オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

幻の「アタミセンター」を求めて(4):最終回

2024年02月25日 17時56分57秒 | 歴史

(前回のあらすじ)
「加奈」とその周辺の歴史を調べるうちに、この界隈はかつて「赤線地帯」で、「アタミセンター」も元は赤線の主たる業態である「カフェー」だったらしいことがわかった。これにより「アタミセンター」の開業は古ければ赤線が廃止された1958年前後まで遡る可能性が出てきたが、「浜町」の消滅時期は依然として不明なので、ついに最後の手段として行政機関に問い合わせることにした。

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行政に問い合わせるとしたら熱海市のどこに聞くのが妥当か見当を付けようと熱海市の公式ウェブページを彷徨っていると、「問い合わせ専用フォーム」なるものを発見したので、そこから、「熱海市にかつて存在した浜町が消滅した時期をご教示願いたい」旨の質問を書き込み送信しました。

待つことおよそ1週間、ついに熱海市立図書館の方からメールで回答がありました。そこには調査の結果だけでなく、オンラインで見られる資料や、閉架の資料を閲覧したい場合のアドバイスも添えられていました。熱海市立図書館のご担当くださった方、どうもありがとうございます。実に素晴らしいご対応でした

頂いた調査結果を要約すると、

(1)熱海大火後、区画整理により住居表示が銀座町と渚町になった。
(2)大火後の区画整理に関する行政資料によれば、渚町及び銀座町の旧通称町名として「浜町」の記載がある。
(3)「浜町」が銀座町及び渚町に表示変更されたのは、昭和41年(1966)12月30日で、翌昭和42年(1967)4月1日に「熱海市住居表示に関する条例施行規則」が公布されているので、昭和41年度(1966年4月~1967年3月)だと思われる

とのことでした。その後もう一度確認のやり取りをして、少なくとも昭和40年度以前までは、郵便など生活において「浜町」の町名が使用されていたとの理解でよろしかろうとの結論を得ました。

「年度」の概念は混乱をきたしやすいですが、「昭和40年度」は1965年4月から1966年の3月までの期間です。つまるところ「浜町」の町名は「こまや」の「クレイジー15」がリリースされた1965年以降もまだ残っていたということです。

「浜町」の消滅時期は判明しました。しかし、「アタミセンター」が「クレイジー15」よりも古いと判断できる材料にはなりませんでした。まるで、倒した敵は実はラスボスではなかったかのようです。予測し得た結末とは言え、今までさんざん引っ張っておいてこれでは「サギゲー」と言われそうです。

これ以上のことを知るには1965年以前のこの地域にどんな店があったかを調べる必要がありそうです。今のところ確実なアテがあるわけではありませんが、まずは近いうちに熱海市立図書館に赴いて閉架の資料に適当なものが無いか探す旅にでも出ることを決意して、この連載は終了と致します。

◆現時点で判明している事実年表◆
1950 熱海大火により市の中心部が壊滅する ←前回追加
1953 大火前の賑わいを凌ぐまでに復興する ←前回追加
1958 赤線廃止、カフェーが転廃業する。 ←前回追加
1965 「クレイジー15(こまや)」リリース
1966 浜町消滅 ←今回追加
1973以前 浜町に空気銃の遊技場あり
1973 空気銃の遊技場が純喫茶「加奈」として開業
2016 「加奈」閉業、現在に至る

(このシリーズ終わり)


幻の「アタミセンター」を求めて(3):「加奈」以前の浜町

2024年02月18日 17時22分31秒 | 歴史

(前回のあらすじ)
「浜町」が現在の銀座町の一部であることを突き止め、Googleマップのストリートビューでその一帯を見て回っていたところ、疑問点はあるものの「アタミセンター」とよく似た看板建築を発見した。調べるとそこは1973年に開業した「加奈」と言う喫茶店だったが、それ以前は別業種の営業が行なわれていたらしい。「加奈」は2016年に店主が急逝して以降営業されていない。

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「加奈」以前を調べているうちに、旧浜町を含む銀座町やその周辺一帯は、かつて「赤線地帯」であったことを知りました。「赤線」とは、営業許可を得ていない私娼による売春が黙認されていた区域のことで、敗戦後の1946年から1958年まで日本各地に存在しました。改めて熱海の旧赤線地帯をGoogleマップのストリートビューで見てみると、そこには「加奈」のように建物の角を面取りした看板建築が多く見られます(看板建築については前回記事の【注】を参照)。

これは赤線で売春を行っていた店舗の主たる業態であった「カフェー【注1】は洋風の建物であるよう行政から要求されていたことによります。他にもタイル貼りの壁や装飾性の高い窓などの共通点を持つこのような建築様式は「カフェー建築」とか「赤線建築」と呼ばれていて、ネット上を検索すると昔のノスタルジックな街並みを愛好する人々によるブログがいくつも見つかります。

Googleマップのストリートビューで拾った、熱海における「赤線建築」の例。上が旧浜町を含む銀座町と渚町で、下が旧糸川町(現中央町の一部)。その後の増改築や修繕、あるいは取り壊し後の新築物件などで、そこがかつて「カフェー」であったことが一目ではわからないものもある。

赤線建築の特徴を持つ「アタミセンター」もかつては「カフェー」だったことに疑いはなさそうですが、しかし赤線が廃止された1958年【注2】が直ちに「アタミセンター」ができた年とは決めつけられません。「アタミセンター」となる以前に別の店が営業していた可能性があるし、逆に赤線廃止以前に売春防止法が施行された時点で早々に見切りをつけて転業している可能性もあるからです。

ならば「カフェー」からアタミセンターまでの過程を追うことで何かわかることは無いかと、熱海の歴史を調べてみました。

熱海は古くより温泉地として、また明治以降は政財界の要人や文豪が好んだ別荘地としても栄えました。終戦直後の1945年には「RAA(占領軍向けの特殊な慰安施設)」を受け入れて国際的な観光保養都市として復興を図りました。RAA自体はたったの7か月で閉鎖されましたが、熱海はその後も関東近辺の占領軍将兵らの遊興地であり、またRAAから放り出された女性従業員は私娼として残り、やがて赤線へと変化していきました。

昭和25年(1950)、後に「熱海大火」と呼ばれる大火災で、赤線地帯だけでなく市の繁華街や中心部を含む14.2万平方メートルが壊滅しました(火元は赤線に隣接する渚町の埋め立て工事事務所だった)。しかし、火災発生の2日後には熱海市で復興計画が練られ、4日後には熱海市長をはじめ熱海市議会議員、静岡県知事らが大挙して上京し国に支援を求めるなど懸命の努力を重ねて、3年後には早くも大火前の水準を凌ぐほどの賑わいを取り戻しました。

赤色で覆われている部分が1950年の熱海大火で焼け野原となった。その中には「浜町」とその周辺の赤線地帯が含まれている。

この素早い復興には赤線も少なからず寄与したであろうことは想像に難くありません。しかし1958年より売春防止法違反の罰則が施行されるようになったため、「カフェー」は通常の飲食店など他業種に転業するか、または完全に撤退することを余儀なくされました。

こうして赤線が消えた熱海でしたが、高度経済成長で日本国民の間にレジャーへの参加の機運が高まる1950年代末には「新婚旅行のメッカ」と呼ばれるようになり、さらに1960年代に入ると企業の団体旅行先としての誘致にも成功して、昭和が終わる1989年までは不動の人気を誇る国内随一の温泉リゾートでした。ワタシは、1960年代から80年代にかけての東京のTVでは熱海の観光ホテルのCMがしょっちゅう流れていたことを覚えています。

熱海の歴史を調べているうちに、「KURUWA.PHOTO 失われゆく色街の残影」というブログに糸川赤線一帯の地図を発見しました。

昭和33年(1958)以前の、カフェーの屋号が記入されている糸川町(現中央町の一部)の地図。画像はブログKURUWA.PHOTOより拝借。

この地図は、何かの地図から旧糸川町の部分を切り取ったもののようです。右上に見える「梅の家」のさらに右、糸川を挟んだ向かいに「加奈」が入る建物があるのですが、地図は糸川で切れており、残念ながらそこに何が描かれているかはわかりません。この地図の全体を是非とも見てみたいと思い、2月上旬にこのブログのコメント欄で質問を投げかけていますが、現時点で回答はまだありません。

赤線はセンシティブな要素を含むためか、核心に迫るずっと手前で情報が途切れてしまうことが多いです。今の時代、インターネットで何でもわかると思っていましたが、甘すぎました。そしてここに至ってついに、最後の手段である「行政機関に問い合わせる」ことを決意しました。

◆現時点で判明している事実年表◆(赤文字は今回追加部分)
1945 RAA第一号設置
1946 RAA閉鎖、多くの私娼が発生し一帯が赤線化する
1950 熱海大火により市の中心部が壊滅する
1953 大火前の賑わいを凌ぐまでに復興する
1958 赤線廃止で赤線の主たる業態だったカフェーが転廃業する
1965 「クレイジー15(こまや)」リリース
1973以前 浜町に空気銃の遊技場あり
1973 空気銃の遊技場が純喫茶「加奈」として開業
2016 「加奈」閉業、現在に至る

(次回、最終回につづく)

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【注1】カフェー
日本における「カフェー」は、明治末期にフランス・パリのカフェを模倣した芸術家たちの社交サロンから始まるが、本場の給仕は男(ギャルソン)だったのに対し、日本では女給が置かれた。大正末期には女給による接待を売り物とする、今のキャバレーに類するものとなり、赤線では「カフェー」を擬して売春を行った。現在の風適法が風俗第一号営業の業態例の一つに挙げている「カフエー」の由来である(風適法第二条第一号「キヤバレー、待合、料理店、カフエーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」)。「カフェー」とは別業態だが似たような目的を持った「ダンスホール」もかつては風俗第四号営業とされていた。

【注2】赤線が廃止された1958年
売春防止法は、その公布が1956年、施行が1957年、さらに違反者への罰則適用が施行されるのが1958年で、赤線は売春防止法が施行された後も罰則が適用されるまでは営業を続けた店が多かった。


幻の「アタミセンター」を求めて(2):旧浜町で発見した看板建築

2024年02月11日 20時03分42秒 | 歴史

(前回のあらすじ)
「アタミセンター」の所在地とされている「熱海市浜町」は現存しない。その消滅時期次第では「スーパーホームランゲーム」は「クレイジー15」よりも早かったことの証明になると考えてネット上を検索するが、見つかるのは「浜町通り」、「浜町観光通り商店街」、さらに渚町及び銀座町のそれぞれの一部で構成される「浜町町内会」など、「浜町」の「名残り」だけだった。

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次にワタシは、古い地図をネット上で調べて「浜町」の記載が途切れる年を割り出そうと考えました。これならさほど苦労することもあるまいと高をくくっていましたが、しかし町名まで記載されている古い地図は思いのほかみつかりません。あちこち探してようやく一つ、国会図書館の蔵書「日本都市地図全集 第3集(人文社、1961)」の中に「浜町」を発見しました。

日本都市地図全集 第3集(人文社、1961)より、熱海市浜町の記載がある部分(赤枠内)を拡大。

この地図によると、北(地図の右手)は銀座町、南は二級河川の糸川を挟んで糸川町及び友楽町、東は渚町、西は本町に囲まれた、東西に連なる3つのブロックが「浜町」であるようです。なお、糸川町と友楽町は現在の中央町に、本町は銀座町にそれぞれ組み込まれており、浜町同様現存しません。

現在の銀座町(着色部分)のうち、旧浜町と思われる東西に連なる3つのブロック(濃い黄色の部分)。

「浜町」は少なくとも1961年時点には存在していたことはわかりましたが、この地図一つだけでは当初の目的を果たしたことにはなりません。それでも皆目見当がつかなかった浜町の位置が判明したのは画期的で、かつて浜町とされていた一帯をGoogleマップのストリートビューでうろついていたら、一軒の看板建築【注】を発見しました。

Googleマップのストリートビューより、旧浜町で発見した看板建築。右下の地図に示される赤点の地点で、Googleマップでは「熱海市銀座町2-9」と表示される。

角が面取りされた看板建築様式であること、2階左右壁面の窓の数、全体のプロポーションなど、アタミセンターの画像と共通点が多いように思います。1階の外装は異なりますが、この程度の改築は問題なくできるでしょう。もしかしたら重要な鍵を発見したかもしれないと色めき立ちました。

しかし、アタミセンターの画像とよくよく比較して見ると、外壁の上端の形状が異なることに気づいてしまいました。元々まっすぐだった外壁の上端を後になってわざわざ切り欠く改築などあるものなのでしょうか? あるいは外壁全体を改築した? だとしたらどのタイミングで、誰が? 狭い旧浜町内にあってこれだけ共通点の多い建物でも、これが直ちに元アタミセンターと判断するのは残念ながらまだ早いかもしれません。

現在の建物とアタミセンターの比較。赤矢印部分に示す外壁の切り欠きがアタミセンターには無い。

疑問は残りますが、他に縋るものがない現時点では可能性がありそうなこの建物を追及していきます。向かって左壁面の錆色のテント看板に見える「Kana」の文字を手掛かりに調べると、この店に言及するブログがいくつも見つかりました。

それらによると、ここは昭和48年(1973)純喫茶「加奈」として開業したそうです。近年は昭和時代の重厚な高級喫茶店の雰囲気を色濃く残したレトロな店として観光客からも注目されていたことが窺われ、店内の画像も多く残されていますが、2016年に店主の女性が58歳の若さで急逝され、以来店は閉まったままであることがわかりました。

テント看板部分の拡大図。「Kana」と読める。

では「加奈」以前はどうであったのか。「加奈」に触れているブログのひとつで2015年に書かれた記事に、「元々は空気銃?の遊技場だったそうで、喫茶店に衣替えした」との記述をみつけました。そのブログ主の方は、「空気銃」を射的のことと思っているようです。確かに、射的とストリップは温泉場を象徴する娯楽施設ですが、この建物は射的場にしては規模が大き過ぎるようにも思います。しかし、例えばかつて新宿歌舞伎町にあったエアライフル射撃場のように、ボウリングやアーチェリーに類する娯楽色のあるスポーツ施設だとすれば、アタミセンターの後の姿としてありそうな気はします。

「加奈」の店主は、亡くなった年齢から計算すると開業時は十代半ばになるので、おそらくは二代目と思われますが、そのお年であれば当時の様子もある程度ご記憶されていたことと思います。今も営業が続いているなら飛んで行ってお話をお伺いしたいのに、早すぎるご逝去は実に実に残念です。

今回の終わりに、前回記事を含んで現時点で判明している事実を年表にして整理しておきます。
◆現時点で判明している事実年表◆
1965 「クレイジー15(こまや)」リリース
1973以前 浜町に空気銃の遊技場あり
1973 かつての空気銃の遊技場が純喫茶「加奈」として開業
2016 「加奈」閉業、現在に至る

(つづく)

【注】看板建築
建物前面の外壁で屋根を覆い隠す建築様式。これにより正面からは洋風のビルディングのように見えるが、たいていは和風の木造建築なので2階建てであることが多い。関東大震災の復興時より、主として店舗を兼ねる住宅に良く用いられた。

左が「平入り」タイプの戦前型、右が「妻入り」タイプの戦後型。戦前は外壁に凝った形状のものが多かったが戦後はシンプルでモダンなデザインが流行したのは、アール・ヌーヴォーからアール・デコへの転換に似ている。「看板建築 昭和の商店と暮らし」(萩野正和著、トゥーヴァージンズ刊)の図を模写。


幻の「アタミセンター」を求めて(1):失われた町、浜町(熱海市)

2024年02月04日 17時09分11秒 | 歴史
アタミセンター」とは、かつて静岡県熱海市にあった娯楽施設の名称です。昨年11月、拙ブログでおなじみのCaitlynがネットオークションで発見した「東洋プレーイングマシン」社の「スーパーホームランゲーム」というフリッパー・ピンボール機のフライヤーにその外観が見られます(関連記事:【衝撃!】国産初のフリッパーゲーム機に従来の説を覆す大発見?)。

電飾が煌々と光り輝く「アタミセンター」の外観。向かって右側面の外壁には「ホームランゲーム」の看板が見える。二つ折り4ページで構成される「スーパーホームランゲーム」のフライヤーの、裏表紙に当たるページの部分。

Caitlynは、「スーパーホームランゲーム」は1948年に米国Exhibit社がリリースしたフリッパー・ピンボール機「Banjo」もしくは「Samba」のコピーに見えることから、「これは1965年に発売されたこまやクレイジー15よりも古い可能性があるのでは」と考えました(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール:「クレイジー15ゲーム」)。

Caitlynのブログ「外国人のためのエレメカアーケードゲームガイド」より、Exhibit社の「Banjo」(1948)と「スーパーホームランゲーム」を並べた画像。左が「banjo」で、右がフライヤーに掲載されている「スーパーホームランゲーム」。プレイフィールドの構成は確かにほぼ一致しているように見える。

ワタシはこれまで国産初のフリッパー・ピンボールゲーム機は「こまや」の「クレイジー15」だと思っていたので、もしCaitlynの予想する通りであれば、これは鎌倉幕府の成立年が1192年から1185年に変更されたことに匹敵する大事件です。しかしフライヤーにはその頒布時期を示す記述は一切なく、以来Caitlynとワタシは意見を交換しながら調査を続けています。

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日本におけるフリッパー・ピンボール機の歴史は、ジュークボックスやスロットマシンと同じく、終戦の1945年以降に進駐軍によって持ち込まれたものから始まったと考えて間違いないと思います。そして、タイトー1950年代半ばに進駐軍払い下げのジュークボックスを整備して営業に使用していたように、「スーパーホームランゲーム」も誰か(それが東洋プレーイングマシンだったかどうかはわからない)が進駐軍から払い下げられた「Banjo」を手本としてコピーしたものと考えられますが、それがいつの事であったかは見当が付きません。

フライヤーの2ページ目冒頭には、

日本遊戯機械の革命/スーパーホームランゲームは10餘年の歴史と傳統を誇るアメリカン遊戯の王座ピンボールマシンの日本版

とあります。


フライヤー2ページ目の冒頭。

米国でコインマシンとしてのピンボール機がブームとなるのは大恐慌下の1931年ですが、初のフリッパー・ピンボールとされているGottlieb社の「Humpty Dumpty」が発売されたのは、戦後、日本に進駐軍が駐留するようになった後の1947年です。フライヤーが謳う「10餘年の歴史」の起点がそこであれば、このフライヤーのスクリプトが書かれた時期は「クレイジー15」よりも古い1960年前後と推測できます。

ただ、この推論は当時の日本人(このスクリプトを書いた人)が米国におけるピンボール機の歴史を正しく把握していたことを前提としています。ワタシはその可能性を完全に否定するものではありませんが、懐疑の念も払拭できません。事と次第によっては、例えば「10餘年」の始点が手本にした「Banjo」に貼付されていた検査証の日付だったりしたら、それ次第では「クレイジー15」と近い時期まで食い込む可能性も考えられます。

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フライヤーの頒布時期を特定する他の有力な手掛かりとしては、「アタミセンター」の所在地があります。フライヤーでは「熱海市浜町四一六」とされていますが、「浜町」と言う町名は現在の熱海市には存在しません。もし「浜町」が1965年よりも前に消滅していれば、「スーパーホームランゲーム」は「クレイジー15」より先に存在したことの証明になると考えました。

そこで「浜町」をキーワードにネット上をあれこれ検索するのですが、熱海の町区変更に関する情報はごく最近のものしかみつかりません。関係しそうな他の単語をキーワードに加えてみても効果はなく、わずかに銀座町の「浜町通り」、中央町の「浜町観光通り商店街」、さらに渚町と銀座町の一部で構成される「浜町町内会」の名称にその名残を留めていることが判明しただけでした。

現在の熱海市中心部の地図。紫色が渚町、黄色が銀座町で、青色は中央町。銀座町の赤点が「浜町通り」、中央町の赤点が「浜町観光通り商店街」を指している(Googleマップによる)。

(つづく)