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一来向

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「ねぇねぇ、黒斎さん。なんで最近仏教の話ばっかりなん?」

そんな事を思われていそうな昨今、皆様いかがお過ごしでしょうか。

書いている自分でさえ、「これじゃあ、なんか布教活動してる人みたいだなぁ…」と感じつつ、何かと筆の進まない感じになっている黒斎(AKB48所属)です。こんにちは。


うん。そうだよね。

このタイミングでこのブログに辿り着いた人だったら、思いっきり「あ、なに?ここって仏教サイト?」ってなっちゃうよね。

今更こんな事言うのも何なんだけど、僕、別に仏教の話をしたいわけじゃないんですよ。

他の宗教の根本で語られていることも、大切な事は一緒だし。

でもね、このことを理論的に説明しようと思ったら、古今東西見渡してみても、お釈迦様の話に敵うモノは他に見あたらないんです。

もうね、完璧に理論体系が完成されてるんです。仏教って。


こういう比較をするのもなんなんだけど、例えば、仏教とキリスト教を比べた場合…

お釈迦様って、「知的でクール。真理を論理的に語る。」というような感じで、

イエス様って、「情熱的で誠実。真理を詩的に語る。」という感じなんです。

同じ事を語るのでも、アプローチの仕方が全く違うの。

お釈迦様の語り口は「科学的」、かたやイエス様の語り口は「芸術的・文学的」。

これを「論理」という観点で比べると、やっぱり「科学的」な語りの方が向いているワケです。

勿論「芸術的・文学的」な語りが悪いって事じゃないですよ。それはそれで長所がいっぱいあります。

でも、どうしても「芸術的」な語り方では、「通約不可能性」が高まってしまうので、「受け取り方次第」で、本質が揺れてしまうんですね。

どちらかというと、科学的に根拠を示す事ができたり、「こうだから、こうなるでしょう?」と弁証法的に語られた方が、的確な理解に繋がりやすいと思うんです。

仏教は、そういう理由で、理論体系がシッカリしているからお話(説明)しやすいんです。

そんなこんなで、ここのところの記事はやたらと仏教づいてます。


…ってこうやって言い訳しても、やっぱりなんか仏教の肩を持つ人みたいになっちゃうかな…


まぁ、いいや。


さて、言い訳はこのぐらいにして、ここらで先日のお話の続きを書きますね。


「預流果」は、ホントに凄いことでも、偉いことでもないんです。

どちらかというと、「なんで今までこんな簡単で単純なことに気付けなかったんだろう。」って思うぐらいのことです。

前記事のコメント欄を拝見したら、コタさんがこの意味を掴むことが出来たようです。(そのコメントを拝見した時、とっても嬉しくて、ちょっと涙が出ました。)


その「気付き」を得ると、「因縁(原因・条件に基づく、その結果)」という言葉の本質を、「体験」として理解できます。

「そうか、“今の自分(結果)”があるのは、こうこうこういう理由(原因・条件)があったからなんだ!」


「現実」を形づくる、その「仕組み」を知ってしまうので、必然的にそれまで自分を苦しめていた「原因」を突き止めてしまいます。

「ああ!ほんとだ!これまで自分が苦しんできた全ての原因は、私の煩悩(欲・怒り・無知)だ!」

そうなると、もう後戻りはできません。

自分が不幸になる原因を知ってしまったので、もう、それを続けようとは思えなくなるんです。

あとは、これまで自分を苦しめてきた「原因」と「条件」を捨てていくだけです。


「よっしゃ!自分を苦しめるのはもう止めた!これからは、自分を苦しめてきた原因をどんどん捨てて行くぞ!」

その姿勢(あり方)の事を『一来向(いちらいこう)』と言います。


「預流果」を迎えると、もれなくついてきます。



←はい。僕はまだ続けます。

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解脱

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前回、『悟り』とは、「預流果」を皮切りに、煩悩が順に消えていき、煩悩が消えた分だけ智慧(真理を見極める認識力)が現れていく現象のことを言います、というお話をしました。

今日は、これを別な表現でお話したいと思います。

「悟りの階梯が進み、煩悩が消えた分だけ智慧(真理を見極める認識力)が現れていく」と言うことは、同時に「輪廻の回数が減っていく」というコトを意味します。

こういうコトを言うと、「もし自分が死んでも、また生まれてきたい。」と思っている方から見たら、「冗談じゃない!生まれ変わりの回数が減ってしまうというなら、悟りたくなんてない!」と拒絶されてしまいそうですね。

でも、「何度生まれ変わっても、生まれることが出来る世界は“苦しみの世界”ですよ。」と言われたらどう思います?

「あ、そういうことならもう結構です。苦しみの世界には留まりたくありません。」と、そうなりますよね。

『解脱(げだつ)を目指す』とは、そういうことなんです。


「天国」や「地獄」という言葉を聞くと、どこか「死んだ後に魂が帰る世界」というような印象があるかと思います。

ですが、本当は違うんです。

僕たちは、今すでに、それらの世界のどこかに存在しています。

(とはいえ、本当の意味の「天国」に存在している人は、残念ながらこの地球にはいません。)

僕たちは、その苦しみの強弱はあれど、例外なく「苦しみを生む世界」の中に生きているんです。

「苦しみを生む世界に繰り返し生まれてくる」と言っても、それは「行いが悪かったからこその天罰」ということではありません。

誰のせいでもなく、自分の自由意思において、そこに留まっているんです。自ら苦しみを選択しているんです。

自分の自由意思によって「不自由」や「苦悩」を選択するという、なんとも馬鹿げたことをしているのが人間。

その愚かさのコトを仏教では『愚痴(無知)』と言います。そう。「煩悩」の一つですね。

苦しみを生む原因の一つは、「自分で自分を苦しめているという事実に気づかない愚かしさ」というワケです。


さて、先ほど触れた「苦しみを生む世界」を、さらに6階層(または5階層)に分け、その世界をカテゴライズしましょう。

それが、仏教で言うところの『六道(五道)』です。

下のランクから順に、「地獄界・餓鬼界・畜生界・(阿修羅界)・人間界・天界」となります。

ランクが下がるほど苦しみは深くなり、ランクが上がるほど苦しみは軽くなります。

仏教に詳しくなくても、どこかで聞いたことありますでしょ?

また、この「六道」については、「いまここ塾」の阿部さんが連載をされていたのでご存じの方も多いと思います。

※とてもわかりやすく六道のコトを教えてくれていますので、ご一読をオススメします。

「地獄界」 「餓鬼界」 「畜生界」 「人間界」 「阿修羅界」 「天界」


「自分の望みが思いどおりに叶う世界」、そんな世界のコトを、「天国」と捉えている方も多いかと思います。

上記六道の「天界」は、まさにそういう、満足感・達成感に溢れた世界。

ですが、この「天界」も実は本当の意味での「天国」ではありません。せいぜい「自我」が喜びを得る程度の「疑似天国」なんです。

「天」とはいえど、まだまだそこには「自我」があり、「欲」に元ずく世界ゆえ、苦しみの種は残っています。

満足感・達成感を維持しようと、そこに「執着(欲)」が生まれた途端、一時の幸福感もつかの間、あっという間に下の次元へ落ちてゆくこととなります。


『解脱』は、この疑似天国も超えた世界への飛翔を意味します。





さて、以上の話を踏まえて、再度「悟りの階梯」のお話へと戻っていきましょう。





っていうか、やっぱこのシリーズ、なんか堅っ苦しくない?



←大丈夫?まだ行ける?

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預流向・預流果

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さて、それではさっそく悟りの階梯を、順を追ってみていきましょう。

前回、解脱までの道のりは、4つの「向(目標)」と4つの「果(到達)」の合わせて8段階、というお話をしました。

・預流向(よるこう)
-----------------------------------
・預流果(よるか)
・一来向(いちらいこう)
・一来果(いちらいか)
・不還向(ふげんこう)
・不還果(ふげんか)
・阿羅漢向(あらかんこう)
・阿羅漢果(あらかんか)

前回は足し算的に「8段階」と説明してしまいましたが、「階梯(段階・レベル)」という意味で厳密に捉え直すと「4段階+1(預流向)」です。

と、申しますのも、一つでも「果(到達)」に辿り着くと、そこに次なる目標(向)が必然的についてくるからです。

【悟りの4段階+1】

準備段階:「預流向(よるこう)」
第一段階:「預流果(よるか)」と「一来向(いちらいこう)」のワンセット
第二段階:「一来果(いちらいか)」と「不還向(ふげんこう)」のワンセット
第三段階:「不還果(ふげんか)」と「阿羅漢向(あらかんこう)」のワンセット
最終段階:「阿羅漢果(あらかんか)」

という具合。

『悟り』とは、「預流果」を皮切りに、煩悩が順に消えていき、煩悩が消えた分だけ智慧(真理を見極める認識力)が現れていく現象のことを言います。

ですから、一口に「悟り」と言っても、そのレベルは人によって大きく異なります。

預流果、一来果、不還果と順に一つずつ段階を進み、阿羅漢果で完成します。


『自分を苦しめている諸悪の根源は、己の持つ煩悩。それ以外の理由はない。』

このことをハッキリと理解し、「よし、煩悩を消して、真理を見極めよう。」と、シッカリと真理に向かう姿勢のことを「預流向(よるこう)」と言います。

ちなみに「預流(よる)」とは、「完全な悟り(阿羅漢果)へ向かう聖なるれに身をける」という意味だそうです。

その目標に向かうから「預流向」。

ここでは、まだ悟りを目指しているだけの状態ですので、まだ「悟り」とは言えません。(そういう意味も込めて、「預流向」と「預流果」の間に線を入れさせていただきました。)


では、その一線を越え、「預流果」を迎えるとどうなるのでしょうか。


以前、煩悩は数え切れないほどある、というお話をさせていただきました。

大きく分けると「貪欲(欲)」・「瞋恚(怒り)」・「愚痴(無知)」の3種類。

それに「慢(傲慢)」・「見(邪見)」・「疑(疑い)」を加えて『六大煩悩』。

それらを細分化していくと、有名な「108」に、それをさらに細分化すると数千、数万とキリがなくなっていきます。

その膨大な数の煩悩の中から、「預流果」で消える煩悩は…

1.有身見(うしんけん)

2.疑(ぎ)

3.戒禁取(かいごんじゅ)







え? それだけ?



はい。それだけです。

膨大な数の煩悩のうち、たった3つだけなんです。

無くなった煩悩はたった3つだけですから、まだまだ悩みも苦しみも膨大に残っています。

怒りもするし、泣きもするし、ヘマもしますし、凹みもします。

ですが、たった3つとはいえ、悟りを決定づける大切な3つです。


では、その3つを順に見ていきましょう。


1.有身見(うしんけん)

この煩悩は、「貪欲(欲)」でも「瞋恚(怒り)」でもありません。「愚痴(無知)」「見(邪見)」のカテゴリーに属する煩悩です。

これまで色々な形でお話してきた『「私」という独立した存在がある。』という錯覚のことを指す煩悩です。

ほんの一瞬でも、「無常」「無我」を知識としてではなく、体験として納得した時、「有身見」という邪見(因果の道理を無視する誤った考え方)は消え、「ああ、実際には“私”は実在しないんだ!」という理解と共に「無常・無我」という智慧が現れるんです。

そして、「有身見」が無くなると同時に、必然的に無くなる煩悩が2つあります。

それが「疑」と「戒禁取」です。この2つも「有身見」と同じく「愚痴(無知)」のカテゴリーの煩悩です。


2.疑(ぎ)

読んで字の如く「疑い」を意味します。

「疑」という煩悩が無くなるということは、「真理(諸行無常・諸法無我・因縁等)に対しての疑いが無くなる。」という意味です。

「有身見」が無くなったことによって、一瞬でも真理を「体験」しているため、当然それに対しての疑いがなくなります。

先日の「アハ体験」の例で言えば、「ああ!ホントにイエスが描かれていたんだ!」と納得できると、「アハ体験」以前にあった、「え~?こんなワケのわからない模様の中に、何が見えるって言うの?」という疑いは、絵が見えたと同時に消え去ります。

そんなニュアンスで捉えてください。


3.戒禁取(かいごんじゅ)

「戒禁取」は、しきたりや作法・儀式、無意味な修行や苦行等に対してこだわりをもってしまう煩悩(無知)のコトです。

槍のチンコ巻きとかは、まぁ、普段見ることはないにせよ、世の中には、ありがたい宗教的意義がありそうな修行や奇行が沢山あります。

ここ日本でも多く見受けられる「お祭り」や「火渡り」、「滝行」なんかも、この中に含まれます。

線香を何本立てろとか、戒名をどうしろこうしろとか、神社参拝やお墓参りの際は手を何回叩けとか、○○を供えろとか、日々「○○○○○」と唱えろとか、数珠は右手で持て、いや、左手だとか、そう言った「しきたり」や「儀式」にこだわるのも「戒禁取」です。

宗教的なコトだけではなく、事故に遭わないよう、家を出る時は靴は右足から履くとか、試合前にはユニフォームは右袖から着るとか、そういう、いわゆる「ジンクス」なども「戒禁取」です。

真理に触れるという経験をほんの一瞬でもすると、そういったあれこれは、エゴ(自我)が作った勝手な決まり事、文化以上の意味があるわけではないとわかるので、そういったものにこだわったり、ありがたがる気持ちがなくなります。


もちろん、それらの文化にも伝統や出来上がった背景などがありますから、無理に壊したり、蔑ろにするのも考え物です。

文化は、あくまで文化。ですから、人様に迷惑を掛けないのであれば、何をしていても自由です。

「ここではそういう決まりだ」と言われるのなら、それに従う方がいい。そこから余計な“いざこざ”は生まれません。

ですが、「私の行っている、この儀式こそが唯一の真実。こうでなければならない。」とそこにこだわりが生まれているなら「戒禁取」です。

そういうことにこだわる人、またこだわりを強要する人は、真理という自由さの中で生きているのではなく、自我が作ったルール・習慣に縛られ、自らの意思で不自由を選択した人です。



さて、「預流果」によって消える煩悩は上記の3つのみです。

ですから、いくら「煩悩が消えた」と言っても、数ある煩悩のうち、「無知」に関する基本的な3つだけですので、まだまだ欲深な気質も、何かとカリカリイライラするような怒りっぽい性格もそのまま残っているんです。

とはいえ、「諸行無常(全ては変わり続ける)」「諸法無我(実際には“私”は実在しない)」というコトが理解できていますから、一種「諦め」に似た気持ちが生まれ、それまであった「執着」は、徐々に力を弱めていきます。


この「預流果」。

実は、特別な何かを行わなくても、到達できることがあります。

修行も瞑想も不要です。


ある日突然不意に訪れる様なこともありますし、しっかりとした指導者の説法によって迎えることも可能です。


最初の準備段階、「預流向」をすっ飛ばして、いきなり「ガツン!」と来ることもあるんです。

ただ…

何の予備知識も無いままに迎えてしまうと、結構うろたえてしまいますし、僕と同じように「預流向」をすっ飛ばして経験する場合には、ある独特な条件が必要な様です。

その独特な条件とは…

「絶望(地獄を見る)」という経験です。


まぁ、手っ取り早いと言えば手っ取り早いんですが、あまりにも痛すぎるし、リスクが高いので、この方法はオススメできません。

きちんと、順序を守って「預流向」から入られることをオススメいたします。



←こんなマニアックな話でも、ついてこられますか?(最近難し過ぎると妻からダメだしを食らってます。)

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四向四果

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沢山のエール、ありがとうございました。

お陰様で、悪あがきにも俄然力が入ります。

とはいえ、これからもこれまで通り、僕の書けることしか書けないわけですが…。

お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


さて、チョットだけ吹っ切れた感もあるので、この勢いに任せて新たな話題に入っていきたいと思います。

これまでのお話より、かなりマニアックな話題となりますので、どこまでわかりやすく出来るか、自分でもまだわかりません。

でも、やってみます。


これから書こうと思っていることは「悟り」についてです。


前回書いたとおり、その内的体験には、色々な呼び名があります。

「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「預流果」「究極体験」「無我」「覚醒」その他諸々…

言葉は違えど、その言葉の指す意味は同じです。


さて、ではその内的体験って、一体なんなのでしょう。何が起こるのでしょう?


仏教には、輪廻からの解脱、涅槃に入るまでの、悟りの階梯・段階を示す言葉があります。

・預流向(よるこう)
-----------------------------------
・預流果(よるか)
・一来向(いちらいこう)
・一来果(いちらいか)
・不還向(ふげんこう)
・不還果(ふげんか)
・阿羅漢向(あらかんこう)
・阿羅漢果(あらかんか)

4つの「向(目標)」と4つの「果(到達)」の合わせて8段階。

これを合わせて『四向四果(しこうしか)』と言います。

ここ最近の精神世界で取り上げられる内的体験、「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「究極体験」「無我」「覚醒」などの言葉はほぼ、この8段階の中の2番目『預流果』のコトを指しています。


「悟り」なんて言葉を聞くと、どこか「煩悩全てがごそっと抜け落ちる」みたいな印象があるかと思いますが、そうではありません。

それは、悟った後の最終段階、「阿羅漢果」の状態のことなんです。


では、悟りの入り口「預流果」とは何なのか。

そのお話に進む、その前に…

ここら辺の記事を思い出していただけると助かります。

・2008年05月12日投稿「よっぱらい」
・2008年05月14日投稿「あの日」
・2008年05月15日「よっぱらい.2」
・2008年05月16日投稿「酒類」
・2008年07月31日投稿「預流果」
・2008年10月01日投稿「主観」
・2008年10月02日投稿「認識範囲」
・2008年10月07日投稿「生死」



←こんなマニアックな話でも応援していただけますか?


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僕がしようとしているコト

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今日は、「僕がしようとしているコト」と題しまして、このブログにおいて、僕が何をしようとしているのか、ということを改めて書いてみたいと思います。

最近また、「結局あなたは何を言いたいのか?」とか、「伝えようとしていることが何なのか掴めない」的なコメントも見受けられますもので…^^;


本当は、とても複雑で、「コレです」と言い切れないことなのですが、そこをグッと堪えて、素直な気持ちでシンプルに書いてみたいと思います。


ある日、僕はある体験をしました。

その体験は、精神世界や宗教などにおいて、色々な呼ばれ方をしています。

「気付き」「至高体験」「悟り」「アセンション」「預流果」「究極体験」「無我」「覚醒」その他諸々…

うん。やはり、言葉にすると、何とも仰々しい。

どこか、「何を偉そうに。」なんて思われかねない単語群ですよね。^^;


でも、どうかそういう風には取らないでください。

その体験に出会ったからと言って、決して偉いわけでも、凄いわけでもないんです。

まして、自分の意思でどうにか出来るものでもないし。(僕の場合も、例の「セロトニン欠乏」という一要因によって、たまたま人より早めに絶頂に達してしまっただけのこと。)


ですが、その体験に出会うそのことによって、自分の住む世界、次元が変わってしまうこともまた事実なんです。

その体験を通じて、存在のからくりを知ることが出来ました。

「あの世」「この世」「天国」「地獄」、それらの言葉が持つ、本当の意味を垣間見ることが出来ました。

様々な精神世界や宗教で語られる「嘘」と「本当」を、ある程度見分けられるようになりました。

みんながこのことに気付けば、一瞬にして平和な世界が誕生する、ということも知りました。


そこで、僕はこの体験を、ただ伝えるのではなく、出来るだけ沢山の人に実際に経験してもらえる方法を模索しました。

このブログは、まさにその一つです。

一人でも多くの人に、存在のからくりを、宇宙の仕組みを、本当の自分の姿を知ってもらいたい。

僕がしたいのは、そういうことなんです。


ですが、やはりまだ「模索」の域から脱することは出来ていません。

それは、以前お話させていただいたとおり、この体験自体が、学習によっても、修行によっても、意図的に遭遇できない代物だからです。

本当は、僕が何かをしたからといって、どうにかなるものではないのです。

ですから、このブログは、それを承知のうえでの「悪あがき」みたいなモノです。

切っ掛けぐらいになることができれば万々歳です。


「アナタの話はなぜいつも堂々巡りになっているのか?」


みなさんにそう言われてもしょうがないと思っています。

今の僕にはこれ以上、うまく言葉にできないんです。

以前ご紹介した「アハ!体験」で例えるなら、どうしても最後の最後には「だから~!ここにイエスが見えるんだって!」という一言に帰ってしまうんです。

「こうしたら見えるでしょ?」「ここが目で、ここが鼻で、ここが髭で、ここらとここらが茂みで…」と、いくら説明しても、「そんなもん、ちっとも見えないよ。」って言われたら、そこでもうお手上げです。

いくら僕が「気付けよっ!」って声を荒立てたってどうしようもないし。ねぇ。

それでも、こう伝えたら気付けるんじゃないか、こう表現したら伝わるんじゃないかと、あがいてはみるのですが…

最終的には「ここにイエスが見えるぞ。」ってだけの話ですからね。

結局は、どうしても同じ話の繰り返しになっちゃうんですよ。


これからも同じ話の繰り返しになってしまうとは思いますが、それでも僕の悪あがきに付き合ってくれるという寛大な方は、今後ともよろしくお願いいたします。



←応援されると、悪あがきにも気合いが入ります。


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