オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

幻のビンゴ・ピンボール「ビンゴ・バケーション」(KEAON, 2007)

2021年09月26日 19時30分42秒 | スロットマシン/メダルゲーム

今回は、2007年の2月に開催されたAOUショウに出展された「ビンゴ・バケーション (Bingo Vacation)」の話です。

少し新し過ぎる話である上に普及もしていない機械なので、今までテーマに採り上げることを躊躇していたのですが、歳のせいか物忘れが多くなってきた自覚があり、このままではこの極めて特殊な機械を思い出すこともなくなってしまうかもしれないという懸念を感じるので、半ば自分の備忘録として記録しておきたいと思います。

ビンゴ・バケーションは、アールエス(旧リバーサービス)というディストリビューターのブースで出展されていました。アールエスは1990年、福岡県で「リバーサービス」として設立され、2006年にアールエスと商号変更しています。AM機のディストリビューションだけでなく、周辺部品などの開発製造もおこなうなど、一時は有力なディストリビューターの一つでしたが、スマホ以降のAM業界の規模縮小で苦戦を強いられるようになり、さらにコロナ禍の追い打ちを受けて、昨年、残念ながら破産申請をするに至ってしまいました。

アールエスはディストリビューターとして、AOUショウやJAMMAショウではかねてより中小メーカーの比較的小型の機器を出展していましたが、2007年のAOUショウでは「ビンゴ・バケーション」というビンゴ・ピンボール機を大々的に出展しました。

2007年のAOUショウでのアールエスのブースに設置されたビンゴ・バケーション。ブース中央のカウンターを取り囲む壁の2辺に沿って、10数台が展示されていた。

ビンゴ・バケーションは、25穴タイプのビンゴ・ピンボール機(関連記事:sigmaのフリーペーパー「ビンゴゲーム入門」(1985))です。ビンゴ・ピンボールは、1951年の米国で初めて発売されて以降、しばしばギャンブル機との指弾を受けながらも1981年まで生産が続けられていたコインマシンです。日本でもsigmaが専門店「ビンゴ・イン」を展開して常連客が根強く付いていましたが、現在では埼玉県のBAYONというゲーセンで国内で唯一(おそらく)稼働しているロケになっています(関連記事:埼玉レゲエ紀行(2):BAYONの記録その2 + パチンコ博物館(さいたま市))。

ビンゴ・ピンボールが衰退した理由は、よくわかりません。いろいろ理屈をつけることはできるとは思いますが、sigma以外に積極的に手を出すロケーションが殆どなかったことからも、オペレーションが難しいゲームだったらしいことも一因だったのではないかと思われます。

ベルギースペインなどでは、2000年代でもまだいくらかビンゴ・ピンボール機の生産は行われていましたが、それらは日本には入って来ていません。そんなわけで、発祥国である米国はもとより、日本においても過去のゲーム機となっていたビンゴ・ピンボールが、2007年になってAM市場に再び顔を出してきたことは、全く青天の霹靂でありました。

ビンゴ・バケーションを作ったのは台湾の「KEAON」というメーカーでした。台湾と言えばセガが1989年に発売したビンゴサーカス関連記事:セガのマスビンゴゲーム(3) ビンゴサーカス(Bingo Circus, 1989)とその後継機種)が爆発的にヒットし、2000年代においてもまだ稼働が続いていた地域です。おそらくは、これだけ人気があるビンゴを、もう日米では生産されていないピンボールの形で復活させれば商機があると踏んだのでしょう。

ビンゴ・バケーションのバックグラス。セガのマスビンゴの影響が随所に見える。周辺の赤色LEDは意味がわからなかった。

プレイフィールド。しかしこのフィールドには致命的な「足りないもの」がある。詳細は後述。

ロックダウンバー上のコントロールパネル。A-B-C-Dボタンはビンゴサーカスそのものに見える。以下、左よりメダル払い出しボタン、レジスト(テイクスコア)ボタン、ダブルアップボタン、エキストラボールベットボタン、100ベットボタン、10ベットボタン。

バックボックス上に設置されたインストラクションカード。

勝利条件がわからないが、プログレッシブジャックポットも用意されていたらしい。

古いビンゴファンとしては良くぞやってくれたと喝采したいところではあったのですが、しかし、試遊してみたところ、すぐにこの機械には致命的な足りないものがあることに気づいてしまいました。それは、プレイフィールドの外枠に沿って張り巡らされているロープ状のスプリングです。ピンボール・ビンゴの元祖であるBallyがこれを何と呼んでいたのかはわからないのですが、sigmaのICビンゴのパーツリストでは「パネル・スプリング(Panel Spring)」と呼んでいる部品です。

上がビンゴバケーション、下がsigmaのチェロキーローズ。ビンゴバケーションの外枠沿い(ピンクの帯部分)には何もないが、チェロキーローズの同じ部分(黄色の帯部分)には太さが波打つように変化するパネル・スプリングが張り巡らされている。

チェロキーローズのパネル・スプリング部分を拡大したところ。このスプリングに当たったボールが微妙な跳ね方をして、23~25の穴への入り方にサスペンスを与える。

パネル・スプリングは、ボールの動き、特に最下段の23-24-25の穴への入賞に関して最大のサスペンスを生み出す重要な部品なのですが、ビンゴ・バケーションにはそれがありません。これは、ビンゴプレイヤーとしては「仏作って魂入れず」のことわざを以て問い詰めたい、致命的な欠陥です。

そのせいかどうかはわかりませんが、少なくとも日本国内において「ビンゴ・バケーション」が広く普及することはなく、以降のJAMMAショウやAOUショウに再び出展されることもありませんでした。メーカーのKEAEON社は現存していないようで、公式ウェブサイトだった「www.keaon.com」を検索すると、「is for sale」と出てくるサイトがヒットします。


ロンゴロンゴ(sigma, 1993):最もバブリーなロケーション

2021年09月19日 21時28分58秒 | ロケーション

メダルゲームというジャンルの創始者であるsigmaは、1993年10月15日、渋谷の道玄坂に「ロンゴロンゴ」というゲームセンターをオープンさせました。ロンゴロンゴは地上6階から地下1階までの一棟すべてが娯楽施設(6階は事務所)で、業界紙「ゲームマシン」の93年11月15日号(第461号)によれば、「土地代を除いた総投資額は約20億円」とのことです。sigmaは1971年の暮れに、新宿歌舞伎町に「ゲームファンタジア・ミラノ」をオープンして業界を驚かせており(関連記事:ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地)、これはその壮挙の再来と思わせられます。

ロンゴロンゴの1階と地下1階は吹き抜けとなっており、当時の流行であったカジノのテーブルゲームも設置されているメダルゲーム場となっていました。メダル貸出料金は1000円で25枚で、通常のsigmaのロケよりも1.4倍高価な価格設定でした。テーブルゲームは初期料金が3000円で100チップに1ドリンク付き、追加チップは2000円で100チップでした。

やはり吹き抜けとなっており「スコットフィールド」と名付けられていた2階と3階は、2階のフロア中央に設置された大型競馬ゲーム機を、2階と3階のサテライトがまるでコロシアムのように取り巻いており、最大63人が一度に参加できる一大競馬ゲーム場でした。3階の一部には「ロイヤルルーム」と銘打った、ドリンクやスナックも提供される(ただし有料)VIP席があり、この料金は二人で1時間3000円(メダル50枚付き)でした。

4階と5階は「バトルテックセンター」で、当時最先端のビデオゲームと目されていた対戦型バーチャルロボットバトル「バトルテック」が設置されていました。バトルテックの1回の所要時間はおよそ10分程度でしたが、料金は1000円と高額でした。

なんだかんだで客単価5000円以上となるロンゴロンゴは、ゲーセンとしては何から何まで破格でしたが、オープンした頃の世情はいわゆるバブル景気が弾けて不景気と言われる時期に既に突入しており、この状況でのsigmaの姿勢はよく言えば強気、悪く言えば無茶にさえ見えます。

しかし、バブル時代の高揚に慣れてしまい楽しみを我慢することができない人々は遊びを諦めるという選択をせず、以前ほどお金や時間をかけないで済むレジャーに流れていました。レジャー業界はこの傾向を「安、近、短」というキーワードで表現しましたが、ゲームセンターはまさにそんな需要の最大の受け皿となっており、不景気にあえぐ他の業種を尻目に活況を呈していたのでした。このため、「ゲーセンは不況に強い」などと妄言を掲載する経済誌も出てくる有様でした。

今回の画像は、この日本のゲーセン史上最もバブリーなゲーセン、ロンゴロンゴのフリーペーパーです。

表紙(右)と裏表紙(左)。昭和時代にあった「金粉ショー」を思わせる演出は、ワタシはあまりいい趣味には見えない。

 

見開き1ページ目。ロンゴロンゴの紹介の文章からは、「ゲームファンタジア・カスタム」以来一貫して「大人のためのアミューズメントスポット」を志向していたsigma(関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)が従来のスタイルではもう目的に合わなくなったので次のステップに進んだという意図が見える。

見開き2ページ目。地下1階と1階のメダルゲームフロアの案内。「シングル機がアンティークスロットも含めて68台」とあるが、アンティークスロットを見た覚えはない。

見開き3ページ目。ロンゴロンゴのメイン施設であるスコット・フィールドの案内。

見開き4ページ目。スコットフィールドの内部が見渡せる。

見開き5ページ目。バトルテックの案内。

不況知らずと思われていたゲームセンターでしたが、2008年のスマホの登場を境に下降線をたどるようになり、ロンゴロンゴ開店当時の好況ぶりは今となってはうたかたの夢と消えてしまいました。


「FOR AMUSEMENT ONLY」でちょっと思ったこと

2021年09月12日 19時04分27秒 | 歴史

 

警察署長が自らハンマーを振るってビンゴ機を破壊しているシーン。パイプタバコを咥えているところがいかにもヤラセくさい。

この画像は、米国オハイオ州トレドの警察署長アンソニー・ボッシュ(Anthony A. Bosch = 署長だった期間は1956年6月1日~1971年1月1日)が、没収したビンゴ・ピンボール機をハンマーで破壊しているところです。撮影時期は1960年と説明されています。ここで今まさに破壊されている機械と、トラック上で次の破壊を待っている機械は、Bally1954年に発売した「Variety」です。余談ですが、「Variety」は、ビンゴ・ピンボールの歴史において初めてカード上のスポットの並びを変えられるフィーチャーを備えた、エポックメイキングな機種です。

偉い人が現場で自ら肉体労働をして見せるなど、なんらかの意図あっての宣伝以外のナニモノでもないと思いますが、行政機関の長や政治家がギャンブル機(と認定したゲーム機)を破壊するこの種の光景は、スロットマシンが蔓延して以降の1910年ころから数多く記録されています。偏見かもしれませんが、いかにもアメリカっぽいなあと感じます。

というわけで、格別珍しいわけではないこの画像を今回取り上げたのは、破壊されているビンゴ機に付いている表示が気になったからです。この機械のバックボックスの上部には「FOR AMUSEMENT ONLY」と掲示されているように見えます。

バックボックスの表示部分の拡大。赤枠内に「FOR AMUSEMENT ONLY」と読める表示がある。オリジナルを拡大しているので、少しわかりにくい。

この掲示の下の方にも何か文字と思しきものが見えますが、解像度が低くてしかとは読めません。ただ、他の類似の表示を参考にすると、どうも「No Prizes or Gambling  Permitted(金品の提供や賭博は不許可)」と書かれているようにも思えます。

ピンボールマシンのバックボックスに取り付けることを想定した掲示の別の例。ソースは「THE PINBALL, ANTIQUE SLOT MACHINE AND CONSOLE PAGE」というウェブサイトのトップページ。よろしければご参照ください。

ワタシは過去記事「サンブルーノ・アメリカン・アンティーク・ミュージアムの記憶(1/3):プロローグ」で、この種の掲示は「当局による賭博機の取り締まりを回避する呪文として多くのコイン式ゲーム機に掲げられました。しかし、それが単なる建前に過ぎない場合も多かったことは、この展示を見れば明らか」と述べていますが、実際はこの写真に見られるように、没収され破壊されており、その霊験はアテになるようなものではなかったようです。

日本でも似たようなケースは存在します。明らかにアンダーグラウンド市場での稼働を想定したGマシン関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(4) 80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代)であるにもかかわらず、「アミューズメントオンリー」である旨の注意書きを載せている例はたくさんあります。ただ、米国の例と違うのは、その注意がオペレーターからプレイヤーに対してではなく、メーカー、もしくはディストリビューターがオペレーターに対して行っている点です。

Gマシンのつもりでも、順法営業を訴える例。「この機械は、金品の提供・交換等、賭博行為に使用すれば、処罰されます。メダルゲーム場は運営基準を厳守してください。」と訴えている。アミューズメント産業1974年7月号より。

この画像に見られる「カウンタートップ」と呼ばれる筐体はGマシンの典型的な形態です。機械の傍らにはウィスキーの瓶を置いて主に使用される場所を暗示しており、「メダルゲーム場」など眼中にないくせに、それでも米国での「No Prizes or Gambling  Permitted」と同じ趣旨の注意とともに、「メダルゲーム場は運営基準を厳守せよ」と書き添えています。おそらく、健全娯楽を謳う業界に対してこういうアリバイを作っておくことも必要だったということなのでしょう。

それにしても、過去においてはゲーム機による賭博が蔓延したであろうことはわかりますが、警察白書でコインマシンによる賭博事犯の例に言及されなくなってから久しいです。もういいかげん、コインマシンを風俗営業から外すという英断が行われてもいいと思うのですがいかがでしょう、警察庁さま。


PPフェア2002より昭和のパチンコ(5):昭和40年以降

2021年09月05日 17時22分31秒 | 歴史

「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)」での「パチンコのルーツを探る」と言うパネル展示のご紹介も、遂に最終回です。今回は昭和40年(1965年)以降の展示です。

混成ゲーム時代 / 昭和43年 オリンピア・ゲーム(スロットマシン)の登場で、遊技場も戦略上、パチンコ・オンリーを改めざるを得なくなった。スマートボール、ラッキーボールなどの横もの機もあわせ、混成ホールとして客集めを図る必要が出てきた。

この画像は昭和43年(1968年)のものとされていますが、オリンピア・ゲーム」が風営機として認可を受けたのは昭和39年(1964年)とされています(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)。


しかし、オリンピアが「新しいレジャー」としてマスコミで紹介されるようになるのは、それより1、2年遅い昭和41年(1966年)の終わりころ以降になってからのようです(関連記事:「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)を勝手に訂正する(2))。この時間差は、認可を受けてから本格的に生産を開始し、普及するまでにいくらか時間がかかったためではないかと想像しています。

オリンピアが世に出た当初は、全く新しい風営機としてかなりの注目を集めたようです。「混成ホール時代」となったのも、パチンコホールとしても未だかつて類例のないオリンピアゲーム機が無視できない存在であったからでしょう。ただ、ひょっとすると、あくまでも想像の域を出ませんが、既にアンダーグラウンド市場で一定の評判を得ていたガチのスロットマシンの例から、期待のようなものもあったのかもしれません。しかし、オリンピアの人気は長くは続かず、10年ほど後にはいくらか残存するという程度まで減少していました。

手動100発機認可 / 昭和44年 消費謳歌時代で、マスコミは消費革命などと言う表現も行った。異常な競馬ブームも話題となり、1000万円の宝くじも登場。そうした世情下とあって、警察庁は遊技機新要件を発表、手動式の100発機を認可した。

それまでは球を1発1発を手で込めていたパチンコでしたが、昭和43年(1968年)、皿の上の玉を自動的に発射口に装填する「連発機」が認可されました。

連発機は昭和20年代後半に一度登場していますが、射幸心をあおるとの理由で昭和30年(1955年)に禁止されていました。しかし、この頃は日本の経済が順調に成長して消費も伸びていたので、いくらか規制を緩めてもよろしかろうと判断されたものと思います。ただし、以前に禁止されたときの連発機は1分間に160-180発を打ち出すことができたとのことですが、新要件の連発機が打ち出せる球は1分間に100発までと定められました。上皿にある球を、正確に0.6秒のペースで発射口に送り込むギミックは精密な設計が必要だったことと思います。この1分間100発の要件は現在に至っても変わっていません。

郊外型パチンコ続々登場 / 昭和50年 郊外パチンコ時代とあって、神奈川県秦野市の仙波峠にはお座敷スタイルも登場。裏手にはブランコなども設置し、家族ぐるみの遊技客へ新手のサービスを示した。

昭和50年(1975年)の郊外がどんな状況であったのか、当時中高生だったワタシは実感としてはよくわかりません。しかしながら、東京一極集中が進む中、労働者の居住圏が都心部から郊外に向かって広がっていく、いわゆるドーナツ化現象が進んでいた時期であったようには思います。

この画像の上の方には「電動コーナー」と書かれた看板が見えます。パチンコの電動ハンドルが認可されたのは昭和48年(1973年)のことです(関連記事:北米に手打ち式パチンコを見る)が、70年代の終わりころまでは、まだ手動式のパチンコが多く残っていたように記憶しています。

国鉄全線スト下の有楽町駅前 / 昭和50年 公労協、国労など三公社五現業が一斉にスト権ストに突入。国鉄は史上最長の全線192時間もストップ。日頃混雑する有楽町駅前も閑散とした。

現在は民営化され「JR」と呼ばれている鉄道会社は、以前は「日本国有鉄道(国鉄)」と言う公営の鉄道でした。この国鉄の「スト権スト」は、当時中高生だったワタシ自身は幸運にもその影響をほとんど受けていません。ただ、新聞やTVのニュースなどで、このストで通勤ができなくなる会社員が会社に泊まり込んだとか、学校が休校になった、あるいは物流に支障をきたしたなど、大きな社会的な混乱があったらしいことは覚えています。

「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)」で展示されていたパネルは以上です。思えばこの頃は、パチンコが本当に「庶民のささやかな娯楽」で済んでいた時代だったと思います。その後日本が豊かになり、人々の可処分所得が増えると、それにつれてパチンコもギャンブルに接近していきました。今ではパチンコがギャンブル依存症の根源のように言われてしまっていることは、パチンコにとって全く不幸なことだと思います。しかし、だからと言って昔のような「ささやかな娯楽」に戻ることもできず、何らかのブレイクスルーがない限り、パチンコの命脈もそう遠くない将来に尽きるのではないかと心配しています。

(このシリーズ・終わり)