オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

カラービンゴ(タイトー)の発売年の謎

2018年07月29日 18時35分57秒 | スロットマシン/メダルゲーム
それは、1978年初春のある日の深夜のことでした。

そのときワタシは、新宿歌舞伎町におりました。目的は、翌日より封切りとなる映画を観ることだったのですが、どうせなら一番乗りを目指してやれと考え、前日の夜から現地に張り込んでいたのでした。以前、どこかの記事でも申し上げた通り、この頃のワタシは人生で最も馬鹿だった(今でも大差はないかもしれませんが)時期だったのです。

当時のゲームセンターは終夜営業が当たり前だったので、長い夜を過ごす場所に不自由はありませんでした。ただ、お金はあまりありませんから、ゲーム三昧とまではいきません。ゲーセンを渡り歩いて、ゲームのアドバタイズや他人のプレイを眺めることに多くの時間を費やしていました。それでも楽しかった、幸せな時代でした。

そうした中で、「ジョイパックビル」(現在のヒューマックスパビリオン)の「プレイランドカーニバル」というゲーセンに入った時のことです。メダルゲームコーナーに、見慣れない、新しいマスメダルゲーム機を発見しました。それが、タイトーの「カラービンゴ」でした。


カラービンゴのフライヤー。この頃のタイトーは、メダルゲームを「mi-mo machine」と称していた関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2)

ワタシが持っている資料は解像度が低いので、フライヤーのコピーを原文のまま書き起こしてみます。

●遊び方
メダル投入口にあらかじめ99枚までのメダルを投
入することが出来、PLAY-NOWのランプが点いて
いる間に、12通りあるラインボタンの中から好き
なラインを選び、メダル1枚につき1ライン、ボ
タンを押すことが出来ます。
カラーボールが吹き上げられ、ボールがドーム内
にある螺旋状ボールガイドを転がり、波長により、
電子的に識別され、そのボールの色のランプが点
灯します。そして選んだ縦、横斜めのライン 5
個が揃うと”オッズ”に示された枚数のメダルが出
てきます。
・オッズは2,000枚、200枚、100枚、50枚、10枚と
変って行き、その”オッズ”の時点で選んだライン
が出来るとその枚数がペイアウトされ、メダル投
入表示「0」になるまで何通りでもゲームを続け
ることが出来ます。

特徴
●アメリカ、ヨーロッパで圧倒的な人気のあるビンゴ
をエレクトロニクス技術により、完全自動化したメ
ダルゲームです。
●6人用マスゲームですので多人数が同時にゲーム
が出来るうえ、コンパクトに設計されており、場所を
取りませんし、短時間での稼働率は抜群です。
●”オッズ”は5段階に分れており、ペイアウトは最高
2,000枚までありますので、射幸心を刺激し、人気
高騰間違いありません。
●カラフルなボールが吹き上げられる様子は、洗練
された機械のデザインと相まって、ゲーム場に華や
かな雰囲気を盛り上げます。
●クレジットシステムの導入により、ゲームのつど
メダルを入れる必要がなくなり、お客様にゆっくり
ゲームを楽しんでもらえると共にその優れたメカニ
ズムと、スリルあるゲーム性はメダルゲームの傑作と
いえましょう。


昔から思うことですが、AMゲーム機の宣伝とかインストラクションの日本語って、もう少し別の表現はできないものかと思うことが良くあるのですが、このフライヤーもそのような点が散見されます。

という文句は自分にも返って来そうなのでとりあえず置いといて、赤、橙、黄、緑、青の5色のボールが空気で吹き上げられてドーム内で踊る様は、カラフルで楽しそうに見えます。そして何より、「機械が色を識別する」という機能は、当時としてはたいへんにミステリアスに見えました。「さぞや高度な最先端技術を駆使しているのだろう。タイトー、すげえ」などと勝手にポジティブに解釈して、これはぜひ遊ばなければとは思うのですが、「カラービンゴ」には一つ、「ゲーム料金が高い」という大きな障害がありました。

当時のメダル貸出料金は、10枚で200円が相場でした。つまり、12ライン全てにベットすると、ゲーム単価は240円という事になります。ビデオゲームなら2.4回分の料金であり、ブロック崩しなら30分くらいは遊べる金額です。それが、運が悪ければ1分から1分半で失われるわけです。もちろん、ゲームに参加するだけならメダル1枚だけでも可能ですが、それではビンゴはほとんど望めず、進行が楽しくありません。それでもどうしても遊んでみたいワタシは、半分の6ラインにだけベットするなどと言うケチ臭い妥協点を見出すことで折り合いをつけることにしました。

ゲームが始まると色とりどりのボールがブロワーで吹き上げられ、ガイドレールに乗ったボールは検知器の中に入っていき、内部で色を判定した後にビンゴカードに反映されます。しかし、この進行には釈然としない点もありました。

と言うのは、ビンゴカードは5×5で25個のスポットがあり、それぞれに番号も付されていましたが、選ばれたボールと同色のスポットのいずれかがランダムに選ばれて点灯するため、スポットの番号には全く意味がありません。


ビンゴカードの拡大図。横一列のスポットが同色に塗り分けられ、それぞれのスポットには番号が付されている。

せっかく意中の色が選ばれても、同色の別のスポットが点灯してしまえばハズレです。もちろん、点灯するスポットを完全にランダムに選んでいるのであればこの抽選方法でも公正さは保たれます。しかし、少ない球数で上がるほど高配当となるルールであるため、無駄なハズレスポットが選ばれるということは全く面白くないことでありました。そんなわけで、また、ゲーム料金が高くほんの数ゲームしか遊べなかったこともあって、見かけほど楽しくないという印象が残りました。何とも惜しいことです。

さて、実は今回のテーマはこれからが本題です。この「カラービンゴ」は、業界紙「ゲームマシン」では、1978年1月1日号の「話題のマシン」で紹介されています。つまり、ワタシがプレイランドカーニバルで見た時点では、「カラービンゴ」は最新鋭の機種であったという事です。


ゲームマシン1978年1月1日号の「話題のマシン」のページ。赤枠がカラービンゴの紹介部分。

しかし、業界誌「アミューズメント産業」では、それよりも2年以上早い1975年の10月号に、タイトーの広告として「カラービンゴ」が掲載されているのです。さらに言うと、以前、拙ブログをご高覧くださっている方からいただいた1975年に作成されたタイトーのメダルゲームカタログにも、カラービンゴは掲載されています。


アミューズメント産業1975年10月号に掲載されたタイトーの広告。光ってしまって見づらいが、左上にカラービンゴが挙がっている。

この2年のタイムラグはなぜ発生したのでしょうか。

可能性として、1975年と言えば、その夏に、セガが「グループビンゴ」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975))を発売した年であることが関係しないものでしょうか。つまり、タイトーは、一足早く発売された「グループビンゴ」とのバッティングを避けて、ラインナップから引っ込めてしまったというストーリーです。

もしくは、発表はしたがまだ販売できるレベルに到達できなかったという可能性も考えられます。実際、色を識別するのは、当時はまだかなり難度の高いテクノロジーであったことと思います。理論上は可能であっても、識別の精度やコストの面から商品化が見送られるということだって十分あり得るストーリーです。

結局のところ、この2年のタイムラグの秘密は未だに謎のままですが、「グループビンゴ」の発売から2年も経てば、そろそろ新製品の出現が期待されてもおかしくはないので、タイトーはずっと塩漬けにしておいた「カラービンゴ」を「グループビンゴ」の後釜狙いとして放出してきたのではないかと、ワタシは想像しています。

「カラービンゴ」は、結局たいしたヒットともならずに消えてしまいましたが、これは不幸なことだったと思います。ゲーム内容はともかく、あのテクノロジーには、あの時代ならではの「センス・オブ・ワンダー」がありました。もし1975年時点で発表されていれば、市場のタイトーに対する評価もまた少し違っていたのではないかと思うと、残念でなりません。

また、それから15年後の1992年にセガが発売した「ビンゴパーティー」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(4)  ビンゴパーティー(Bingo Party, 1992)とそのシリーズ)は、ゲーム性やゲームの見せ方自体は「カラービンゴ」と大きな違いはないにもかかわらず、シリーズ化もされるほどのヒット作となりました。こうしてみると、「カラービンゴ」は、なんとなく、過去記事「【小ネタ】「ERASE」(セガ・1974?) 金鉱脈のすぐ隣を掘っていたゲーム」に似た哀愁を感じてしまうゲームでした。

一回休み

2018年07月22日 23時22分01秒 | 風営機
すみません、暑さの為かボケなのか、構想がまとまらず、記事ができません。「初期の国産メダルゲーム機」シリーズでは、まだタイトーが残っているというのに、資料の少なさもあって、未だたたき台さえできません。申し訳ありませんが、今週は1回休みとさせてください。

かと言って何もないのもアレですので、画像を二つばかり載せておきます。



これは、パチスロメーカーの「高砂電気」(現コナミアミューズメント)が、一時ネバダのライセンスを取っていたころのカジノ向けフライヤーの一部です。ワタシは、確か1995年頃、ラスベガスのインペリアルパレス(現The Linq)で、「TAKASAGO」の銘の入った、麻雀パイを使用したビデオゲーミング機を見かけていますが、遊び方が良くわからず、遊んではおりません。

sigmaやユニバーサル、あるいはコナミがネバダに進出していることはよく知られていますが、高砂がカジノビジネスに首を突っ込もうとしていたという話はどこでも見かけません。どなたか、この辺のことについてご存知のことがありましたら、ご教示いただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。

歴史の語り部を追った話(6):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その4 「ジェミニ」の構造

2018年07月15日 22時04分39秒 | 歴史
本題に入る前に、前回の記事にちょっと補足です。

前回の記事で、角野氏が「バリーの経営方針もオペレーションを主として製造メーカーとしてはあまり力を入れなくなった」と言っている部分は、「バーリーがニュージャージー州のカジノライセンスの取得に動き出したことを指していると思われる」と述べましたが、実はもう一つ、思い当たる件がありました。

1974年、バーリー(Manufacturingの方)は、オペレーション事業の拡大のため、ゲームアーケードのチェーン店「カルーセル・タイム」のオペレーター「アメリカン・アミューズメント」社を買収しています。角野氏が言っている「オペレーションを主」とは、ひょっとするとこちらの話だったのかもしれません。ただ、オペレーション事業を行うのは開発製造とは別の子会社であり、これによって「バーリーがメーカーとして力を入れなくなった」ということはなかったように思います。

余談(1) 「アメリカン・アミューズメント」のチェーン店は、買収後に「アラジンズ・キャッスル」に変わりました。1982年には、バーリーがオペレートするゲームアーケードは全米で450店舗を数えるまでに発展し、「ゲームアーケードのマクドナルド」とまで言われるようになりましたが、1980年代初めころから始まったビデオゲームブームの沈静化とともに徐々に店舗数を減らし、1993年、バーリーはオペレーション事業をナムコに売却しました。

余談(2) バーリーは1976年に「Aladdin's Castle」というピンボール機(画像と詳しい情報はこちらで見られます→The Internet Pinball Database Aladdin's Castle)を発売していますが、これが自社のアーケードチェーンとリンクした企画かどうかは不明です。ロケーションの一部には、ピンボールのと良く似たロゴを採用している店舗もありましたが、多くは全く異なるロゴを使用していたようです。

*********これより今回の本題

今回の話の出典である、「PACHISLOT 2001」に掲載された記事「伝説のパチスロ第1号 『ジェミニ』誕生秘話」の表紙部分では、このように語られています。

3メダル5ライン、ボーナスゲームという現在のパチスロの原型を作った伝説の第1号機「ジェミニ」。アメリカのギャンブルマシンだったスロットマシンにストップボタンを取り付け、さらにパルスモーターという画期的な技術を開発し(1)、風営法の基準で定められた遊技機として警察庁の認可を勝ち取った。しかしパチスロ業界の出発点となった「ジェミニ」が生まれるまでには、アメリカのバリー社の協力があった(2)ことは、これまで余り知られていない。日本のパチスロメーカーとアメリカのスロットマシンメーカーとの深い関係やホールにパチスロ併設を実現するまでの苦労など、これまでのパチスロ業界の歴史について探ってみたい (原文ママ、下線と()の数字は筆者による。引用は以下同様)

下線(2)については、前回の記事で触れたとおり、「バリー」が「Bally manufacturing」を指すのか、それとも「Bally Distributing」を指すのかが不明ではありますが、少なくとも米国のバーリー社にゆかりのある人物と交渉をして、バーリーの部品や筐体を提供してもらって開発されたものであることはわかりました。

ここまでは良いとして、バーリーのスロットマシンと決定的に異なる点となる「ストップボタンによるリール制御」をどうしたかという興味がわきます。これはバーリーのオリジナルには無い概念なので、模倣することはできません。

これについては、まず上記下線(1)で、「パルスモーター(ステッピングモーター、ステッパーモーターなどとも言う)」という言葉が出てきているほか、さらに角野氏へのインタビューの中にはこのような記述があります。

実際に「ジェミニ」を開発されたときに苦労されたのは?

角野 まず一つは法律上、個々のリールをストップボタンで止めて当てるというのが条件ですが、技術介入と人間の動物的勘と言いますか、動体視力によって必ず当てられてしまう状況になったわけです。絶対に機械の方が負けた。

―今なら設定で確率や割り数が決まっている

角野 (前略)リールをズラすということも最初は法律違反だと言われた。それで大阪大学に機械を持って行って研究チームを作り、動体視力についての大学の資料を警察にもっていき、4コマだけズラさせてくれと言って、それが認められた。だから規則で「4コマ以内」という風になっているはずです。絵柄は21ですが、パルスモーターは全部偶数です。電気機械というのは偶数でないとうまくできないんです。だからパチスロ用のパルスモーターを作るときに苦労しました(3)(後略)


角野氏自身も、ジェミニ開発での苦労話の流れの中で、下線(3)のようにパルスモーターに言及しています。ワタシはこれらを以て、ジェミニはパルスモーターで回転を制御しているものと理解し、過去「続・日本のスロットマシン」の中で、それを前提とした記事を公開したところ、ありがたくもご高覧くださったS川さまという方から、「それは違う」というご指摘とともに、ご本人が所有する「ジェミニ」の内部の画像を送ってきてくださいました。

つまるところ、ジェミニにはパルスモーターは使われておらず、アナログな機構でリールを制御しています。ジェミニのメカニズムについては、過去記事「アメリカンパチンコ」・ジェミニ」でも触れておりますのでご参照いただければありがたく存じます(今回のシリーズは、この過去記事で述べていなかった部分を補足する意味もありました)が、簡単に言えば、リールに磁石を仕込み、この磁石を検知するセンサーを取り付けることで、リールの現在位置を把握するという構造になっています。

ここで問題になるのは、この磁石を使ってリールの状況を知る方法が、マックスのオリジナルなのかどうかです。

これは出典が見つからず、今後の調査が必要な話ですが、現代のカジノで稼働するリールマシンの動作原理である「バーチャル・リール」、すなわち表出するシンボルをコンピューターで決定するという技術が初めてできたころはまだステッパーモーターがまだ存在せず、「ジェミニ」のように磁石とセンサーでリールの位置を読んでいたという話を、どこかで聞いたか読んだかした覚えがあります。それが事実であれば、早い時期から電子技術を導入することに意欲的だったサイが角野氏に与えたアドバイスの中には、ひょっとするとこのようなリールの制御方法も含まれていた可能性もあるかもしれません。

いずれにせよ、「ジェミニ」にはステッパーモーターは使われていないということが明らかで、インタビューの回答は初期のパチスロに関するいろいろな話が混じってしまっているのかもしれません。20年か、ひょっとするとそれ以上も昔の話ですので、いろいろと混乱することがあるのもやむを得ないとは思います。でも、記事にする際に多少なりとも話の裏を取る検証を行っていてくれれば、もっと良質の記事になっただろうにと思うと、多少残念な気持ちは残ります。

しかし、とは言うものの、パチスロに限らず、日本のコインマシンのメーカー自身がろくに過去の記録を残していない状況にあっては、大きなエポックの背景を伝えてくださっているこの記事はやはり大変に貴重なものです。ワタシとしては、このようなエピソードをより広く伝承する機会とするために、今後も頑張っていきたいと思います。

(このシリーズ終わり)

歴史の語り部を追った話(5):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その3 二つの「バーリー」

2018年07月08日 22時03分06秒 | 歴史
今回は前回の続きで、「角野氏はいかにしてバーリーの部品を流用するに至ったのか」なのですが、実はこの謎の前には、「二つのBally」という、一筋縄ではいかない混乱が横たわっています。

角野氏は、「ジェミニ」を開発する前に、「マックス(MAX)」という会社(マックス、マックス商事、マックス製作所、マックスブラザーズ、マックスアライド等々、「マックス」を名乗る会社名がいくつもありますが、その実態はおそらく同一と思われ、ソース情報でも混乱が見られるので、ここでは区別しません)を作って、Bally Manufacturing社製のスロットマシンやそのパーツを日本で輸入販売していました。


業界誌「アミューズメント産業」75年3月号に掲載された「MAX」の広告。「バリー社製品およびガラスなどの部品のお問合せ、ご注文は当社へどうぞ」 「Bally SPEAR PARTS SHOP」の文言が見える。

というわけで、角野氏が、「ジェミニ」以前からBally Manufacturingと何かしらの縁があったことは確かなようです。しかし、記事には以下のようなくだりがあり、理解に混乱をきたす曖昧な点となっています。

―特許とかライセンスの契約とかは?

角野 そんなものは全然なかった。最初、日本のマーケットは将来こういう風になっていきますからと、今現在みたいなパチスロ業界の形を説明して、こういう機械を作ってくれとバリーにプレゼンテーションしたわけです。バリーの社長がちょうど代わった時で、バリーの経営方針もオペレーションを主として製造メーカーとしてはあまり力を入れなくなった(1)。「我々の計画では、そんなものは世の中でありえない」と言われました。取り敢えず一応は「やってもいい」ということになって、デザインからメカまで同一の等しい機械を作ったわけです。足りない部品に関しては当時バリーから供給してもらいました。
 (原文ママ、下線と()の数字は筆者による。引用は以下同様)

さらに、角野氏のインタビューを一通り紹介した後に、このように述べています。

当時のバリーの日本担当者が後に独立してIGTを設立するウィリアム・S・サイレッド氏だった(2)。角野氏は「ジェミニ」を作るときに、「ここがうまいこといかない」と相談すると、上司のサイレッド氏から「ここがこうだ」と親切にアドバイスしてもらったと語っている。IGTが日本のパチスロ市場参入に成功した裏には、バリー時代からの人脈が役立ったはずである。

まず気になるのは、下線(1)の部分です。当時のBally Manufacturing社の社長は「ビル・オダネル」(William T. O'donnell、以下「ビル」とする)という人でした。彼は1963年にCEOとなり、1970年代後半にはカジノが解禁となったニュージャージー州でのカジノライセンスの取得に動き出します。角野氏が言う「経営方針もオペレーションを主として」とは、おそらくそのことを指しているのだと思います。

ところが、ニュージャージー州のゲーミングコミッションは、ビルは反社会的組織と関係がある(ビル本人は否定している)ので彼を解雇しなければライセンスを付与しないという条件を付けてきたため、Bally Manufacturingはこれに従ってビルの持ち株を強制的に買い上げて、1979年にライセンスを取得しています。「バーリーの社長がちょうど代わった時」とは、これに関する話なのかもしれません。

しかし、ビルがBally Manufacturingを追われたのは1970年代の後半のことで、角野氏が「ジェミニ」の開発のために交渉していたと思われる70年代中ごろは、まだBally Manufacturingの社長を交代させるという話は浮上していなかったはずです。考え方によっては微妙に重なると言えるのかもしれませんが、やはりいくらかの違和感は感じます。

次に下線(2)ですが、角野氏がやりとりしていた「ウィリアム・S・サイレッド」氏(これは「ウィリアム・S・レッド」の誤り。AM業界紙「ゲームマシン」も、1983年2月15日号に掲載した記事でこれと全く同じ間違いを犯しているので、ひょっとすると渡邊氏は独自の調査の過程でそれを見ていたのかもしれない)は、拙ブログの過去記事「ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3) 米国内の動き」で触れた「ウィリアム・サイ・レッド (William "Si" Redd)」氏のことです(長いので以下「サイ」とする)。サイはBally Distributing社の社長ではありましたが、Bally Manufacturing社の者ではありません。ここに、二つ目の「Bally」が出てきてしまいます。

サイのBally Distributingは、ビルのBally manufacturingの製品を販売するディストリビューターでしたが、子会社というわけではありませんでした(この辺、もう少し調査の必要がありそうですが)。それを、1975年、ビルがサイから買収して、Bally Manufacturingの傘下に収めています。あるいはこれが「社長が変わった時」の意味なのかもしれません。しかしサイは、ビルにBally Distributingを売却した後も、契約によってしばらく(3年間と思われる)はBally Distributingの仕事を続けていたし、またサイは、電子ゲーム機の開発には強い意欲を持っていました(逆にBally Manufacturingは消極的だった)が、カジノオペレーターを志向していたという話は全くありません。というわけで、この記事で言っている「バリー」が、Bally ManufacturingとBally Distributingのどちらを指しているのかが曖昧で、角野氏が初めに「ジェミニ」の話をしに行ったのがそのどちらであるかはわかりません。

この記事からわかることは、はじめに角野氏がバーリー(これがManufacturingを指すのか、Distributingを指すのかは不明)にこんなスロットマシンを作ってくれとパチスロの開発を依頼し、バーリー(同)はこれを断るが、自分でやるなら部品の供給はしてやるのでやれるものならやってみろという話になり、開発中はBally Distributingのサイにアドバイスを受けていた、ということです。

サイのBally Distributingは、基本的にはディストリビューターですが、サイ自身も「A1-Suplly」というゲームメーカーを別に立ち上げていくつかの電子ゲーム機を開発し、さらに社名を「SIRCOMA」に変えた後に開発した製品を古巣であるBally Distributingから発売するということもしており、メーカーとしての野望も持っていました。以上から、現時点でのワタシの結論は、角野氏が一連の交渉をしていたのは、ビルのBally Manufacturingではなく、MAXで取引をしていた時代を含んであくまでもサイのBally Distributingであり、サイを通じてBally Manufacturingの製品を融通してもらっていたというストーリーです。

サイは、ビデオポーカーという新しいスロットマシンの分野を確立して、現代のリールマシンの始祖とされるチャールズ・フェイと並び称される人物としてゲーミング業界の歴史に名を残していますが、同時に「パチスロ」の誕生に大きな影響を与えた人物として、日本でももっと知られてよいのではないかなどと考えたりもします。

(もう一回だけつづく)

歴史の語り部を追った話(4):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その2

2018年07月01日 20時31分07秒 | 歴史
今更で恐縮ですが、前回と今回の記事は、ワタシがかつて公開していたウェブサイト「東京ラスベガス(など)ランド」での記事の焼き直しです。

「東京ラスベガス(など)ランド」は、ニフティサーブが提供するホームページサービス上で作成していたものですが、2016年にサービスを終了したことに伴い削除され、現在は見ることができません。

しかし、このサービスは容量が少なかったため、一部のコンテンツについては他社のホームページサービス上で作成し、ニフティのページからそこにリンクを張るという形を採っていたので、そのようなコンテンツは帰属すべきトップページを失ったまま今もウェブ上に残っています。

焼き直しの元となった記事は3編あります。
一つ目は、2002年に公開した「ニッポンのスロットマシン」です。
ここで、ジェミニとバーリー製品との類似性についての疑問を提示に留まり、その謎については解明できませんでした。前回の記事は、これが下敷きとなっています。

二つ目は、2006年8月に公開した「続・日本のスロットマシン」です。
この中で、「PACHISLOT2001」を出典として、ジェミニとバーリーの関係について述べました。

最後は、2006年10月に公開した「続・ニッポンのスロットマシン補遺」です。
「続・ニッポンのスロットマシン」を閲覧された「S川」さま(仮名)という方から、記事の誤りのご指摘と画像資料のご提供を受けたので、修正情報を掲載したのがこの記事です。

これら過去に上げたウェブページは、現在のワタシの認識とは異なるところが一部あることと、また、どこからもリンクを張られずにいる野良ページのままでは情報の拡散に寄与する機会も少なかろうという事で、今回リメイクしている次第です。

★★★★★ 以下、今回の本編

「PACHISLOT2001」の記事「伝説のパチスロ第1号 『ジェミニ』誕生秘話」は、はじめに戦後日本にスロットマシンが持ち込まれてからオリンピアを経てジェミニ開発に至るまでの、日本におけるスロットマシンの歴史的経緯を簡単に紹介してから、ジェミニ開発者である角野博光氏へのインタビューという形で進められています。

本題であるインタビューは、いきなりジェミニとバーリー製品との類似性から始まります。

―「ジェミニ」の写真を見るとバリーのスロットマシンにそっくりですが?

角野 もうみんなそうですよ。実は「ジェミニ」はバリーの「マネー・ハニー」をベースにして「クイックドロウ」の部品を使って製造したものなんです」
 (原文ママ・引用は以下同様)

と答えています。なんと、ジェミニはバーリーの部品を流用して作られていたのですから、「似ている」ではなく「そのもの」ということでした。これで、最低限の謎は解けました。

ただ、この角野氏の答えには、いくらかの違和感を感じます。バーリーは、1964年にエレクトロニクス技術とコインホッパーを導入した画期的な基本構造を発明しました(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))。

以降、バーリーはこれを自社のリールマシン共通のプラットフォームとして、次世代機「シリーズE」を開発する1980年までの間に百数十種のタイトル(一部の特定地域向けのタイトルは除く)を製造しています。そして「マネー・ハニー」は、その第1号機「Model 742A」の10種類のバリエーションのうちのひとつであったにすぎません。

もう一つ、「クイックドロウ」という機種名も挙がっていますが、これは「マネー・ハニー」発売の2年後の1966年に発売された機種で、当然プラットフォームは「マネー・ハニー」と同じです。しかし「クイックドロウ」には、任意のリールを固定(ホールド)してゲームをすることができる「ホールド&ドロウ」というフィーチャーがあり、フロントドアにはホールドするリールを選択するボタンが取り付けられていました。「ジェミニ」はストップボタンの設置が必須だったので、ボタンを取り付ける穴が予め開いているフロントドアの存在は渡りに船だったことでしょう。

しかし、「ホールド&ドロー」フィーチャーを持つ機種は、「クイックドロウ」以降1975年までに約10機種が開発されており、ボタン穴の開いたフロントドアはそれらの殆どに使用された共通部品でした。


「ホールド&ドロウ」フィーチャーを持つクイックドロウ(左・1966)とサーカス(右・1972)のフライヤー。フロントドアには、それぞれのリールに対応するホールドボタンが取り付けられており、このボタンが取り付けられている穴に、「ジェミニ」のストップボタンが取り付けられたのであろうことから、インタビューにある「クイックドロウの部品を使った」の「部品」とは、これらのフロントドアを指すものと思われる。なお、最も左にあるボタンはキャンセルボタンで、ホールドを取りやめる場合に使用するものだが、「ジェミニ」ではこの部分に「メクラ蓋」と呼ばれる覆いが施されていた。

記事は、実際は余談も含むそれなりに長い話を、簡潔に、しかしなるべく多くの情報を含ませようとしてこのような文章となったものと察しますが、モデルとなった機種を特定してしまうことは情報を歪ませる恐れを感じます。より正確を期すならば、「当時のバリーのスロットマシンの機構をベースに、バリーの筐体を使って製造したものなんです」とすべきであると考えます。

念の為に申し上げます。ワタシは故人の記事にケチをつけるつもりはさらさらなく、渡邊氏の、初期パチスロとバーリーの関係を明らかにされた功績はたいへんにリスペクトしております。ここは単に、正確を期する以外の目的はないものとご理解いただければありがたく存じます。

さてそれでは、角野氏はいかにしてバーリーの部品を流用するに至ったのでしょうか。今回はこの辺についても述べておこうと思っていたのですが、本日中に記事をアップするためにはそろそろ時間が足りなくなってしまいましたので、今回はここまでといたします。見通しが甘くてすみません。

(つづく)