オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【訂正・追加等】スロットマシンのスイカ・初登場時期が判明!

2020年04月26日 19時51分38秒 | スロットマシン/メダルゲーム


スロットマシンのスイカシンボル。左はBallyの「Money Honey(1964)」、右がセガの「Diamond Star(1950~60代)」で使用されていたもの。

2019年08月11日にアップした記事「夏だスイカだ! スロットマシンのスイカシンボルの話」において、ワタシは、

初めてスイカシンボルを採用した機種については、未だに調査中で、明らかにはなっていません

と述べています。また、2019年08月25日にアップした記事「スロットマシンのシンボルの話(2) フルーツシンボルの出現」では、

日米開戦前(1930年代)にMillsが発売した「Bursting Cherry」と「Half Top」と呼ばれる二種類の筐体に入った機種の中にスイカシンボルが使われている画像を発見しました(中略)が、古い筐体に新しい中身を入れている可能性も否定できない

とも述べて、結局スイカシンボルが初めて登場したのはいつなのかをはっきりと特定できずにおりました。しかしこのたび、過去のラスベガス巡礼で撮影した画像を詳しく調べていたら、その答えを見つけてしまいました

ワタシは、ラスベガス近郊のヘンダーソンにある「クラーク・カウンティ・ミュージアム(Clark County Museum)」という公立の博物館に、2016年と2018年の2回、訪れています(関連記事:新・ラスベガス半生中継 2016年9月(2) 二日目・クラーク郡博物館)。

この博物館では、ラスベガスバレー(ラスベガス、ヘンダーソン、パラダイスなどを含んだネバダ州の南部一帯)の自然や先住民文化、歴史、産業、民家、生活などが展示されており、あまり広いスペースではないもののカジノに関する展示もあります。

その中の一つに、「WHY BELLS, BARS, AND FRUIT?」と題する説明文が掲示されていました。その説明の大筋は、前述した「スロットマシンのシンボルの話(2) フルーツシンボルの出現」でも述べていることですが、最後に「(初期のフルーツシンボルとともに)1937年に初めて使用されたスイカが加わって、それらは今日のマシンでも見ることができる」との記述を発見しました。


「スイカシンボルが初めて使用されたのは1937年(ピンクの下線部)」と記述する掲示。

この掲示は、フルーツシンボルが採用されている古いJennings社のスロットマシンの真後ろにありましたが、展示されている機械は、少なくとも窓からはスイカシンボルは見えませんでした。また、ペイテーブルの表示もないため、この機械にスイカシンボルが使われているかどうかはわかりません。


展示されていた状態(左)。緑の枠内が、スイカシンボルに言及していた掲示。この機種の特定はできていないが、右の「CENTURY VENDER (1933)」とは、ピンクの枠以外の部分で共通の鋳型が使われているように見える。なお、右の画像は、米国のMead Publishing社が発行した「REEL HISTORY」の153ページより。

今回は、記念写真を調べることで、スイカシンボルを初めて採用されたのが1937年のことであることが判明しました。ワタシの手元には、まだ精査が済んでいない博物館の写真がたくさん残っているので、今後も新しい発見があることを期待して、調査を続けていきたいと思います。

【2023.9.04追記】その後の調査で、初めてスイカシンボルを採用した機種が判明しました。詳細はスイカシンボルに関するファイナルアンサーをご参照ください。


【訂正・追加等】セガの古いスロットマシン「ロード・セガ」の件

2020年04月21日 23時18分08秒 | 歴史

前回アップした記事「セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4) セガのスロットマシンその2」において、「ロード・セガ」という機種について、ワタシは

「ロード・セガのフライヤーには、スターシリーズ以前の特徴である「Sega incorporated」と書かれているものがあり、これはつまり、「ロード・セガ」が1964年以前の機械であることを意味していると思われる」

と述べていますが、その後改めてわが資料を調べていたら、ワタシの手元にある「ロード・セガ」のフライヤーは、「Club Specialty Overseas」名義と、もう一つ社名が記されていない1枚の、全2枚しかありませんでした。ワタシとしては「Sega incorporated」名義のフライヤーを確かに見た記憶があるのですが、ひょっとするとそれは、何か別の書籍で見ていたか、もしくは完全な勘違いだったのかもしれません。しまった、いい加減なことを言っちまったと慌てていたところに、拙ブログをご高覧下さっている某氏が、「過去のセガのドキュメントを見ると、ロード・セガは1964年に作られたようだ」という情報を寄せてくださいました。これにより、前回の記事の該当部分は取り消し線で修正しておきました。


ワタシが持っている、もう一つの「ロード・セガ」のフライヤー。社名は記述されていない。

結果的に完全な誤りを述べたわけではなかったらしいところは救いですが、ただ、そうすると、「ロード・セガ」は、Ballyが起こしたスロットマシン革命の端緒となる「Money Honey」が発表された年に作られていることになります。当時のセガがBallyの動きを承知していたのかどうかは全く不明ですが、もし偶然だとしたら、奇しくも洋の東西で同時にスロットマシンに変革を起こそうとしていたということとなり、1964年と言う年が一層特別な年に感じられます。
(おわり)


セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4) セガのスロットマシンその2

2020年04月19日 21時27分46秒 | 歴史

今回は前回に続いて、セガが製造販売していたスロットマシンの第三世代、第四世代の話です。この頃はもうポストセガ時代に入っていますが、まだブロムリー帝国の影響は残っていたようです。特に英国ではゲームアーケードにもスロットマシンが設置できるようになっており、ブロムリー自身もスロットマシンのオペレートでたいへんに儲けていたようです。

■第三世代(1965年以降?~1960年代終わりころ?):コンチネンタルシリーズ
セガは、筐体の外観を除いてほとんどベルシリーズと変わらなかったスターシリーズの次に、「コンチネンタルシリーズ」を開発しました。この新シリーズは、筐体自身には塗装を施さないモダンなデザインに、カスタマイズが可能な前面パネルを備えていました。これには、1964年に米国Bally社によってなされたスロットマシン革命(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))の影響もあったのだと思いますが、しかし、内部機構はBallyの革命以前のものと大差はありませんでした。

ワタシの手元には、コンチネンタルシリーズのフライヤーが4枚あり、このうちの3枚が「SEGA Enterprises」名義で、残る1枚が「Club Specialty Overseas」名義になっています。この資料だけでは断言はできませんが、これらから、コンチネンタルシリーズはセガ・エンタープライゼスができた1965年以降に作られたもので、「Club Specialty Overseas」も少なくともそのころまでは存在したものと推測されます。


コンチネンタルシリーズのフライヤー。「Club Specialty Overseas」名義(左)と「SEGA Enterprises」名義(右)の二種。Club Specialty Overseas名義の方はプログレッシブ仕様であるところにも注目される。米国Bally社は少なくとも1965年にはプログレッシブジャックポット機能を搭載した機種を発表しているが、これは果たしてそれよりも早いのか、遅いのか(たぶん遅いとは思う)。

■第三世代2(1960年代半ば?):スターレットシリーズ
スターレットシリーズの登場時期は、コンチネンタルシリーズと同じころのようなのですが、はっきりとはわかりません。しかし、その外見は第二世代のスターシリーズ、いわゆるダルマ筐体そのものです。それと言うのも、「スターレット」はセガが発売する廉価版スロットマシンという位置づけということだったようです。


スターレットのフライヤー。

「廉価版」とするからにはいろいろコストダウンの工夫がありました。このフライヤーでは「セガはどうやってこんなに適正な価格が提示できるのか? 予想する前にこれら5つの手掛かりをお読みください」と謳って、そのヒミツを述べています。超訳すると、

1:装飾と、プレイヤーを混乱させるミステリー・ペイアウトを排した。
2:機構から余分な機能を排した。
3:照明を取り外すことで筐体を低くし、部品数を減らした。
4:筐体中央部分にあった白のツートンカラー塗装を排して塗装コストを抑えた。
5:新しい砂型が低いダイキャストに取って代わることよって、リールウィンドウと配当表を除くいくつかの照明を不要とした(注・意味が半分わからない)。

という具合です。なお、1番の「ミステリー・ペイアウト」とは、1950年代から60年代にかけてのスロットマシンに見られた、オレンジ以上の当たりが出ると、配当表に書かれているよりも1枚か2枚、コインを多く払い出すフィーチャーのことです。2022年11月29日追記:「ミステリー・ペイアウト」は、ペイテーブルに記載されていない、オレンジとスイカの組み合わせでもオレンジ相当の払い出しがあったものを指すという説も新たに発見されました。Continentalシリーズではペイテーブルに記載されるようになっており、「Mystery Payout」の記述はなくなっています。

■第四世代(1967年前後~?):ウィンザーシリーズ
ウィンザーシリーズは、プレセガ時代から取り組んできたスロットマシン開発の、最後のシリーズです。筐体デザインはよりいっそう現代的に洗練され、一部には電気的に作動する機構も導入されるようになりましたが、払い出し機構はホッパーではなく、依然としてチューブ内のコインをスライサーで押し出すものでした。


ウィンザーシリーズのフライヤー。4機種がまとめられている。

ウィンザーシリーズが作られ始めた具体的な年は特定できていませんが、英国の「フォノグラフィック・イクイップメント(Phonographic Equipment)」と言うディストリビューターが、1967年の12月23日付けの雑誌(業界誌?)に、「The NEW Threesome from SEGA」と銘打って、ウィンザーシリーズのプレイボーイ、マッドマネー、ダービーの3機種の広告を出しています。

2022年11月5日追加情報:その後の調査で、ウィンザーシリーズの1966年の日付が入った開発資料が残されていることが判明しました。また、やはり66年の日付が入っているスターシリーズ及びコンチネンタルシリーズの資料もあり、並行して製造されていたことが窺われます。ただし、これがウィンザーシリーズがリリースされた年と判断できる証拠になるわけではない点には留意しておく必要があります。

フォノグラフィックと言えば、ウィンザーシリーズのうち「1dシリーズ」のフライヤーに掲載されている筐体は、前面の飾りガラスの片隅に「PHONOGRAPHIC」の文字が印刷されています。そのため、ワタシは長いことこれもブロムリー・シンジケートの一部なのかと思っていましたが、ネットを通じて知り合った方から頂いた英語表記の資料から、ブロムリーとは早くから付き合いはあったが少なくとも直接の繋がりがあるわけではないということをつい最近になって知りました。


「PHONOGRAPHIC」の名が入ったウィンザー・1dシリーズの一つ「BUCCANEER」。この他、「AZTEC」や「SEILOR」というタイトルにも同じ銘が入っている。

ウィンザーシリーズは、1970年代初頭(ウィキペディアでは1972年としている)には、スターシリーズと同様にストップボタンを取り付けて、オリンピアシリーズの最終版となる「オリンピア・マークIII」とそのスキン替えである「オリンピア・スター」にも流用されました。この中には、シンボルを麻雀牌とした別スキンもあったと聞いており、ワタシも何かの印刷物でそれを見た覚えが無いこともないような気がするのですが、現在その資料が見つかりません。ひょっとしたらワタシの勘違いでしょうか。また、日本にメダルゲームと言う市場ができた際(関連記事:「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)には、日本のメダルゲームにも転用されました。

■謎世代:ロード・セガ
これまで挙げてきた4つの世代の他に、セガは「ロード・セガ」という機種も作っています。しかし、これについては資料があまりにも少なく、製造時期など詳しいことがわかりません。ロード・セガのフライヤーには、スターシリーズ以前の特徴である「Sega incorporated」と書かれているものがあり、これはつまり、「ロード・セガ」が1964年以前の機械であることを意味していると思われるのですが、1964年と言えば米国Bally社がスロットマシンに革命を起こした年であり、ロード・セガはその影響を受けずにこれだけの機能とデザインを実現したことになります。しかし、ハイトップやダルマがロード・セガとなるにはそれなりに大きな飛躍が必要で、それもにわかには信じがたい話ではあります。「Sega incorporated」名義のフライヤーの存在が確認できないため、この部分を取り消し(2020.04.21)


ロード・セガのフライヤー。

フライヤーによれば、ロード・セガは筐体の前面が開くことが大きな特徴だそうです。と言うのも、スターシリーズのメンテナンスドアは筐体の背面にあったため、メンテナンスが必要となった時は筐体の背後に回るか、またはオプションとして提供されていた専用のターンテーブルの上に設置して回転させて背面を前に向けて行う必要があったのですが、ロード・セガは設置されている状態そのままで前面からメンテナンスができるようになったというわけです。これは確かに大きな進歩と言えましょう。ロード・セガについての謎は、今後も追及を続ける必要があります。

■最後に
結局のところ、最後までホッパーを搭載することがなかったセガのスロットマシンは、1970年頃、ウィンザーシリーズを最後に終焉を迎えました。1964年のスロットマシンに起きた革命に着いていくことができなかった他の多くのスロットマシンメーカーが比較的早い段階で撤退した中、セガは最後までよく粘った方だったと思います。これについて、故リチャード・ブッシェル氏(関連記事:歴史の語り部たちを追った話(1):ウェブサイト「コインマシンの世界」)は、自身の著書「Lemons, Cherries, and Bell-Fruit-Gum」で、「(セガは)日本で重要なコインマシン産業を確立するためにアーケードクラスのマシンに集中するようビジネスの哲学を変えた。 その最初の動きの1つは、スロットマシンの製造を完全に廃止することだった」と言及しています。

(このシリーズおわり)


セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1

2020年04月12日 17時38分55秒 | 歴史
これまで述べてきたように、日本のセガはもともとスロットマシンをアジア・太平洋地域に売り込むために設立された会社なので、当然ながらプレセガ期には精力的にスロットマシンを製造および販売していましたが、現在のセガオフィシャルの創立年である1960年以降も、まだ10年くらいは海外市場向けスロットマシンの開発を続けています。つまり、そのころまでのセガには、まだブロムリー帝国の影響が残っていたということだと思われます。

この時代のセガのスロットマシンには、大きく分けて4世代があったと言えそうです。そこで、今回はそのうち第1世代と第2世代のスロットマシンを見ていき、次回で第3世代と第4世代を見ていこうと思います。

■第1世代(1950年代):ベルシリーズ(ハイトップ筐体)
ハイトップ筐体とは、米国Mills社が1940年代に開発し、60年代でも稼働を続けていた筐体です。ブロムリーはその金型と権利を買い取って、セガとしてコピーを製造していました。セガのこの筐体に入った製品名の最後にはみな「BELL」と付けられているので、ワタシは便宜上「ベルシリーズ」と呼んでいます。50年代のセガは、Mills社製ハイトップのディストリビュートもしていましたが、いつごろからベルシリーズに移行したのかは判明していません。ひょっとすると時期が重なっていることもあるかもしれません。


ハイトップ筐体のスロットマシンのフライヤー。左は「Manufactured By SEGA incoporated」の社名(SEGA Enterprisesではない点に注意)が印刷されており、この時期から既に「SEGA」の名が使われていることがわかる。また、右のフライヤーには「Club Specialty」の名が印刷されているが、「Club Specialty Overseas」となっていないことには、ひょっとして何か理由があるのだろうか。もしこの両者が同一であれば、このフライヤーは1956年以降のものと言うことになる。

■第2世代(1950年代?~1960年代半ば):スターシリーズ(ダルマ筐体)
次にセガは、俗に「ダルマ筐体」と呼ばれた独自の筐体を開発しました。それがいつ頃のことなのかはよくわかっていませんが、英語の文献で「50年代末頃から60年代初頭」と記述してあるものを見つけています。ダルマ筐体に入っている製品のほとんどは製品名の最後に「STAR」が付けられているので、ワタシは便宜上「スターシリーズ」と呼んでいます。

このダルマ筐体のフライヤーに印刷されている社名には、第一世代と同様に「SEGA incoporated」と「Club Specialty Overseas」のほかに、「SEGA Enterprises Ltd.」と印刷されたものが見つかっています。つまり、1965年以降にも製造されていたことを意味するものと思われます。

ところで、「SEGA Enterprises」のフライヤーに記載されている所在地は「大田区羽田4丁目」となっていますが、この界隈は1958年に町区変更があって、「セガ・エンタープライゼス」ができた1965年時点では「羽田1丁目」となっているはずです。ただし、新しい町区が住居表示として実施されたのが1967年9月1日だそうなので、このフライヤーが作成されたのは、セガ・エンタープライゼスができた1965年から、新しい住居表示が実施される以前の1967年8月以前の間であろうと推定されます。


「SEGA incoporated」名義と「SEGA Enterprises」名義のダルマ筐体のフライヤー。右には所在地が表記されているが、町区変更の混乱がその頒布時期の特定を難しくする。

ダルマ筐体は、1964年に日本で新たに認可された風営遊技機である「オリンピア」及びその続編である「ニュー・オリンピア」の筐体にも流用されました。その風営認定の門戸を開いたのは同業者のタイトーで、セガ(当時は日本娯楽物産と日本機械製造)はその尻馬に乗ったという形であったらしく、当時のタイトーの社長、ミハイル・コーガンは、セガ(その当時はまだ日本娯楽物産と日本機械製造という二つの会社だった)に猛烈に抗議したといういきさつがあったそうです(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖の謎)。


これはニュー・オリンピアの筐体。ダルマ筐体の胴部前面に「スキルストップ」ボタンを取り付ける改造が施されている。

しかし、オリンピア筐体には、ゲームルールが風俗営業の認可を受けていない、スターシリーズのままという個体も少なからず存在しています。そのような機種は飲食店などで違法な賭博機として稼働していたようです(関連記事:オリンピアとワタシの関わりの記録)が、セガ自身がそれにどれほど関与していたのかしていなかったのかはわかりません。ゲーム業界は、裏街道を行くアウトサイダーが暗躍することもよくある話だったので、これもそんなケースの一つだと思われます。

(つづく)

セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(2) 4つの「Service Games」

2020年04月05日 13時53分04秒 | 歴史
【はじめにお断り】
今更ですが、今回のシリーズ記事の内容の多くの部分は、ワタシがこれまでに見つけた資料類の受け売りです。また、そこから得たワタシの理解には必ずしも正確とは言えない点も多々あると思われますので、記述内容は確定情報としてではなく、諸説あるうちの一つ程度とご認識いただければ幸いです。


----------- これより今回の記事 -----------

日本に「サービスゲームズ(Service Games)」ができたのは1953年ころ(諸説あり)です。

しかし、ブロムリーとその父アービン・ブロンバーグ(Irvin Bromburg)は、それ以前の1945年ハワイ(ホノルル)に同名の会社を興しています。ブロンバーグ親子は、さらに1953年には中米パナマに、1957年にはネバダ(ラスベガス)にも「サービスゲームズ」を作っています。

このうちパナマのサービスゲームズは、1956年ころ(具体的な年は不詳)に、「クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズ(Club Specialty Overseas)」と名を変えて、世界のサービスゲームズ社(と、他のブロムリー・シンジケートに属する会社)のヘッドクォーター、総本部となります。

今回は、ハワイ、パナマ、日本、ネバダの4つの「サービスゲームズ」について調べたことを記録しておきます。

■プレサービスゲーム時代(1940以前)
ブロムリーの父、アービン・ブロンバーグ(Irvin Bromburg)は、ブルックリンで自動車関連の会社を経営した後、「アービン・ブロンバーグ・カンパニー」と言う自動販売機をディストリビュートする会社を立ち上げました。その時、ある人物からの勧めでピンボール機(ビンゴ・ピンボール機だったらしい)を友人の店の店頭に設置させてもらったところ、当時の大手ペニーアーケードオペレーターの一人だった「ビル・ショーク」と言う人物の目に留まり、取引が始まりました。これをきっかけにアービンはバーリー(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))のピンボール機のディストリビューターとなって、その後東海岸で業容を拡大して大手となっていきます。

1933年、ブロンバーグはロサンゼルスに移転(その理由は不詳)して、西海岸での最初のバーリーのディストリビューターとなりました。この時、東海岸側の会社は売却したそうですが、関係は維持しており、それによりアービンは米国の東西にまたがるピンボールの広域ディストリビューターとなりました。

■サービスゲームズ・ハワイ(1945-1961?)
1940年、アービンはハワイに移り、息子のマーティとともに民間にゲーム機をディストリビュートする「スタンダード・ゲームズ」と言う新たな会社を立ち上げました。このマーティが後の「マーチン(マーティ)・ブロムリー」で、彼自身も学生時代から既にコインマシンのオペレーションに手を染めていたそうです。そして1945年、親子は「スタンダード・ゲームズ」を売却して、米軍施設を相手とする「サービスゲームズ」を設立しました。これが後に「ブロムリー帝国」とまで呼ばれるシンジケート形成の第一歩です。

■サービスゲームズ・パナマ(1953-1961)
ブロムリーが1953年にパナマに作った「サービスゲームズ」は、1956年に「クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズ(Club Specialty Overseas)」に社名を変更しています。ここは、ブロムリーシンジケートの財務管理や、製品の国際的な流通やオペレーションの仲介をする、ヘッドクォーターとして機能していたそうです。


「Club Specialty」の名が入った「セガ・ベル」のフライヤー。頒布の時期や対象は不明だが、米国Mills社のハイトップ筐体のコピーであるところから1950年代のものと思われる。さらに言うと、この社名が「クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズ」と同一だとすれば、1956年以降のものと思われる。

パナマと言えば、数年前に日本人を含む世界のお金持ちや企業、あるいはマネーロンダリング目的の反社の面々がその資産を隠していることを示す「パナマ文書」なるものが暴露されて大きな話題となった、租税回避地(タックスヘブン)として有名な国です。ブロムリーは税金を逃れるためにさまざまな手を尽くしていた(これについてはこのシリーズでも今後言及することがあるかも)ので、これもその一環であった可能性も感じます。

■サービスゲームズ・ジャパン(1953?-1960)
日本にサービスゲームズが作られた理由と経緯は前回の記事(セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1)まずは過去記事から概説)で述べているので省略。

■サービスゲームズ・ネバダ(1957?-1966?)
ラスベガスに「サービスゲームズ」が設立された時期は、少なくともサービスゲームズ・ジャパンができて以降のことで、1957年前後と思われます。その所在地を現代のGoogleマップで検索すると、ラスベガスのダウンタウンから北へ車で5分ほどの場所が示されます。その界隈はワタシも過去に何度か車で通過していますが、今は、かつてセガがあったことを窺わせるものは何もありません。

ブロムリーがラスベガスにオフィスを構えた理由は、「政府(これには米軍が含まれていると思われる)が買い上げる製品は米国製であること」という法律ができたため、サービスゲームズ・ジャパンからスロットマシンの部品を輸入してラスベガスでノックダウン生産し、米国製であるように「偽装」するためだったようです。サービスゲームズ・ネバダが頒布したスロットマシンのフライヤーを見ると、「Our new address」とするネバダ州の住所が記載されたスタンプを、「Service Games Japan」の「Japan」の部分に上書きするように捺されています。ただ、ネバダのテレックスの番号は日本のサービスゲームズと同一だったらしいです。


サービスゲームズ・ネバダが頒布したフライヤーの部分。製品は日本のセガで作られたダルマ筐体だが、社名の部分の「Japan」を消すようにネバダの住所のスタンプが捺されている。

現在のセガは、自らの創立年を1960年としているとのことなので、今回取り上げた4つの「サービスゲームズ」とポストセガ期の時系列を表にしてみました。


サービスゲームズ・パナマは、1956年頃に「クラブ・スペシャルティ・オーバーシーズ」に変えて1968年ころまで存続していたらしい。

「サービスゲームズ」は、これらの他にもコリア(と言いつつ所在地は沖縄だったらしい?)、フィリピングアムのように、米軍が基地を置いている他のアジア・太平洋地域にも作られました。ブロムリーがどれだけ軍に食い込んでいたかがうかがい知れます。

(つづく)