現カジノロイヤル)があった。左にマーキーが見えるデニーズは今も健在。


画像5:画像4の一つ南隣には、リバーボートを模したホリデイカジノ(現ハラーズ)があった。


画像6:ホリデイカジノのエントランスの看板。バフェイが朝$3.49、昼$3.99、夜$4.49と見える。29年前の値段ではあるにしても、もともとラスベガスのバフェイはこんな程度のダイニングだった。


画像7:シーザーズパレスの前から南側を臨む。バーリーズとデューンズ(現ブラージョウ)が見える。


画像8:シーザーズパレスの前から北を臨む。手前にフラミンゴ・ヒルトン(現フラミンゴ)、その向こうにインペリアルパレス(現リンク)が見える。

こうしてみると、この頃のラスベガスはまだ空が広い時期でした。この2、3年後から、ラスベガスはファミリー客の集客に舵を取り、ラクソー、トレジャーアイランド、MGM、ストラトスフィア、モンテカルロ、ニューヨーク・ニューヨークなど、テーマ性が強い超大型ホテルが立て続けに建造され、風景が一変していきます。

しかし、ファミリー客は思ったほどお金を落としていってくれないことがわかってくるとともに、高級を謳い「子連れ客お断り」とするブラージョウが1998年にオープンし、これが大成功すると、ラスベガスは高級志向に舵を切るようになっていきました。

高級化によって客単価を上げたい各カジノホテルは、子供っぽい印象を与えるホテルのテーマ性を隠すようになりました。トレジャーアイランドは大きな髑髏のマーキーを外して名称を「ti」に変え、「オズの魔法使い」をモチーフとしていたMGM(あの緑色の巨大な宿泊棟はエメラルド・シティがモデルだった)はインテリアから映画テーマを消しました。ラクソーは、今さらピラミッドやスフィンクスを隠すことはできませんでしたが、インテリアから古代エジプトをモチーフとする装飾を極力無くしていきました。

こうしてホテル代や飲食料金は高騰していくのですが、それでも客が来るものだから、ラスベガスもかなり調子に乗って、さまざまな高級リゾートの建造計画が立ちました。しかし2008年、いわゆる「リーマンショック」が発生し、米国は未曽有の不景気となり、それら新たな計画の多くは立ち消えとなり、各ホテルの部屋代は高級志向以前のレベルに値下がりしていきました。このようにラスベガスが不景気にあえいでいる間、為替相場は極端な円高となったので、この時期、日本人にとってラスベガスは非常に安く楽しめる観光地でした。

何とか景気が回復した後のラスベガスのホテル客室の利用率は常時8割ほどだったそうです。そうなるとラスベガスはまた調子に乗って、「リゾートフィー」という新たな概念をひねり出しました。これは、部屋代とは別に徴収するサービス料で、予約段階ではなくチェックイン段階で課金されるものです。そのリゾートフィーも、はじめのころは1泊あたり5ドルとか10ドル程度と控えめでしたが、今では高いところだと50ドル近くもします。さらに現在のラスベガスは、それまで無料で当たり前だった駐車場でも料金を取るようになってきています。

そんな経緯があるため、今のワタシは殆どダウンタウンかローカルのカジノホテルに宿泊し、ストリップエリアには特に用でもない限り殆ど近付くこともなくなりました。さて、そのラスベガスも、このコロナ騒ぎで娯楽産業はことごとく休業させられています。昨日には、ついに従業員のレイオフに踏み切ったカジノオペレーターも出たという報道を見かけました。この難局が明けた時、ラスベガスはどう変化しているのでしょうか。