1977年のセガのプライスリストの記録第4回目は、その7ページから9ページ、及び12ページの、エレメカ関連です。例によって推奨サイズでなるべく大きく表示できるよう、各ページは上下に二分割しています。
7ページ。エレメカ機の価格一覧。このころは製品寿命が今よりも格段に長く、古いものでは60年代から販売されていた機種も複数見受けられる。
8ページ。下段の「セガ・カウボーイ」には、「このゲーム機で『タイミングゲーム』という新ジャンルを開拓」とある。ワタシは一度か二度遊んだ記憶があるが、どうすればよいのか、ゲームの要領が全く分からなかったが、タイミングゲームだったのかと今にして思う。姉妹機とする「セガ・ラウンドアップ」との違いは良くわからない。
9ページ。百貨店の屋上などにはよく「走行型乗物」が設置されていたものだったが、セガがこのジャンルにも手を出していたのは意外に感じる。その技術がのちの「体感ゲーム」に活かされたかどうかは定かでないが、少なくとも大型ハードの設計ができるという企業文化的な下地にはなっていたのではあるまいか。
12ページ。7号(現4号)対象機と、サードパーティー製と思しき機器。オリンピア期は、フルーツシンボルを採用していた「ゴールデン・スター」が掲載されている。筐体画像の「OLYENTAL」は、価格表の方は正しく「Oriental」と表記されているので、ミススペルであろう。
当時のAM業界と言えば、既にビデオゲームが台頭してきてはいましたが、AM市場のコンテンツとしてはまだエレメカ機の方が若干優勢だったように思います。1977年に開催された第15回AMショウに出展された遊戯機器を収録する「遊戯機械総合年鑑’78(全日本遊園協会出版局)」を見ても、「アーケードゲーム」の方が「ビデオゲーム」よりも先の掲載順で、掲載されている機器の点数も多いです。
今回は少し気になった二点を拡大しておこうと思います。一つ目は「パール・デンキ」と冠された「エアーファイト」です。
エアーファイトの筐体。
見たところビデオゲームのようです。ワタシもひょっとすると当時のゲーセンで見ていた可能性は感じますが、自信はありません。それよりも、「パール電気」がナニモノなのかがたいそう気になります。どなたか、この機械についてご存じのことがございましたらご教示いただければありがたく存じます。
もう一つは、二つの「ファイブスター」です。
「ファイブスターQ」(左)と「ファイブスター96」(右)
ワタシが知る限り、「ファイブスター」を名乗る機械は、この2機種以外にもう一つ、「ファイブスター」があります。「ファイブスター」と「ファイブスターQ」はどちらもプライズ機で、ワタシもリアルタイムで見た記憶がありますが、それがどちらであったかは記憶にありません。何しろ、とても景品が獲得できそうには思えないゲームだったので、プレイしたことがないのです。ファイブスターQは、タイマーを取り付けて一定時間以内なら何度でもやり直せる仕様に変更したもののようですが、やはりワタシの印象通り、めったに勝てない機械だったのではないでしょうか。
画像右の「ファイブスター96」は、説明によればオリンピアと同様の風営7号対象機のようです。盤面は「アレンジボール」(関連記事:シリーズ絶滅種:アレンジボールを記憶に留めておこう)に似ていますが、カードは3個あります。ワタシはこの機械を見たことがなく、どのようなゲームであったか見当がつきません。こちらについても、何かご存じの方がいらっしゃいましたらご教示いただけますようお願い申し上げます。
さて、今回は1977年のセガのプライスリストより、ジュークボックス関連の部分です。ページでは、13ページから15ページになります。
ジュークボックスは、音楽というソフトウェアを再生するための汎用筐体に過ぎないもののはずですが、そのデザインは趣向を凝らしたものが多く、米国ではコレクションの対象となっています。ビデオゲームにも多くの汎用筐体がありますが、こちらはオールドゲームの再生環境としての実用性の意味が強く、筐体自体の収集性はジュークボックスほど高くはないように思われます。


13ページ。米国ロッコーラ社のジュークボックスが並ぶ。値段は18万円から102万円と幅広いが、どこでこれだけの値段差が出るのだろうか。ピンボールの場合、型落ち品が新製品時より格段に安く提供されているように見受けられるが、これもそういうことだろうか。


14ページ。代表的と思しき機械の画像が並ぶ。左下の453とその右の454の」キャビネットはほぼ同じに見えるが、453は100曲、454は160曲対応とのことで、値段も59万円と84万円と、25万円もの差がある。


15ページ。セガを訪れたという当時のTVスターが紹介されているページの左下脇に、ゲーム機に取り付ける「メダルアウト・アダプターボックス」なるものがひっそりと混ぜられている。ゲームを現金ではなくメダル(トークン)でオペレートするという趣旨の設備に見えるが、1990年前後に業界で流行りかけた、メダルゲームのメダルでAMゲーム機を遊ばせることを意図するシステムと同じコンセプトであったかどうかはわからない。そのような営業方式はメダルに遊技媒体を超える価値を与えるということで、警察からやめるよう業界に指導が入り、比較的あっさり姿を消した。
70年代、レコードの売り上げは歌手の人気を計る重要な指標で、ジュークボックス市場と歌手は互いに持ちつ持たれつの関係にありました。そのため、TVによく登場する人気歌手が、ジュークボックス市場を握るセガを訪れて、その営業に協力するということがよくあったそうです。
このプライスリストでは「新沼謙治(敬称略、以下同)」、「ゴールデン・ハーフ・スペシャル」、それに今や大御所の「八代亜紀」の各アーティスト(今風に表現してみましたが、しっくりきませんね)が登場していますが、他の年のプライスリストでもまた別のスターが紹介されています。

「おもいで岬」で昨年デビューした新沼謙治。歌唱力が抜群なら”訛り”もまた抜群、快調にスター街道を走っているようです。

平均年齢19.5才、若さいっぱいのゴールデン・ハーフ・スペシャル。以前、同じ名前の人気グループがいましたが、あの人気を凌ぐことができるかどうか注目されます。

浮沈の激しい歌謡界にあって、相変わらず人気の衰えをみせない八代亜紀。ジュークボックスには欠かせない一人です。
ワタシは今も昔も芸能界というものに暗いのですが、あの時代はTV、ラジオ、雑誌などから、好むと好まざるとにかかわらずなにがしかの芸能情報が入って来る機会が多く、今も現役で活躍されている新沼謙治、矢代亜紀のお二人のお名前を何かのきっかけで聞くようなことがあると、あの時代が懐かしく思い出されます。
今回は、昭和52年(1977年)にセガが頒布したプライスリストの第2回目、表紙と会社案内系の後半で、ページとしては18、19、それに裏表紙となります。推奨サイズでなるべく大きく表示できるように、例によって各ページの画像は上下に2分割にしています。
18ページ目。ゲーム機の運用例として、リゾートホテル、カクテルラウンジ、ゲームセンター、メダルゲーム場の4種が提示されている。
このプライスリストが頒布された1977年5月は、まだインベーダーブームが発生する前のことで、ゲームが設置されるところと言えばボウリング場や商業施設などの付帯施設である場合が多く、独立したゲームセンターはそれほど多くなかった時代です。
19ページ目。日本国内の事業拠点の地図。関東、東海、近畿関西に多く見られる。
田中角栄が「日本列島改造論」をブチ上げたのは、この5年前の1972年でした。当時は地方には産業が少なく貧しいところが多かったので、交通や情報インフラの整備で富の流れを東京一極集中から地方に分散させようとするこの日本列島改造構想自体はあって然るべきものだったと思います。しかし、この地図を見る限り、1977年時点ではまだその改造はそれほど進んでいなかったように見えます。
とは言え、60年代半ばには全国15カ所しかなかった営業所(関連記事:セガ・エンタープライゼス@1966)がここまで増加しているところを見ると、着実に発展していることがうかがえます。
裏表紙。
(文面)
世界のオペレーターに喜ばれる
セガ・アミューズメント・マシン
株式会社セガ・エンタープライゼス
本社 東京都大田区(以下略)
関西支店 大阪府豊中市(以下略)
博多支店 福岡県福岡市(以下略)
札幌事務所 札幌市中央区(中略)札幌公楽会館内東宝札幌ゲームセンター(以下略)
森岡事務所 盛岡市下太田(以下略)
名古屋事務所 名古屋市千種区(以下略)
広島事務所 広島市西川口町(以下略)
さて、今回は18ページ目の各画像を拡大してみようと思います。
リゾートホテル
左手前、3人のご婦人がのぞき込んでいるのは「ハーネスレース(SEGA, 1974)」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(3) 競馬ゲームその1・ハーネスレース(セガ、 1974))。
その背後の壁沿いに見えるアップライトの筐体は、左から順に
「エア・アタック(セガ、1972)」
「フォックス・ハント(セガ、1974)」
不明
「コンバット(セガ、1969)」
です。「フォックス・ハント」は、2P同時プレイが可能なガンゲームでした。また、「コンバット」は、戦車を操作して敵の戦車やヘリコプターを撃つというものですが、操作系はボタン付きの操縦桿なので、ガンゲームと呼んで良いのかどうかはよくわかりません。
それら壁沿いのエレメカ機とハーネスレースの間にビルボードだけ見えているのは、拙ブログでは取り上げたことがない「プント・バンコ(セガ、1975)」というメダルゲームです。
中央の、車のハンドルのようなものが付いている機械は4P同時プレイ可能なドライブゲーム「スパークリング・コーナー(セガ、1976)」(関連記事:ポパイ@1979年(2):その1・ビデオゲーム)、その右がボクシングテーマで2P対戦可能の「ヘビーウェイトチャンプ(セガ、1975)」です。セガの機械しか並んでないように見えるところから、セガが請け負っているゲームコーナーなのでしょう(2021.11.06追記:自社のフライヤーに掲載するのだから当然でしたね)。
ラウンジ
当時の飲み屋は、ジュークボックスの一大市場でした。ここに見えるのは、前回にも登場した米国ロッコーラ社の「464」です。
ゲームセンター
左手、エアホッケーは、サイドネットから「スピードホッケー(セガ、1973?)」だと思われます。
両替機の向こうには「オリンピア・マークIII」(関連記事:オリンピアとワタシの関わりの記録)が見えるので、向こう側にはメダルゲームコーナーがあるものと思われます。
オリンピアの右手、壁沿いにある5台のフリッパー・ピンボールは、左から
「サーカス(Bally, 1973)」
不明
「カーニバル(セガ、1971)」
「スーパースター(Williams, 1972)」
不明
です。77年のカタログに掲載されるには少々古い機種が多いですが、それだけフリッパー・ピンボールは製品寿命が長いということなのかもしれません。なお、右側に見えるフリッパーの列のうち、最も手前にあるのは「デルタ・クイーン(Bally, 1974)」で、この中では幾分新しい機種です。
この他に、ヒトには感情、体調、知性の波があると称して70年代に流行した「バイオリズム」を測定する機械「バイオリズム(セガ、70年代前半)」が、中央奥に見えます。
メダル・ゲーム場
最も手前の見切れている機械はわかりません(スキル・ディガか?)が、チェックのシャツの男性が向かっているのは「グループビンゴ(セガ、1975)」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975))です。
その向こうのハーネスレースの右には「マッチマップ(セガ、1975)」(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(1) マッチマップ(Match'em Up, SEGA, 1975))が2台、さらに奥には「ファロ(セガ、1974)」(関連記事:初の国産メダルゲーム機の記憶)などがあります。
さらにその奥に見えるスロットマシン類は、ほとんどが米国Bally製のように見えます。
(次回「ジュークボックス系のページ」につづく)
https://blog.goo.ne.jp/nazox2016/e/8d746e0b1ce5a93258fd661ad9103d46
の中で、77年当時のセガのピンボール製造ラインに写っている機種が謎であると述べました。

問題の箇所。
上記画像のキャプション部分で言及しているWilliamsの「Satin Doll」のバックグラスはこんな感じです。

Williamsの「Satin Doll」のバックググラス。画像は「Internet Pinball Database」より。
あまりに癪なので、記事投稿後にあちこち調べてみたところ、ピンボール製造ラインの画像に写っている機種は、スペインSEGASA社製の「Baby Doll」という機種であることが(結構あっさりと)判明しました。

スペインSEGASA社の「Baby Doll (1975)」のバックグラス。この画像も「Internet Pinball Database」より。Williamsの「Satin Doll」を下敷きにしたアートワークであることがわかる。
昨年8月にアップした記事「【小ネタ】SEGASA (AKA Sonic)とSEGAの関係メモ」で述べている通り、SEGASA社は、米国Williams社の親会社が大株主であったなどWilliamsと縁があったそうです。そのため、SEGASA社はWilliams社のコピーのような製品をいくつも売り出しており、この「Baby Doll」もその一つなのでしょう。Internet Pinball Databaseの記事をよくご覧いただければわかりますが、「Baby Doll」のエプロンには「Sonic」の商号ではなくWilliamsのトレードマーク(関連記事:ピンボールのアートワークの話(3):ジェリーとクリスのその他の仕事&資料・その1)が描かれていますが、バックグラスには「Sonic」のロゴが描かれており、おそらくはSEGASAがSonicを名乗りだした初期のことであると推測されます。
謎が解明するのはうれしいものです。これで今晩はよく眠れると思います。それでは、お休みなさいまし。
というのはどうでもいいとして、今回は、昭和52年(1977年)にセガが頒布したプライスリストをご紹介いたします。このプライスリストは全20ページあるので、今後何回かに分けてのご紹介となります。
分けるにあたっては、単純にページ順では掲載順が分散するジャンルがあるので、以下のようにジャンルごとに分割いたします。
第1回:表紙と会社案内系のページ(その1)
第2回:表紙と会社案内系のページ(その2)
第3回:ジュークボックス系のページ
第4回:エレメカ系のページ
第5回:ビデオ・メダル系のページ
第6回:ピンボール系のページ
今回は第1回として、表紙と会社案内に関する部分の前半をご紹介いたします。なお、各画像は、ブログのシステムが推奨するサイズでなるべく大きく表示するために、上下に二分割しています。


セガが1977年に頒布したプライスリストの表紙。昭和52年(1977年)5月1日の発行で、発行日から有効と書かれている。


プライスリストの1ページ目。ここに見える「東京・本社全景」は、現在は更地となり、「本社新館」は集合住宅になっている。
(文面)
アミューズメント機器・施設のトップ企業体
セガは業界随一の規模と歴史をもつ、ゲームマシン、ジュークボックスなど、アミューズメント機器の総合企業です。また、レジャー・ランド、アミューズメント・センターの企画・設置・運営もおこなっております。アミューズメント機器・施設のことなら、すべてセガにおまかせください。


2ページ目。工場内の製造ラインが紹介されている。
(文面)
20数年前、この産業の揺籃期に、現在の繁栄を予想し得た人が何人いたでしょう・・・・・・。 しかしその時、ごく少数の人が、明日の発展を確信し、新しい産業の種を蒔きました。
現在1200億円産業と言われるほど見事に開花した、このアミューズメント産業を育み、新産業として市民権を得させたのは、弊社セガ・エンタープライゼスに他なりません。
メーカー、ディストリビューター、オペレーター、そしてインポーター、エクスポーターとしてのセガの一挙手一投足は、業界に様々な影響をもたらします。それだけに、強大な責任もまたセガの双肩にかかってくることは、言うまでもありません。
全国130カ所の営業。販売拠点、全国50カ所の直営ゲームセンター、全世界42カ国などを通して収集された情報は、すべて的確に清算書機構に反映し、高品質、高収益性で定評あるセガ製品となって、市場にお目見えするのです。
そして、全国130拠点、300車両による営業・販売活動は、いつ、いかなる状況下においても、お客様の要求度に100パーセント応えるべく、たえまなく持続し、展開し続けております。
セガは次の世界各社の日本におけるディストリビューターです。
株式会社ロックオーラ―製作所(米国)
アメリカン・シャッフルボード株式会社(米国)
ウイリアムズ・エレクトロニクス株式会社(米国)
エル・エム・コックス株式会社(米国)
株式会社張り―製作所(米国)
アルフレッド・クロンプトン・アミューズメント・リミテッド(英国)
シカゴ。ダイナミック株式会社(米国)
ホスター株式会社(西独)
株式会社ミッドウエー製作所(米国)
製造ラインの画像を拡大してみました。

フリッパー・ピンボールの製造ライン。キャビネット側面やバックグラスの様子からWilliamsの「Satin Doll(1975)」と思われ

AM機の製造ライン。機械は、このプライスリストにも掲載されているセガの「Rock'n Bark(ロックンバーク)」という2P用のビデオガンゲーム。この当時で149万円という高価な機械だったらしい。

ジュークボックスの製造ライン。右手前は米国ロッコーラの「464」、左の列は「459」に見える。このプライスリストによれば、464は160曲で99万円、459は100曲で71万円とある。
(次回「表紙と会社案内系のページ(その2)」につづく)