オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「ものと人間の文化史 186 パチンコ」を勝手に少しだけ補足する

2021年06月27日 20時54分07秒 | 歴史

前々回の記事でご紹介し、今月21日に発売された「ものと人間の文化史 186 パチンコ」(杉山一夫著・法政大学出版局刊)は、パチンコの業界関係者ばかりでなく、オールドゲームファンからもかなりの注目を集めているようです。ワタシは事前にオンラインで予約注文していたところ、なぜか発売日前日の20日に到着し、先週のうちに読了しました。

この本は、国内外の新旧様々な資料や当事者の証言を用いてパチンコの起源や歴史を解き明かす過程において、現在広く浸透している通説、例えば

・パチンコのルーツはコリントゲームである
・コリントゲームの名前は、当時扱っていた「小林脳行」に由来する(コリン=小林)
・「正村ゲージ」は正村竹一が考案した
・正村竹一は正村ゲージの特許を取らず業界の関連業者に広く使用を認めた

などについても当然ながら検証しています。特にパチンコ発展のカギとなった「正村ゲージ」については、過去に出版された複数のパチンコの歴史本に掲載されている「現物写真」の瑕疵を指摘して新たな見解を示しており、長く信じられてきたこれらの通説を覆す可能性を秘めています。

その主張の適否は読者がそれぞれで判断することですので、ワタシ個人としては前々回の記事でも申し上げている通り「結論に導く論理には合理性を感じる」と述べるに留めておきますが、今回の拙ブログでは、この本の図に使用されている画像を1カ所、より見やすい形にして勝手に補足しておこうと思います。

まずは、本文30ページの図・2-1を、カラー画像で再現します。

図2-1(本文30ページ)の、カラー画像による再現。

この二つの筐体画像のうち、右の方は「ザ・パチンコ―パチンコ台図鑑(百巣編集室編、リブロポート刊、1985年)」の7ページの画像をスキャンしたもので、そのキャプションには「昭和26年」と説明されています。

これと同じ台は、埼玉県の北戸田駅近くにあるパチンコ店「ガーデン北戸田」が展開している「パチンコ博物館」(関連記事:埼玉レゲエ紀行(2):BAYONの記録その2 + パチンコ博物館(さいたま市))のフライヤーにも所載されており、こちらでは「昭和25年頃」と説明されています。

「パチンコ博物館」のフライヤーに記載されている「正村ゲージ」。ここでは「昭和25年頃」としている。

一方、左の方はパチンコ誕生博物館に展示されているものをワタシが撮影した画像です。やや上方からのアングルで画像に歪みがあったため、正面アングルとなるよう補正していますが、ディテールには手を加えていません。この台は昭和27年(1952)に登場し3年後の昭和30年(1955)に禁止となった「連発式」で、同博物館ではこの台の製造年を、その期間内の「昭和28年8月~昭和29年」としています。

ところで、右の台及びパチンコ博物館の画像には、セーフ穴が7個あります。ワタシが小学生の頃に少年マガジンで読んだ日本初の本格パチンコ漫画「釘師サブやん」(作・牛次郎、画・ビッグ錠)には、「正村ゲージ、スタンダード6穴」という言葉が出ていたので、「ザ・パチンコ―パチンコ台図鑑」を購入した時は、「あれ? 正村ゲージって6穴じゃないの?」と思ったものでした。杉山さんはこれを、「(正村ゲージのストーリーを作り上げるために)昭和30年以降の正村ゲージ台に細工を施したもの」として、「ねつ造」という厳しい言葉を使って批判し、その根拠を提示しています。

なお、同書の38ページでは、「(台の特徴を年代に合わせるために)もともと付いていた玉受け皿を取り外し、古い台に付いていた玉受け皿に付け替えたが、元の玉受け皿のネジ痕がくっきりと残った」と述べています。「図2-10」がその説明の図ですが、これも見えにくいため、「ネジ痕」を拡大した画像も載せておきます。

本文38ページの「図2-10」で適示している元の玉受け皿のネジ痕(青矢印部分)。ネジ痕だけでなく、周辺の色も明らかに異なっている。

この本の中には、「ニチゴ(日本娯楽機)」(関連記事:商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺)の前身である「遠藤美章商会」や、トーゴの前身である「東洋娯楽機」への言及のほか、業界紙「ゲームマシン」とその代表者であり編集長の赤城真澄氏のお名前も出てくるなど、AM業界の歴史にも及んでいる部分があり、その点においても貴重な日本の娯楽産業の歴史研究書となっています。


ウェストワード・ホー(ラスベガス)を懐しむ

2021年06月20日 21時05分10秒 | 海外カジノ

かつて、ラスベガスのストリップ沿いに、「ウェストワード・ホー(Westward-Ho)」
というカジノホテルがありました。いや、ホテルと言うよりもモーテルと言う方が適切かもしれません。宿泊棟はすべてモーテル棟のような2階建ての作りでした。

 

(上)ウェストワード・ホーをストリップ側から見たところ。夜になるとたくさんのカラフルな傘に仕込まれた電飾が美しく輝く。(下) 夜のウェストワード・ホー。当時頒布されていたスロットクラブのリーフレットより。

ワタシはこのホテルに、2004年の10月に一度だけ宿泊しています。タクシーの運ちゃんに行き先を告げたところ、ホテル名がなかなか伝わらず、「ウェストワード・ホーだす。うえすとわーどほー。え? わがんねすか? えとあの、うえすとわーどほー。サーカスサーカスの隣のホテルなんですけんど。それよりひとつ南側の」などと四苦八苦しながら説明していているうちにようやく思い当たったようで、「ああ、Westward-Hoのことか。わかったわかった」と、無事到着することができました。発音が難しい名前でした。

(1)ウェストワード・ホーの部屋の中。標準的なモーテルの部屋と変わらない。テーブル上のペプシの紙コップはウェルカムドリンクではなく、単なる掃除のし忘れ。 (2)洗面所の入り口。間口が広い。 (3)洗面台。コップが使い捨てなのは安い宿によくある。 (4)トイレ。壁の向こうに浴槽がある。

古いだけあって、部屋の鍵はカードキーではなく、昔ながらの金属のカギでした。

画像:ウェストワード・ホーの部屋のカギ。この当時でも珍しい、普通のカギだった。

このホテルは、以前からカジノ併設のデリで、巨大なホットドッグやストロベリーショートケーキ、シュリンプカクテルなどを格安で提供していることがよく知られていました。ワタシはこの時以前にも数回訪れており、その時はどれもたったの75セントという驚きの値段でしたが、今回はホットドッグとストロベリーショートケーキが1.49ドルに、シュリンプカクテルが99セントに値上がりしていました。それでも破格の値段ではあります。

デリで提供されている格安メニュー。価格は当時のもの。(1)ホットドッグ。他ではせいぜい1/2ポンドどまりだが、ここのは3/4ポンドある。1.49ドル。 (2)シュリンプカクテル。エビは小粒なうえにレタスの千切りで上げ底されており、これは値段相応かと思わされる。99セント。 (3)ストロベリーショートケーキ。大きなスポンジケーキから直方体に切り分けた一切れを皿に乗せ、果実がゴロゴロ入っているストロベリーソースをかけ、最後にスプレー缶に入ったホイップクリームをこれでもかと言うくらいかける。1.49ドル。 (4)ストロベリーショートケーキの断面図。

ホットドッグはシグネチャーメニューなので、大々的に広告していました。

 

(上)かつて公式サイトに掲載されていた画像。道路に面したマーキーに、3/4ポンド(約340g)の「MEGA」ホットドッグが1.49ドルとの広告を表示している。ホットドッグの絵には「almost Actual Size(ほぼ実物大)」と謳っている。(下)宿泊棟の壁にもホットドッグの広告が描かれていた。

ウェストワード・ホーは、ワタシが宿泊した直後にちょっと大きなリニューアルをして、デリは裏側(西側)に新設した棟の中の「ラウンドアップ・グリル」に移り、この時ホットドッグは2.49ドルに値上げされてしまいました。75セント時代を知る者にとっては3倍以上になってしまったわけで、残念に思ったものでしたが、それでも他と比べればまだ十分安いので、いつかまた来るときもあろうと思っていました。

だが、しかし。ウェストワード・ホーは、ワタシが宿泊した翌年、2005年の9月に突然その閉鎖を発表し、同年11月にはそのドアを閉め、その後建物は取り壊されてしまいました。リニューアルして間もないというのにいったい何があったのかと調べてみたところ、どこかのデベロッパーに約1億5千万ドルで買収され、跡地は再開発されるはずだったとのことです。しかし、2008年のいわゆる「リーマンショック」により土地のオーナーシップが変わるなど紆余曲折を繰り返したようです。最終的には、今月24日のオープンが予定されているリゾートワールド・ラスベガスの一角となることに落ち着いています。

ラスベガスの地元紙「ラスベガス・サン」紙は、2012年に、「ウェストワード・ホー」を「ストリップに戻ってほしい絶滅したカジノブランド」のリストに加えたそうです。しかし、実現に向けた話は、噂さえも聞きません。まったく残念なことです。

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ところで、この時の旅行の目的は、ゲーミング業界のトレーディングショウ「G2E」の見物でした。今でこそゲーミング業界では、「スキルベースド・ゲーミング」がモノになるのかならないのかわからず捨てるに惜しい鶏肋の状態のままなんとなく続いていますが、実はこの2004年にも一度、スロットマシンにビデオゲームを組み込もうとする試みが行われていました。この時は、Bally社が、ATARIの「PONG」や「BREAK OUT」をボーナスゲームで遊ばせ、成績によってボーナスを与えるというものでした。

 

G2E2004年にBallyから出展されたATARIの「PONG」。ボーナスゲームではPONGが遊べた。

ラスベガス(というか、ネバダ)では、スロットマシンのペイアウト率は75%以上でなくてはならないというレギュレーションがあります。しかし、ボーナスゲームはプレイヤーの巧拙によって払い出し率が大きく変わってしまう可能性があります。そこでこのゲームでは、ベースとなる通常ゲームのペイアウト率を75%とすることで、ボーナスゲームではどんなに下手な人がプレイをしても、少なくともペイアウト率が75%を下回ることはないように作られていたそうです。この機械は一部のローカルカジノにテスト稼働として設置されましたが、すぐに姿を消し、以降市場に再び出てくることはありませんでした。


法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介

2021年06月13日 18時11分43秒 | 歴史

昨年のちょうど今頃、拙ブログでは、神奈川県横須賀市にある「パチンコ誕生博物館」を、3回シリーズでご紹介しました。

【特報】パチンコ誕生博物館オープン(1) (2020年6月28日)
パチンコ誕生博物館オープン(2) 展示内容 (2020年7月5日)
パチンコ誕生博物館オープン(3) 最終回:歴史の証拠を残すにはどうすればいいのか (2020年7月12日)

2008年、館長の杉山一夫さんは、長年にわたって行ってきたパチンコの起源の研究結果を「パチンコ誕生」という本で発表されました。これは全国紙で報道されたりNHKに出演するなどそれなりに話題にはなりました。しかし一般には、杉山さんがその根拠に瑕疵があると考えている、「正村ゲージ」の発生に関する異説が今も広く流布され信じられています。

杉山さんは、これを是正することを目的の一つとして、研究で収集した膨大な資料を、自宅を改造して作り上げた私設博物館に所蔵して公開されています。ワタシはどちらが正しいと判断できるほどの深い知見はありませんが、杉山さんの論理には合理性を感じます。

詳細については上記の過去記事をご参照いただければと思いますが、その館長の杉山さんが、このたび法政大学出版局から「ものと人間の文化史 186 パチンコ」を上梓されました。

「ものと人間の文化史 186 パチンコ」の表紙

【書誌情報】
「ものと人間の文化史 186 パチンコ」
著者:杉山 一夫
四六判/372ページ/上製
ISBN978-4-588-21861-3 C0320  価格 3,520円 (消費税 320円)

法政大学出版局の公式サイトには本書の目次が掲載されており、それを見ると、先に上梓されている「パチンコ誕生」ではあまり深く触れられていなかった、現在伝承されている正村ゲージに関する問題点がしっかりと指摘されているようです。ワタシもパチンコ誕生博物館を訪れた際に、杉山さんから直接レクチャーをいただきましたが、本の形で残されているのであれば購入しない選択肢はありません。また、米国で出版され話題となったミン・ジン・リーさんの「PACHINKO」についての言及も興味をそそります。発売は今月の21日とのことで、いまから楽しみです。

目次(法政大学出版局の公式サイトより抜粋)
第1章 パチンコの神様「正村ゲージ」
第2章 ねつ造正村ゲージ伝説
第3章 「バガテール」の伝来
第4章 「ウォールマシン」の誕生
第5章 「一銭パチンコ」の誕生
第6章 「パチンコタイプ菓子販売機」の誕生
第7章 昭和八年、大流行の「コリントゲーム」
第8章 鈴富商会の創業と全国展開
第9章 昭和六年、大阪に次ぎ金沢でパチンコ機生産が始まる
第10章 昭和一〇年過ぎ、日本製現存最古の「ピンボールマシン」
第11章 昭和一〇年頃、「メタル式パチンコ」大陸進出
第12章 現存最古の「スマートボール」
第13章 パチンコ、第二の誕生
第14章 七・七禁令と企業整備令で、パチンコ地下に埋もれる
第15章 パチンコ再開、ねつ造正村ケージの始まり
第16章 武内国栄と長崎一男の確執
第17章 「正村ゲージ」は正村竹一の考案ではない
第18章 吉行淳之介、第一回パチンコ文化賞受賞
第19章 パチンコホールのオートメーション化
終 章 手打ち式パチンコの終焉
補 章 ミン・ジン・リー『PACHINKO』の時代

なお、法政大学出版局の公式サイトでも、購入できるオンライン、または書店の情報がリンクされておりますので、購入をお考えの方はぜひご参照ください。

また、「パチンコ誕生博物館」の公式ウェブサイトでは、著者である杉山さんの、本書についての思いが掲載されていますので、よろしければこちらもご参照ください。


プログレッシブ・ジャックポットの進化の話

2021年06月06日 19時42分10秒 | 歴史

田端義夫さんという、「バタやん」の愛称で親しまれた歌手がいます。戦前から活躍していた古い人なので、結構なオヤジのワタシにとっても「両親世代の、懐メロの人」という認識ですから、ナウなヤング(死語)はご存知ないかもしれません。しかし、TVにはあまり出なくとも、2000年代半ばころまで現役で活躍していたそうです。

その田端義夫さんがラスベガスのスロットマシンで29万ドル(当時の為替レートだと日本円では約6300万円らしい)の大当たりを当てたという報道を新聞で読んだのは、ワタシがまだ未成年だった1979年のことでした。この額は、当時のスロットマシンによる賞金の最高額記録を更新するもので、ギネスブックの記録を塗り替えたとも伝えられました。

ワタシは比較的最近、何かのきっかけで、この件に関する画像を二つ、ネット上で発見しました。一つ目は、NHKの公式サイトの中にある「NHK番組発掘プロジェクト通信」の記事「“バタヤン”こと田端義夫さんのお宝映像」で、当時のニュース映像と思しき画面がカラーで紹介されています。

「NHK番組発掘プロジェクト通信」より、「“バタヤン”こと田端義夫さんのお宝映像」にあったカラー画像。https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail278.html?fbclid=IwAR3v1hhITDVwu5O29uxC_M2ExTB2EjZfo4XPgqCbFbrxdQMpwjCWHSdOxvs

ここでは、「スロットマシンに挑戦すること2時間、300ドルの元手をかけたところで、目の前に数字の7が5つ並んで大当たりのジャックポットになった」と記述されており、最後は「『400万分の1の確率で手にしたこの大金は、しかしアメリカと日本の両方でかなりの額が税金に消えそうです。』と締めくくられていた」とあります。

300ドル(6万5千円くらい)と言えば、当時の平均的なサラリーマンの月収の1/3くらいに相当します。目を剥くほどではないにしても、二か月分の小遣いくらいではあったでしょう。

背後に写る機械でジャックポットを出したのかどうかはこの記事では確認できませんが、若干不鮮明で全容が見えないこの機械は、Ballyのダラースロットであることは見当が付きます。

二つ目は、動画サイト「Youtube」にアップされていた「田端義夫(アフタヌーンショー) ラスベガス・スロットマシンて大当たりのニュース」の画像でした。

動画サイト「Youtube」の、「田端義夫(アフタヌーンショー) ラスベガス・スロットマシンて大当たりのニュース」にあった画像。→https://www.youtube.com/watch?v=i5TX6iv2MmA

こちらは何かの書籍に掲載されている画像のように見えます。白黒ではありますが機械の全容が写っており、機械の下段には7シンボルが5つ並んでいるのがはっきりと見えます。さらに言えば、NHKの画像とは田端さんの服装が異なっており、NHKの方は後日の取材で撮影されたものであろうと察せられます。

ワタシは、日本のメダルゲーム場に設置されているプログレッシブ・ジャックポット付きのスロットマシンを見る限り、29万ドルもの大当たりを出す機能を持つタイトルに思い当たるものはなく、田端義夫さんが当てた機械は一体どういうものだったのか、大変気になっていたのですが、これによって明らかとなりました。

今回得た画像をもとに、マーシャル・フェイ氏の著書「Bally Slot Machine / Electto-Mechanical 1964-1980」を調べると、59ページに掲載されている、「Model 1202 3-Line 5-Reel Dollar Progressive」がまさにこの機種と同じ顔をしています。

「Bally Slot Machine / Electto-Mechanical 1964-1980」52ページ。左が田端義夫さんが大当たりを出した機種「Model 1202 3-Line 5-Reel Dollar Progressive」。

本機の説明は、「ダラースロットにおける巨大プログレッシブの始まり」と題し、

互いに接続され一つのプログレッシブ・ジャックポットを共有するカルーセル(注・複数のスロットマシンを環状に配置した一群のこと)は1970年代終わりころから一般的になってきた。5リールモデルの1202の1ドルカルーセルでの最高記録は38万5千ドルである」

としています。この本が出版されたのは1990年台(自分用メモ:初版は1990年、第3版は1996年。この画像は第3版のもの)になってからのことなので、その頃には田端義夫さんの記録は更新されてしまっていたようです。それはさておき、田端義夫さんが大当たりを当てた機械は、「リンクド・プログレッシブ」だったことがわかりました。

しかし、田端義夫さんの大当たりは1979年なのに、この本ではモデル1202を1980年の機械としているところが気になります。この「モデル1202」以前に同じ顔をした別モデルが存在していた可能性も考えられないこともありませんが、その存在を確認する資料はありません。なお、同書によれば、1981年にはモデル1202のSS版である「E1202」が発売されたとあります。筐体は「ローボーイ」と呼ばれる背の低いものになっていますが、使われているアートワークは1202と同じです。

E1202の画像。前掲書の67ページより。

プログレッシブ・ジャックポット自体は1960年代の機械からありましたが、それらは他の機械とは連携しない「スタンド・アローン」というタイプで、賞金が積みあがったところでその最高額はたかが知れていました。ワタシがメダルゲームとして見ていた機械はそのようなタイプでした。

複数の機械で一つのプログレッシブを共有する「リンクド・プログレッシブ」は、プログレッシブ・ジャックポットが溜まる速度は増しますが、従来の機械をリンクしたのでは、単に大当たりの出現サイクルが早まるだけです。従来とは桁違いに高い大当たりを提供するためには、ゲームの母数を大きくする必要があります。モデル1202はリールを5つ使うことによって「400万分の1」の母数を実現させていました(ただし、この母数はおそらく概数です。仮に1リールが21ステップだとすると、21の5乗は408万4101通りとなります)。

スロットマシンがEM機であった時代は、この辺が事実上の限界点であったことと思います。しかし、「バーチャルリール」という概念ができてからは、一つのリールのステップ数は機械要素に依存しなくなり、理論的にはいくらでも増やせるようになりました。この概念を応用して、1986年には他のカジノに設置してある機械までリンクして一つのプログレッシブを共有する「ワイドエリア・プログレッシブ」という新たなプログレッシブ・ジャックポットが生まれました。その代表格である「メガバックス(MEGABUCKS)」という機種は、100万ドルからスタートするプログレッシブ・ジャックポットを搭載して、「ひと引きで人生が変わる」と謳いました。

現在のラスベガスでも、ワイドエリアプログレッシブの機械は多数設置されていますが、母数があまりにも大きくなり過ぎた結果(公表はされていないが、数千万分の1とも言われている)「どうせ当たらない」と思われるようになり、一時は隆盛を誇っていたメガバックスも、今では設置しないカジノも出てくるようになっています。