オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

プロボウラー(セガ、1972)に関するメモ

2020年10月25日 20時25分54秒 | ピンボール・メカ
1960年代の半ばころ、日本にボウリングブームという社会現象が発生しました。日本各地にボウリング場が林立し、最盛期には全国で4000軒に迫るほどのボウリング場があったそうです。1971年には定期的にボウリングを放映するTV番組が10本もあり、さらには「美しきチャレンジャー」というTVドラマまで作られて人気を博しました(関連記事:「きゅぽかの(ボウリング漫画)」の単行本を買った話)。ボウリングブームは結局1973年のいわゆる「オイルショック」を機に急激に衰退していきましたが、ブーム時には2時間待ち、3時間待ちが当たり前というくらい人が押し寄せており、順番待ちの客の退屈しのぎとしてボウリング場にはAMゲーム機が設置されるようになったことが、その後日本のAM業界が発展してゆく重要な一因となりました。

セガ1972年に「プロボウラー(PRO BOWLER)」というボウリングゲームを発売しました。ワタシはこのゲームを、JR目黒駅の駅ビルの屋上でプレイしています(関連記事:商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺)。当時のゲーム料金は1回10円から高いものでも30円が相場だったのに、プロボウラーは50円もしたので、小遣いの乏しい子供にとって気軽に遊べる機械ではありませんでした。




PRO BOWLERのフライヤー(英語版)。

この、テンピンボウリングを非常に良く再現したゲーム機は、しかしセガのオリジナルではなく、米国Williams社製のコピーであることは後に知りましたが、今回記事として取り上げるにあたってその辺も含めていろいろ調べていたところ、実はWilliamsも、拙ブログでは「ウィンターブック」というギャンブル機で何度か言及している米国Evans社関連記事:初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム)が1939年以売り出した「Ten Strike」というボウリングゲームを元に作っていたことが判明しました。


Evans社の「Ten Strikes」の広告。出典はPinrepair.com

この画像を掲載している「Be a pin monkey」の記事を読むと、Evansは1955年に操業を停止し、このボウリングゲームのアイディアはWilliamsに買い取られ、1957年に「Williams Ten Strike」 の名で売り出されたとあります。Evansの「Ten Strike」は1ゲームを5フレームに圧縮してありましたが、Williamsはこれを10フレームと本来のルールに近づけました。

この後の1970年、Williamsはさらに「Williams Mini-Bowl」を売り出し、そしてセガは1972年にそのコピーである「PRO BOWLER」を売り出したという流れです。

更に調べを進めていたら、これらの詳しい話を、なんと日本語で、しかも2007年に既に書かれていたウェブサイトを発見してしまいました。

それは「ピンボールの階梯」というピンボールを解説したサイトで、該当する記事は「フリッパー・トピックス『セガのプロ・ボウラーとウィルのミニ・ボウル』」です。古いエレメカ機を日本語で解説しているとは珍しいと思って拝読したところ、実にたいへんよくできた記事でしたので、ぜひハイパーリンクから原文をお読みいただければと思います。「ピンボールの階梯」はたいへんに見事なサイトなので、URLのメモの意味も含めて、ここに記録させていただこうと思います。

初期の国産フリッパー・ピンボール機:こまや製作所製の2機種

2020年10月18日 16時55分55秒 | ピンボール・メカ
この「初期の国産ピンボール機」シリーズは、もともと10年以上押し入れにしまい込んでいたフライヤーコレクションからセガの古いピンボール機のフライヤーがいくつか発掘されたことから始めたことでした。

セガが初めてフリッパー・ピンボール機を作ったのは1971年の事でしたが、実はそれ以前から日本でもフリッパー装置を備えるピンボール機は製造されています。それらに言及しないままいきなりセガの機械を取り上げるのは、日本のAM史を無視するようで好ましくないと思って、資料が乏しい中、半ば無理やり「クレイジー15ゲーム」の記事を仕立て上げたところ、「FAR EAST PINBALL」のnoguo_さんが筐体の画像を提供してくださいました。noguo_さん、その節はありがとうございました。

その後、「ナムコチラシ研究所」というブログを運営されているニャームコ2865さんが、クレイジー15が併載されている中村製作所が頒布したフライヤーを提供してくださいました。こちらも、本当にありがとうございます。今回はニャームコ2865さんからいただいたフライヤーについて記録しておこうと思います。


ニャームコ2865さんが提供してくださった、「中村製作所」の名が入った「クレイジー15ゲーム」ほか2機種のフライヤー。

この中村製作所のフライヤーには、「クレイジー15ゲーム」のほかに、「レッツゴームーン」と「インディゲーム」が記載されています。フライヤーの左上の部分には「KOMAYA'S」とあるので、ニャームコ2865さんは「これらは中村製作所製ではなさそう」とおっしゃっています。おそらく、まだ業界と呼べるほどの規模もなかった当時ならではの、同業者の横のつながりがあったのかもしれません。

レッツゴームーンとインディゲームの説明文が読みにくいので、原文ママで書き起こします。

★レッッツゴームーン
  アイデアで人気独占
玉を打ち上げて盤面を走らせると前方の宇宙人形が廻り、10週目で月世界に到着。玉がポイントに当る毎に1/6廻転します月世界到着で再ゲームができますOUTを通ると地球に逆もどりです。

★インディゲーム
   再び放つ決定版!
玉を打ち板面の穴に入れるとその特典がランプで表示されます。 数字が3ツ連続すると再ゲームクレイジー15にピンボール形式を加味した新時代の人気機械です。


こうしてみると、レッツゴームーンはクレイジー15ゲームよりもいくらか複雑なゲームとなっており、またインディゲームは「再び放つ」と言っていることから、ともにクレイジー15ゲームよりも後に作られたものと思われます。


「レッツゴームーン」と「インディゲーム」の部分を拡大。

しかし、実を言うとワタシはこの2機種についての記憶がほとんどありません。レッツゴームーンは全く初めて見るような気がしますし、インディゲームについてはバックグラスに見覚えが無いこともないような気がするという程度でしかないのですが、ただ、1971年以前に、クレイジー15ゲーム以外にもフリッパーを備えた簡易なゲーム機はいくつかあったという記憶だけはあります。それがこれらのうちのいずれかだったか、それともまた別の機種であったかはわかりません。どなたか、これらについて詳しいお話をご記憶の方がいらっしゃいましたら是非お聞かせください。

なお、ニャームコ2865さんからは、このフライヤーをご提供いただいた際に、オンラインで公開されている業界紙「ゲームマシン」のバックナンバー2015年9月15日号の記事の中で、クレージー15ゲームの製造年を1965年としているということを教えていただきました。

その記事の主題は、「株式会社こまや」(こまやは、1989年に有限会社から株式会社に改組している)が自己破産手続きに入ったという報道でした。創意工夫に溢れた味のある機械を数多く作って来たこまやの消滅は、実に実に残念なことです。余談になりますが、こまや消滅の一因には、2001年に、風適法の解釈運用基準のプライズ機に関する要件に「クレーンで吊り上げるなどしたもの」という余計な一文が加えられて以降、こまやが得意としていた独創的なプライズ機が作れなくなってしまったこともあるのではないかと、ワタシ個人は疑っています。


今回の趣旨とは外れるが、こまやの優れたプライズ機の例。左から「山のぼりゲーム」、「ケロケロパックン」、「ロックンロール」、「ジャンプアップ」。現在の風適法解釈運用基準では、これらのように「クレーンで吊り上げるなど」していないプライズ機は作れない。


初期の国産フリッパー・ピンボール:ウルトラアタック(日本展望娯楽、1970年代?)

2020年10月11日 17時03分00秒 | ピンボール・メカ

今回の「初期の国産フリッパー・ピンボール」は、ワタシが小学生時代に東急百貨店東横店の屋上で遊んだ(関連記事:商業施設の屋上の記憶(1) 渋谷日本娯楽機日本展望娯楽の「ウルトラアタック」を取り上げます。


ウルトラアタックの筐体とプレイフィールド。「Internet Pinball Database」掲載の画像を縮小している。より大きく鮮明なオリジナル画像はコチラを参照されたし。

ワタシはこの機械の製造年を特定できていません。バックグラスとプレイフィールドに描かれている「ウルトラセブン」のTV放映期間が1967年~68年なので、ワタシは長いこと60年代に作られたものだと思い込んでいたのですが、バックグラスに描かれている「MAT」のロゴは1971年~72年に放映された「帰ってきたウルトラマン」に登場するものであることを後に知り、70年代の製造である可能性が俄然強まりました。


バックグラスの「MAT (Monster Attack Team)」のロゴ。「Internet Pinball Database」の画像より。「MAT」とは、1971~72年に放映された「帰ってきたウルトラマン」に登場する、怪獣と戦う組織の略称だった。

ゲームは時間制で、プレイフィールドの最上部にあるサッカーのゴールのようなところにボールを打ち込むと得点が加算され、ゲーム時間内に一定以上の点数を獲得すると再ゲームが出来ると言うものでした。ボールがゴールに入ると、エプロン左右に配置された大きな緑色のランプが点灯したのが滅法カッコ良く見えました。

プレイフィールド上には、ゴールの手前に一個と、プレイフィールド中段の左右に一個ずつの、合計3個の「スピニング・バンパー」がありました。これは、正三角形に配置した3個のピンにラバーバンドを巻き付けたものを高速で回転させるという仕組みです。


ウルトラアタックの3個のスピニングバンパー。ゲーム中は高速で回転し、当たったボールを弾き飛ばす。「Internet Pinball Database」の画像より。

米国製ピンボール機にもこれと類似する機構のバンパーが見られる例はありますが、多用はされていません。ウルトラアタックの、ポップバンパーよりも簡単な機構で、しかも1個のモーターで3個のスピニング・バンパーを回転させている点は、コストダウンに大きく寄与する秀逸な工夫だと思います。

しかし、フリッパーは滅法カッコ悪いものでした。これよりも先に作られたと思しき「クレイジー15ゲーム」(関連記事:初期の国産フリッパー・ピンボール:「クレイジー15ゲーム」)では、米国製品のフリッパーの形状を踏襲したプラスチック成形品をわざわざ作っていたのに対し、「ウルトラファイト」では、一定の長さに切断した合成樹脂製の円柱を、機械に取り付けた時に上面と下面となる両側面を平らになるよう切削加工しただけの、まるで壊れたフリッパーの代用品を手近な端材で作って応急処置として取り付けたかのように見えるものでした。


ウルトラアタックのフリッパー。「Internet Pinball Database」の画像より。

メーカーの「日本娯楽機」日本展望娯楽」は、戦前より外国製のコインマシンを参考としていくつものゲーム機を製造してきた日本最古の古参のAM機メーカー関連記事:商業施設の屋上の記憶(2) 目黒近辺)であり、娯楽機の理解は深かったはずですが、敗戦後、高度経済成長期に入った1960年前後にゼロからの再スタートを切った時には、戦後に登場したですが、「フリッパー」という新たな概念を適正に認識することができず、単純にコストダウンを優先したためにこのようなものになってしまったのではないかと言うのが、本件に関するワタシの考察(妄想でも可)です。

プレイフィールド左右のラバーバンドで区画された内側には「リーフスイッチ」が見えます。ラバーバンドにボールが当たり、このリーフスイッチが反応すると、米国製ピンボールと同様のチャイム音が鳴ると同時に、バックグラスの小さな白い丸のランプが進行するのですが、それにどんな意味があるのかは昔も今も不明です。ひょっとすると10回リーフスイッチに当たると1点になる、というようなルールがあったのかなあと想像していますが、確認はできていません。

youtubeに、稼働するウルトラアタックの動画が上がっていたので、これをご紹介して今回の終わりとさせていただこうと思います。

 

【記事訂正のお知らせ】「ウルトラアタック」のメーカーは「日本展望娯楽」である疑いが濃厚になってきたため、本記事において「日本娯楽機」としていた部分を修正し、それを前提として記述された部分を削除しました。(2022年7月3日)


新PHoF、いよいよ始動!

2020年10月04日 13時31分36秒 | ロケーション
拙ブログをご高覧下さっている方々にはもはや説明の必要はないとは思いますが、PHoF(ピンボール・ホール・オブ・フェイム)とは、米国ネバダ州ラスベガスにあるピンボール機の博物館です。

拙ブログで2018年8月26日にアップした記事「ピンボール・ホール・オブ・フェイム(ラスベガス)、移転か?」の件について、最近進展があったので、今回はPHoFのこれまでを振り返りつつ記録しておこうと思います。

PHoFのオープンは、今から14年前の2006年1月13日でした。ワタシは毎年秋にラスベガスで開かれるコンベンションを見物に行くことが恒例(関連記事:新・ラスベガス半生中継 2016年9月(5) コンベンション初日他)だったので、その機会に訪れることができました。




オープン当初のPHoF(上)と店内の一部(下)。駐車場に面している部分がガラス張りで外光が入るので、日中は店内が明るかった。

当時のワタシはアメリカで車を運転するようになって間もないころで、まだ土地勘が貧弱だったので、予め見当を付けていたつもりの場所に行ってもその周辺にPHoFは見つけることができませんでした。途方に暮れながら交差点で信号待ちしていると、中央分離帯上に物乞いをしていたホームレスの女性がいたので、藁をもつかむ思いで尋ねてみたところ、それはもっとずっと東の方の●●というところだと教えられて、無事にたどり着けた思い出があります。彼女には、信号が変わり後ろから急かされている中、慌ててポケットから掴み出した5ドル札1枚しかあげられませんでしたが、20ドルくらいあげても良かったと今でも後悔しています。

2009年11月3日、PHoFは現在の場所に引っ越し、規模も多少拡張されて再オープンしました。新しい場所は従来よりも約3㎞西の地点で、繁華街や南北に走る幹線道路とも近づき、ずいぶんと行きやすくなりました。




現在のPHoFと店内の一部。二つの入り口以外に外光が入る窓が無く、店内は薄暗くなったが、機械のイルミネーションが映えるようになった。

しかし、PHoFのオーナーであり、1000台以上のピンボールコレクションを持つティム・アーノルド(Tim Arnold)にとって、この程度の施設はまだ満足できるものではなかったそうです。そこでティムは、より広い施設を持つためにラスベガス繁華街の南端に広い土地を購入したのが2018年のことでした。しかし、土地は得たものの、その後のスケジュールは長いこと「未定」となっており、世界のピンボールファンは首を長くして次の展開を待っていました。

今年の5月18日、PHoFは、購入しておいた土地に杭を打ち込みつるはしを入れるというグラウンドブレイキングの儀式を、ティムとその仲間たちだけでごく小規模に行い、その動画をFacebookに投稿しました。

その時点ではそこは(当然ながら)まだ単なる空き地でしたが、その後ラスベガスの情報サイト「VITAL VEGAS」が、続いてラスベガスのローカルニュース会社「8 NEWS NOW」が、建設が進むPHoFの様子を報道しました。

そしてまさに今日、PHoFは自身のFacebookで、ストリップエリアに建てるマーキーのデザインを発表しました。PHoFはこの投稿に「First look at our massive new sign! We're proud to add the word PINBALL to The Las Vegas Strip. (まずは新しい巨大看板を見てください! 我々はPINBALLという言葉をラスベガスのストリップに加えることを誇りに思います)」とのコメントを付けています。

新しい場所は、ラスベガスで最も有名なストリップエリア繁華街の最南端となるマンダレイベイホテルの向かい、有名な「Welcome to fabulous Las Vegas」看板の少し北となり、従来の、車が無いと少々行きにくかった不便は大幅に改善されます。


現在と将来のPHoFの位置を示した地図。創設当時は、現在位置からさらに3㎞程東(地図上では右)にあった。

規模はこれまでの3倍ほどにも拡大されるので、1日ではとても遊びきれなくなることが予想されます。PHoFとしても、今まではボランティアだけで回していた(PHoFは非営利団体とされている)が、今後は専従の要員が必要になるだろうと言われています。

PHoFのオープンは、早ければ今年の12月か、もしくは来年1月と見込まれているとのことです。なんとか来年にはコロナ騒ぎが終息して、新しくなったPHoFで、スペースの都合上展示できていなかったたくさんの機種を堪能したいものです。