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正命

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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( ゜ д゜) 「正見・正念・正定・正思惟・正語・正業。だいぶ進みましたね。」

( ゜ ー゜) 「残りは…。“正命(しょうみょう)”と“正精進(しょうしょうじん)”の2つだね。」

( ̄д ̄ ) 『じゃ、「正命」の話をすすめましょう。』

( ゜ ゝ゜) 「“正命”は、確か“仕事”のことでしたよね?」

( ̄д ̄ ) 『そうですね。「正業(正しい行い)」の発展系と考えればいいと思います。人間が生活を営むためには、なにかしら仕事をしないといけないですからね。きちんと「正業」に通じる仕事をしましょうということです。』

( ゜ ∀゜) 「そうすると、やはり“あり方”が大事なんですね。」

( ̄д ̄ ) 『はい。そのとおりです。』

( ゜ ω゜) 「みんなが幸せになれるように働く。そういうことでよろしいですか?」

( ̄д ̄ ) 『はい。結構です。』

( ゜ д゜) 「でも…。わざわざそんな事言わなくても、みんな幸せになりたくて働いてるんじゃないの?」

( ̄д ̄ ) 『まぁ、そうなんですけどね。でも、やっぱりそこに「欲」や「怒り」「無知」が加わるとおかしな事になっちゃうんですよ。』

( ゜ ー゜) 「おかしなこと? それ、どういうことですか?」

( ̄д ̄ ) 『「欲」が強くなると、いつの間にか「みんなが幸せになるために」という本来の目的から、「自分の利益を得るために」という目的にすり替わっちゃうんです。』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) あ…たしかに…

( ̄д ̄ ) 『仕事の目的が「幸せ」から離れ、「利益」に置き換わることによって、その目的達成のため、人の幸せを蔑ろにしてでも利益を得ようとする、本末転倒な行動になってしまうんです。みんなの幸せを願っていたはずが、いつの間にか「競争」が生まれ、勝者・敗者を生み出してしまう。それではやはり「みんなの幸せ」ではなくなっているんです。』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) …

( ̄д ̄ ) 『そこに需要があるからと言って、武器や毒を作って販売したり、怒りや欲、悲しみ、恐怖などを煽る情報を流したり、本来必要の無いモノを、「もっと幸せになりますよ、あなたにはこれが欠けているんですよ」と騙して販売してみたり、少量で事足りるものを、もっともっとと無駄に押しつけてみたり、自分の利益を上げるために環境を破壊してしまったり、我先にと顧客を奪い合ってみたり。ほら、これらはすべて「煩悩(欲・怒り・無知)」があるからこそじゃないですか。』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) ホントですね…

( ̄д ̄ ) 『程度の強弱はあれど、そういう経済状態が、日々当たり前に目の前で展開されているんです。そういう経済がいくら発展を遂げたとしても、人間の幸せとは、かけ離れていってしまうんですよ。当然ですよね。だってその経済活動の目的がすでに「幸せ」じゃなくなっちゃっているんですから。「利益があることが幸福なのだ」と錯覚を起こしているから、また、「本来利益と幸福はイコールで結べない」とわかっていないからこそ、こういう問題が起こるんです。目的を見失ってしまった(間違ってしまった)行動の先にあるのは、本来望んでいなかった(想定していなかった)結果となります。欲・怒り・無知、それらが元になっている行動の先にあるのは、「苦しみ」「不満」という結果です。ただ闇雲に需要と供給に流されて仕事をする人間と、物事の因果関係(原因と結果)を観察して仕事をする人間と、どちらが「真理(本当のこと)」を見いだす能力が高いと思いますか?』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) 後者ですね…

( ̄д ̄ ) 『でそ。ぜんぜん難しいことじゃない。』

(;゜ ー゜) 「お話はよくわかりました。ですが…。世の中はすでにそのような経済体系で成り立ってしまっています。略奪や殺生も日常茶飯事です。私たちは、何をすればいいのでしょう…。」

( ̄д ̄ ) 『ですから、気づくべきは「何をすればよいか」ではなく、「どうあるべきか」なんですよ。人間一人一人が自らの「あり方」に気づかない限り、その悪循環からは抜け出せないんです。この世という地獄で、輪廻転生を繰り返すだけなんです。』



←わたくし黒斎、ある意味、人々の欲を煽る仕事を生業としております。_| ̄|○

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正業

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ブッダは、人間の「行為」を、3つに分けて教えを説いていました。

それは、『思考(think)』『伝達(communicate)』『行動(action)』の3つです。

「思考」に対しての教えが「正思惟」に繋がり、「伝達」に対しての教えが「正語」に繋がります。

残りの1つ、「行動」に対しての教えが「正業(しょうごう)」です。



( ゜ д゜) 「正業の意味は、“正しい行い”でしたよね。」

(;゜ ー゜) 「んー…。これも何を“正しい”とするかが難しいね。」

(;゜ ゝ゜) 「僕たちもついこないだまで、苦行を“正しいこと”と信じて行っていたわけだし…。」

(;゜ ∀゜) 「それに一口に“行い”って言っても、その範囲は“考えること”や“話すこと”以上に広いよね…」

(;゜ ω゜) 「それこそ“修行”というモノも“行動”の一つだし、“歩く・食べる・書く・洗う・運ぶ・掃除する・叩く・寝る…”ということなども、全部“行動”だ…。」

(;゜ д゜) 「考えれば考えるほど何を成すのが“正しい”と言えるのかわからなくなってきたぞ…。」

( ̄д ̄ ) 『そんなに難しいことじゃないんですよ。皆さん考えすぎです。』

(;゜ ー゜) 「いや、難しいですよ。」

( ̄д ̄ ) 『考えすぎですって。この「正業」も、こないだの「正思惟」や「正語」と同じことなんですよ。』

(;゜ ゝ゜) 「同じといいますと?」

( ̄д ̄ ) 『「あり方」の問題です。「行い」の事を話しているから、どうしても「何を成すか」という「Do」に目がいっちゃうと思いますが、これも大事なのは「Be(あり方)」なんです。「行為」という言葉は、「意思をもってする行い」という意味ですよね。大切なのは「行い」の方じゃなくて、その行いの元となる「意思」の方なんです。』

Σ( ゜ ∀゜) 「あ~。なるほどね。」

( ̄д ̄ ) 『先日の「言葉遣い」の話と同じなんですよ。「行動」はどのようにでも行えます。自分が何を成すかは、自分で選択できるんです。だからこそ、行動する人間の「あり方」次第で、行為に違いが表れる。』

Σ( ゜ ω゜) 「なるほど。同じっすね。」

(;゜ д゜) 「と、言うことはだよ…。やっぱり行動そのものに、その人の人間性が現れると…」

( ̄д ̄ ) 『そりゃそうじゃないですか。』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) そうですよね…

( ̄д ̄ ) 『自分の「あり方」がしっかりしていれば、当たり前に他人に迷惑を掛けることは避けるでしょうし、怒りや欲に振り回されなければ、窃盗や殺人なんかも起こりえるはずがない。人間に「モラル」があれば、戒律や法律といった「ルール」は必要ないんです。欲や怒りは毒であるという自覚と、慈しみの心を持ってさえいれば、自ずと行動は正されていくわけですから、あれをしなさい、これをしてはいけませんなどと、わざわざ決める必要なんてないんです。』

(;゜ ー゜) 「でも実情は…。」

(;゜ ゝ゜) 「やっぱり、戒律や法律を求める人は多いよね。」

( ̄д ̄ ) 『それはやっぱり「あり方」が理解できていないからですよね。「やり方」ばかり見てるから、ルールやマニュアルに依存してしまう。そして、その後には、そのルールやマニュアルを「善・悪」だと勘違いしてしまうんです。「ルールに則っているから善だ、マニュアルに反しているから悪だ」と言ってもめるようになるんです。「善悪」は、ルールブックではなく、その状況を見て判断すればいいのにね。法律に反してないから、迷惑なことでもやってもいいんだ、戒律に反しているから殺してしまえ、なんて言うのは愚の骨頂じゃないですか。』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) ですよねぇ…

( ̄д ̄ ) 『ルールやマニュアルに依存して物事を判断する人間と、その場その時の状況を見て物事を判断する人間と、どちらが「真理(本当のこと)」を見いだす能力が高いと思いますか?』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) 後者ですね…

( ̄д ̄ ) 『結果を気にせずに、自分の欲や怒りをベースに行動する人間と、結果を予め想定して、慈しみをベースに行動する人間と、どちらが「良い結果(未来)」を得ることが出来ると思いますか?』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) 後者ですね…

( ̄д ̄ ) 『でそ。ぜんぜん難しいことじゃない。』



←押そ。ぜんぜん難しいことじゃない。

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ダイアローグ

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黒斎っているじゃん、黒斎。
自分の守護霊と話せるとか言ってる電波ブロガーな。
でさ、最近色んなとこ出張行ってるらしいんだけど、ブログのコメンテーターからなんて言われてるか知ってる?
「種まき」だってwwwwww
つーか、アイツの場合、ブラウン管を前にして、決して芽の出ないところに種まいてね?
「日曜大工もしないくせに、性生活はDIYなんですねwww」ってやかましいわ!



( ̄ε ̄;|||・・・ (←自分で書いておきながら、微妙に空しさを覚えたご様子)


※ネタの経緯がわからない方は、ぽんさんか、ふじこーさんに質問するのが良いと思います。




改めましてこんにちは。

ブログを通して幸せの種を蒔く、ハーベスター黒斎です。


今日はね、ちょっと物語を中断して、先日のブッダのセリフ『人とのコミュニケーション、特に「会話」は、「アハ!体験」に重要な関わりがあるんです。』を、掘り下げて行きたいと思っております。


脳機能学の視点で見ると、僕たちが普段何気なく行っている会話も、実は「ひらめき」や「気付き」を得るための大切な練習・道場なんだそうです。

と、言いますのも、人との会話って、言われてみれば「ひらめきと気付きの連続」なんですよね。

だって、相手が何を話すかなんて、また、自分がこれから何を話すかなんて、話してみないとわからないのですから。

会話の中で、次に自分が何を話すかは、相手の話を聞かなければ決めようがないんです。

相手が何を話したかによって、その言葉の意味に「気付き」、その後瞬間的に次に自分が発する言葉選びに「ひらめく」。

その連続が「会話」なんです。

人の話を聞かずに自分が話したいことを一方的に話す、ということは「会話」ではありません。

単に自分が話したいことを話すのは、「スピーチ」です。

「スピーチ(演説)」は「ダイアローグ(会話・対話)」とは違います。「受け・答え」があって初めて「会話」です。

とても当たり前のことなのですが、意外と、この「スピーチ」と「ダイアローグ」を混同している方は多くいらっしゃいます。

例えば…

皆さんも、「いくら話しても、なかなか話が通じない…」ということを、少なからず経験されていると思います。

以前も「通約不可能性」というテーマでご紹介しましたが、これが起こってしまうのも、相手の発している言葉の真意に「気付けないから」なんです。

それこそ、文脈の前後を探って、やっと「Aha!(そういう意味だったの~!)」と共通認識を持てる。

そういう、相手の「予期せぬ言葉」や「予期せぬ表情・態度」があるからこそ、そこに「ひらめき・気付き」が生まれるんです。

その「予期せぬ○○」をうまく拾ってあげることが、そのまま「ひらめき・気付き」を上手に得るトレーニングになる、ということなんです。


先日ご紹介したとおり、自分が言葉を発することによって、そこに人間性が現れます。(逆に、言葉の受け取り方にも人間性が現れます。)

自分の人間性が現れるのが怖いから、また、会話というやり取りが煩わしいからと言って、自分の思いを閉じこめ、口を閉ざしてしまう人も多いことでしょう。

たしかに自分が口を閉ざすことによって、「誤解」などの煩わしさや、不本意な問題から離れることができているかもしれません。

ですが、コミュニケーションから離れてしまうそのことによって、「ひらめき」や「気付き」を得るチャンス、またそのトレーニングチャンスを失ってしまうんです。


そう考えると、人との会話・コミュニケーションも立派な修行。

だからこそ、人と話すことの大切さが「正語」というかたちで説かれているんですね。


※ここら辺に、僕が、このブログのコメント欄を閉じない理由を感じていただけると嬉しいです。



←種まき気分で。

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編集中

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いつも当ブログへお越し頂きありがとうございます。

只今、わたくし黒斎は先日お話したとおり、繁忙期真っ只中でございます。

北見に行ったり、函館に行ったり、あっちに行ったり、こっちに行ったり、ラジバンダリ。

それゆえ、いつもなら仕事の合間にさらさらっとできる記事の編集作業も途切れ途切れとなってしまい、更新に時間がかかっております。(コメントレスも出来なくてごめんなさい。)

いつも沢山の方においで頂いているのがわかっていながら、更新が滞っているのも申し訳ないので…


久しぶりに、○○しいお茶と、○ンコのいっぱい詰まった鯛焼きをご用意いたしました。



(* ̄ー ̄)ノ” 旦 お茶どうぞ♪

(* ̄ー ̄)ノ” >°))))彡 鯛焼きドウゾ♪



記事の更新は出来ておりませんが、過去記事閲覧や、コメント欄でのおしゃべりなど、ゆっくり楽しんでいってくださいね♪



←頼んだり、媚びたり、ラジバンダリ。(←安易なパクリで済ませているあたりに、一杯一杯な状況を感じてあげるのがいいと思います。)

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正語

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( ̄д ̄ ) 『さて、次の項目に移りましょう。』

( ゜ ー゜) 「次は?」

( ̄д ̄ ) 『では、「正語(しょうご)」にしますか。』

( ゜ ゝ゜) 「これはたしか“正しく語る”でしたよね。」

( ̄д ̄ ) 『はい。そのとおりです。』

( ゜ ∀゜) 「これはわかりやすそうだね。“嘘をつかない”とか、“汚い言葉を使わない”とか、そういう“正しい言葉使い”ということでしょ?」

( ̄д ̄ ) 『まぁ、それもそうなのですが、それだとやっぱり「やり方(Do)」の解釈に近いですよね。この「正語」も、もっと「あり方(Be)」を重視して捉えて欲しいんです。』

( ゜ ω゜) 「正しく語る、という“あり方”…。」

( ̄д ̄ ) 『「正語」の意味は確かに「正しく語る」なのですが、これも、何をもって「正しい」とするかが問題となりますよね。』

(;゜ д゜) 「んー…。“真実”や“正論”を述べるということでしょうか。」

( ̄д ̄ ) 『うん。それもそうなんですけど…。例えそれが事実だとしても、「正論」は、時に相手を傷つけたり、追い込んでしまったりしますよね。』

(;゜ ー゜) 「ええ、ありますね、そういうこと…。」

(;゜ ゝ゜) 「自分が正しいと思っている時ほど、自分の主張をまくし立ててしまうかも…。」

( ̄д ̄ ) 『ですから、「話す内容が事実に沿っていれば良い」というだけでは、必ずしもお互いが幸せになれるとは言えないんです。』

Σ( ゜ ∀゜) 「あ!そこか! “お互いが幸せに…”ということが大事なんだ。」

( ̄д ̄ ) 『そういうことです。』

( ゜ ω゜) 「自分も、周りも、みんなが幸せになれる言葉づかいか。」

( ̄д ̄ ) 『「言葉」は、争うためにも、調和をとるためにも使うこともできます。人を悲しませるためにも、楽しませるためにも使えます。どうせなら、平和や調和のために使う方が良いに決まってるじゃないですか。』

( ゜ д゜) 「言葉はどのようにでも使える。だからこそ、扱う人間の“あり方”次第で、発せられる言葉に違いが表れる。うん。ほんとにその通りだ。」

( ̄д ̄ ) 『怒っている時などは特に、相手を傷つける言葉を次々と発してしまいます。「私が正しいのだ」と、言葉巧みに相手を追い込みます。ズバズバと相手が傷つく言葉を並べ立て、「あー、スッキリした。これで相手も気づいただろう」なんて思うのは勘違いも甚だしい。それだけ汚い言葉が出てくるということは、「自分が汚い」ということを露呈していることと同じです。その言葉の源が自分なのですから。「これで相手も気づいただろう」ではなく、汚い言葉が生まれてくる、自分の心の汚さに気づくべきです。相手を言い負かし、相手が悲しむ姿を見て喜ぶ自分の心の汚さに気づくべきです。』

(;゜ ー゜) 「そう言われると、確かにそうだ…。」

(;゜ ゝ゜) 「正語、思いの外難しいね…。かなり気をつけて話すようにしないと…。」

( ̄д ̄ ) 『というより、みんな気にしな過ぎなんですよ。言葉づかいに対して無頓着過ぎる。』

(;゜ ∀゜) 「うかつにしゃべれないな…。今の話を聞いた後では、何をしゃべっても自分の汚さが見えてきそうだ…。」

(;゜ ω゜) 「もう、いっそ誰とも話さなきゃいいんじゃない?」

( ̄д ̄ ) 『いえ、自分の思いを仕舞い込んで、コミュニケーションを断絶してしまうのはよろしくありません。人とのコミュニケーション、特に「会話」は、「アハ!体験」に重要な関わりがあるんです。』



←「押してください。」「いいから押せよバカ!」「押してみる?」「いつもありがとう。」etc.… 言葉選び一つで、僕への印象が大きく変わります。

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