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ウロコポーロ

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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えー。

そんなこんなで、早速「ウロコポーロ理論」のお話を進めていきたいと思いますが、その前に。

まずはですね、この「ウロコポーロ」という、この言葉のニュアンスからお話していきたいと思います。


【ウロコポーロ】

目から鱗が落ちるさま。また、その人。



「目から鱗が落ちる」という慣用句を、ユーモアとともに見事に単語化したこの言葉は、もともと、僕が言い出したものではありません。

数年前に、あるコメンテーターさんから書き込みをいただいたものなんです。

で、コメント欄で拝見して、すっかり一目惚れしてしまいました。


いわゆる「目覚めの一瞥」の説明をするとき、聞くとき、「悟り」と言われると何だか偉そうだし、妙に仰々しい。

「アセンション」だと、何だかわからない。

「目覚め」や「気づき」なら、少し仰々しさは和らぐでしょうか。でも、一般的に使われる「目覚めや気づきと、何がどう違うの?」ということもあるし…。

でも、『ウロコポーロ』には、そういう違和感を感じさせない軽やかさがあったんです。


そしてまた、僕の経験を振り返ってみても、『ウロコポーロ』が一番しっくりする気がします。


と、言いますのもね…

この「目から鱗が落ちる」という慣用句を辞書で調べてみると、そこには驚きの事実が。


*****

目(め)から鱗(うろこ)が落(お)・ちる

《新約聖書「使徒行伝」第9章から》何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになるたとえ。

*****


と、いうことで、この言葉の語源は「新約聖書」。そしてまさに「キリストを迫害していたパウロ(サウロ)が目覚めを経験し、回心するエピソード」から、来ていたんです。

で、さらに調べてみますと、この「鱗」は、魚の鱗のことではなく、蛇の鱗のことだそうで。(蛇の目は鱗で覆われています。 脱皮のときに目の鱗も一緒に剥がれるため、「目から鱗が落ちる」んだそうです)

w( ̄Д ̄;)w え~!ずっと、魚の鱗だと思ってた~!! まさに目から鱗!



とにもかくにも。

「目覚め」も「気づき」も「アセンション」も「悟り」も、その言葉の奥に、なんというか「何か新たなものを知った」というようなニュアンスを感じたりしませんか?

「覚者」と聞くと、どこか「あらゆる真実を知った人(過ちを犯さない人)」をイメージしてしまいませんか?

でも、僕がお話している「目覚めの一瞥」や「ウロコポーロ」のニュアンスは、それとは、ちょっと違うんです。

「すべてを知った」というよりも、「誤っていたことに気がついた」ということなんです。

「正しさを知った(得た)」のではなく、「鱗(思い込み)が落ちた」だけなんですね。

勿論、鱗が落ちた分、視界は以前よりクリアになっています。

でも、目の中にある鱗は、1枚や2枚じゃないんですよ。

「まだ入ってるのかよ!」と、さまーず三村さんのテンションで突っ込みたくなるぐらい、いろんな種類の鱗が入ってる。


だから僕は、「真実を知った者(覚者)」ではありません。「目から、いくつかの鱗が落ちた者」です。

そしてまたその経験から、「ウロコ」の存在と、そのウロコを目に入れたがる人間の心理に気づいた者です。

さらにさらに、一度落ちたウロコを、わざわざ目に入れ直したりもする者です(笑)


だから、僕がここでお話しているのは、絶対的な真理の提示ではありません。

そしてまた、僕好みの価値観・観念を広めることでもありません。

そうではなく、僕たち人間が、すでに持ってしまっている「自分自身の可能性を閉ざし、自らを不自由にしている価値観・観念(鱗)」の存在に気づいて欲しいだけなんです。


ここは大事なポイントなので、改めてお話します。


僕の話を「情報として得る」ことは、あまりオススメしません。

そういう使い方を前提としてこのブログに関わると、それは新たな「鱗」になってしまいます。

それは、僕のしたいことと真逆のことです。

僕の話は、あくまで「目から鱗が落ちる」を経験するための一つの切っ掛として使ってください。

「得る」のではなく「落とす」(厳密には「落ちる」。自我には落とせません)ために、使ってください。



それから、

お気付きの方も多いとは思いますが、僕は頻繁に「極端な話し方」をすることがあります。

前回の「指摘」のお話もしかりで、時に、その極端さに対して「黒斎さんは、そうやって断定的に話すけど、それだけじゃないよ、もっと別な解釈だってあるよ」というツッコミが入るわけです。

その指摘の数々は、確かにその通りなんです。

だから、そのご意見を排除するつもりも、僕の提示したものだけを押しつけるつもりもありません。


ただ、知っておいて欲しいのは、僕がその話(話し方)を持ち出したのは、別な意図があってのことだということです。

その意図とは、「無数にある鱗の中から、ある特定の鱗を、ピンポイントで落とそうとしている」というものです。

「その鱗」が目に入っていた人は、そのメッセージを切っ掛けに「あっ!そうか!」となる可能性がありますが、その鱗がない方にとっては、まるで意味を持ちません。

まるでピンときません。僕が、何を話そうとしているのかが掴めません。

だって「元からその鱗がない人」は、「その鱗があることで、どんな世界が見えるのか」が、わかりませんから。

そして、そのギャップの中に、様々な意見が飛び交い、収拾の付かない論争が生まれてしまうんです。

ですので、ピンと来ないときは素通りしてください。


このブログは、その媒体の特性上、不特定多数の方に対して発信されます。

しかしながら、話の内容は、閲覧者全員に向けられているものではありません。

たとえ僕が「あなた」と書いていても、それは「あなた」ではなく、僕が想定している「鱗の持ち主」に向けたものです。


ここにあるメッセージは、万人のためのものではありません。その話を切っ掛けに「あっ!」となれる人のためのものです。

まずは、そのことを改めてご了承ください。

そしてまた、余裕がありましたら、そういった観点からこのブログや本を、何度か読み直してみてください。

そうすることで、以前は何気なく素通りしていたところに、新たな「ウロコポーロ」が起こる事もあると思いますので。




【ライブ・インフォメーション】

「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

前回の福岡ソロライブに続き、プロジェクターを利用したプレゼンスタイルのトークライブを予定しています。

お楽しみに!

◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00~(13:30開場)

【会場】福井市地域交流プラザ 研修室607
    福井市手寄1丁目4番1号 AOSSA 6階
    JR福井駅東口から…徒歩1分
    北陸自動車道福井ICから…車で15分

【料金】お一人様 3,000円

※お申し込みは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



【インフォメーション】



本日、『月刊アレ!』の5月号が配信開始となりました。

よろしくお願いいたします!



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指摘.2

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(  ̄Д ̄) 『なぁ黒斎。今日は「指摘」という行為の中から、自我を解読してみよう。まずは、理想論や精神論から離れて、一人の人間としての素直な気持ちで聞いてみて欲しい』

( ̄д ̄ ) 「はぁ、指摘、ですか」

(  ̄Д ̄) 『指摘というのは、「する側」と「される側」で、まるで表情が異なるものだと思わないかい?』

( ̄д ̄ ) 「どういうことです?」

(  ̄Д ̄) 『その行為の中で、自我の経験する「気持ちよさ」に違いがあるんだ。
勿論、する側にも、される側にも様々な解釈があるからね、絶対的な基準として話すことはできないけど、おまえ自身を省みればわかるとおり、指摘っていうのは「される側」にとっては、あまり気持ちのいいものとは言えないだろ?』

( ̄д ̄ ) 「そうですね。確かに、気持ちいいものではないです」

(  ̄Д ̄) 『そしてね、その指摘が事実か否かは問題ではないんだ。相手の勘違いで事実無根の指摘をされるのは気持ちのいいものじゃないよね』

( ̄д ̄ ) 「もちろんです」

(  ̄Д ̄) 『じゃあ、その指摘が「図星」だったら?』

( ̄д ̄;) 「なおのこと気持ちいいものではありませんね……」

(  ̄Д ̄) 『な、どちらにしても気持ちのいいものではないんだ』

( ̄д ̄ ) 「でもでも、中には「いえ、あらゆるご指摘は私を成長へ導く大切な道しるべですから、感謝とともに頂戴いたします」なんて人もいるでしょう?」

(  ̄Д ̄) 『そうだろうね。けれども、それにしたって、それが「気持ちいいのか」って言ったら、そういうことでもないだろう?』

( ̄д ̄;) 「ええ…」

(  ̄Д ̄) 『で、「する側」ってのは、けっこう気分がいいんだ。
「アナタのために」という言葉が、本当の気持ちであれ、優越感を得る為の隠れ蓑であれ、どっちにしろ、気持ちがいい。
どうだろう、そういう気持ちを、自分の中に感じないかい?』

( ̄д ̄;) 「思いっきり感じますね」

(  ̄Д ̄)  『それはね、自我が「指摘」という構造の中に、少なからずの上下関係を感じてしまうからなんだ。

指摘する側が正しく(私が善で)、指摘される側が間違い(あなたが悪)。
指摘する側が利口で(私の方がより知っていて)、指摘される側が無知(あなたはバカ)。
指摘するのは優しさで、指摘されたなら、その優しさに感謝すべき。
私があなたに合わせるのではない、あなたが私に合わせるべき。

以前話したとおり、自我には「自己防衛(反転して、優越性の保持)」という基本プログラムがあるから、そんな構造が見えるやいなや、過敏に自動反応してしまうわけだ。「指摘される側」なら、なおのこと』

( ̄д ̄ ) 「なるほどー」

(  ̄Д ̄) 『指摘される側の自我が強ければ強いほど、それは「怒り」や「抵抗」など、「拒否反応」として現れることになる。
拒否反応がある以上、言いがかりでも、正論でも、どちらも受け入れたがらない。
ただの「指摘」でさえそうなんだから、そこに「高圧」や「強要」などの態度、「怒り」などの感情、攻撃性、そういったものが加わって見える場合は余計に「拒否反応(防衛反応)」が強まる。
「指摘する側」が、相手に改善を求めてたとしても、「指摘される側」は「お前のいいなりになってたまるか」という反応となって、結局は望まない結果の方を導くことになってしまうんだ』

( ̄д ̄ ) 「つまり、指摘はしないほうがいいということですか?」

(  ̄Д ̄) 『いや、わたしが話しているのはそういうことじゃない。した方がいい、しない方がいいということじゃなく、その性質を理解したうえで活用しなさいということなんだ』

( ̄д ̄ ) ???

(  ̄Д ̄) 『つまりね、大切なポイントはここなんだ。

「相手が求めていない場においての指摘は、まるで役に立たない(むしろ逆効果)」

そしてそれは、「指摘や反省は、本来自分自身に向けて活用するツールであり、他者に強要するものではない」

とも言い換えられる。

これは、コメント欄でたびたび話題になる「投影」や、また「感謝」などについても同様だ。
これらは自分自身のためのものであり、相手に強要するためのものではない。
自分の自動反応(カルマプログラム)に気づく為の一手段であって、他者をコントロールするためのものではないんだ。
そのツールを使って他者をコントロールしようとすることで、自我は自らの手で、対立や口論や生みだし、そしてその中でストレスを感じるんだ。
つまり、自分自身の手によって、苦を生み出してしまっているということ』

Σ( ̄д ̄;)

(  ̄Д ̄) 『このポイントがわかると、そこではじめて「指摘」における健全な関係性が見えてくる。
「指摘」という行為の中で必要になるのは、「上下関係」ではなく「信頼関係」だ。
先ほど話したとおり、この構造の中にあるものは、そもそも自我にとって気持ちいいものではない。
それを覚悟・了承の上、あえて「指摘を受けよう」となった時に、はじめて活用できるものなんだ。
だからこそ、信頼関係がないところに、本来の「指摘」が機能するはずがない』


*****



さて、いかがだったでしょうか。

皆さんがお気づきの通り、上記は前回の記事をそのまま、「僕と雲さんの対話」という形式で書き直したものです。

お話している内容は同じです。

しかし、その中に大きな違いを感じられる方もおられることでしょう。


何が違うのか。

それは「指摘されている人の違い」です。

多くの方からご愛顧いただいている「僕と雲さんの対話」という表現の中には、「アナタ」がでてきません。

指摘されているのは、あくまで「黒斎」であり、「わたし」ではありません。

つまり、当事者にならずして、話を傍観することができていたわけです。


しかし、前回の表現には、雲さんが見えませんでした。

(もしくは、あの一人語りが、雲さんの言葉なのか、黒斎の言葉なのか、判断できなかったはずです)

そしてなにより、指摘されているのが「黒斎」ではなく、「わたし」になってしまっています。

これまで安全な場で傍観していたはずの「わたし」が、いつの間にか『指摘』の中に巻き込まれている。

それが、多くの方の不愉快さに繋がりました。


最近のコメント欄でも見られる「あの時の黒斎さんはどこにいっちゃったの?」「最近、ちゃんと雲さんと話をしているんですか?」や、「お前、いつからそんなに偉くなったんだよ。もっと謙虚になれよ」という反応がそれです。


前回の記事の通り、自我は指摘が嫌いです。

勿論、僕も苦手です。

だからこそ、ブログの開設当初、対話形式という表現を好んで使用していました。

このアウトプットの仕方は、今でもとても人気があります。

このブログや本に対して、多くの方が感想としてあげられている「これまでのスピリチュアル書では感じられなかった読みやすさ」の一番の秘密は、実は、噛み砕いた表現や比喩の奇抜さではなく、「わたしが直接指摘されることなく、安心して読むことができるから」なんです。

「わたしが指摘されているのではない」という、自我の警戒心を最小限に抑えた状況の中で、冷静に、客観的に自我の構造を知ることができるから、すごく、受け取りやすいんです。

そして、「わたし」が巻き込まれないその中に、多くの方が「やさしい黒斎」や「謙虚な黒斎」を見い出したのだと思います。

そのイメージの持たれ方にも、少々の違和感を感じてはいたのですが、僕はながらく、それに納得して書き進めていました。

しかし、この表現だからこそのデメリットも沢山見えてきました。


見えてきたデメリットは様々なものがありましたが、その中でも僕が特に気になってしまったのは、僕がお話したい話の核心よりも、「守護霊」というイメージが一人歩きすることで、一部の方の関心の寄せ方が、僕の望んでいなかった、ファンタジーの方へと進んでいってしまったことです。

僕としては、ウソを書いているつもりはありませんが、それが大きな誤解を作っている原因の一つであるという自覚もありました。


そこで僕は、あえてこの対話という表現から離れてみようと思いました。

雲さんを出さずに、僕の一人語りを始めました。

すると案の定、「お前の話はいいから雲さんの話を聞かせろよ」という拒否反応が見え始めました。

あらかじめ想定していた反応でしたが、対話形式に戻すことにも躊躇いがありました。

「雲さんの話なら聞く」というこの姿勢の中に、盲目的な依存を感じずにはいられなかったからです。

『誰が話しているか』よりも重要なのは、『何が話されているか』です。

それが、すっかり失われているように思えたんです。



対話には対話のメリット・デメリット。

一人語りには一人語りのメリット・デメリット。

それに合わせて、不特定多数の読者の皆さんの多様な趣味嗜好。


出来るだけバランスをとって、多くの方にメッセージできる方法を探し、僕は次いで「物語」という表現方法をとってみました。

そう、『極楽飯店』です。

物語なら、読者が指摘に巻き込まれることはありません。

それを担うのは、タクちゃんをはじめとした、登場人物です。

表現方法を物語にすることで、再度、読者の皆さんの警戒心を抑えることができました。

またすこし、客観的な視点で、冷静に話を聞いてもらえるようになりました。


が。

ここでまた僕は大きな壁に突き当たりました。

「物語」を、どうやって書いていいのか、知らなかったのです(笑)


実を言うと、僕は30歳を超えるまで、本というものをほとんど読んだことがありませんでした。

学生時代から勉強が嫌いで、相当な活字アレルギーでした。

なので、僕は「デザイン」という道に逃げ込んだんです(笑)


まぁ、余談は置いといて。

とにかく、小説もほとんど読んだ事がないので、どうやって物語を書いて良いのかさっぱりわからない。

僕が話したいことを、どうやって物語に組み込めばいいのかわからないのです。

そしてその戸惑いは、そのまま「更新頻度の激減」というものに繋がってしまいました(笑)


そして、なんとかかんとか、物語を閉じるまでに至ったのですが、今度はその次の表現方法がみつかりません。


そんなこんなをしている内に、実は、新たな「シフト」を体験しました。

これまで自分の中で上手く整理できていなかった複雑な(いや、複雑だと思い込んでいた)次元構造の一部がわかってしまったのです。

でもそれは、2004年のあの時と同じで、新たな戸惑いの始まりでもありました。


実は、そのことを、いままで以上にお話したいんです。

なのに、それをどのように言語化(もしくはどんな表現方法でも)すればいいのか、わからないんです。

言葉にしてしまうと、あまりにも「トンデモ」な世界なんです。

それこそ、「あ、黒斎が、とうとう壊れた」とでも言われそうなぐらい(笑)



少しだけお話しますとね、聖書に、こんな話が出てくるんです。

イエスが水をワインに変えたり、ちょっとしか無かったパンを増やして、何千人もの人の空腹をみたしたり、等といった奇跡。

僕ね、これらの話を、きっと何かの比喩だろうと思って、その意味を探っていたことがあったのですが……

最近の僕は「あの話は実話かもしれない」という風に思い始めているんです。


ね、「いや、それはちょっと……」なレベルでしょ?



そしてまた、世にある沢山の「真実」。

矛盾を抱えた、相反する沢山の「真実」の表明も、本当はすべてが「真実」である、ということが分かってきました。

そして、どの「真実」を採用するかによって、自分の人生がどのように変わるか、また、個人個人が採用できる真実と、採用できない真実があることも分かってきました。

簡単に言うと、いわゆる「アファメーション」や「引き寄せの法則」などのメソッドで、実際に効果を実感できる人と、できない人がいることの理由です。

何かを実現する際に、努力が必要になる人と、まったく別なカタチで実現してしまう人の違いです。



と、いうことで。

僕にはまだまだ稚拙なアウトプットしかできませんが、(最近の流れに合わせながら)このことをお話していきたいと思っています。

表現の仕方は、対話形式・一人語り・寓話・実例など、様々なものを縦横無尽につなげていくつもりです。

そしてまた、その中には限られた方にしかわからないであろう、とてもストライクゾーンの狭い話も放り込みます。

自我にとって安全な、観客席から傍観していただくこと(アウトプット:対話形式)もありますし、時には、フィールドに出て、一緒にプレイしていただくこと(アウトプット:一人語り)もあると思います。

皆さんの新たな気づきに一役買いたいと思っていますが、その中には、とても不快な思いをさせてしまう可能性も多々含まれます。


そういった諸々のことをご了承のうえ、ご参加ください。


これから僕がお話していくのは、「ウロコポーロ理論」。

随分と前に、コメンテーターの方からいただいた「ウロコポーロ(目から鱗が落ちる現象)」という名称を拝借して、『この世の仕組み』についてお話するものです。


僕はついつい、話を引っ張りすぎてしまう傾向があるので、今回はまず先に、その結論、というか、いま僕が提示できる範囲内での「全体像」をお見せします。

中には、この図だけでも、何らかの気づきにつなげることができる方もいらっしゃると思います。





これから先、瞑想の話の続きも含め、この図に乗っ取ってご説明してまいります。

色々なご意見もあるとは思いますが、しばしお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。



【追記】

今後、それが誰宛かに関わらず、煽りや揶揄、揚げ足取りや罵倒など、不要な不快感を感じさせるコメントの掲載は控えさせていただきます。

また、僕のお話したいことと明らかに異なる解釈をもってのコメントや、話の流れに混乱を生じさせる可能性が感じられた書き込みは、ネガティブ・ポジティブ関わらず、掲載を見送らせていただきます。

もちろんこれは、指摘や反論を拒んでいるものでも、排除しようとしているのでもありません。

指摘の際には、相手に対しての尊厳や、表現の配慮を心がけたものでお願いいたします。

僕に対しての叱咤、ご意見も、ありがたく頂戴致します。どうぞ、これまで通りお寄せください。




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6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

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【日時】6月17日(日) 14:00~(13:30開場)

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    福井市手寄1丁目4番1号 AOSSA 6階
    JR福井駅東口から…徒歩1分
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指摘

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理想論や精神論ではなく、一人の人間としての素直な気持ちでお話したいと思います。


『指摘』というのは、「する側」と「される側」で、まるで表情の異なるものです。


何が一番違うかと言うと、多分、その行為の中にある「気持ちよさ」じゃないでしょうか。

する側にも、される側にも様々な解釈がありますが、まぁ、「される側」にとっては、あまり気持ちのいいものとは言えないですよね。

その指摘が事実か否かは問題ではないんです。

相手の勘違いで事実無根の指摘をされるのは気持ちのいいものではありません。

そして、その指摘が「図星」なら、なおのこと気持ちいいものではありません(笑)

そうではありませんか?

どっちにせよ、気持ちのいいものではないんです。

もちろん中には「いえ、あらゆるご指摘は私を成長へ導く大切な道しるべですから、感謝とともに頂戴いたします」なんて方もいらっしゃるでしょうけども、それにしたって、それが「気持ちいいのか」って言ったら、よくはないわけで。ねぇ。


で、「する側」ってのは、けっこう気分がいいんですよ。

「アナタのために」という言葉が、本当の気持ちであれ、優越感を得る為の隠れ蓑であれ、どっちにしろ、気持ちがいい。

これって、素直な気持ちで自分を振り返ってみれば、誰もが感じられることだと思います。


それは『指摘』という構造の中に、少なからずの上下関係を感じてしまうから。


指摘する側が正しく(私が善で)、指摘される側が間違い(あなたが悪)。

指摘する側が利口で(私の方がより知っていて)、指摘される側が無知(あなたはバカ)。

指摘するのは優しさで、指摘されたなら、その優しさに感謝すべき。

私があなたに合わせるのではない、あなたが私に合わせるべき。


自我には「自己防衛(反転して、優越性の保持)」という基本プログラムがありますから、そんな構造が見えるやいなや、過敏に自動反応してしまうわけです。「指摘される側」なら、なおのこと。

指摘される側の自我が強ければ強いほど、それは「怒り」や「抵抗」など、「拒否反応」として現れることになります。

言いがかりでも、正論でも、どちらもノーサンキューです。

ただの「指摘」でさえそうなのですから、そこに「高圧」や「強要」などの態度、「怒り」などの感情、攻撃性、そういったものが加わって見える場合は余計に「拒否反応(防衛反応)」が強まります。

「指摘する側」が、相手に改善を求めてたとしても、「指摘される側」は「お前のいいなりになってたまるか」という反応となり、望まない結果を導くことになります。


つまり、大切なポイントはここです。

「相手が求めていない場においての『指摘』は、まるで役に立たない(むしろ逆効果)」

そしてそれは、反転させて、こう言い直すこともできます。

「指摘や反省は、本来自分自身に向けて活用するツールであり、他者に強要するものではない」


これは、コメント欄でたびたび話題になる「投影」や、また「感謝」などについても同様です。

これらは自分自身のためのものであり、相手に強要するためのものではありません。

自分の自動反応(カルマプログラム)に気づく為の一手段であり、他者をコントロールするためのものではありません。


このポイントがわかると、そこではじめて『指摘』における健全な関係性が見えてきます。

『指摘』という行為の中で必要になるのは、「上下関係」ではなく「信頼関係」です。

先ほど話したとおり、『指摘』という構造の中にあるものは、そもそも気持ちいいものではありません。

それを覚悟・了承の上、あえて「指摘を受けよう」となった時に、はじめて活用できるものです。

だからこそ、信頼関係がないところに、本来の『指摘』が機能するはずがないのです。


だから僕は、これまで一貫して「聞きたい人だけ聞いてください」というスタンスを守ってきました。

聞きたくない人、興味の無い人を引き留めるつもりはありませんし、また、僕がわざわざ聞きたくない人のところに出向いて、自分の考えを押しつけるつもりもありません。

むしろ、「話が核心に近づくにつれ、アナタが聞きたくない話になっていきますよ」という警告を要所要所でしてきたつもりです。


このブログは、精神性の高さを披露し合う場ではありません。また、精神性の低さを罵倒する場でもありません。

これまでも、これからも、このブログで僕が展開するのは、ある種の『指摘』と、その『指摘』の活用方法の提示です。

その提示が正しいものか、また、アナタに適しているかどうかの確証もありません。

そしてまた、一貫したポリシーもありません。




以上を考慮の上、参加を希望されない方は、どうぞご自由にお引き取りください。





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雲堂

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おい、TENGAを腹に当ててどうする!

ソレを当てるのは、へそ下三寸よりさらに下だ!!


……あ、すいません。

結構なリアクションをいただいたので、思わずTENGAネタを引っ張ってしまいました。

こんばんは、モテキを終えた者です。


さて、そんなこんなで、割り箸、マサイジャンプ、呼吸と鼓動、ペットボトル、と、いくつかの具体例を提示してみましたが、いかがでしょうか。

瞑想については、まだまだお話したいことがあるのですが、今回はちょっと中断して「瞑想アプリ」なんてものをご紹介したいと思います。

まぁ、言ってしまえば坐禅時間を設定する「タイマー」なのですが、あなどるなかれ。

合図となる鐘の音色をカスタマイズしたり、誘導ナレーションの有無を選べたり、累積回数・通算時間が確認できたり等々、なかなかに良い感じなのです。


インターネット寺院「彼岸時」が無料提供しているスマートフォン用坐禅アプリ。

その名も「雲堂」

その名称にも妙な親近感を覚えてしまいました(笑)。

僕のツイートで、たまに現れる「放禅:坐禅を終了しました。 (10:43)」という呟きは、この雲堂を使って坐禅を終えた時のものです。


「雲堂」 how to 坐禅【日本語】



上記の紹介VTRも、すごく丁寧に作られています。

ご興味・関心のある方は是非!


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カルマの解消.2

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はてさて。

引き続きコメント欄に沢山の書き込みを頂いております。

イニシエーションの信憑性、「投影」、批判・対立の是非、お金と価値、コメント欄のありよう、また、僕のあり方などなど、皆さんのご関心も多岐にわたっておりますが、とりあえずはペットボトル瞑想のお話をすすめていきたいと思います。


思考(マインド)と、意識(存在感)のリンクを解いて、思考が介入していない状態の感覚を思い出す方法として、『呼吸や鼓動を感じることで、意識の中心を、頭からハートに下ろす』というお話をしました。

普段、額の周りに感じている「意識の中心」をぐーっと、下ろしていく。

そして、その「意識の中心を下げる」ということを「頭(マインド)でやろう」とならないように、呼吸と鼓動にフォーカスする。

それを「感じる」ことで、自ずとマインドが介入出来なくなっていきます。

それでも、長らく思考と意識が繋がりっぱなしだったため、「気づくと意識が頭に上がってきている」という状態になると思います。

それに気づいたら、ただ、また静かに、「呼吸と鼓動を感じる」という方にフォーカスしなおしてください。

慣れないうちは、どうしても行ったり来たりする感じになると思いますが、それでも構いません。

呼吸も鼓動も、慣れ親しんだものです。アナタから離れたことはありません。

だからこそ、一度でもその感覚を掴めれば、徐々に馴染んでいくと思います。

そして、たとえ行ったり来たりでも、継続することで、落ち着きや冷静さ、心のゆとりは生まれます。

心にゆとりを感じられるようになると、それに比例して、アナタの目にする「現実」が書き換わっていきます。

その好転は、特に「人間関係」という場面で現れ出します。

苦手だった人が苦手じゃなくなったり、意図せず縁が切れたり、意地悪だった人が急に優しく接してくれるようになったり、また、アナタのアセンションに必要な鍵を持つ人との、新たな出会いが訪れたり。

このことについては、また回を改めてお話したいと思います。



意識が「思考」とリンクしている状態から、「ハート」とリンクする状態へ移行し、その状態に慣れてきたら、今度は「丹田(いわゆる、へそ下三寸と呼ばれる部位)」に下ろしていってみましょう。

ここでいよいよ、ペットボトルの登場です。

中身は入っていようがいまいが構いません。ミネラルウォーターでも、オランジーナでも結構です。

そのペットボトルを、キャップ側を自分のお腹に向けるカタチで両手で軽く握ります。

そして、そっとキャップを丹田に当てる。

よく見る坐禅のポーズで、ペットボトル持ってる感じをイメージしてみてください。




↑こんな感じ。(TENGAじゃないぞ。ペットボトルだぞ)


で、「ハート」の時に呼吸と鼓動に意識を向けたのと同様、意識をマインドで下ろそうとせず、お腹にペットボトルのキャップが触れている、その感覚の方に意識を向けます。

そして、そのキャップとお腹(丹田)が触れているという感覚を手がかりに、いつも額の周辺にあった意識の中心が、丹田に下りてきている。そして、「丹田と意識がリンクする」という、その感覚を見つけてください。

思考が働いているのに気づいたら、慌てず、否定せず、ただ「感じる」に切り替える。

フォーカスを戻す位置が、ボトルキャップでマーキングされているので、すぐに戻ることができます。


で。

感覚的なものなので説明が難しいのですが、「何かを握ることで少しリラックスする」ってことがあるんです。

以前からお話しているとおり、瞑想とリラックスは切り離せません。

精神がざわついているときほど、リラックスするのはなかなか難しいものですが、前回ご紹介した準備運動で一度鼓動を高め、そして、その鼓動が落ち着いていく流れに乗ることと、ペットボトルを握るというこの二つことで、少なからずリラックスを促すことができます。


もちろんこれは僕の感覚に当てはめての話なので、該当しないという方は別な方法を探してみてください。

ペットボトルじゃなくてもいいし、何も持たなくてもいい。

とにかく、「意識と丹田のリンク」という感覚を掴めるなら、どんなものでもかまいません。

また、「リラックス」についても同じこと。

狭いところが落ち着く、と言う人もいれば、いやいや、狭いところは怖い、となる人もいます。

どんな環境が一番リラックスできるのかは、人それぞれ違いますので、自分に適した工夫をしてください。



意識とハートがリンクすると、人間関係に影響していくのに対し、丹田では、物質的な変化の流れを促してくれます。

これについても、また回を改めてお話したいと思います。



ご興味がありましたら、まずは一度、実際にお試しください。




【ライブ・インフォメーション】

明後日です!

◎4月15日(日) 阿雲の呼吸 in 札幌

今回の会場は、これまでの「札幌市教育文化会館」から「アスティ45」に変わっていますので、ご来場の際はご注意を。

詳しくは阿部さんのブログにて。



福井の「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00~(13:30開場)

【会場】福井市地域交流プラザ 研修室607
    福井市手寄1丁目4番1号 AOSSA 6階
    JR福井駅東口から…徒歩1分
    北陸自動車道福井ICから…車で15分

【料金】お一人様 3,000円

※お申し込みは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



←ペットボトルを丹田に当てる前に、ポインタをここに当てていただければと。
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