オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【号外】「PPフェア2002より昭和のパチンコ(4):昭和30年代」の補完情報

2021年08月30日 22時17分50秒 | 訂正・追加等

前回の記事「PPフェア2002より昭和のパチンコ(4):昭和30年代」 において、ワタシが「補充の必要が生じた台につながるホースの始端にどういう仕組みで補充球を流していたのか」との疑問を呈したところ、普段から拙ブログをご高覧くださっているtomさんより、「youtubeで『昔のパチンコ』で検索するが吉」とのコメントをいただきました。

さっそく試みてみると、「【昔のパチンコ・昭和30年代・パチンコ店】軍艦マーチ・娯楽・遊技場・レトロパチンコ」という動画がヒットし、この中に、まさにワタシが呈した疑問に対する答えとなる映像がありました。

賞球補充システムの始端。口の一つ一つに対応する台番号が付されている。このシーンは3’08くらい。詳細は動画をご覧されたし。

この動画の元ネタはTVのドキュメンタリー番組のようにも見えますが、実際のところはわかりません。しかし、賞球の補充だけでなく、シマの裏で働く従業員や人手不足問題、オートメーション化や換金問題などにも触れており、前回の記事の補完情報として実に素晴らしいので、ご紹介いたします。

(youtubeより)
【昔のパチンコ・昭和30年代・パチンコ店】軍艦マーチ・娯楽・遊技場・レトロパチンコ

10分強の動画ですので、スマホで閲覧される場合は容量制限にご注意されるがよろしかろうと存じます。

情報をくださったtomさん、どうもありがとうございました。ハラショー、ブンダバー、トレビアン、真棒、ワンダホー他世界中のあらゆる賛辞とともにお礼申し上げます。

以下、8月31日補完

普段からご高覧いただいているtomさんから、コメント欄に、「この動画の元ネタはNHKのドキュメンタリーで、尺は40分くらいと思われる」との追加情報をいただきました。この動画の7’38辺りで、「パチンコは戦後18年間、日陰で育った産業である」とのナレーションが流れるので、このドキュメンタリーが放映されたのは1945年の18年後、すなわち1963年(昭和38年)であろうと推測されます。

なんとか全編を見られないものかと「NHKアーカイブス」を調べたところ、ETVで1963年12月28日(土)の午後10:00~午後10:30に放映された「現代の記録 「孤独な遊戯」 ―パチンコ文化論―」であることが判明しましたが、残念ながら番組自体の映像は残されていないか、少なくとも公開はされていないようです。

「NHKクロニクル」の「公開ライブラリー」で検索すると、

「パチンコの歴史、ひけつなどを紹介し、全国6000軒、60万台のパチンコが日本文化に定着した理由を考える。【以下、アーカイブス番組HPより転記/2014.06】大衆娯楽の一つ、パチンコ。当時は、パチンコ玉を一個一個台に入れて手動で打っていた時代です。番組はパチンコ玉の製作場の様子を始め業界の舞台裏に迫っています。」

との説明があります。なお、これに続いて、「現代の記録」という番組自体の説明として、

「現代の記録」というドキュメンタリーシリーズに関しては、<番組メモ>として、「昭和37年(1962年)4月7日から昭和39年(1964)年4月4日まで放送されたドキュメンタリー番組である。「アジアで初めての開催となった東京オリンピック・パラリンピック(昭和39年=1964年)の前後から日本はいわゆる「高度経済成長」の時代に入り、1970~‘80年代の物質的に豊かで高い所得に象徴される「経済大国」としてのスタートを切った時代でもあった。昭和20年(1945年)8月の我が国の有史以来、初めての敗戦から復興に立ち向かう日本社会では戦争の惨禍と生活苦から何とか、脱出したいという国民全体の強い願望が国際社会が驚嘆した驚異的な経済成長へと結びついた。その陰では、急激な経済成長に社会の仕組みやインフラが追いつかず、重厚長大産業の大企業の操業に伴う「公害」の夥しい発生、健康被害に苦しむ公害病患者の発生、モータリゼーションの急展開と道路事情の未整備を背景とする「交通戦争」とまで表現された交通事故による死者の急増など実に様々な問題が噴出していた時代でもあった。こうした時代の様々な社会現象や深刻な問題を斬新なカメラワークを基に音声と映像で鋭く斬り込み、敗戦後の日本社会の課題を浮かび上がらせた。
「現代の記録」は視聴者から高い評価を得て、昭和38年(1963年)のラジオ・テレビ記者会の奨励賞も受賞した。主な作品としては、「新昆虫記」、「凶器と童話」、「姿なき犯人」、「ターミナル」など。
放送時間:教育テレビ土曜日の午後10時~10時30分、総合テレビ水曜日の午前11時~11時30分(再放送)
(放送文化アーカイブやNHK年鑑等を参考に、川口メタデータ整備班が作成 2017.07)」

と続いています。

何にせよ、「PPフェア2002より昭和のパチンコ(4):昭和30年代」において「昭和30年代」とまでしか特定できていなかった、シマ裏の女性従業員や賞球補給装置に関しては、少なくとも1963年の時点での現実だったことがわかったことは収穫です。


PPフェア2002より昭和のパチンコ(4):昭和30年代

2021年08月29日 18時31分41秒 | 歴史

前回に引き続き「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)で公開されていた「パチンコのルーツを探る」と言うパネル展示から、今回は昭和30年代(1955-1964)のパチンコ事情の展示をご紹介します。

日本のいわゆる「高度経済成長期」が始まったのは、一般には1954年とされているので、昭和30年代と言えばその真っただ中です。昭和31年(1956年)には、国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたことから、経済企画庁が作成した経済白書には「もはや戦後ではない」と記述され、これは流行語にもなったそうです。

とは言うものの、一般国民の生活の向上は経済の成長を追いかける形になるので、まだその恩恵が行き届かない地域も多くありました。ワタシが小学校に上がるのは次の10年の世代(昭和40年代)でしたが、その時点でも依然として「出稼ぎ」とか「三ちゃん農業」、あるいは「集団就職」など、都市部と地方の格差をうかがわせる言葉が社会科の教科書に残っていました。また、経済成長の恩恵を早い段階で享受する都市部であっても、一学級約40名の中には電話がない家庭の子弟が数名程度ですが残されているなど、まだまだ発展途上段階と言うべきだと思います。

今回ご紹介する「昭和30年代」とはつまりそういう時代でしたが、パチンコはまだ十分に豊かとは言えない国民にとって「ささやかな娯楽」として人気があったようです。

 

シマの中の手作業/昭和30年代 補給球を手で行っていた時代の女性従業員の多くは、シマの中で作業した。1シマに最低1名は中に入っていた。

当時は、賞球の補充は人の手で行われており、シマ(背中合わせに設置された一連のパチンコ台)の内側には従業員が入り、賞球を補充したり、賞球が出ないなどの客のクレームに対応していました。「ねえちゃん、出ないよ」と、客がシマの中にいる女性従業員に呼びかけるシーンは、当時のパチンコを象徴する風景としてその後のマンガや映画などでしばしば描かれました。

 

廃棄台解体作業/昭和30年代 昭和30年前半まで、中古市場に回らない廃棄台は郊外に野積みにされ、解体業者が金属部品を取り除いていた。木枠は当時児童用の机やいすに再製されて、山間地の小学校に寄贈されたりした。

写真のキャプションには「昭和30年前半(55-60年)まで」とありますが、その35-40年後の90年代半ばにも廃棄台の不法投棄が大きな社会問題となっています。今その問題はどうなっているんだろう。それはともかくとして、廃材が机やいすに作り替えられて山間地の小学校に寄贈されたという話も、当時の地域格差をうかがわせます。

 

おしぼりサービス/昭和30年代 求人難とはいえ、過当競争化だけにサービスは欠かせない。手洗い場の傍らに「おしぼり提供」係もいた。

高度成長に伴い、主要産業の求人は継続的に増加しており、末端の娯楽産業に過ぎないパチンコ店は求人難でしたが、パチンコの需要は高かったようです。

 

海水浴場にも遊技場/昭和30年代 江の島片瀬海岸に登場した遊技場。入賞率は悪いが、終日を砂浜で過ごす人々には、一時の息抜きができて好評だった。

50年代後半からは一般家庭にも家電製品が普及し始めました。生活を便利にする三つの家電、すなわちテレビ、冷蔵庫、洗濯機は「三種の神器」と称され、一家に一台欲しいものとされました。この、そこそこ人がいる海水浴場の画像からは、戦後の荒廃でその日を生きるのに精いっぱいだった日本人にもようやくレジャーに参加する余裕が生じてきたことが見てとれます。でも、英国や米国などのビーチリゾートにはゲームアーケードが付き物であったことを考えれば、海水浴場にパチンコがあっても不思議ではないのですが、やはり少し奇異な印象は得ます。

 

賞品球補給装置/昭和30年代 昭和30年代までは遊技場は求人難にあえいでいた。その対応策として機械化が強く求められ、最大課題の賞品球補給システムが考案され登場した。

高度成長で発達しつつあったオートメーション化の波はパチンコにもやってきました。おそらくこの無数のホースの1本1本がそれぞれ異なる台につながり、賞球を送り込んでいたものと思われます。それにしても、途中で玉つまりを起こしたりしなかったものか心配になります。また、玉が流れているホースはかなりの重量になると思われ、詰まったホースを流そうと持ち上げてもなかなか持ち上がらないこともあったのではないかと言う懸念も感じます。
ところで、補充の必要が生じた台につながるホースの始端にどういう仕組みで補充球を流していたのか、どなたかご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか。

 

福祉事業協会/昭和36年 景品の売(注:「買」の誤字)人や暴力団の介入を排除するため、大阪では三店方式と呼ぶシステムを導入。社会福祉事業協会が設立され、公認景品買取所がお目見えした。

三店方式の「三店」とは、パチンコ店、公認景品買取所、それに景品の卸業者の三つの事業者のことです。公認景品買取所は「社会福祉事業協会」が取り仕切り、景品買取所を寡婦などの雇用に利用することで福祉に貢献するという理屈でした。

客が獲得した景品を買人(ばいにん)が買い取って現金化する「景品買い」が始まったのは、「パチンコの歴史(溝上憲文著・1999年・晩聲社刊)」によると、「連発機」が登場した昭和20年代終わりころかららしいです。景品を安く買い取ってよそで高く転売するという法の裏をかいたこの商売にはすぐに暴力団が目を付け、脅しや嫌がらせによって無理やり巻き込んだパチンコ店との間で換金用の景品を還流させるルートを構築するようになりました。

パチンコは換金をしないことでギャンブルではないとしていたはずです。しかし、客が獲得した景品を売却する(現金化する)ことを妨げる理屈はありません。三店方式は、景品の還流ルートから暴力団を排除するための苦肉の策でしたが、現在もなお矛盾を抱えたシステムとして常に議論の対象となってしまっています。

次回、昭和40年代以降(最終回)につづく

【2021/8/30】追加情報アリ!

【号外】「PPフェア2002より昭和のパチンコ(4):昭和30年代」の補完情報

賞品球補給装置および補完情報満載の動画を発見!


PPフェア2002より昭和のパチンコ(3):終戦直後(昭和20年代)のパチンコ

2021年08月22日 23時00分05秒 | 歴史

少し重いミッションの決着をつけるのに時間がかかり、今日22日の夜10時過ぎまで、拙ブログの更新に全く手を付けていませんでした。と言うわけで、今回は超手抜きでご勘弁いただきたいと思います。

太平洋戦争が終結したのが1945年(昭和20年)です。あらゆる物資が不足した戦時中にパチンコなどできるわけがありませんから、この間日本のパチンコ産業はほぼ完全に停止していました。きっと、パチンコ玉も台枠や釘などの金属も、戦時中は供出させられたことと思います。

だがしかし。なぜか終戦直後から、露店のパチンコ営業が行われていたようです。

終戦の翌年、昭和21年(1946年)に開かれた、名古屋復興まつりと銘打った催し。ゲートの右手に「パチンコ遊技」の看板が見える。

映画においても、闇市でのパチンコが描かれる作品があります。この件については、拙ブログにしばしばコメントをくださるカナダのCaitlynのブログ「exploring pachinko in Japanese cinema...」をご参照ください。

 

終戦直後のパチンコは、まだメダル式であったようです。

昭和20年代のパチンコの裏構造。払い出すメダルが人の手で補充されている。


本来であれば、一銭パチンコがメダルに変化していくあたりの歴史についても述べておくべきところではありますが、冒頭で述べた理由により、今回は割愛します。「ものと人間の文化史 186 パチンコ」をお持ちの方は、そちらをご参照いただければと思います(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)。

もともと露店営業から始まったパチンコですが、20年代には店舗としてのパチンコ店ができるようになっていたようです。

昭和26年(1951年)、群馬県前橋市に開店したパチンコ店。この当時はまだメダル式だった。

戦後すぐのパチンコの製造は、依然としてマニュファクチュアであったようです。

「昭和20年代前・中期頃」とするパチンコ機の製作現場。「女性の工員が多かった」とある。

ワタシはかねがね不思議なのですが、手作業でパチンコ台を作っていたころ、あの釘も一本一本手で打ち込んでいたのでしょうか。だとすると、打ち込む角度や深さを均等に揃えるのはけっこう熟練を要すると思うのですが、実際のところ、どうなんでしょうか。

昭和27年(1952年)には「連発式」が登場し、パチンコ店が軒を連ねるほどのブームとなりました。

昭和28年の大阪・天王寺駅前界隈。「パチンコ連鎖街」とある。

ワタシが今「天王寺」と聞くと、天王寺動物園と、ジャンジャン横町のゲーセン「かすが娯楽場及びスマートボールの「ニュースター」」(関連記事:大阪レゲエ紀行2019(1) DAY 1・午前)が思い出されますが、この時代はパチンコ店が全盛だったようです。

つづく。


PPフェア2002より昭和のパチンコ(2):昭和7年のパチンコ機製造現場

2021年08月15日 22時03分49秒 | 歴史

前回に引き続き「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)で公開されていた「パチンコのルーツを探る」と言うパネル展示から、今回は戦前の昭和7年のパチンコ事情を記録していきます。

パチンコはコリントゲームから発展した」という説をちょいちょい聞きますが、「ものと人間の文化史186 パチンコ」(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)によれば、コリントゲームが日本で発売されたのは昭和7年(1932年)のことで、パチンコはと言うと、それ以前の昭和4年(1929年)に既にパチンコに関する特許が出願されている事実から、明らかに誤りです。

ついでに言うと、「コリントゲームの名の由来は発売元だった小林脳行の『小林』を『コリン』と読んだ」という風説も誤りだそうです。小林脳行がコリントゲームを扱っていたことは事実のようですが、日本で流行ったコリントゲームの元ネタは昭和7年(1932年)にその特許が日本に上陸した英国製の「Corinthian 10 (コリンシアン10)」と言うゲームです。小林脳行は、この商品名と盤面に立つ釘から古代ギリシャの建築様式であるコリント式を連想して、そのコリント式を象った商標を用いた「コリント商会」として、昭和8年にコリントゲームの実用新案を出願しています。この辺の詳細は例によって原典の「ものと人間の文化史186 パチンコ」をご参照ください。第5章と第7章にこの辺の詳しい話が記述されています。

さて、長々とコリントゲームについて述べましたが、コリントゲームが発売された昭和7年時点のパチンコ事情が窺い知れる、「中川式遊技機製作所」と題する写真が、PPフェアの展示にありました。

昭和7年時点の「中川式遊技機製作所」の様子。ごく小規模なマニュファクチュアで、7人の男性が手分けしてパチンコ機を組み立てている様子が見える。

写真の説明には、

富貴屋、OM商会など大阪が独占していた遊技機づくりを下請けしていた中川清氏が独立、続いた才田商会とともに金沢メーカー時代を築いた。

とあります。説明文中の「OM商会」はパチンコの歴史を語る文中でよく見かける名前ですが、実は「オーエヌ商会」が正しいようです。それはさておき、この写真に写る7人の男性のうち、左の二人はレールを作っているようです。中央の眼鏡の男性は曲尺を当てて板状の何かを測っています。その右の男性は今まさにレールを盤面に取り付けているように見えます。その上のカメラ目線の男性と、手前の咥えたばこの男性は、手にペンチのような工具を持って組み立て作業をしているようです。最も右の鉢巻きの男性は、立てたパチンコ台の裏側に何かを施しているようです。戦前のこの時代、パチンコ台は、このようなマニュファクチュアで製造されていたことがわかります。

つまるところ、コリントゲームが日本で発売された時点で、既にパチンコは一つの産業として確立されていたことがこの写真からもわかります。「パチンコ=コリントゲーム起源説」は、釘が打たれた盤面に玉を投入するという共通点のみで結びつけられた、単なる「風説」であるようです。

(つづく)


PPフェア2002より昭和のパチンコ(1):宝くじ(久野義博、1948)

2021年08月08日 20時54分02秒 | 歴史

今を去ること19年前となる2002年の夏、幕張メッセで風営4号業界の展示会「パチンコ・パチスロ産業フェア以下、PPフェア)」が開かれました。この頃のワタシは既にパチンコ・パチスロには娯楽としての興味を失なっており、ほとんどやらなくなっていたのですが、縁あって招待券をいただいていたこともあり、行ってまいりました。

PPフェアは、パチンコ・パチスロメーカー各社と関連企業約180社が出展するという結構な規模で行われました。ワタシは新機種には関心が持てなかったので、展示されていた新機種の画像は殆どありませんが、会場に設けられていた「パチンコのルーツを探る」と「パチスロのルーツを求めて」と言うパネル展示にはおおいに興味をそそられ、その写真ばかり撮って帰りました。

ということで、拙ブログでは今回から何回かに分けて、そのPPフェアの展示をご紹介しながら昭和のパチンコ事情を振り返ってみたいと思います。その1回目に取り上げるのは、昭和23年(1948年)の「宝くじ」というパチンコ台です。

 

PPフェア2002にパネル展示されていたパチンコ機「宝くじ」の写真(上)とその解説(下)。出展社ブースの電飾看板が映り込んでいて見づらい。

解説では、宝くじの製造元は「正村商会/昭和23年~24年」としており、確かに台の左下には「正村商会」の銘板が取り付けられています。しかし、最後に「久野義博氏創案」としています。

これについて、今年の6月に法政大学出版局から刊行された「ものと人間の文化史186 パチンコ」(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)では、

『宝くじ』を作った人は、正村ではなく、同じ名古屋の久野義博であり、久野自身は『昭和二三年』に製造したと証言している。『宝くじ』が作られた当時は、正村商会が他社の台を購入し、自社のネームプレートを貼っても、許されることであった」(P.32)

と説明しています。PPフェアの解説はこの点を、言葉足らずではあるもののとりあえずは言及しており、これはパチンコ業界の共通認識と理解してよいと思われます。

ところで。この「宝くじ」というパチンコ台は、1985年に刊行された「パチンコ台図鑑 THE PACHINKO」(リブロポート/百巣編集室編)の表紙にも登場しています。

「パチンコ台図鑑」の表紙。本文4~5ページにおいても同機の画像とその説明文が掲載されている。

「パチンコ台図鑑」の本文4ページでは、

■宝くじ■ 昭和21年から登場した『復興宝くじ』からヒントを得たこの機械は盤面上部に0・1・2・3の表示があり、入賞すると上の窓に旗が立つ。旗が4本揃うと、特別賞として50個の賞品玉が出る。盤面がブリキで出来ており、パチンコ台の重戦車と言いうイメージである。(昭和22年・正村商会)」(P.4)

と説明しており、こちらは「久野義博」には言及していません。また、年代も「昭和22年」と、PPショウの解説とも、ものと人間の文化史とも違う年を記述しています。この情報ソースはいったい何だったのでしょうか。

よくよく見ると、PPフェアで展示されていたパネル写真と、パチンコ台図鑑に掲載されている写真は、台に残る傷がほとんど一致しており、どうも同じ個体であるらしいことに気づきました。

左がPPフェアの展示、右がパチンコ台図鑑の写真。赤丸で囲んだ部分の傷がほとんど一致している。

しかし、PPフェアの写真には、台枠の左上部分と左下部分に、パチンコ台図鑑の写真にはない、少し大きな欠損があります。これには二つの可能性が考えられます。ひとつは、1985年に刊行されたパチンコ台図鑑の写真の方が先に撮影され、その後に欠損が生じてから2002年のPPフェアで展示する写真が撮影されたという可能性です。

もう一つは、逆にPPフェアで展示された写真の方が、パチンコ台図鑑の写真よりも先に撮影されたものである可能性です。と言うのは、パチンコ台図鑑の方は、欠けた部分に木材を継ぎ足して補修しているかのようにも見えるところがあり、また単に画像の色調のせいかもしれませんが、ニスを塗りなおしているようにも思えます。

欠損部分を拡大して比較。どちらも上がPPショウ(2002年)、下がパチンコ台図鑑(1985年)の写真

どちらの推測が正しいのかはわかりません。ただ、この「宝くじ」の台には、後年になって誰かの手が入れられていることは、別の意味で確実のようです。前述の「ものと人間の文化史 186 パチンコ」は、

「(パチンコ台図鑑の『宝くじ』に貼られている)このプレートは昭和二八年(一九五三)以降のものである」(P.31-32)

と指摘しています。昭和23年に作られた機械に昭和28年以降の銘板が取り付けられるとはおかしな話ですが、その経緯を、

1976年の日工組の遊技機会館竣工後、各メーカーが自社の歴史的パチンコ台を持ち寄ってパチンコ機の歴史を残そうとした際に、武内国栄(たけうち・くにしげ)日工組専務理事が、「宝くじ」が戦後すぐに正村商会が作ったかのように見せるために銘板を貼り付けたが、その銘板が年代の合わないものであったことには気づいていなかった」(要旨・P.34)

と説明して、「ねつ造」と言う強い言葉を使って糾弾しています。

武内国栄は、昭和27年(1952年)ころから正村商会で働いていたことがあり、昭和35年(1965年)にパチンコメーカーの業界団体である日工組(日本遊技機工業協同組合)が結成されたときに、名古屋の機械メーカーの代表として専務理事に就き、マスコミを相手に業界の宣伝などを行っていたとのことで、つまり業界のスポークスマンだったようです。

現在一般に流布している正村ゲージ伝説の骨子はその武内の発言が元ネタであるようで、これまでに刊行された複数のパチンコの歴史本もだいたいこれに従っています。ものと人間の文化史の著者である杉山さんは、ある歴史本の著者に訂正を求めましたが、「メーカーの業界団体である日工組の専務理事である武内の主張は業界の総意である」として、訂正も検討も拒否されたといういきさつを述べています(関連記事:パチンコ誕生博物館オープン(3) 最終回:歴史の証拠を残すにはどうすればいいのか)。

この辺の詳細は「ものと人間の文化史」をご参照いただくとして、パチンコの歴史を辿るのも一筋縄ではいかないことに、いまさらながら眩暈がしています。

ところで、PPフェアは、この回を最後に現在まで開催されていません。2006年にPPフェア2007の実施が発表されましたが、発表から開催までの期間が短か過ぎて準備が間に合わないとして、特に遊技機メーカーの参加が得られず、結局中止されてしまいました。AM業界は規模を縮小しつつも毎年定期的に展示会を行っているのと比較すると、パチンコ業界の結束力は案外弱いものなのかな、と思わされてしまいます。

(つづく)