オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「パチンコ百年史」(アド・サークル, 2002)を勝手に検証する

2023年12月24日 18時21分24秒 | 風営機

パチンコ百年史」と言うムックがあります。パチンコの業界誌を発行するアド・サークル社2002年に刊行した、全180ページに及ぶパチンコの歴史本で、表紙には山田清一氏と今泉秀夫氏の両氏を「責任編集」としてあります。

パチンコ百年史の表紙

今回は、この「パチンコ百年史」に見られる2カ所の疑わしい部分について検証しようと思います。

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一つ目は、カナダのCaitlynから届いたメッセージで気づいたものです。彼女は、「この本(パチンコ百年史)に、昭和30年代の日本にコインプッシャーが持ち込まれ、その後禁止されたとあるが、この件について何か聞いたことがあるか」と聞いてきました。ワタシは、この時期の日本でプッシャーがギャンブルに使われたとの話をこれまで一度も見聞したことがなかったので、新鮮ではあるものの、大いに訝しく感じました。

改めて手元の「パチンコ百年史」を見ると、その43ページには英国Bryan社のプッシャー機「ダブルデッカー(Double Decker)」の画像が掲載され、「一種のコイン落としギャンブル。昭和30年代に日本にも入ってきたことがあるが射倖心をそそり過ぎると間もなく禁止になった」とのキャプションが付いています。

パチンコ百年史の43ページ(上)と、そのうちのダブルデッカーの部分の拡大図(下)。英国サウサンプトンにある「カヌートパビリオン」の「アンティークマシン博物館」での展示物を、34ページから10ページに渡って紹介しているうちの最後のページ。

昭和30年代と言うと、1955年から1964年までの期間です。この時期に日本にプッシャーが存在した事実は本当にあったのでしょうか。

ワタシはこれまで、世界初のコインプッシャーは英国クロンプトン社1963年に発明した「Wheel-A-Win」(関連記事:プッシャーに関する思いつき話(3):クロンプトン社の歴史1・「ペニー・フォールズ」誕生まで)だと認識していました。昭和30年代の最後の2年にかかってはいますが、「Wheel-A-Win」はヒットせず、輸出されたという話も聞きません。クロンプトンが次に作ったプッシャーが「ペニー・フォールズ」で、それは1966年昭和40年代に入ってからのことです。

「ダブルデッカー」の製造年はよくわかりません。ネット上を検索すると1968年とするものが複数見つかり、Caitlynの認識としても「ダブルデッカーは60年代後半の機械」としているので、それらが正しければ「昭和30年代」にはひっかかりません

クロンプトンやBryanに先駆けて日本国内で独自にコインプッシャー機が発明されていた可能性も考えましたが、キャプションには「日本に入ってきた」と言っているので、この線もなさそうです。そもそも、メダルゲームというジャンルが発生する以前の日本にコインプッシャーがあったという話は、この「パチンコ百年史」を除いたあらゆる媒体を通じて見たことがありません。

本当に、昭和30年代の日本にプッシャー機が入ってきていたのでしょうか。どちら様でも、そのようなお話をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひともコメント欄にてご教示いただけますようお願いいたします。

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二つ目は、96ページから始まる「パチスロ百年史」の中にあります。ここには終戦後の沖縄でのスロットマシンのオペレートの様子が述べられている興味深い部分もあります。しかし、99ページに掲載されている「オリンピアマシン」は、オリンピアマシンではありません。

「パチンコ百年史」99ページ(上)と、オリンピアマシンとする機械の画像部分の拡大図(下)。画像のキャプションには「(写真提供山田清一)」とある。

この画像の機械にはプレイヤーがリールを任意のタイミングで停めるためのスキルストップボタンがありません。それどころか、筐体の「OLYMPIA STAR」となっているべき部分には「DIAMOND 3 STAR」の文字が打たれています。これを「オリンピア機」として紹介してしまうのは、明らかな誤りです。

そしてこの誤りはこの本だけに留まらず、パチスロメーカーであるオリンピア社のウェブサイトや、「パチンコ歴史辞典」(ガイドワークス、2017)の中でも受け継がれてしまっています(関連記事:「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)を勝手に訂正する(2))。

重ねて強調しておきますが、この画像はオリンピア機の画像ではありません

もう一つオマケを付け加えると、このページでは現在のパチスロの嚆矢となるジェミニが誕生する経緯を、「(ゲーム機のスロットマシンで賭博を行い警察当局が摘発に乗り出したので)こうした危機を突破するためには、スロットマシンをパチンコ機と同じ風営機として警察に認定してもらうしかない」としている部分についても疑問を感じます(関連記事:「アメリカンパチンコ」・ジェミニ」)。

ゲーム業界やパチンコ業界にはなるべく明るみに出したくない闇の部分があり、当事者がそこを隠すためにうまいこと言い繕うので、この部分はそれをそのまま掲載しているのでしょう。実際、ジェミニが誕生しパチスロ市場が確立した後でもゲーム機賭博は無くならず、1980年代には社会問題に発展したためにゲームセンターも風俗営業に組み入れられはしましたが、それでメダルゲームからスロットマシンが無くなることはありませんでした。

一度伝播し普及してしまった説はそのまま信じられ続けてしまうことも多いですが、将来歴史を検証しようとする人が現れた時のために、誤りに気付いた者はそれを見逃さずに指摘しておくことは大切なことだと思って、今回の記事を作成しました。蛇足ながら、誤りが含まれているからと言ってこの本の価値や製作に携わった方々への敬意がゼロになるわけではもちろんないことは付言しておきます。

◆◆◆ ブログ更新お休みのお知らせ ◆◆◆

次の日曜日は大晦日ですので、拙ブログの更新はお休みとさせていただきます。今年も一年お付き合いくださりありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。


パチンコ台の釘打ち工程の謎が解けた話

2023年01月15日 16時31分05秒 | 風営機

パチンコ台には何百本もの釘が打たれていますが、その釘打ち作業はロボットによって自動化されています。まず1985年に刊行された「パチンコ台図鑑(リブロポート刊)」の96ページには、機械が釘を打っている画像が掲載されており、キャプションで「コンピューターによる自動釘打ち機。300本以上の釘を4分で打つことができる。」と説明されています。

「パチンコ台図鑑」P.96に掲載されている画像。釘を機械で打っている。

1台分の釘を打つのに4分と言うことは、1000台の釘を打つには約67時間、24時間操業したとしても3日弱かかることになります。売れる台となれば数万台は生産されるので、その延べ工数は、ロボットを使ったとしても数か月にも及ぶことになります。

現在のロボットはさらに進歩しており、1分間に130本以上の釘を打ち込めます。更に、昨今のパチンコ台の釘は200本前後くらいに減少しているので、1台の釘打ちに要する時間はおよそ1分~1分半程度に短縮されます。

現在の釘打ちロボット。宮山技術研究所のウェブサイトで公開されている動画より。

このように自動化される以前は、どうやって釘を打っていたのでしょうか。ワタシは一昨年の8月の記事「PPフェア2002より昭和のパチンコ(3):終戦直後(昭和20年代)のパチンコ」で、「かねがね不思議なのですが、手作業でパチンコ台を作っていたころ、あの釘も一本一本手で打ち込んでいたのでしょうか。だとすると、打ち込む角度や深さを均等に揃えるのはけっこう熟練を要すると思うのですが、実際のところ、どうなんでしょうか」と述べています。

昭和20年代のパチンコ台製造風景。何人もの女性たちが手にハンマーを持ち、釘を打っているように見える。

これはワタシにとって長年の謎だったのですが、昨年、拙ブログをご高覧くださっている方からお誘いを受けて「パチンコ誕生博物館」(関連記事:【特報】パチンコ誕生博物館オープン(1))を再訪した際、館長の杉山さんにお尋ねしたところ、一つの工具を取り出して見せてくれました。


釘を手で打つための工具とその底面。一見したところ、ヘンなピンセットのよう。

工具先端の内側には、釘を掴むための溝がいくらかの角度をもって刻まれている。

溝で釘を掴んだところ。

工具で挟んだ釘をハンマーでたたき込めば、一定の角度と深さで釘が打ち込めるという仕組み。

なるほど。当然と言えば当然ですが、「オートメーション」なんて概念がまだなかった時代でも、作業を効率化させる専用の工具が開発されていたのでした。それでも1台分の釘を打つのに要する時間は、どんなに熟練した工員であっても1985年当時の機械にすら及ばないことは明らかでしょう。市場規模がまだまだ小さかった時代とは言え、たくさんの人手が必要であったことと思います。

それにしても、釘打ちロボットなんて他の産業への転用もそうそうできないだろうに、ただパチンコだけのためにこれだけ高精度で大規模な機械を作ってしまうのも、よく考えれば驚くべきことです。パチンコが巨大産業に成長した陰には、こんな技術革新があったことに今さらながら気づかされました。


Ballyが作った「回胴式遊技機」の話

2022年10月09日 21時13分14秒 | 風営機

現在のナウなヤングの中にはその名前すら知らない人も多いかもしれませんが、拙ブログでしばしば言及している米国のゲーム機メーカー、バーリー(Bally)社は、かつては世界の娯楽機市場を席巻したビッグでジャイアントなコングロマリットでした。

どの程度ビッグでジャイアントだったかと言うと、例えば米国の経済誌フォーチュンは、1981年に発表した「米国法人ビッグ500」において、バーリーを「売上高398位、純利益では273位」に位置付け、ゲームマシン紙1983年10月1日号は「拡大続けるバリー社 レジャー産業全般へ、すでに21社を傘下に」として、「AM機とギャンブル機の製造部門を中心にしながら、遊園地、アーケードゲーム場、カジノの経営と手を広げ(中略)国内における直接の子会社は16社、外国では日本、オーストラリア、ヨーロッパなどで6社を子会社としている」と報じています。

Ballyのロゴ。「ベリーシェイプ(Belly Shape:どてっ腹型)」とも呼ばれる特徴的なロゴは、日本のオールドファンにはピンボール機やメダルゲームのスロットマシンで馴染み深い。

日本のAM業界でも早い段階から「Bally」のブランド力は知れ渡っており、その絶大なネームバリューにあやかって、社名に「バーリー」を名乗る(パクる)企業が複数あったものでした。なお、バーリーの日本での正統な子会社は「バリー・ジャパン」と言いましたが、設立年が特定できません。おそらくはメダルゲームブームが発生する1972年以降だと思うのですが、ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示いただけますようお願い申し上げます。

そのバーリーが最も栄えていたのは、1960年代半ば以降から1980年代後半にかけての間で、1990年前後頃からはグループ企業の売却に次ぐ売却で四分五裂し、徐々にその勢いを失っていきました。今でもバーリーの名前やロゴは、例えばNHK-BSでの大リーグ中継で時々表示される「Bally Sports」などで見かけることはありますが、それらは名前を受け継いでいるだけで、中身は全く別物です。また、ラスベガスの老舗カジノホテル「トロピカーナ(Tropicana)」は、つい先月「Bally Corporation」に買収されましたが、これもかつてのバーリーとは関係がありません。

さて、話は変わりますが、日本の回胴式遊技機(今でいう「パチスロ」)の「0号機」は、1977年に発売された「ジェミニ」から始まりました(関連記事:「アメリカンパチンコ」・ジェミニ)。

ジェミニは、もともとバーリー社製品の部品を日本国内にディストリビュートしていた会社が、バーリーの筐体や部品を流用して作ったものでした。ジェミニの開発者である角野博光氏は、この時のバーリーとのやり取りを、「(技術介入のあるスロットマシンは)『我々の計画では、そんなものは世の中でありえない』と言われました。取り敢えず一応は『やってもいい』ということになって、デザインからメカまで同一の等しい機械を作ったわけです。足りない部品に関しては当時バリーから供給してもらいました」と語っています(関連記事:歴史の語り部を追った話(5):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その3 二つの「バーリー」)。

ジェミニが発売されたのは1977年ですから、このやり取りがあったのはそれ以前のこととなります。おそらくは1975年前後ころか、ひょっとするとそれよりさらに1、2年程度前のことであったかもしれません。その時点で「そんなものはありえない」と言っていたバーリーは、しかし、1980年の春に、「ギャラクシー」という回胴式遊技機を発表し、日本国内で販売を始めました。

バーリー製回胴式遊技機「ギャラクシー」の発表を報じるゲームマシン紙1980年4月1号の記事と、筐体画像の拡大図。

実はこれは青天の霹靂と言うわけではなく、バーリーは1977年の時点で既に日本の風営機向けとしたスロットマシンの開発を行っていました。ゲームマシン紙1977年11月1日号では、その年の秋に行われたアミューズメントマシンショウに関する記事の中で、「風営をめざすスロット『スーパースター』が展示され、話題を呼んだ」と報じています。

ゲームマシン紙1977年11月1日号の記事「各社出展内容一覧」より、バリー・ジャパン社の部分。手前にスキルストップボタンが付いていると思しき2台の「スーパースター」が見える。背後に見えるのは右よりフリッパー・ピンボールのエイトボール、イーブル・ニーブル(EM版)、それにビンゴ・ピンボール(機種不明)。

米国バーリーの日本法人であるバリー・ジャパンは、日本のAM業界事情を本国に伝えるリサーチ活動も行っていたので、以前にはありえないと思っていたことが日本で現実化しようとしていることを知り、急いで参入してきたということなのかもしれません。

あるいは、ジェミニ開発者に対する米国側の窓口が、どうもバーリー本体ではなく、バーリー製品をディストリビュートする「バーリー・ディストリビューティング」であったと思われる節があり、その社長であるサイ・レッド関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き)は電子ゲーム機の開発に意欲的であったので、バーリーではなくバーリー・ディストリビューティングが動いた、ということなのかもしれません。

当初の回胴式遊技機はみんなバーリーの筐体や部品を流用した「アップライト筐体」だったので、その供給源であったバーリー社にはさぞ大きなアドバンテージがあったことと思います。しかし、バーリーのギャラクシーが発表された同じ年の夏、従来のパチンコ台の島に取り付けることを前提とする「パチスロパルサー」(尚球社)が発表されました。パチンコ店は、導入のために店舗の改造を要したアップライト筐体とは違い、現状のまま導入できる「パチスロ」を大いに歓迎し、それ以降開発される回胴式遊技機はみなこれに倣うようになりました。従ってバーリーの「ギャラクシー」は、アップライト型の回胴式遊技機の概ね最後の製品と言うことになりますが、そのせいか、ワタシは「ギャラクシー」をパチンコ店で見た記憶がありません。果たしてギャラクシーは一般のパチンコ店に設置されたのでしょうか。どなたかご覧になったことがある方はいらっしゃいませんでしょうか。

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「パチスロ」がすっかり定着した後の1990年代、欧州のエレクトロコイン社、米国のIGT社、豪州のアリストクラート社など海外の大手スロットマシンメーカーが続々と日本のパチスロ市場に参入し、当時は話題となりましたが、それよりもずっと以前に海外企業によるパチスロへの参入が試みられていたのは、ワタシにとって意外な事実でした。

最後にもう一つ付け足し。時期は特定できませんが、バーリーは、メダルを使用するアレンジボールによく似たコンセプトのゲーム機を開発していたことを比較的最近知りました。情報源は、前回の記事でもご紹介したカナダのCaitlynですが、これについてはまだ詳しいことを述べることができないので、その事実を忘れないためのメモを残すに留めておきます。それにしても、あのビッグでジャイアントなバーリーは、案外日本の市場も意識していたんだなあと思わせられます。


オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(5):ファクトチェック

2022年02月20日 17時23分53秒 | 風営機

「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場」は、「この物語は実際の出来事を基に創作したフィクションです」と謳っている通り、断片的な事実を都合よくつなぎ合わせて創作したストーリーです。

この泡沫ブログでは無用な懸念かもしれませんが、よもやまさか創作部分が事実として伝承されることのないよう、本シリーズの最後は各エピソードのファクトチェックで締めくくっておきたいと思います。

エピソードの真偽の程度を表す記号の意味は以下の通りです。
◎:事実。
〇:事実だが改変あり。
△:証拠はないが状況から事実と推認しうる。
×:完全な創作。

なお、登場人物の会話は全て創作で、実在するミハイル・コーガン氏とレイモンド・レメヤー氏が、それぞれ広島弁、土佐弁を話していたという事実もありません。

第1幕:ジュークボックスで儲けちゃる
◎タイトーはジュークボックスの前にピーナツベンダーを酒場などに設置して稼いでいた。
×大東貿易が「もはや戦後ではない」と言われてからジュークボックスを始めている。
タイトーがウォッカやピーナツベンダーの扱いを開始した年は昭和28年(1953年)で、ジュークボックスを扱い始めたのは翌昭和29年(1954年)です。経済企画庁が経済白書に「もはや戦後ではない」と記したのはそれより後の昭和31年(1956年)ですから、物語の時系列が事実と異なっています。

◎タイトーが米軍払い下げのジュークボックスを修理してリースしていた。
◎米軍払下げのジュークボックスが払底し生産が覚束なくなった。
〇ジュークボックスで儲けたタイトーは広島、大阪、福岡、に営業所を新設した。
米軍払い下げのジュークボックスの部品を寄せ集めて1台に仕立て上げる「フルーツポンチ」が行われていた件と、のちに払い下げ品が払底して供給に間に合わなくなった件は、タイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」に記載されています。
タイトーのジュークボックスビジネスが当初順調で、広島、大阪、福岡に営業所を作ったことは事実ですが、その具体的な時期はわかっていません。

◎自社製ジュークボックス「J40」は国産部品の品質が悪く、使い物にならなかった。
◎最終的にジュークボックスの国産化は断念し、米国AMI社から輸入した。
タイトーが国産ジュークボックス「ジュークJ40」を開発したのは昭和31年(1956年)ですが、国産部品の不良による故障が多く使い物にならず、結局国産化を断念したこともタイトーの社史本に記載されています。

〇津上製作所がAMIの機械を生産し、タイトーと市場の奪い合いとなった。
〇タイトーが米国シーバーグ社のジュークボックスを扱うようになった。
×タイトーがシーバーグに乗り換えたそのあとに津上製作所がAMI製品を生産した。
タイトーと津上製作所の間で熾烈なシェア争いが繰り広げられたのは事実ですが、津上製作所がAMI社製品のノックダウン生産を始めたのは、実はタイトーがAMI社製ジュークボックスの国内販売権を得たのと同じ年の昭和33年(1958年)です。従って、タイトーがシーバーグに乗り換えた後に津上製作所が後釜としてAMIを作りはじめたとするストーリーは事実と異なります。タイトーの公式ウェブサイトによれば、タイトーが米国シーバーグ社製品を扱うようになったのはAMIの販売権を得た4年後の昭和37年(1962年)とのことです。

第2幕:開発子会社設立とスロットマシン参入
×タイトーはセガに倣ってスロットマシンビジネスに参入した。
タイトーがスロットマシン製造に乗り出した動機は全く不明です。サービスゲームに倣ってスロットマシンビジネスに参入したとするストーリーを裏付ける証拠はありません。

◎「ローヤルクラウン」に「クラウン(CROWN)」のブランド名が付けられた。
〇タイトーが開発・製造を専門とする子会社「パシフィック工業(物語中はパン・パシフィック工業)」を設立した。
ローヤルクラウンにはパシフィック工業製品に付いている「CROWN」のブランド名と三本角の王冠型エンブレムが付いていますが、実在するパシフィック工業が初めてローヤルクラウンを製造したのがいつかはわかっていません。

パシフィック工業の設立年は、タイトーの公式ウェブサイトではオリンピアが風営許可を得る前年の昭和38年(1963年)としています。しかし、パシフィック工業が当初からスキルストップボタン付きのオリンピアを作る目的でセガの機械をコピーしていたとは考えにくく、またタイトーの社史本では「(オリンピアは)1960年ころから準備して」と言っていることから、物語ではパン・パシフィック工業の設立時期を1960年ころとして、ストップボタンが付かないローヤルクラウンを先に作ったことにしています。

△ローヤルクラウンはセガのスターシリーズを無断コピーして作られた。
海外に現存するローヤルクラウンのオーナーの言によると、ローヤルクラウンの中身はスターシリーズ同様ミルズ社製と互換性があり、またローヤルクラウンをセガ製品と誤解、または推測しているケースも見られ、証拠はなくともコピーであること自体は疑いようがありません。ただし、そのコピーがセガの許諾を取った上である可能性を否定する証拠はありません。

×ミハイルがローヤルクラウン試作一号機の筐体デザインを変えさせた。
ローヤルクラウンの筐体デザインがなぜあのようになったのかも含めて、ローヤルクラウン開発現場の描写はすべて創作です。

第3幕:仁義なき戦い(前編)
×タイトーはローヤルクラウンが売れなかったので7号市場を目指した。
第2幕のファクトチェックでも述べたとおり、ローヤルクラウンが作られた時期は不明です。従って、これをオリンピアに流用したとするストーリーは創作です。

〇タイトーが苦労して風俗営業の許可を取得した。
タイトーの社史本には「苦労して風営七号許可を取るや」との記述がありますが、その苦労の内容は伝わっておらず、警察の担当官に買収まがいの饗応もしたとのエピソードは創作です。

◎タイトーがサービスゲームズのオリンピア追随に激怒して他社に抗議した。
〇サービスゲームズ(セガ)がタイトーの尻馬に乗ってきた。
タイトーの社史本では、タイトーがオリンピアに便乗してきた「日本娯楽物産などの他社」に抗議したと述べられています。物語では大東貿易が抗議した先をサービスゲームズとしていますが、当時のサービスゲームズは日本娯楽物産と日本機械製造に分裂していたか、もしくは日本娯楽物産を存続会社として日本機械製造と再統合していたか、あるいは既にセガ・エンタープライゼスを名乗っていた時期です(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1)まずは過去記事から概説)。

実在のサービスゲームズの母体となる「レメヤー・アンド・スチュワート」は、「レイモンド・レメヤー」と「リチャード・スチュワート」という二人の人物の名前から来ており、後にスチュワートが率いる「日本娯楽物産」とレメヤーが率いる「日本機械製造」に分かれます。物語ではサービスゲームズの社長をレメヤーとしていますが、スチュワートとした方が事実に近かったかもしれません。

◎サービスゲームズが賄賂などの不正でアジア圏の米軍基地に深く食い込んでいた。
セガが日本を含むアジア圏の米軍基地の担当官を賄賂や接待で抱き込んでいたのは事実で、他にも軍事物資に偽装して輸入した物資をダミー会社を通じて民間に横流しするなどの不正行為もしており、そのためセガは米軍から出入り禁止とされたこともありました。(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(2) 4つの「Service Games」)。

△サービスゲームズが英国のディストリビューターと手を組んでいた。
現存するローヤルクラウンに英国の通貨単位でデノミを表示している個体があるため、大東貿易は英国市場も視野に入れていたというストーリーにしています。しかし、セガが英国のディストリビューターと手を組んでいたことは事実ですが、その時期がこれ以前からなのか、それとももっと後になってからの話なのかは分かっていません。

第4幕:仁義なき戦い(後編)
◎セガはミルズから金型と権利を買い取っていた。
セガがミルズからスロットマシンの金型と権利を買っていたことは事実です。これは、1951年に米国で成立したジョンソン法と呼ばれるスロットマシンを規制する法律のため、ミルズが売却したものと思われます(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)。

◎タイトーとセガで「株式会社オリンピア」を設立した。
×セガがタイトーに株式会社オリンピアの構想を持ち掛けた。
×タイトーとセガのオリンピアの生産能力(タイトー月産80台、セガ300台以上)。
「株式会社オリンピア」ができたこと自体は事実ですが、その経緯は全く不明で、設立年も伝わっていません。セガ側が提案しタイトーが飲んだというストーリーは創作です。物語中のタイトーとサービスゲームズの生産能力も、ストーリーの整合性を保つために適当と思われる数字を設定したもので、事実ではありません。

〇オリンピア機の製造をセガ、販売と運営は主にタイトーが行った。
製造をセガ、販売運営を主にタイトーが受け持つとしたことは、一般には事実であると認識されているようです。しかし、セガもタイトーも、株式会社オリンピアの枠外で積極的に販売していたように見受けられる節もあります。

×セガはローヤルクラウンに対する権利を放棄した。
セガがローヤルクラウンのロイヤリティを放棄したという話は創作です。実際どうであったかは不明です。

タイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」P.63に掲載されているオリンピアのロケーション風景。キャプションには「昭和39年」とあるが、筐体はセガのスターシリーズで、筐体の右上には株式会社オリンピアのエンブレムも見えており、社史本の記載内容にはいろいろと矛盾が感じられる。

第5幕:仁義なき戦い(エピローグ)
×大東貿易とサービスゲームズ双方の思惑はすべて創作。
エピローグでは、タイトーとセガが最終的に株式会社オリンピアで協業したという事実を説明するために、ストーリーをでっちあげました。逆にタイトーの方から協業を持ちかけるというストーリーも考えましたが、ミハイルの抗議など馬耳東風でも良かったはずのサービスゲームズがこれを飲む、説得力を持つ理由が思いつかず、結局こうなりました。

タイトーは「株式会社オリンピア」設立後の1968年に、ローヤルクラウンを含む自社製品の広告を米国の業界誌に掲載していることは確認できています。しかし米国のスロットマシン市場は、払出装置にホッパーを搭載してスロットマシンに革命を起こしたバーリー製のスロットマシンが市場を席巻しており(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))、ローヤルクラウンが多少なりとも普及したことを示す事実は、状況証拠すら見当たりません。レメヤーに「あんなもんどうせ売れんき」と言わせているのもそんな状況に基づいています。

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「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場」はこれにて完結です。主要登場人物には、キャラクターを立たせる演出の目的で方言をしゃべらさせていますが、ワタシが漫画で学んだそれら方言はネイティブの方々から見ればおそらくかなりでたらめであろうと思われ、気分を害された方々にはお詫び申し上げるとともに、当然ながら方言を揶揄する意図は無いことを申し添えておきたいと思います。


オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(4):第4幕/第5幕

2022年02月13日 15時26分01秒 | 風営機

第4幕:「仁義なき戦い(後編)」
(この物語は実際の出来事を基に創作したフィクションです)

登場人物
・ミハイル:大東貿易の社長。ウクライナ出身。日本語に堪能。
・レメヤー:サービスゲームズ社の社長。
・時期:昭和39年(1964年)ころ
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前回のあらすじ
大東貿易が苦労してローヤルクラウンの風営許可を得たところ、ライバルのサービスゲームズ社がすかさずその尻馬に乗って類似の風営機種を作り始めたことを知ったミハイルは激怒し、サービスゲームズのレメヤー社長を高級料亭に呼び出して抗議した。しかし、レメヤーは一向に動じず、大東貿易がローヤルクラウンを作るまでの経緯を問いただしてきた。

レメヤー:おまさんらあのとこじゃ、コピーを研究ちゅうがですか。

レメヤーに痛いところを遠回しに突かれたミハイルの胸中に不安が沸き上がる。しかしここで弱気になったら付け込まれる。強引に逆上して見せるミハイル。

ミハイル:わりゃ、何が言いたいんじゃ! オリンピアは正真正銘ワシらで作ったもんじゃ! ワシらとてやりゃできるんじゃ!

しかしレメヤーはミハイルの剣幕にも一向に怯む様子を見せず、平静を保っている。

レメヤー:おお、不調法があったら堪忍しとおせ。わしらあ田舎もんじゃき、口の利き方をよう知らんがじゃ。
ミハイル:ほうよ。それをワレ、ケチ付けられちゃあ、温厚なワシでも怒るわ。

レメヤーは口では非礼を詫びつつも、依然として落ち着いた様子で続けた。

レメヤー:もちろん研究はメーカーには不可欠の努力じゃき、わしらあもその一環としてローヤルクラウンを見てみたがじゃ。

ミハイルの顔色が変わる。レメヤーはそれに気づいてか気づかずでか、何事もなかったかのように続ける。

レメヤー:キャビネットのフォルムもさることじゃけんど、側面の鋲が打たれてる位置までほとんどわしらあが機械と一緒じゃったき、外から一目見ただけで中の構造まで元ネタが割れましたがよ。

大東貿易のROYAL CROWN(左)とサービスゲームズのスターシリーズ(右)の側面の比較。筐体上部のデザインを変えた結果、背が少し高くなったが、胴部のフォルムと側面に打たれているリベット(赤円内)の配置はほぼ同じ。但し、最も左下のリベットは、スターシリーズ筐体にはない。このROYAL CROWNの画像は「WorthPoint」より

ミハイルは狼狽しながらも、恫喝では突破できないと悟り、コピーではあるがそのオリジナルはサービスゲームズではなく米国ミルズ社であるとする方向に作戦を変更する。

ミハイル:た、たしかにワシらはいろいろの機種を研究しちょったからのう。ほうじゃ、アメリカのミルズの機械なんぞもずいぶん参考にしちょる。
レメヤー:ほう。ミルズ、ですがか。
ミハイル:ほうじゃ。やっぱりアメリカ製はモノが違うと感心して、大いに見習わせてもろうたんじゃ。

ミハイルは内心これでレメヤーの追及をかわせると期待した。しかし。

レメヤー:そのミルズですがのう。わしらあはミルズにカネ出して金型と一緒に権利を買うちょることはご存知ありゃせんでしたかの。

その事実はミハイルが知らないことだった。逃げ道を塞がれたミハイルは、抗議するつもりで呼び出した相手に逆に窮地に立たされた。ミハイルは、次に続くであろうレメヤーの逆襲に対してどんな落としどころを見つけたものか、必死に考えを巡らせるが。

レメヤー:のう、大東さん。あんたらあが警察から風俗営業の許可を得るまでに味わった苦労はわしらあも良うわかっちゅうつもりじゃ。あいつらあ権力かさに弱い者いじめばあする卑怯者じゃき、わしも大嫌いじゃ。

レメヤーは逆襲に出るどころかミハイルに理解を示す。ミハイルにはまだその意図が読めない。

レメヤー:そんなん相手に大東さんが新しい市場を開拓してくれたことにはわしらあもこじゃんと感謝しちゅうがじゃ。ほじゃき、大東さんにも今までの苦労に見合った見返りがなきゃならんと考えちゅうがよ。

てっきり宣戦を布告してくると思っていたレメヤーの意外な言葉に、ミハイルは困惑しながらも、それがまだどういうものかはわからないが一抹の期待のようなものが芽生えて来る。

レメヤー:そこでじゃ大東さん。わしらあ、オリンピアで大東さんと協業するちゅうアイディアを考えちゅうが、どうかのう。
ミハイル:きょ、協業・・・?
レメヤー:そうじゃ、協業じゃ。のう、大東さん。あんたらあがとこじゃ、オリンピアを月に何台生産できゆうがか?

サービスゲームズはなぜか大東貿易を正面から叩き潰しに来る気はないらしい。ミハイルはこの穏便な空気を壊さないでいる方が得策と考え、相手を下手に刺激することのないよう正直に答える。

ミハイル:たぶん100・・・ いや、当初はもう少し少ない80台くらいかもしれんのう。
レメヤー:まあそんなもんじゃろうのう。けんどわしらあなら月に300は堅いがじゃ。一方で、もともと商社でオペレーターの大東さんなら、販売と運営はお手の物ろう。

ミハイルには協業の意味の見当は付いてきたが、イメージが湧かない。

ミハイル:じゃがサービスの。一つの事業を二つのアタマで動かして、そがいに都合よく動くもんじゃなかろうが。
レメヤー:その懸念はもっともじゃ。ほいじゃき、わしゃ、おまさんらあとわしらあで合弁会社作って、オリンピア事業はそこに統合することを考えちゅう。
ミハイル:合弁会社じゃと?
レメヤー:いかにもタコにもぜよ。わしらあは作った機械をその合弁会社に納入して、おまさんらあを中心に結成する営業部隊がそれを売ったり運営したりするちゅう算段ぜよ。

確かにサービスゲームズの生産能力を以てすれば、オリンピアの展開も早いだろう。しかし、それではローヤルクラウンの在庫問題は解決しない。

ミハイル:うむう。じゃが、ワシらのローヤルクラウンはどうなるなら?
レメヤー:大東さん、こりゃあ互いの得意分野を活かしてオリンピアちゅう新しい事業を発展させようちゅう、げに太い計画ぜよ。だからこそわしらあも自前で販売や運営できるだけの営業所網を全国に持っちょるが、そこはおまさんらあに任せる言うちょるんじゃ。そんためにはローヤルクラウンはオリンピアから引いてもらわんとのう。

確かに、製造をサービスゲームズに頼る方が売れるタマは飛躍的に多くなる。しかしせっかく作ったローヤルクラウンが活かせないのも惜しい。逡巡するミハイルを見てレメヤーは付け加えた。

レメヤー:じゃが、オリンピアと競合しないところでローヤルクラウンを展開する分には、わしらあは何も言う気はないきに、大東さんが好きに作って好きに売ってもらって結構じゃ。
ミハイル:え? ほんまにええんか? 
レメヤー:もちろんじゃ。ほいでもこの話が飲めんちゅうなら、わしらあは独自に機械作って独自に販売運営するだけじゃき。そうなりゃおまさんらあとは戦争になるじゃろうが、月産80台と300台がケンカして勝負になるろうか、良く考えとおせ。

ジュークボックスでは津上製作所との戦いに勝てた大東貿易だったが、それはウォッカやピーナツベンダーでかねてから付き合いのある飲み屋の存在が大きかった。しかし、オリンピアで目指す市場にはそのような味方はいない上に、今度の相手は自分たちよりも強い力を持つ同業者で、まともに喧嘩しては旗色が悪いことは明らかだ。おまけにローヤルクラウンのコピーは咎めないと言われれば、ミハイルに選択の余地はなかった。

ミハイル:ええじゃろ。わしらのオリンピア発展のために、力を貸してつかあさい。

ミハイルは、レメヤーを刺激しないよう下手に出る言葉を選んだが、オリンピアの主役は自分たちだという主張は忘れなかった。この言葉を聞いたレメヤーは、手を叩いて仲居を呼び出した。

レメヤー:おねえさん。こんな小さい盃じゃ埒明かんき、枡を持ってきとおせ。ふたつ。

仲居が枡を持ってくると、レメヤーは一つをミハイルの卓に置かせた。

レメヤー:わしらあとてオリンピア立役者の大東さんと好んで戦争したいわけじゃないがやき、わかってもらえて今日はまっことえい日じゃ。ほいたら、固めの盃じゃ。

二人は枡に次いだ酒を飲み干した。

レメヤー:ところで合弁会社の名前じゃが、大東さんの尽力に敬意を表して「株式会社オリンピア」でどうがじゃ? もちろん製品名も「オリンピア」で決まりじゃとわしゃ思うちょるが。

レメヤーは最後までミハイルを持ち上げ続けた。こうして株式会社オリンピアの設立は決まり、大東貿易とサービスゲームズのそれぞれの役割も定まった。

(次回第5幕:「仁義なき戦い(エピローグ)」につづく)

方言参考:はだしのゲン(中沢啓治)、とろける鉄工所(野村宗弘)、おーい竜馬(小山ゆう)、仁(村上もとか)

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第5幕:「仁義なき戦い(エピローグ)」
(この物語は実際の出来事を基に創作したフィクションです)

登場人物
・ミハイル:大東貿易の社長。ウクライナ出身。日本語に堪能。
・社員:大東貿易の社員。
・レメヤー:サービスゲームズ社の社長。
・社員D:サービスゲームズの社員。
時期:1965年頃
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ミハイル:諸君、重大な発表をする。サービスゲームズは、ワシらと「株式会社オリンピア」ちゅう合弁会社を作ることを提案してきよったので、ワシはこれを飲んだ。サービスゲームズは作ったオリンピアを合弁会社に納入し、その販売と運営を合弁会社の主にワシらで構成する営業部隊が行うちゅう枠組みじゃ。

一同に驚きと不安が混じったざわめきが起きる。

社員:社長、それは我々がサービスゲームズの支配下に入るということですか。
ミハイル:ワシらとサービスゲームズはあくまでも対等じゃ。大東貿易ちゅうくらいじゃけえ。
社員:ダジャレ言ってる場合じゃないですよ。サービスゲームズは何と言っているんですか。
ミハイル:この話が飲めんようなら戦争じゃと。
社員:上等じゃないですか。津上製作所みたいにやっつけてやりましょうよ。
ミハイル:そういきんなや。津上は機械づくりのプロじゃが、客商売は素人じゃった。じゃけんどサービスゲームズはワシらを上回る営業所網を全国に持っちょる同業者じゃけえ、津上ん時とはわけが違うんじゃ。それに月産80台のワシらが月産300台以上のあいつらとまともに競争して、どれだけ戦えるちゅうんじゃ。
社員:社長は悔しくないんですか? ローヤルクラウンはどうなるんですか?
ミハイル:ワシとて100%満足とはいかん。じゃが、サービスゲームズはワシらが機械をコピーしたことを咎める気はない、オリンピアと競合さえしなければ、今後もローヤルクラウンを好きに作って好きに売ったらええちゅうんじゃ。

サービスゲームズの意外にも寛容な態度にどよめきが起きる。

社員:この話で、我々にどんなメリットがありますか?
ミハイル:サービスゲームズの生産力を以てすれば、ワシらが撃てるタマの数は最初から4倍近くになるけえ、ワシらの販売益も運営益も4倍になるだけじゃのうて、オリンピアの普及も一層はようなる。ローヤルクラウンだけではこうはいかん。
社員:でも、サービスゲームズはなぜこんな提案をしてきたんでしょうね。
ミハイル:サービスゲームズは、ワシがこの話を蹴ることを恐れているんかと思うくらい、最後までワシを持ち上げちょった。おそらく、今後7号の商売をして行く上で警察と接点のあるワシらと喧嘩したくなかったんじゃろうのう。ローヤルクラウンを見逃したのも、それで仁義を切ったことにしたいんじゃろ。
社員:なるほど、よくよく考えれば悪い話ではなさそうですね。
ミハイル:ほうじゃろう。じゃけえ、これからはサービスゲームズを下請けにして儲けさせてもらうつもりでみんながんばってや。
社員:サービスゲームズを下請けか。なんか痛快ですね。

社員の得心を得たミハイル。一方、サービスゲームズでは。

レメヤー:大東貿易は、オリンピアで協業するわしらあの提案を飲んだぜよ。これでわしらあが作ったオリンピアを勝手に売ってくれる手足ができたがじゃ。
社員D:我々に経験のない7号市場の開拓に手を焼くことがなくなったということですね。
レメヤー:ほうじゃ。それだけじゃのうて、まだ海のものとも山のものともつかないこのオリンピアが例えヒットしなかったとしても、損失は太東貿易と折半できるがじゃ。まっことありがたいことぜよ。
社員D:しかしローヤルクラウンまで譲らなくても良かったんじゃないですか? ロイヤリティくらい取っても良かったと思うんですが。
レメヤー:販路を持たないあいつらあじゃあどうせ売れんき、ロイヤリティなんぞ取ってもたいした儲けにゃならんぜよ。
社員D:そうですかね。よほど安ければ買う人もいるんじゃないですか?
レメヤー:わしらあのコピーを型から何から全部新規におこして月産80台じゃあ、赤字承知のダンピングでもせんことにゃ安うできる余地なんぞありゃせんが。
社員D:それにしても、もう少し締め上げても良かったようにも思うんですが。
レメヤー:おんし、わかっちょらんのう。交渉ちゅうんは相手に利益があると思わせるのが上策じゃ。わしらあにとっちゃこんまいローヤルクラウンの利益を放棄するちゅうただけで、あいつらあ涙を流さんばかりに喜んで従ってきたがじゃ。
社員D:ローヤルクラウンと言うエビで鯛を釣ったってことですね。
レメヤー:そういうことじゃ。わしらあにとってはメリットの大きいこの話も、あちらあは別に損をしたと思っちょらん。これが交渉の極意よ。
社員D:なるほど。でも、オリンピアが大ヒットしちゃったらちょっと惜しい気はしますね。
レメヤー:そうなったらわしらあで独自にオリンピアを販売運営すればいいだけじゃ。別にわしらあがやっちゃいかんとは決めちょらんきにの。

こうして株式会社オリンピアは立ち上がったが、なぜかその活動の詳細は後世にあまり多くは伝わっていない。初代のオリンピア機こそ株式会社オリンピアの名で頒布されたフライヤーが残っているが、その後に発売された「ニュー・オリンピア」と「オリンピア・マークIII」は、筐体にこそ株式会社オリンピアのエンブレムが掲示され続けたが、タイトーは「太栄商事」、セガは「セガ・エンタープライゼス」としてそれぞれ独自に販売、運営を行っていたように見受けられる。

オリンピア機が現場で稼働したのは1960年代後半から1970年代後半の10余年に過ぎなかった。その後の回胴式遊技機は新要件機の「ジェミニ」(関連記事:「アメリカンパチンコ」・ジェミニ)に引き継がれ、以降現在のパチスロに至る。

1968年、タイトーはローヤルクラウンを米国に向けて売り出そうとしていたが、広く普及したという話は聞かない。現存するローヤルクラウンは、海外のコレクターからセガ製、またはミルズ製と誤解されているケースも見られる。

最終回「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(5):ファクトチェック」につづく。

方言参考:はだしのゲン(中沢啓治)、とろける鉄工所(野村宗弘)、おーい竜馬(小山ゆう)、仁(村上もとか)