オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

「三共」についての備忘録(2) 三共遊園設備のAM機(前半)

2023年02月26日 17時09分25秒 | メーカー・関連企業

今回も前置きから始まります。前回の記事で、「(三共遊園設備と三共精機は)事業をどう切り分けていたのか」と述べました。その後いろいろと可能性を考えてみたところ、

①1958年設立の三共ベンダーは1970年以前にその社名を三共遊園設備に変更して、遊園地の運営と機械の開発の両方をこなしていた。

②三共遊園設備は1971年に分社し、新会社「三共精機」に開発と販売事業を委譲、三共遊園設備はオペレーション事業に集中するようになった。

と考えれば、三共精機以降に三共遊園設備の名前がAM機ビジネスから消えたことの説明になりそうだと気づきました。分離前後の資料が不足しているので想像の域を出ませんが、とりあえずたぶんこうだったんじゃないかと考えておくことにします。前置きは以上です。

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三共遊園設備がどれだけの娯楽機を開発したのかは不明です。ワタシの手元にはいくつかのフライヤーがありますが、それで全てを網羅しているわけでは(当然)ないとは思います。それらのフライヤーのほとんどはいただきものですが、今回は広く情報を募るために使わせていただきます。ご高覧くださっている皆さんに、「これ、いつごろ、どこで見た!」とか、「こんな機種もあったよ!」などの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひともコメント欄でお知らせください。

【1】ソーナーアタック(時期不明)

ソーナ―アタックのフライヤー。5発の魚雷が撃てるとある。「姉妹品の射的セット ソーナーアタック」も気になるが、これも資料がない。

はて、これは・・・? 「さとみ」(現サミー)も、同名でしかも形状がよく似たゲーム機を1968年に出しており、ワタシがリアルタイムで見たのはどちらだったのかはわかりません。

さとみのソーナーアタック。三共遊園設備のものと非常によく似た印象を受けるが、こちらは魚雷を8発撃てるようだ。

フライヤーには3P用の筐体の画像もあり、これなどは中村製作所(後のナムコ)とセガが製造していた同名のゲーム機「ペリスコープ」(関連記事:コインマシンメーカーの老舗と「ペリスコープ」の話)にそっくりです。まったく、魚雷で敵戦艦を撃つゲームには人を混乱させるものが多くて困ります(関連記事:1960年代のTAITO(3):追加情報その1)。

【2】ねずみ退治(1970年以前)


ねずみ退治のフライヤー。

右から左に高速で移動するねずみの人形をバーで叩くゲームです。ベルトコンベアの左右にはダミーのねずみがいて、顔を出したり引っ込めたりとフェイントをかけてきます。ワタシはこの機械をデパートの屋上遊園地のゲームコーナーなど様々な場所で見ています(ただしボウリング場では見た覚えがない)が、その時期を特定できません。「特許」「意匠登録」の文字があるので過去の特許文書を見ればわかるかもと思って調べてみましたが、見つけることができませんでした。

しかし、ねずみ退治は1970年の大阪万国博覧会での遊園施設「エキスポランド」に設置されており、少なくとも1970年以前の機械であることは確認できます。プレイフィールドの背景に描かれているキッチンには2ドアの大型冷蔵庫にオーブン付きのコンロが見えますが、これは70年代以前のものにしてはモダンで豪華すぎます。

フライヤーより、筐体部分の拡大図。当時これだけのキッチンを持つのは間違いなく富裕層だった。

ところで、このねずみ退治で使われているねずみの人形と、レトロなガンゲームとして比較的有名な「チューハンター」で使われているねずみは、ひょっとして同じものではないかとずっと思い続けているのですが、どうなんでしょう。

【3】アストロファイター(1970年)

アストロファイターのフライヤー。

アストロファイターも、ねずみ退治と共に第9回アミューズメントマシンショウに出展されていた機種ですが、こちらは全日本遊園誌71年1月号に「新発売」として広告が打たれているので、発売時期が特定できます(関連記事:第九回アミューズメントマシンショウ(2)出展機種画像1)。

ワタシはこの機械をロケの現場で見ているかどうか、記憶が定かではありません。しかし、操作系に自転車のハンドルを流用している機械には覚えがあり、それがこれだったのかもしれません。

【4】ミニボクシング(1970以前)

ミニボクシングのフライヤー。

ミニボクシングも、上述「ねずみ退治」同様どこでも見かける機械でした。ボクサー像は左右にウェービングしており、正面に来たタイミングでハンドルを倒してパンチを繰り出します。この機械も大阪万国博覧会での遊園施設「エキスポランド」に設置されました。

次回ご紹介する「ボクシング」の筐体には、このボクサー像と同じボクサーが描かれています。

【5】アニマル7(1970以前)

アニマル7のフライヤー。

アニマル7はガンゲームです。これもまた大阪万国博覧会での遊園施設「エキスポランド」に設置されていたそうですが、ねずみ退治やミニボクシングのようにどこでも見られたものではなかったように思います(ワタシが気づいていなかっただけの可能性も高いですが)。ワタシは、1970年前後頃に武蔵小山のアーケード商店街にあったゲームセンターで見たのが唯一の経験です(この武蔵小山のゲームセンターについても、いつ頃からいつ頃まであったのか、どこがオペレートしていたかなど情報を求めております。ご存じの方がいらっしゃいましたらぜひお聞かせください)。

標的は水の中にいるという設定で、客待ち中にはプレイフィールドに無数の泡が立ち上っていました。ゲームが始まると泡は止まりますが、標的に命中した時にも泡が立つ演出が行われました。水を使った演出はこの時代には大変珍しい(と言うか、今も珍しい)ものだったので印象に残りましたが、実は標的は水の中にいるわけではなく、銃と標的の間に水槽があって、状況に応じて泡を発生させているだけであることに気づいたのはずっと後になってからのことでした。

(次回「三共遊園設備のAM機その2」につづく)


「三共」についての備忘録(1) 三共以前の三共

2023年02月19日 19時40分31秒 | メーカー・関連企業

AM機メーカー/オペレーターの「三共」の始まりは、1959年に設立された「三共ベンダー」であるとのことで、時期的には関西精機中村製作所(後のナムコ)らと共に、戦後日本におけるAM産業を支えた功労者の一つに数えられてしかるべき企業と言えるのではないでしょうか。

で、あるにもかかわらず、現在、この「三共」の名をAM産業の文脈で目にすることはめったにありません。これは全く不当なことだと思うので、ここはひとつ三共をリスペクトしておきたいのですが、そう言うワタシも実はこの会社について多くのことを知りません。ついては、今回はこの「三共」について調べたことを記録しておこうと思います。

なお、「三共」は非常にありふれた商号で、ネット上を検索すると、同名だが無関係なパチンコ機メーカーを筆頭に同名他社などノイズ情報が星の数ほどヒットします。以下で単に「三共」と言った場合は、特に付言がない限りそれはAM機メーカー/オペレーターの「三共」を指すものとします。

三共が1970年代後半に頒布した総合カタログの表紙。この劇画調で描かれた女性の顔は、三共の広告に良く使用されていた。

************* 前置き終わり。これより本文。 *************

過去のAM業界関連企業の中には、「三共遊園設備」や「三共精機」の名前が出て来ます。ゲームマシン76年11月1日号は、これらは1971年に分離独立したもので、さらに1976年に両社が合併して「三共」となると報じています。

ゲームマシン76年11月1日号の、三共遊園設備と三共精機が合併して三共となることを報じている記事。

この記事では、「分離独立」した年を1971年としています。しかし、1970年時点の業界誌「全日本遊園」誌の11月号では、第9回アミューズメントマシンショウの出展社として「三共遊園設備」が紹介されています(関連記事:第九回アミューズメントマシンショウ(2)出展機種画像1)。これはひょっとすると、「三共ベンダー」は1970年以前に「三共遊園設備」に社名を変え、そこから1971年に「三協精機」がスピンオフした、と言うことなのかもしれません。

それにしても、どうも三共遊園設備と三協精機の関係がよくわかりません。現在ワタシの手元にある僅かなフライヤー(ほとんどは頂き物)も、両社はそれぞれ全く異なる製品をそれぞれの社名で発表しており、てんでんばらばらに活動しているように見受けられます。いったいこの両社は事業をどう切り分けていたのでしょうか。

上が三共遊園設備が頒布した「ねずみ退治」のフライヤーに記載されてる所在地、下が三共精機が頒布した「アタックNo.1」のフライヤーに記載されてる所在地。本社と大阪営業所までは同じだが、三共遊園設備の第一工場の所在地が三共精機の工場と同じで、また三共遊園設備のみ第二工場の記載がある。

ゲームマシンの記事には「合併」とあるのですから、ある時期において三共遊園設備と三協精機が同時に存在していたことは間違いないのだとは思います。しかし、アミューズメント誌1972年11月号に掲載されている、同年に開催された第11回アミューズメントマシンショウの出展社一覧には三共精機の名前しか掲載されていません。

アミューズメント1972年11月号より、第11回アミューズメントマシンショー出展会社一覧の部分。ここには三共精機の名はあるが、三共遊園設備の名はない。

三共遊園設備の製品は三共精機の製品に比べてなんとなく古く見えるものが多いように思います。三共精機の方が後から発足しているのであればそれも当然なのかもしれませんが、それにしても1972年以降の資料に三共遊園設備の名前が確認できるものがみつかりません。両社は並行してゲーム機を開発していたのでしょうか。合併以前の資料があまりにも少なく、結局のところ真相はわかりません。現時点で判明していることをまとめて、今回の締めくくりとします。

1959年 三共ベンダー設立
1970年 第9回アミューズメントマシンショウに三共遊園設備が出展。出展機種は、「アストロファイター」、「キックボクシング」、「ねずみ退治」、「ミニボクシング」。
1972年 第11回アミューズメントマシンショウに三共精機が出展。出展機種は「ビッグハンター」。
1976年 三共遊園設備と三共精機が合併、三共となる。

次回は頂き物のフライヤーを中心に三共遊園設備と三協精機の機械をご紹介する予定です。比較的年配の方には、百貨店の屋上遊園などで見かけたものが出てくるかもしれません。

(つづく)


1976年の業界誌から、謎のメダルゲーム機4つ

2023年02月12日 19時10分51秒 | スロットマシン/メダルゲーム

ワタシは、戦後以降の日本のゲーム場に設置されていたゲーム機であれば、たいていは実際に遊んだか、もしくは見た記憶があるか、最低でも何かの資料で知見を得ていると思っていたのですが、ときどき古い資料に全く知らないゲーム機が出てくることがあります。

未知のゲーム機があること自体はさほど驚くものではありませんが、その素性が何もわからないのが癪で、少なくともそれがいつ、誰が作ったのかだけでも知りたくなります。

今回は、アミューズメント産業76年4月号に掲載されていた写真から、そのような謎のメダルゲーム機を4機種をとり上げます。もし、ご高覧くださっている方々の中でこれらについて何かご存じのことがございましたら、コメント欄にてご教示いただけますと大変ありがたく存じます。

その1:ヤッジィ(YATZY)

日比谷のセガロケ「ゲームスポット日比谷」の店内とされる写真に写る「ヤッジィ(YATZY)」。アミューズメント産業76年4月号10ページより。

「ヤッジィ」は、6個のダイスを使ったゲームのようです。似たようなゲームに「ヤッツィー(Yahtzee)」があるので、てっきりその商標逃れのネーミングかと思いましたが、念のため調べたところ、ウィキペディア英語版に「(ヤッジィは)ヤッツィーとは似ているが異なるゲームなので混同しないように」と述べられていました。同記事の他言語版にはデンマーク語、ノルウェー語、フィンランド語、スウェーデン語と北欧の言語ばかりが並んでいるので、この機械はヨーロッパ製なのかもしれません。

ウィキペディア英語版の遊び方の説明を読むと、ゲームの進行はヤッツィーと良く似ており、これをエレメカで実現するのは結構大変そうです。1976年ともなればゲームの電子化が進んでいるので、この「ヤッジィ」もおそらくSS機なのだとは思います。思考と運のゲームとして「COOL 104」のような楽しみ方ができそうで、やってみたかったゲームではありますが、ワタシはこの機械をロケで見たことが無いし、他の資料でも見たことがありません。どなたかこの機械にご記憶のある方はいらっしゃいませんでしょうか。

【2023年2月14日追記】セシリアさんよりコメント欄にてYoutubeにプレイ動画があるとの情報をいただき、これにより「ヤッジィ」はデンマークの「CompuGame」というメーカーによるものであることが判明しました! セシリアさん、本当にありがとうございました!!


その2:DOUBLE OR NOTHING

こちらも前述ヤッジィと同じく日比谷のセガロケ「ゲームスポット日比谷」の店内とされる写真に写る「DOUBLE OR NOTHING」。アミューズメント産業76年4月号11ページより。

ゲームのタイトルとゲームの面から、ゲーム性自体は1975年にセガがリリースした「マッチマップ」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(1) マッチマップ(Match'em Up, SEGA, 1975))と同様のものに見受けられます。

ゲーム面の拡大図。明るさとコントラストを調整すると、かろうじて「64、32、16、8、4」と描かれていることがわかる(赤枠内)。

「マッチマップ」が出た後、その類似品として「ビッグチャンス」というゲーム機も出ましたが、どちらも1人用のアップライト筐体でした。しかし「DOUBLE OR NOTHING」は3席が繋がっており、しかもプレイヤーは椅子に座ってプレイする筐体になっています。このゲームは「マッチマップ」の影響を受けて作られたのか、はたまたまさかマッチマップの元ネタだったりするのでしょうか。一体誰がいつ作ったのでしょうか。

【2023年2月14日追記】kt2さんよりSNSにて「Double or Nothingは1975年のセガ製で、同年のMatch'em Upよりは後発みたい」との情報をいただきました。1977年のセガのプライスリストを確認すると、「SEGA Double Up セガ・ダブルアップ」の記載がありました。画像はなく、人数の記述もありませんが、ゲームスポット日比谷がセガロケであることや、マーキーのデザインがいかにも日本的であるところから、これでおそらく間違いなかろろうと思われます。本当にありがとうございました!!

1977年に頒布されたセガのプライスリストに「SEGA Double Up」が掲載されている。

【2023年2月15日訂正】14日の追記で示しているのは、「DOUBLE OR NOTHING」ではなく、「Double Up」でした。「Double Up」については、2018年3月21日にアップした記事「初期の国産メダルゲーム機(2) ダブルアップ / スピナコイン」で触れておりますので、「DOUBLE OR NOTHING」とは異なるものであることをご確認いただければ幸甚です。つきましては、Double Upに関する部分を削除して訂正いたします。つい焦って混同してしまいました。申し訳ありませんでした。

その3:SUPER TROPICANA

池袋のタイトーロケ「ラッキープラザ ロサ」の店内とされる写真に写る「SUPER TROPICANA」。アミューズメント産業76年4月号18ページより。

一見したところ、米国Bally社の「Super Continental」に見えます。しかし、フロントドアのリールウィンドウ左右の部分に曲線が用いられており、異なる筐体です。

Ballyの「Super Continental」。フロントドアのリールのウィンドウを取り巻く部分は直線で構成されている。

「SUPER TROPICANA」のアートワークはBallyの「Super Continental」とはずいぶん異なりますが、この部分は後から交換することは容易です。しかし、フロントドアはそうはいきません。つまりこの「SUPER TROPICANA」は、誰かがBallyの機械をコピーしたものと強く推察できます。ただ、だれがそれをやったのかと言うと、これが全然見当が付きません。

Ballyのコピーと言えば、セガが1974年前後に何機種か作っていますが、そのフロントドアも「SUPER TROPICANA」とは異なっており、セガ製ではなさそうです。

セガのBally製品のコピーのひとつ。フロントドアの、リール窓下部分のデザインは、Ballyのものとも「Super Continental」とも異なる。

そもそも、タイトーのロケにライバルのセガ製品が設置されるとも考えにくいです。とすると、「SUPER TROPICANA」はタイトーが作ったのかと考えたくもなりますが、この頃のタイトーのフライヤーや業界紙の記事、広告でこのようなスロットマシンが掲載されているものを見たことがありません。一体、どこのだれが作ったのでしょうか。

なお、この「SUPER TROPICANA」は、1976年1月20日に放映されたTVドラマ「大都会 -闘いの日々- 第3話「身がわり」」の一シーンに登場していたとTwitterで教えてくださる方がいらっしゃいました。こちらでは部分的ですがカラーで見ることができます。

その4:SUPER BINGO

SUPER TROPICANAに続き、こちらも池袋のタイトーロケ「ラッキープラザ ロサ」の店内とされる写真に写る「SUPER BINGO」。アミューズメント産業76年4月号17ページより。

これもBallyの筐体のようにも見えますが、これまでに見聞したBallyのスロットマシンでこのようなものはありません。Ballyの「Bingo Continental」(関連記事:「Continental Bingo」(Bally, 1972) 」の検証(1))もビンゴをテーマとしますが、それとは全く異なるゲームのようです。日本のメーカーがコピー機にこれだけオリジナリティを持たせるとも考えにくく、おそらくは海外の製品だと思うのですが、それ以上は全く見当が付きません。どなたかご存じありませんでしょうか。


前回記事「謎のピンボール『Fathom (Bally, 1981)』」の後日談

2023年02月05日 21時14分32秒 | ピンボール・メカ

前回の記事「謎のピンボール『Fathom (Bally, 1981)』」で、「Fathomなんて記憶にない」、「ひょっとすると日本には輸入されていないのかも」などと述べたところ、二名の方より「日本にもあった」と教えていただきました。どうもありがとうございました。そしてお二人のお話では、設置されていたのは片や大阪のナムコランド、片や東京のプレイシティキャロットと、どちらもナムコのロケだった点で一致していました。

海外製品のディストリビューターを兼ねる大手メーカーがオペレートするロケでは、設置する機械の大部分を自社で取り扱う製品で固めるのが通例です。ワタシに見た覚えがなかったのは、Fathomはナムコがディストリビュートしており、セガやタイトーは自社ロケに導入しなかったからなのかなあと思うことで納得しておこうと思います。

なお、IPDBによれば「Fathom」がリリースされたのは81年8月とのことなので、1981年のAMショウ(81年10月開催)以降82年8月までに製造、販売、発表された機種を収録している「遊戯機械総合年鑑’82」に掲載されていてもおかしくはないものです。

遊戯機械総合年鑑’82のピンボールのページ。この中に「Fathom」はない。

折からのビデオゲームブームの影響か、遊戯機械総合年鑑’82には、ピンボールはわずか2ページ、8機種しか収録されていません。そしてワタシはこれら8種のピンボール機を(当然ながら)すべてどこかで見た覚えがあるというのに、よりによって「Fathom」だけがワタシの意識から避け続けていたのは、まったく狐につままれた思いです。

ところで、前回の記事で掲載した画像はCaitlynが送ってくれたものですが、多くの人が写っていたので「Fathom」の部分のみ切り取っていました。しかしその後Caitlynから、こちらならブログに掲載しても構わないとして、人が写っていない現場の画像を送ってくださいました。

Caitlynから送られてきた画像その1。左から「Flicker (Bally, 1975)」、「Card Whiz (Gottlieb, 1976)」、「Solar Ride (Gottlieb, 1979)、「Bobby Orr Power Play (Bally, 1978)」、そして「Fathom (Bally, 1981)。

Caitlynから送られてきた画像その2。左から「Dixieland (Bally, 1968)」、「Icarus (Recel, 1977)」、「Fathom (Bally, 1981)」、「Quicksilver (Stern, 1980)」、「Eight Ball De Lux (Bally, 1981?)」

ワタシはランプレーンや多階層を多用する機種よりも平面的なフィールドを好むので、ここにある機種はどれも大変魅力的に見えます。そして、よりによってワタシが知らなかった「Fathom」が2台もある意味が不明ですが、ここでプレイができるCaitlynが大変羨ましいです。