オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

初期の国産フリッパー・ピンボール機:Surfing (Sega, 1972)

2024年09月15日 19時33分05秒 | ピンボール・メカ

久しぶりの「初期の国産フリッパー・ピンボール」は、Segaの「Surfing (1972)」のフライヤーです。Segaは前年の1971年に日本で初めてポップバンパーを備えたフリッパー・ピンボール機を3機種リリースしており、続く1972年には4機種をリリースしています。

「Surfing」のフライヤーのおもて面。右のおよそ1/3を折り返して中を隠すスタイルは、この頃のセガのピンボールに多用された。

「Surfing」のフライヤーの裏面。

折り返し部分を開くと、筐体の絵とゲームの説明が現れます。

折り返し部分を開いたところと、筐体部分の拡大図。

ゲームルールの説明部分の拡大図。推奨サイズ内でなるべく大きく表示できるように上下二分割してある。

何か一つヘンなことをしなければ気が済まないSegaは、このゲームでは「サーフィン・フィールド」と称する部分をプレイフィールドの右側に設けました。諸条件を満たすとここにボールが入り、ボールがまるでサーフィンでもしているかのようにウネウネとプレイフィールド上を彷徨い、その間点数が加算されます。

プレイフィールドの右上(明るい部分)がサーフィン・フィールド。IPDB(Internet Pinball Data Base)より拝借した画像で、ポップバンパーの一つのキャップがオリジナルではない。また、正面アングルに補正しているので縦横比が正確ではない。

この「サーフィン・フィールド」でのボールの動きは、プレイフィールドの下に磁石が仕込まれているであろうことは見当が付きますが、その磁石がどういうものであるかはずっと謎でした。ひょっとして先端に磁石が付いたアームが回転運動とかしてるのかとも想像していましたが、今回、IPDBを見てみたら、フィールドの裏側に大きな電磁石が二つ付いていることがわかりました。

「サーフィン・フィールド」の真下に付いている二つの電磁石。これでどの程度の磁力となるのかは、物理と電気に暗いワタシには見当が付かない。この画像の元ネタもIPDB。

これを見ると、磁石自体は固定されています。となると、たぶん、二つの電磁石をONにしたりOFFにしたりしてボールに不規則な動きを与えているものと思いますが、私は電気と物理はからきしなのでアテにはなりません。どなたか詳しくわかる方はいらっしゃいませんでしょうか。


「フィーバー」の元ネタ、ブレンド赤坂(三共、1977)

2024年09月08日 18時38分52秒 | 風営機

パチンコ機の大手メーカー、三共がその公式ファンサイトに掲載している「SANKYOヒストリー」と言うページは資料として有用で、しばしば参照させてもらっています。77年以前の機種については画像が殆どなく、機種の説明が付いているものも少ないですが、それでもそのような機種があったことが記録されているだけでもありがたいことです。

この「SANKYOヒストリー」の1977年に掲載されている「ブレンド」は、ワタシの記憶に強く残る機種です。

三共のファンサイトの「SANKYOヒストリー」より、「ブレンド」のページのスクリーンショット。

しかしウェブページの画像は小さく、ディテールがよくわかりません。どこかに大きな画像はないかとかねがね探していたところ、最近、拙ブログではおなじみのCaitlynの助けで入手できた何冊かのパチンコ業界誌「プレイグラフ」の1978年1月号に、「ブレンド赤坂」の広告が掲載されていました。

パチンコ業界誌「プレイグラフ」1978年1月号の「ブレンド赤坂」の広告から、本体画像の部分。

画像を見比べると、「ブレンド」と「ブレンド赤坂」は異なる機種のようですが、ワタシが実際に見て遊んでいたのは「ブレンド赤坂」の方です。「ブレンド赤坂」は結構あちこちのパチンコ店で見かけましたが、「ブレンド」は見たことがありません。「ブレンド赤坂」は、盤面中央に3リールのスロットマシンが付いており、天穴に球が入るとリールが回り始めます。百発皿の下にはそれぞれにリールに対応した3つのスキルストップボタンが付いており、これによってリールの回転を停め、絵柄の組み合わせによって開くチューリップの数が変わります。

同じく「プレイグラフ」1978年3月号に掲載された「ブレンド赤坂」機種の紹介記事(上下二分割)。

ただ、三共のファンサイトの記述中、「(ブレンドが)インベーダーゲームの大流行によって大きな危機を迎えていた中で誕生した(要約)」とある部分は気になります。

インベーダーブーム」が発生したのは1978年の終わりに近い時期で、その社会への影響力は「猛烈な超大型台風」並みにすさまじく、客足を奪われた7号業界は「娯楽の王様」の地位から滑り落ちるほどの極めて深刻な被害を被りました。

しかし、「ブレンド」や「ブレンド赤坂」が売り出された時期はそれよりも1年ほど早い1977年です。その頃、ビデオゲーム界では既にブロック崩し風船割りゲームが流行していたので、パチンコ業界も時代に取り残されないように電子ゲームを採り入れようとする動きがあったとは思います。しかし、その時点のビデオゲームはまだパチンコ業界を脅かす存在ではなかったはずです。

「ブレンド」、及び「ブレンド赤坂」が後に「フィーバー」に姿を変えてインベーダーゲームを凌ぐ大ブームを巻き起こし、インベーダーブームが下火になったことも手伝ってパチンコが再び「娯楽の王様」に返り咲いたのは1980年のことでした。


日本のゲーセンはいつから始まったのか?

2024年09月01日 17時18分57秒 | 歴史

関西精機」や「中村製作所(後のナムコ)」、三共ベンダー(後の三共精機→三共)など日本のコインマシンメーカーの古いところは1950年代後半に登場していますが、それらが創業した当時、コインマシンは温泉などの行楽地や百貨店の屋上遊園など他の施設の付帯施設に設置されるものでした。日本に単独の遊戯場である「ゲームアーケード」が現れたのはいつごろでしょうか。

去る5月、拙ブログではお馴染みのカナダのCaitlynが、自身のブログに「exploring the arcade in this 1961 gun corner photograph(1961年のガンコーナーの写真でアーケード探訪)」を掲載しました。そこには、米国のエンターテインメント業界誌「Cash Box」1961年4月15日号に掲載された日本のゲームセンターの記事が紹介されています。

Caitlynのブログより、「Cash Box」1961年4月15日号掲載の日本のゲームセンター事情の記事。

(記事の超訳)
日本は米製アーケードゲームを取る
(東京、日本) アーケードの経営者が、合衆国の様々なコインマシン機器輸出業者から機械を輸入した後に、米国製のアーケード及び娯楽機器への関心が高まっていると報告した。日本の家庭は夕食後の楽しみの延長に夜も開いているアーケードを楽しんでいる。国内(注・米国内)の多くの大手AM機器輸出業者は、新規ロケのオープンが継続している日本が成長市場であることに気付いている。

1961年の日本と言えば、まだ十分に豊かとは言えません。いや、むしろ「まだ貧しい」と表現する方が適切でしょう。「夕食後の楽しみの延長」も、当時のテレビ受像機の世帯普及率が63%とまだまだ低かったこともあろうかと思われます。とは言え、高度経済成長期の只中ではあり、1950年代末に始まるレジャーブームに見られるように、衣食住以外に多少の出費ができる程度の余裕が生まれていたことは確かなようです。

web版業界紙「ゲームマシン」2012年2月15日号のフロントページでは、「ローゼン・エンタープライゼス」(関連記事:ローゼン・エンタープライゼス1961(1)アーケードゲーム)が「1960年6月に日本で初めて開設したアーケード」として東京・日比谷の「日比谷ガンコーナー」を紹介しています。

web版業界紙「ゲームマシン」の2012年2月15日号に掲載されている、日比谷ガンコーナー。この写真自体は1980年夏に撮影されたものとのこと。

ローゼン・エンタープライゼスが1961年頃に頒布したカタログに掲載されている日比谷ガンコーナー。1980年の画像とは設置機種は違っても建物自体は同じなので雰囲気はよく似ている。

日本にゲームアーケードができ始めたのは1960年の事のようですが、「Cash Box1961年6月24日号の「Coin Machine Condition In The Far East(極東におけるコインマシンの状況)」と題した記事では、ローゼン・エンタープライゼスは100軒近くのロケを運営しているとあり、ゲーセンが猛烈な勢いで広がっていたいたことが窺われます。

ローゼン・エンタープライゼスが1961年頃に頒布したカタログに掲載されている大阪・梅田のゲームセンター、「ゲーム・オ・ラマ」。これも当時の最新の娯楽スポットだったのだろう。夥しいガンゲームに人が群がっている。

さらにこの記事では「ジュークボックスの大手輸入業者」の「ミハイル・コーガン」もアーケード分野にも進出していると報じています。「ミハイル・コーガン」が「タイトー」の創業者であることは、拙ブログをご高覧くださっている方々には今さら言うまでもないことでしょう。

ワタシはこれまで、1960年代初頭の日本の映画やTV番組でゲームセンターが写り込んでいるシーンを見かけると、そんな時代からゲーセンなんてあったのかと訝しく思っていたのですが、実はアーケードは当時の流行であったことが今回の調査で判明して疑問が晴れました。

ただ、初期の日本のゲームアーケードに並んでいた娯楽機の殆どは米国からの輸入品です。国産品は従来のロケーションに設置されましたが、アーケードに置かれるようになるまではまだ少し時間を要していたようです。


「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(2)

2024年08月25日 20時29分22秒 | 歴史

【前回のあらすじ】
説ブログで昨年から引っ張り続けている謎のロケーション「アタミセンター」のオペレーターは、現存するAM施設のオペレーション企業「タイガー娯楽」であるとの情報を得た。
タイガー娯楽の前身は戦前の1938年熱海で開業した射的場で、戦時中に一度は店舗を失ったものの戦後再び射的場を復活させ、熱海大火があった1950年にはパチンコ店の運営にも参入した。

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さて、これまでタイガー娯楽の前身について判明している話を年代順に整理してみます。

1938 熱海で射的場を開業。スマートボールやビリヤードなども扱う総合遊戯場だった。
1945 戦時とのことで遊戯場を強制的に壊される(前回記事では言及せず)。
   終戦後、遊戯場跡でふかし芋を売る。
1947 射的場を新規オープン。
1950 (射的場を改装して)パチンコ店を始め、当たる(カッコ内は前回記事では言及せず)。

前回記事をご高覧くださったある方が、「名古屋から来たパチンコ店がオープンとの件について、名古屋には『タイガーレジャー』と言うオペレーターがいた」との情報をSNSを通じてくださいました。タイガーレジャー社長の松本昭夫氏は、70年代のオペレーターの業界団体であるJOUの理事を務めたこともあるそうです。設立は1972年とタイガー娯楽よりも新しいですが、経営母体が変わることで社史がリセットされることもあるので、これだけで無関係と断じることはできません。「’78遊戯機械総合年鑑」の「日本娯楽機械オペレーター協同組合 (JOU)」の名簿には確かにその名前が見つかるものの、現存しない会社で、詳細がわかりません。これについては今後の課題としておこうと思います。

さて、タイガー娯楽の前身が1950年に始めたというパチンコ店ですが、この年の4月には熱海大火と呼ばれる、中心市街地の7割が焼失する未曽有の大災害が発生しています。しかしソースである「コインジャーナル」1978年12月号のインタビュー記事では、そのパチンコ店が1950年のいつ頃、どこに建てられたかまでは言及されておらず、災害を辛くも免れたのか、それとも大火後の焼け跡にできたのかはわかりません。一方、アタミセンターは熱海大火で焼失した範囲の中にあるので、熱海大火以降に建てられたものであることはわかります。

赤色でマスクしている部分が熱海大火で焼失した地域。星印がアタミセンターの場所。

そして、アタミセンターの建物は赤線建築関連記事:幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町)であることから、アタミセンターの建物が当初からパチンコ店であったとは考えにくく、そのパチンコ店はアタミセンターとは別の場所にあったのではないかと思われます。

ただ、タイガー娯楽の前身がパチンコ店とは別にアタミセンターの地にカフェーを建てていた可能性も考えられます。階上の「銀馬車」(関連記事:新・幻の「アタミセンター」を求めて(2):初日の記録その1)はカフェー時代に得たノウハウを活かしていたと推測してもそれほど強引でもないでしょう。

もちろん1958年の売防法違反への罰則適用開始に伴い売りに出された物件をタイガー娯楽の前身が買い取ったという線も十分に考え得る話です。ただしその場合、「銀馬車」がどこから出てきたのかとの疑問は残ります。これも可能性の話ですが、「銀馬車」はテナントだったのかもしれません。

インタビュー記事では、熱海には3軒のパチンコ店を出店したと続いています。しかし連発式やオール20の禁止によりそのたびに新台を入れ換えなければならないのが面倒になって、「遊戯業界から足を洗い、ミカン屋となったりする」とあります。連発式の禁止は1955年3月、オール20の禁止は同年10月で、まだ赤線が残っていた時期です。カフェーで稼げるなら門外漢の「ミカン屋」を始める必要もないと思われ、実際「ミカン屋」はモノにならなかったようで、夫人から「もう商売をしないでくれ」と言われたとのことなので、やはり後に「アタミセンター」となるカフェーとタイガー娯楽はその時点では関係なかったのかもしれません。

結局のところ何を言っても当て推量ばかりで、「アタミセンター」の謎は一向に解ける気配がありません。タイガー娯楽は現存し、このインタビュー記事に答えていた早見儀信氏の次の世代に受け継がれているようですが、もしこの時代のお話をご存じであればぜひお聞かせ願いたいものです。

(おわり)


「アタミセンター」の謎解明に繋がるか? 「タイガー娯楽」(1)

2024年08月18日 21時13分12秒 | 歴史

拙ブログでは、昨年12月にアップした記事「【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見?
を発端に、かつて静岡県熱海にあった娯楽場「アタミセンター」の謎を追求する記事を今年2月と4月にアップしました。

2月 幻の「アタミセンター」を求めてシリーズ(全4回)
失われた町、浜町(熱海市) 

旧浜町で発見した看板建築

「加奈」以前の浜町

最終回

4月 新・幻の「アタミセンター」を求めてシリーズ(全6回)
これまでの経緯

初日の記録その1

初日の記録その2

初日の記録その3

二日目の記録その1

これまでのまとめ(終)

これにより、「アタミセンター」は遅くとも1961年には存在し、1982年に消滅したことは突き止めましたが、その22年間のどの時期にどのような営業が行われたかまでは明らかにすることはできませんでした。判明している事は、1960年代半ばまでのどこかで「スーパーホームランゲーム」の直営宣伝場であったことと、ある時期から1972年までは空気銃を撃たせる遊技施設であったことの二点のみでした。

しかし、その後の調査により、「アタミセンター」をオペレートしていたのは、熱海地区では老舗のオペレーター、「タイガー娯楽」であることが新たにわかりました。

現在、ウェブ上を調べてヒットする遊園施設の求人広告によると、「タイガー娯楽」の設立は1966年とされています。しかし、コインジャーナル誌78年12月号に掲載された、当時の「タイガー娯楽」の社長のインタビュー記事によると、当時の社長の父が昭和12年(1938)熱海に射的場を開いたところから始まるそうです。その遊戯場は、射的だけでなく、コリントゲーム(関連記事:「パチンコ誕生博物館」館長杉山氏の新著「コリントゲーム史」のご紹介)、ボットル(標的にボールを投げるもの)、ビリヤードまでそろえた「総合遊戯場」だったとのことです。

コインジャーナル78年12月号に掲載された、当時のタイガー娯楽の社長である速水儀信氏のインタビュー記事。

このインタビューで早見氏は、戦争の敗色が濃厚となる1944年、45年には遊戯業であることから非国民呼ばわりされ、ゲームの標的に敵国の要人の顔を並べたと語っています。アメリカでも「Kill The Jap」などと謳う戦意高揚ゲームがあったのですから、この種のばかばかしさは洋の東西を問わないようです。

第二次大戦中に米国で作られていたゲーム機。「Kill The Jap」、「Smack A Jap」、「Bomb Hitler」などの文字が躍る。

終戦直後の「総合遊技場」は、コインジャーナルのインタビューでは、「(父は)商売の元手を失った」とする一方、「母は元の総合遊戯場跡でふかし芋を売り」とあります。そして昭和22年(1947)に射的場をオープンしたところこれが大当たりしたとあります。その3年後の昭和25年(1950)に「熱海大火」という大災害が発生しますが、インタビューでは「その年に名古屋から来たパチンコ店がオープンしたことに倣って自分もパチンコ屋を始めたところこれがまた当たった(要旨)」とのことです。「アタミセンター」は「熱海大火」をもろに受ける地域であったので、この時の「タイガー娯楽」の前身が経営していたパチンコ店は、「アタミセンター」とは無関係だったものと思われます。

(以下次号)