オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(6) 90年代のビデオポーカーとsigmaの終焉

2017年03月20日 23時02分23秒 | 歴史
■前回までのあらすじ
1978年、sigma社は、サイ・レッドと提携して、米国で1970年前後に商品化されたリアプロジェクターによるビデオポーカー機を、ほぼ同じ内容で白黒モニターに移植した「TV・POKER」を自社ロケに設置した。

ビデオゲームの表示能力が向上する1980年頃には日本でもsigma以外にビデオポーカーを製造するメーカーが現れ、違法なゲーム機賭博に使用されて大きな社会問題となったため、1984年、ビデオゲーム機を設置する遊技業を風俗営業として警察の監督管理下に置くよう風営法が改正された。

1983年、sigmaはネバダ州におけるゲーム機メーカーのライセンスを取得し、米国のミルズ社をディストリビューターとして「ミルズ・ポーカー」の販売を開始する。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

80年代後半になると、ビデオゲームの解像度はさらに高くなり、より美麗なグラフィックが表現できるようになります。しかし、ワタシの手元には、この頃から90年代前半にかけての資料がほとんど無いため、この期間に関する記述は不確かにならざるを得ないのですが、とりあえずワタシの認識する記憶として記録しておこうと思います。もし、誤りにお気づきになられた方がいらっしゃいましたら、ぜひともご指摘、ご教示いただけますようお願い申し上げます。

ビデオポーカー(ビデオスロット含む)による違法な賭博営業は80年代を通して盛んでした(その主たる業態であるゲーム喫茶の流行は結局90年代半ばくらいまで続く)が、健全営業のゲームセンターでもビデオポーカーは大人気で、池袋のゲームファンタジア・サンシャイン(当時の名称。現在のアドアーズサンシャイン店)の2階には多数のビデオポーカーが設置されていたにも関わらず、空き台を見つけるのに苦労するくらい混みあっていたものでした。

たぶん1987年のこと、sigmaは新たなビデオポーカー機「HRシリーズ」を発表します。「HR」とは「High Resolutiion」、つまり「高解像度」のことで、これにより、ビデオポーカーはようやく通常のトランプと比較しても違和感のないカードデザインを表示することが可能になりました。


HRシリーズの筐体と、同じタイミングで発売されたやはりHRシリーズの「21」のラージインデックスによるゲーム画面。ソースは日本の業者に配布された商品紹介資料の写真だが、共にカジノ仕様であるところから、日本よりも先にネバダで発売されていることも考えられる。

日本のゲーム業界では、1990年代に入ると、インベーダーブーム以降ビデオゲームに押され気味だったメダルゲームが、第二のブームと言ってよいくらいの勢いで盛り返してきます。これにより、メダルゲームを古くから開発していたセガやタイトーはもちろんのこと、それまであまりメダルゲームに注力していなかったカプコン、ジャレコ、テーカン、コナミ、太陽自動機、更にかなり遅れてナムコもビデオポーカーを発売しました。但し、これらの中には、一般には無名な中小メーカーが開発したものに自社の名前を乗せていただけと思しきものもあります。

これだけ多くの競合他社が現れれば、それら後発機の中には、ギャンブルマインドを持たない開発者の的外れな思いつきと見よう見まねで作ったようなお粗末な機種もありましたが、意欲的な試みを盛り込んだものも少なからずあったように思います。しかし、それにもかかわらず、sigmaの牙城を崩すような製品はただの一つも出てきませんでした。辛うじて、セガ、タイトー、ナムコなど自社ロケを持つ大手メーカーが、そこに自社製品を設置できたくらいのものでした。

sigmaは、1992年には15インチフラットモニターを採用した新筐体「LOTUS DEAL」を、94年にはその上位機種となる「KING LOTUS」を発売します。そのころになると、ドローポーカー系のバリエーションも出尽くした感があり、sigmaはスタッドポーカー系のビデオポーカーを作り始めます。「デューシーズワイルド・スタッド」及び「ダブルジョーカー・スタッド」で採り入れていた、絵札が多く出現すればボーナスゲームとしてフリープレイが始まるというフィーチャーは、現代のビデオスロットのボーナスゲームの先駆のようにも見えます。


LOTUS DEAL(左・1992)とKING LOTUS(右・1994)。

KING LOTUS以降のsigmaの動きは、ワタシは捉えきれておりません。1990年代の後半(1997だったか?)、米国シリコンゲーミング社が、プラットフォームにPCを使用し、当時最先端だった縦横比16:9のCRTモニターを縦長方向に使用したマルチゲームマシン「オデッセイ(Odyssey)」を発表します。当時としては破格に美麗なグラフィックだったオデッセイはカジノ市場で一世を風靡しました。sigmaはこれを模した「FANTASIA STATION」を1999年に発売していますが、画面を縦長方向に使うというスタイルに馴染めなかったワタシはこれを遊んだことがありません。


sigmaの「FANTASIA STATION(1999)。複数のゲームが1台にインストールされている。

sigmaは2000年にアルゼグループに吸収され、ラスベガスのsigma game社はアルゼが引き継ぐという話になっていたのですが、ネバダ当局から許可が下りなかったためその話は流れ、sigma game社は消滅しました。この件について、sigmaの真鍋は合併時の話と違うという事で、契約違反でアルゼを相手取って訴訟を起こしました。地裁では真鍋側に有利な判決が出ましたが、アルゼは控訴、上告と粘り、そうしている間に真鍋は最終的な結果を見ることなく物故してしまいましたが、結局は真鍋の勝訴で裁判は終わりました。

アルゼ社としてはsigmaの開発部門が欲しくて吸収したようですが、旧sigmaの開発者の中にはこれを良しとせず、別のメーカーへと散った人たちも少なくなかったと聞いています。中でもビデオポーカーやSUPER 8 WAYSの開発の中心にいた人たちは、その後他のメーカーを経て「CRON(クロン)」というメーカーを立ち上げ、sigma無き後のビデオポーカーやスロットマシンの開発を担い、アジア地域のカジノ市場にも進出しているそうです。周辺の人からは、その経営状態は必ずしも楽観を許さない状況が続いていると聞いていますが、頑張ってもらいたいものです。

「ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷」は、一応これにて終了です。最後は資料が少なく、まとまりがなくなってしまいました。いずれまた資料がそろった時に、あやふやな部分を補っていきたいと思います。

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(5) sigma、ネバダのゲーミング市場に参入

2017年03月12日 20時34分17秒 | 歴史
■前回までのあらすじ
sigma社は、「ウィリアム・サイ・レッド(William "Si" Redd)」の「A1 Supply社」と提携し、1978年、日本初となるビデオポーカー機「TV・POKER」を自社ロケに設置した。そのゲーム内容は、A1 Supply社に糾合されたゲーム機メーカーが1970年頃(ある資料では1967年)に商品化した、リアプロジェクターを使用したビデオポーカー機とほぼ同じものだった。

sigmaのTV・POKERは白黒画面で解像度も低かったが、ビデオゲームの技術はカラー化、高解像度化など急速に発達し、1980年頃にはsigma以外にビデオポーカーを製造するメーカーが日本にも現れた。

1980年、横浜のゲーム機メーカー、ボナンザ・エンタープライゼス社が開発したビデオポーカー機「GOLDEN POKER」は、その後飲食店などで違法なゲーム機賭博に使用され、大きな社会問題となったため、1984年、ビデオゲーム機による遊技業を風俗営業として警察の監督管理下に置くよう風俗営業取締法が改正され、同法の名称は「風俗営業適正化法」となった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

本来オペレーターであるsigmaは、ゲームセンターが風俗営業となることにより終夜営業ができなくなったので、当然その業績にも影響を受けたことでしょう。しかしsigmaは、1970年代の早い時期から、自身が理想とするメダルゲーム場を作り上げるために、自らもメダルゲーム機を開発するメーカーでもありました。

とは言うものの、シグマが開発するのはメカ機構を伴う大型ゲームばかりで、オリジナルのビデオメダルゲームを発売するのは、ワタシの認識では1983年に発売する「SUPER 8 WAYS」からでした。


SUPER 8 WAYS。9つの窓はそれぞれ独立したリールになっており、従来の5ラインに加え、縦の3列が、従来のスロットマシンにはないペイラインとなっている。

sigmaはそれ以前からも、バーリーのリールマシンを電子ゲーム化(ビデオ化)した「TV-SLOT 5Line(1980)」、「TV-SLOT CONTI(1980)」、「TV-SLOT SPACON(1980)」などのビデオメダルゲーム機を発売していますが、ワタシはこれらは全部サイのSIRCOMA、あるいはIGT製だと思っていました。


TV-SLOTシリーズ。左より5Lines、CONTI、SPACON。いずれもバーリーのメカリールをビデオ化したもの。

ところが、今回の記事を書くためにいろいろ調べていたところ、ワタシのこの認識を怪しまざるを得ない事実を発見してしまいました。

SUPER 8 WAYSを発売する1983年、sigmaは、米国ネバダ州政府より、国外企業として初めて、ゲーミング機製造業者としてのライセンスを取得します。これについて業界紙「ゲームマシン」83年12月15日号が報じるところによれば、「シグマでは同社製『ミルズポーカー』などを同州で採用されるようメーカーとして申請していた」とあり、最後に「なお同社はネバダ州への製品は製造するだけで、それらは同州内のミルズノベリティ社がディストリビュートすることになっている」と結んでいます。この「ミルズポーカー」は、一見したところ、1980年頃にSIRCOMAが発売した「ドローポーカー」にそっくりです。


ミルズポーカー(左)とIGTのビデオポーカー(製造年不明・右)。カードのデザインや字体は殆ど同じに見える。

ワタシは、2003年にラスベガスを訪れた際に、サーカスサーカスの別館のようなカジノ「Slots a Fun」で、sigma製のビデオポーカーを発見して写真に収めていましたが、この機械のアドバタイズ画面では、「(C)1983 SIGMA ENTER. INC.」と表示されていました。


ラスベガスに設置されていたsigma製のビデオポーカー。胴部の看板が設置するカジノ用にカスタマイズされており、「Mills」の文字は無かった。

ネバダのメーカーライセンスは、今日申請して1か月後には承認されるというようなものではありません。申請してから当局による調査に長い期間を要し、多大な費用もかかると聞いています。という事は、sigmaはSUPER 8 WAYS以前から自分たちでビデオのメダル機を開発していたと考えられ、これはひょっとすると、ワタシがSIRCOMA製だと思っていたTV-SLOTシリーズやTV-POKERも、実はsigmaが作っていたという可能性も考えられそうです。

残念ながら、今のワタシはこの辺の謎を解明できる資料を持っていません。拙ブログの前々回(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3))で、SIRCOMAとsigma両社のロゴが入った筐体について、雑誌記者がサイに質問したところはぐらかされたと言及しましたが、もしかしたら両社の間には蜜月だけではない微妙な何かが発生していたのかもしれません。サイも真鍋も物故してしまった今、この辺りを知ることは難しそうですが、これからも細かい情報を集めてなんとか自分なりの答えを見つけたいと思います。


なお、若干余談ですが、ある資料によれば、実は「SUPER 8 WAYS」もミルズ・ノベリティが売り出そうとしていたとのことです。しかし、ワタシは少なくともネバダでは、この機種を見たことはありません。

(あと1回つづく・・・ かも?)

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(4) 80年代の日本におけるビデオポーカーの暗黒時代

2017年03月05日 22時12分38秒 | 歴史

■前回までのあらすじ
1978年、sigma社は、米国メーカーと技術提携し開発製造した、日本初となるビデオポーカー機「TV・POKER」を自社ロケに設置した。そのゲーム内容は、1970年頃より米国で商品化されていた、複数のリアプロジェクターを使用したビデオポーカー機とほぼ同じものだった。

米国では、バーリーの販社であるバーリー・ディストリビューティング社(BD社)の社長であったウィリアム・サイ・レッド(William "Si" Redd)が、1970年代の早い時期から、RavenやFortun Coinなどビデオゲーミング機メーカーの買収を進めていた。バーリーがBD社を吸収することに決めた際、サイは、電子ゲームに関する権利を自分が保持し続けることを条件にこれに応じた。バーリーを離れたサイは、買収したビデオスロットメーカーの複合企業体「A1 Supply」でビデオ分野のゲーミング機を開発していく。A1 Supplyは1979年にその名を「SIRCOMA」に変え、1981年には「IGT」として株式を公開するに至った。

Sigmaの創立者である真鍋勝紀は、BD社の社長時代のサイに接触しており、sigmaのTV・POKERは、その縁でA1 Supply社製のビデオポーカーの供給を受けたものと思われる。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ビデオゲーム技術の進歩はまさに日進月歩で、1980年にはカラー映像は当たり前となり、また画像解像度もいくらか高くなって、表現力は飛躍的に向上していきました。それにつれ、sigma以外にもビデオポーカーの開発に乗り出すメーカーが出てきました。

ボナンザ・エンタープライゼス(BONANZA ENTERPRISES、以下ボナンザ)という横浜にあるゲーム機メーカーは、1980年、「GOLDEN POKER」というカラーのビデオポーカー機を発売します。

写真
ボナンザ・エンタープライゼスのゴールデンポーカーのフライヤーと画面画像の拡大図。スタンダードな絵札も、曲がりなりにも表現できている。なお、このフライヤーは海外向けらしく、説明文は全て英文になっている。

このボナンザ社は、1978年に物議をかもした米国エキシディ社のビデオゲーム「デス・レース」(関連記事:【小ネタ】デス・レース 社会から非難を浴びた殺人ゲーム)を輸入販売していた会社で、以前から娯楽関連の輸出入業務も盛んに行っていたようです。

私がこのGOLDEN POKERを見かけたのはもっぱら個人営業の小さな店くらいで、セガやタイトーなど、大資本がオペレートするロケでは見た覚えがありません。しかし、GOLDEN POKERは「ポーカー喫茶」「ゲーム喫茶」という市場で広く普及し、やがて大きな社会問題へと発展して行きます。

飲食店と違法なゲーム機賭博は、以前から親和性が高いところがありました(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)。従来の代表的なGマシン(アミューズメント業界では、ギャンブルと言う言葉を忌んで、「G(ジー)」と呼ぶことが多かった)であるロタミントやスロットマシン、あるいはダービーゲーム(関連記事:ロタミントの記憶)などは、殆どが筐体とゲームが一体となったものでしたが、この頃は飲食店にもブロック崩しやインベーダーゲームなどが遊べるテーブル筐体が普及しており、ビデオポーカーを導入するプラットフォームが整っていました。

警察白書に「ポーカーゲーム」という言葉が初めて登場するのはの昭和59年(注・1984年)版からですが、そこには「ポーカーゲーム等のテレビゲーム機などを使用した賭博事犯が56年(筆者注・1981年)後半から急激に増加」と記述されています。ゲーム機賭博の検挙状況を見ると、1980年に検挙された件数は475件、押収金額は7700万円でしたが、81年には検挙件数こそ490件と殆ど伸びてはいないものの、押収金額はほぼ倍の1.4億円となります。更にその翌82年には、検挙件数は1870件、押収金額は9.6億円と、80年のレベルと比較すると検挙件数で約4倍、押収金額は12.5倍と飛躍的に増大しました。

ブームに乗って類似品を製造したメーカーもいたでしょうが、当時、GOLDEN POKERは、Gマシンの代表機種であったことは間違いないようです。ボナンザ社は、1983年の春先頃、業務用ゲーム機メーカーの業界団体である日本アミューズメントマシン工業協会(JAMMA)を除名されています。この辺の事情については、当時の業界誌に記事がありそうなので、いずれ調べてみたいと思っていますが、この違法な賭博営業に機械を供給していると見なされたことが主な原因であろうことは想像に難くありません。

ビデオポーカーによる賭博事犯は80年代初頭から爆発的に広まり、そしてこれが、ゲームセンターが風俗営業となる理由の一つになりました。1984年、当時の風俗営業取締法(風営法)は風俗営業適正化法(風適法)に改正され、ゲームセンターは新たな風俗営業となって、以降警察の監督管理を受ける業種となりました。これにより、ゲームセンターは終夜営業ができなくなり、また営業を営むにあたっては所轄の警察署の許可を要することになりました。昨年、風適法が改正され、ダンスをさせる営業(クラブ、ディスコなど)が風俗営業から外されましたが、ゲームセンターが風俗営業から外されるという話は、現時点ではまだ具体的な議論が行われるには至っていません。

(つづく)