オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【訂正・追加等】トラックボールを使ったビデオゲームの件

2020年01月13日 17時55分31秒 | 訂正・追加等
前回アップした記事「【小ネタ】トラックボールを使ったビデオゲーム二題」の中で、「WORLD CUP (SEGA)」の発売年を1977年としましたが、その後ご高覧下さっている方からご指摘があって調査したところ、「ゲームマシン紙」1978年3月1日号の「話題のマシン」に、

「このほど、「シーソージャンプ」、「ディプスボンブ」、「ワールドカップ」のTVゲーム機三機種がそれぞれ発売となった」 (ゲームマシン紙 1978年3月1日号 14面)

という記述を見つけました。

発売時期は業界紙の記事掲載時期と必ずしも一致するわけではありませんが、月2回刊のゲームマシン紙で新製品情報を2か月以上も塩漬けにしておくとも考えにくいので、先の記事においてのSEGAのワールドカップの発売年を1978年に訂正しておきました。

さらにこの時代は、見た目は同じなのにタイトルが異なる、許諾の有無も明らかでないゲームが複数の異なるメーカーから発売されるということが珍しくなかった混沌の時期でもあり、SEGAの「WORLD CUP」にも米国Exidy社の「FOOTBALL (1978)」という類似機種があります(FOOTBALLのフライヤーはこちらで見られます→ The Arcade Flyer Archive )。こちらの機種については、同年のAMOAショウ(米国で開かれるAM業界のトレーディングショウ)に出展されていたとの情報をTwitterでいただきました。

SEGAの「WORLD CUP」とExidyの「FOOTBALL」のどちらが元ネタなのかは、現状では全く不明ですが、とりあえず両論併記の意味で追加情報としておきたいと思います。
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【小ネタ】トラックボールを使ったビデオゲーム二題

2020年01月12日 20時42分13秒 | ビデオゲーム
コンピューターの操作装置に「トラックボール」というものがあります。操作系にトラックボールを備えた最も古い商用ビデオゲーム機が何であるのかははっきりしないのですが、ワタシの記憶ではSEGA1977年1978年に発売した「WORLD CUP」になります。



WORLD CUP (SEGA, 1977 1978)フライヤーの裏表。英語表記であるところを見ると、海外向けのものらしい。

フライヤー裏面に書かれている操作説明では、この操作系を「ball type control」と呼んでいます。このころはまだ「トラックボール」という言葉が一般的ではなかったのでしょうか。こんなことを言い出すとトラックボールの歴史まで調べなければならなくなってしまいそうですが、これはワタシにとってはあまり興味を惹かれる話でもないので、すっとぼけることにします

ワタシがこの「WORLD CUP」を見たのは、渋谷センター街にかつてあった「新宿スポーツランド」というゲームセンターの地下で、たぶん1978か79年のことでした。このロケは、1980年頃に「扇屋」という牛丼屋になった後、またゲーセンに戻ったと思ったらまた何かの飲食店になったと思ったらまたゲーセンに戻る、なんてことを繰り返していたように記憶しており、現在は「三平酒家」という居酒屋になっています。この店のオーナーは新宿の繁華街で古くから手広く商売をしており、ゲームセンターもセガと共同でいくつもオペレートしていたので、この店もその一つだったのでしょう。

WORLD CUPは6人制のサッカーゲームでした。プレイヤーの移動はトラックボールを転がして行うところまでは簡単に想像がつきますが、意外なのはボールを蹴る操作で、なんとトラックボールを押すことで、パス、またはシュートを行っています。ワタシは、トラックボールに転がす以外の操作を加えているゲームの例を他に知りません。

ワタシの記憶で次に古い、トラックボールを使用したゲーム機は、翌1978年に米国ATARI社が発売した「FOOTBALL」です。1個のトラックボールと1個のボタンだけで操作する、アメリカン・フットボールをモチーフとするゲームでした。セガのトラックボールは、ポケットビリヤードのボール程度の大きさでしたが、こちらは大きめのグレープフルーツくらいの大きさがありました。



FOOTBALL (ATARI, 1978)フライヤーの表裏。

攻撃側(〇で表示)、守備側(×で表j比)とも、4種類のフォーメーションから次に採用するものを選んで、ボールがスナップされた後は〇×で描かれた選手をトラックボールで操作します。この時、懸命になってトラックボールを回す余り、ボールとテーブルの隙間に掌の皮膚を挟んでしまい痛い思いをする人が続出したものでした。

このゲームが発売されたころ、日本ではなぜかアメリカン・フットボールというスポーツが少しだけブームになりかけていたこともあってか、ゲームセンターによっては順番待ちもできるくらいのヒットとなり、国内ではコピーを製造販売するメーカーも現れました。このころから既にスポーツ観戦オタクの気があったワタシ(関連記事:RIO五輪に因んだ(こじつけた)スロットマシンの話)はアメリカン・フットボールも好きだったので、かなり入れ込んだゲームとなりました。

今回は、ワタシが認識するところの、トラックボールを使用した最も古いと思われる業務用ビデオゲーム2機種を取り上げましたが、「これより古いものを俺様は知っている」という方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示いただけますようお願い申し上げます。
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初期の国産メダルゲーム機最後の大ネタか? BLACKJACK(SEGA, 1976)

2020年01月05日 20時23分41秒 | 初期の国産メダルゲーム機
あけましておめでとうございます。2016年2月に始めた拙ブログも間もなく丸4年になろうとしています。これもひとえに拙ブログをご高覧くださる方々の温かい応援があってこそのことで、まことに感謝の念に堪えません。今年もオールドゲームやコインマシンの歴史に関する記録を主として細々と続けてまいる所存でおりますので、引き続きお引き立ていただけますようお願い申し上げます。

さて、拙ブログでは「初期の国産メダルゲーム機」というカテゴリーを設けて、1974年から77年くらいまでの間に発売された国内メーカーのメダルゲーム機に関する記事を掲載してきました。このカテゴリーの対象となる機種の殆どについては既に言及してきたつもりですが、ただ一つ、まだ触れていない機種が残っています。それが今回のテーマである「BLACKJACK (SEGA, 1976)」です。

今までこの機種に触れてこなかったことに、はじめのうちは特段の理由はありませんでした。しかし、いつの頃からか、これを述べたらその時点で一定の達成感を得てしまい(そしてまたネタ切れ感に襲われて)その後の記事更新の意欲がわかなくなるのではないかというおそれが芽生え始めて、記事化することに躊躇するようになってしまっておりました。

でも、いつまでも触れないままでいるわけにもいきません。昨年には「セガのブラックジャックの記事はないのか」という趣旨のコメントをいただいたこともあり、年の初めの一発目に思い切って取り上げることにいたします。

SEGAの「BLACKJACK」(正式の名称は「セガ・ブラック・ジャック」らしい)は、1976年に発売されました。業界誌を見ると、「アミューズメント産業」誌では1976年7月号にセガ社のカラー広告と新製品記事が、「ゲームマシン」紙では1976年7月15日号にセガ社のモノクロ広告がそれぞれ掲載されています。



セガ・ブラック・ジャックのフライヤー。二つ折りの開いた状態で、表紙側(上)と中側(下)。

フライヤーには、「中枢部は、いま電子工学技術の最先端を行く<マイクロプロセッサ>が受持っています」との記述があります。1970年代半ばは、アーケードゲーム機のシステムアーキテクチャにSS(ソリッドステート)という概念が取り入れられ始めたころです。セガがこの年に発売したこのブラックジャック機と「Rodeo」というピンボール機は、その世界的潮流のごく早い段階に開発されたSS機であり、その先進性が良い意味でも悪い意味でも特徴として語られる実にセガらしい製品と言えると思います。

ワタシが初めて「セガ・ブラック・ジャック」の実機に触れたのは1976年のたぶん晩夏から秋にかけての頃で、場所は都立大学駅にかつてあった「キャメル」というゲーム場(関連記事:柿の木坂トーヨーボール&キャメル)でした。まるで本物のブラックジャックテーブルを思わせる筐体デザインと、斬新なメダル払い出し機構で、たいへんにハマったゲームとなりました。

セガ・ブラック・ジャックは、それまでのメダル機と違ってプレイヤーの眼の前にメダルを払い出したので、まるで本物のブラックジャックテーブルでディーラーからチップが払い出されているかのように思われました。


勝ったメダルは、アームレストの下にある払い出し口(プレイヤーからは見えない)から図のピンク色の円内に吐き出された。

ブラックライトに照らされて不思議な輝きを放つカードの表示は、この時代の空港や鉄道の案内表示とか、壁掛け/卓上時計などによく使われていた「ソラリー式(反転フラップ式とかパタパタ式などとも呼ばれる)」という機械的な装置で行われていました。既にビデオゲームが普及してはいましたが、CRT表示でなかったのは、当時のビデオ技術ではカードを表示するにはまだ不十分なレベルだったのと、CRTはまだそれなりに高価な表示装置だったからでしょう(関連記事:メダルゲーム「TV21」(ジャトレ・1977)の謎 / ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(4)80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代)。

ソラリー式の表示には物理的な動作を伴うので、表示が完了するまでに、長ければ2~3秒程度の時間を要しました。しかし、目指す表示に達するまでパタパタとカードがめくれている間は、サスペンスが感じられたものでした。


カード表示装置部分の拡大図。4つの窓それぞれが独立したソラリー式表示装置となっている。カードを左右に二分割した中央を軸として、表示板がパタパタと高速度でめくれる。

◆セガ・ブラック・ジャックのゲーム進行手順

 (1)ベット受付。メダルは8枚まで投入できる。投入したメダル数は一桁の7セグで表示された。
 (2)プレイヤーの窓に1枚のカードが表示される。
 (3)ディーラー(テーブルには「HOUSE」と書かれている)の窓に2枚のカードが表示される。
 (4)プレイヤーの窓に2枚目のカードが表示される。
 (5)ヒット操作受付開始。プレイヤーは一定時間内に最大2回ヒットできる。
 (6)ディーラーのヒット動作開始。(注1)
 (7)プレイヤーが勝っていればメダル数の2倍が払い出される。(注2)(注3)

 (注1)オリジナルルールとは異なり、16でもスタンドすることもあった。法則は不明。
 (注2)プレイヤーの最初の2枚がスペードのAとスペードのJの場合は8倍の払い出しとなる。
 (注3)プッシュの場合はプレイヤーの負け。



筐体前面の、ゲーム進行ガイドランプ。ゲームシークエンスに沿って、女声のアナウンスとともに現在の段階がランプの点灯で示された。

ヒットの操作は、「カードオープンボタン」というボタンを押下することによって行いました。このカードオープンボタンには豆電球が内蔵されており、操作を受付ける時には点灯しましたが、バストしてしまったら操作受付時間中であっても消灯しました。この設計思想自体は良いのですが、表示されるカードはカードオープンボタンを押下した瞬間に決定しており、その時点で結果が21以上であると判断されれば、ソラリー式の表示装置がまだ目的のカードの表示を完了していなくともカードオープンボタンを消灯させてしまうという、非常に興を殺がれる作りになっていたのがまったく残念でした

ただ、これは必ずしも悪いばかりでなく、最初の2枚が11の時にヒットしてボタンが消灯すれば、表示機の動作が停止する前に21になることがわかりました。また、12以上のスティッフハンドでヒットしても消灯しない場合は、少なくとも今回はバストを免れたということも察知でき、消灯してしまった場合は21ちょうどか、それともバストかとハラハラしながらソラリー式表示機の動作を見守るという、おそらくは開発者が想定していなかったであろう楽しみ方もできました。

「セガ・ブラック・ジャック」は、「ファロ」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)や、任天堂の「EVRレース」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム)ほどではないにしても、かなり広く普及したように思います。これに気をよくしたか、あるいは小規模ロケからの要望が多かったのか、セガは翌1977年には同じ機構を使用した一人用のブラックジャック機を発売しました。これはワタシが一時アルバイトをしていたダイエー碑文谷店のゲームコーナー(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)にも設置されました。


「ゲームマシン」紙1977年2月1日号に掲載された一人用セガ・ブラック・ジャックの新製品記事。SSピンボール機「ビッグ・トゥゲザー」と「ノスタルジア」の発売も同時に発表されている。

しかし、5人用の筐体は、海外旅行がそれほど一般的ではなかったこの時代にまだ見ぬ海外のカジノでプレイしているかのような錯覚に陥ったものでしたが、この一人用は、ゲーム自体は全く同じはずなのに5人用ほどの高揚感を得ることもなく、あまりのめり込むことができませんでした。
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IR汚職事件で思ったこと

2019年12月29日 23時32分09秒 | その他・一般
拙ブログをご高覧下さった皆様、今年一年、どうもありがとうございました。拙ブログが幾分なりとも古いコインマシンに関する情報の拡散に役だっているのであれば、これに勝る喜びはありません。

さて、今年も終わりに近づいたところで、にわかにIR(Integrated Resort)関連の政治的なスキャンダルが持ち上がって参りました。汚職は当然のことながら糾弾されてしかるべきことでありますが、これを機に噴出しているIR推進反対派の主張は、カジノ及びギャンブルは絶対の悪であると決めつけているように見え、たびたびラスベガスに行ってはカジノでギャンブルを楽しんでいるワタシなどは、彼らにかかるとまるで反社会的な人物ででもあるかのようです。

◆ワタシにとってギャンブルとは何なのか
これでは不本意なので、この機会にギャンブルに対するワタシのスタンスを説明しておこうと思います。まず、ワタシにとってギャンブルとは、お金を払ってスリルを楽しむ娯楽であり、消費行動です。この点においては、お金を払ってローラーコースターに乗ることと本質的な違いはありません。スリルを得るための質草が、ギャンブルでは自分の小遣いであり、ローラーコースターでは自身の身の安全であるという点が異なるだけです。

お金が増えたか減ったかは、スリルを楽しんだ後にゲームの成功の度合いを示す結果に過ぎません。もちろん成功すれば嬉しいですし、失敗が大きければ落胆もしますが、それはスリルを求めた結果として受け容れなければならないものです。お金を失って「そんなつもりじゃなかった」とか「カネ返せ」などと言う人は、スリルで遊ぶ資格がそもそも無い人です。

◆ワタシはなぜギャンブルをするのか
カジノのギャンブルゲームの殆どは1回のゲーム時間が短く、スリルが次から次へと提供されるので、続けることが苦痛になりません。更にカジノのギャンブルゲームでは、ゲームが始まってから結果が出るまでの間にサスペンスが生じます。特定のゲームが面白いかつまらないかは、そのゲームにサスペンスを感じるかどうかで決まるとワタシは考えています。

つまるところ、ワタシがギャンブルで遊ぶのは、スリルとサスペンスが連続して楽しめるからです。「ばくち好きは遊んでお金を稼ごうとする人間のクズ」という言説を良く耳にしますが、メダルが何万枚増えようと金品と交換できないメダルゲームが日本のコインマシン市場で50年近くも主要なジャンルの一つとして確立できているという事実からも、それはごく限られた一面しか見ていない批判だと言わざるを得ません。

余談になりますが、どこにサスペンスを感じるかは人それぞれです。例えばワタシは、バカラにはサスペンスを感じないのでやりません。また、パチンコもやめて20年くらい経ちますが、やめた理由は、ゲーム開発者がサスペンスを感じさせようとするあまり、内部のプログラム的には既に当たりかハズレかの結果は出ているくせにプレイヤーの気を持たせるためにわざと結果を出し惜しんでつまらない演出で延々と引っ張り続けるようになって、感情を弄ばれているような強い不快を感じるようになったからです。サスペンスもなかなか難しいものではあります。

◆カジノ(IR)は打ち出の小槌ではない
カジノやIRの推進を反対する勢力がよく口にする、「カジノは負けた人のお金で成り立っている」とか「IRとはすなわちカジノでしょ」という言説は、反対の理由としては感情論的で脆弱な理論だと思います。今回の前半で述べたように、ギャンブル遊びは消費行動ですから、カジノがそれで成り立つのは、ローラーコースターの搭乗料金で遊園地が成り立つ理屈と変わるものではありません。また、IRとは「複合リゾート施設」の意味であって、カジノはその中の一施設に過ぎません。何となれば、カジノなど無くてもIRは(理屈の上では)成立し得ます。

ただ、このようなお粗末な反対論が出てくる責任の一端は、推進論者側にもあると思います。IR構想とは、海外からの訪日客を増やして国内でお金を使って行ってもらうための仕掛けを作ろうというものであったはずです。しかし、マスコミに流れるニュースはほぼカジノ一点に集中してしまっているにもかかわらず、推進論者側からIR構想の丁寧な説明を積極的に行う努力は殆ど報じられません。

IRには「MICE(マイス)」というキーワードがあります。これは、企業などのミーティング(Meeting)、企業などの褒賞・研修旅行(Incentive)、国際的な機関が行う会議(Convention)、見本市、トレーディングショウ(Exhibition)の頭文字を取ったものです。つまり、これらのイベントによって世界中から人を呼び込んで、産業や学術その他の情報の集約・発信の中心にしましょうと言う構想です。

しかし、IR施設(もしくはカジノ)を作ったからと言って、自動的にそこがMICEの会場になるとは限りません。MICEには主催者がおり、その主催者に日本のIRを会場として使ってもらうためには、主催者から見てそこがイベントを行うに魅力的でメリットを感じるようにアピールする必要があります。カジノはそのための仕掛けの一つにすぎないもののはずなのですが、ワタシは今まで推進論者からそういう説明があったという話を、新聞やテレビなどで聞いたことがありません。いや、多少はあったのかもしれませんが、知られていなければやっていないのと同じことです。そもそも、推進論者の中にもこのようなIR構想の理論をどこまで理解しているのかが疑わしいと思われる人も多く見受けられるように思います。今回、収賄で捕まった国会ギーンもそんなうちの一人ではなかったかと感じます。

MICEの主催者たちと交渉して、例えば何年後にはこれだけのイベントが開催できる見込みとなるよう努力を続けているなどと言った説明ができないようなIR構想であれば、それは日本の為政者が得意とする単なるハコモノ行政に過ぎず、カジノやギャンブルに寛容なワタシだって賛成できません。

あまりにもタイムリーだったため、年の最後に滔々と語ってしまいましたが、年明けからは平常運転に戻るつもりですので、どうぞ来年もご指導、ご鞭撻いただけますようよろしくお願い申し上げます。
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埼玉レゲエ紀行(2):BAYONの記録その2 + パチンコ博物館(さいたま市)

2019年12月22日 22時55分42秒 | ロケーション
レゲエコーナーを一通り見て回った後、メダルゲームコーナーに向かうと、そこには「COCKTAIL NIGHT筐体」や「LOTUS筐体」などの懐かしい筐体に入ったビデオポーカー類、sigmaが海外のカジノ向けに作ったメカスロット類が大量に設置されていました。


懐かしの筐体の本のごく一部。(1)sigmaのメカスロ「Night Fever(1994頃)」。 (2)ベルトップ筐体(1998頃)。この筐体は当時ラスベガスのカジノのあちこちで見かけた。 (3)カクテルナイト筐体(違うかも? 1987頃) (4)ロータス筐体(1994頃)。

さらには、sigmaのスピリッツを引き継ぐCRON社のマシンで構成される一角まであり、BAYONのシングルメダル機にかける熱い気持ちが伝わってきます。


おびただしい数のCRON社のシングル機で構成されている一角。画像右下にわずかに見えるスラント筐体は、CRONを立ち上げたメンバーがサミーに所属していた時に開発していたものだったかもしれないが、迂闊にも確認するのを忘れてしまった。

これらの筐体を重点的に撮影しながら奥に進んでいくと、うわさに聞いていた、現在の日本で(おそらく)唯一営業稼働しているビンゴ機が3台、ステージのように一段高くしたところに設置されていました。


BAYONに設置されているビンゴ機3台。手前からCHEROKEE ROSE、PASTEL SHOWER、ELDORADO。いずれもsigma製のICビンゴ。

これらのうち、CHEROKEE ROSEを除いたEL DORADOとPASTEL SHOWERの2機は残念ながら稼働していませんでした。ビンゴはワタシが最も熱中したゲーム機の一つですから、せっかくここまで来たのに遊ばない手はありません。メダルを借りに貸出機の方に行きました。メダルの貸出料金は1000円で150枚、2000円で400枚、3000円で500枚となっていました。

昔は1000円で50枚が相場(sigmaのゲームファンタジアはさらに高い35枚だった)である上にボリュームディスカウントも殆どなかったので、当時のワタシがsigmaのビンゴ・イン(関連記事:ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地)で遊ぶときには1000円で50枚ずつ借りて惜しみながらベットしていたものなのに、150枚となればその3000円分ですから、当時のワタシにとってみれば結構なお大尽遊びのレベルです。

唯一稼働しているCHEROKEE ROSEは、プランジャーに僅かに引っかかるような感触があり、ボールの安定した打ち出しが若干困難でした。ある程度ならば筐体を揺らすことでリカバーはできますが、もし、BAYONの方々がこれに気づかれましたら、メンテナンスをお願いしたいところです。

ビンゴ・ピンボールは、スコアが伸びればフィーチャーが有効になりにくくなり、逆にフィーチャーが早い段階で有効になるとスコアが伸びにくくなるという特性があります。あるとき、メダル20枚のベットで、スコアだけがどんどん伸びてフィーチャーが一切有効とならないという展開になってしまいました。これ以上追加ベットをしてもフィーチャーが有効になることは望み薄なので、ゲームとしてはあまり面白くないのですが、大量メダル獲得を目指すことでがまんして頑張ったら、最もスコアが高い赤ラインに4並びを完成させて480枚という大当たりを出すことができました。


今回の大当たり。20メダルのベットで、赤ラインに4並びで480枚のメダルを獲得。もしこれが5¢硬貨でのガチなギャンブルプレイなら、$1のベットで$24の大勝利という事になる。

これだけの当たりは、ワタシが最も一所懸命ビンゴ・ピンボールを遊んでいた頃でもそうそうありません。昔は自由になるお金が少なかったので、特に大きなチャンスの時にかかるプレッシャーは今とは比べ物にならぬほど大きく、ガチガチに緊張してボールコントロールのミスを誘ってしまっていたものでしたが、今は当時と比べればはるかに恵まれているので昔のような切実な緊張感はなく、このメンタルの余裕が勝利に結び着いたことは間違いありません。しかし、それはそれで良し悪しでもあります。心に余裕がある半面、勝利の嬉しさの強さが昔に比べて半減している気がします。そしてこれには、メダル単価の大暴落と、プッシャーなどに見られるジャックポットのインフレ化も多少なりとも関係していると思います。

◆パチンコ博物館(さいたま市南区)

BAYONを午後3時ころに出て、次にワタシは北戸田駅を目指しました。今回、BAYONについて立地などを調べていたら、ここに「パチンコ博物館」というものがあることを発見していたので、ついでに訪れることにしていたのです。

ふじみ野駅から電車を2回乗り継いで辿りついた北戸田駅から徒歩数分のところにある「ガーデン北戸田」というパチンコ店の2階に、「パチンコ博物館」はありました。入場は無料で、子供連れでも入れるとのことです。

自動ドアを開けて中に入りましたが、他の観覧客の姿が認められず、ずかずかと入り込んで良いのか不安になりました。右手に女性の受付係員がいたので入っても良いのかと聞くと、どうぞと丁寧に答えてくれました。ついでに、写真を撮影しても良いかと聞くと、「申し訳ありませんが写真の撮影はご遠慮いただいております」と、本当に申し訳なさそうに言われてしまいました。その代わりと言うわけではないのでしょうが、脇にあるウィンドウに陳列されている業者関連のグッズから一つ、好きなものを下さるというので、西陣のネームの入ったクリアフォルダをいただきました。

展示はパチンコの原型となったゲーム機から始まり、バラ釘時代、村正のスタンダード6穴時代、連発式の許可、役物の自由化時代を経て電役、羽モノ、そしてセブン機と順を追って豊富に展示されており、実に充実しています。特に、バラ釘以前の機械は、現存しているのが奇跡的と思われるものもあります(ただ、なぜか「半ゲージ」の展示は無かった)。

また、順路の壁にはパチンコの年表や昭和時代のパチンコ店の風景などもあり、これらも丁寧に見て行こうとすると時間がいくらあっても足りそうもありません。写真撮影を断られているので撮影もできないので、これらを丹念に見ることはできませんでした。

写真撮影を禁じている理由はわかりません。一般人がウェブ上で公開してしまったら来場者が減ると考えているのでしょうか。ワタシとしては、一般人が広く紹介すれば、実際に訪れてみようと思う人は増えると思うのですが。なんとももったいないことです。

写真は無いので、配布しているパンフレットを掲載しておきます。興味を持たれましたらぜひ実際に確認しに行って見てください。

パチンコ博物館
所在地 : 埼玉県さいたま市南区辻8-24-10
      ガーデンシティ北戸田2F
開館時間: 午前10時~午後6時まで(定休日:不定休)
最寄駅 : JR埼京線 北戸田駅東口から徒歩2分







(このシリーズ終わり)
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