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無と空(くう)

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「お金が沢山あるから、何があっても大丈夫だ。」

「モノに溢れているから、安心だ。」



果たして、それは本当なんだろうか。



「経済的な余裕」や「物質的な余裕」が欲しい、という欲求の裏側にあるのは、

『「精神的な余裕」が欲しい』という願望ではないだろうか。


「精神的な余裕」は、なにせ「精神的」だから、「心(気持ち)の持ちよう」のことだ。

だから、本来は「経済」や「物質」の話ではない。


『心に、気持ちに「余裕」が欲しい』という「欲求」は、裏から見ると、

『今は、心に(気持ちに)「余裕」が無い(足りない)』という事だ。


なにせ「余裕」が無いのだから、解決する手段は、「心を何かで埋める(満たす)」事ではない。

「余裕が無い」のだから、それ以上、何も入らない。


「お金が無いから(足りないから)、不幸なんだ。」

「モノが無いから(足りないから)、不安なんだ。」

そう言った「曇り」で、心(気持ち)を「いっぱい」にしてしまったから、「余裕」が無くなっているんだ。

「曇り」を抱えた時、人はついつい「もっと余裕が欲しいから」と、自分の「器」を大きくすることに躍起になってしまうが、なんて事はない。

本当は、器を大きくするよりも、「曇り」を無くす方が、手っ取り早く「余裕」は生まれる。

だって、元々「曇り」が入っていた「器がある」のだから。



今回の話が「ピンとこない」と言う方は、コップに汚水を入れてみよう。

コップが「心」で、汚水が「曇り」だ。

コップをきれいな水で満たしたいのであれば、一度、汚水は捨てなくてはならない。

新たなコップを探すより、今のコップの汚水を捨て、すっかりきれいに洗ってあげれば、新たな水を入れられる。




ああ、そうだ。

最後に一言。



「私の心は今、大量の汚水で充ち満ちている。」とお嘆きのあなた。

おめでとう!

「汚水」の量が多ければ多いほど、その器は「大きい」という事じゃないか。



←あなたの器の大きさを信じております。
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ミステリ

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うーおーー!!

今度は『容疑者Xの献身』で映画化かよっ!

「ダルマの石神」は誰がっ、誰が演じるんですかっ!?



あ…。

うん、知ってます。一足遅いです…。



そういうわけで、(どういうワケで?)週のアタマから出端を挫いている黒斎です。こんばんは。


えー、とりあえず前置きは置いといて…。

推理小説はお好きですか?(唐突)

まぁ、僕自身、「読書」と呼ばれる行為を能動的にするようになったのも、つい数年前からのことなモノですから、そんなに読んではいないんですけどね…。(僕が読書をするようになったのは、2004年から。そう、雲さんとチャンネルが合う、ほんの数ヶ月前からのことです。その前までは、活字を読むと言っても雑誌程度、購入する本のほとんどはマンガでした。)

そんな読書素人の僕が言うのもなんですが、推理小説の面白さってのは、「盲点」にあると思うんですよ。

ヾ(≧▽≦)ノ 「う~わ~! そこだったのかよっ!」っていう『やられた感』ね。

あれを味わいたいんです。(マゾだから)

事の真相、そのトリックなり背景ってのは、すでに伏線として描かれていて、分かる人には分かるように出来ているはずなのに…、気付けない。

『容疑者Xの献身(東野圭吾著)』で描かれているトリックも、正にその「盲点」を突いたものです。

「前提」が見えていないと、トリックは暴けない。



でね、

これって、推理小説に限らず、人生全般にも言えるような気がするんですよ。

言い方は悪いけど、「“当たり前”を疑う」というところからスタートしないと、いつまで経ってもトリックの中をグルグルと回っているだけで、現実が見えなくなってしまう。


例えば、これまで何度も例にあげている「お金は大切なものだ。」という“当たり前”なこと。

いや、勿論お金は大切なものですよ。僕だってそう思います。

でもね、この“当たり前”を疑って、「お金はなんで大切なの?」っていう事を突き詰めていくと、「大切である」事の「前提」に、「お金は、交換手段である。」という事が見えてきます。

この「前提」が見えなくなっていると(意図的に隠されてしまうと)、自分が何をしたいのか、何を求めているのかも明確にできないままに、「とりあえずお金が欲しい。」という、「お金」そのものが『目的』になるという、ワケの分からない事になっちゃう。

自分が何をしたいのか、何を求めているのかも明確にできないでいたはずなのに、「お金が無いから、不幸だ。」とか、「金が無いなら、生きる価値が無い。」などといった、本末転倒な捉え方をしてしまう。


いや、「お金」だけじゃないですよ。

なんでもそうなんだけど…例えば、「勝利」や「成功」なんてのも、同じだと思うんです。


「なぜ、勝たなきゃならないのかな。」

「どうして、成功しなければならないのかな。」

って疑っていくとね、『人生』と言う名のミステリに隠されたトリックが、徐々に解明されていきますよ。


試してみませんか?

「なんで?」「どうして?」という、子供のようなモノの見方。


推理小説に登場する被害者のように、悲劇に遭遇してから、

ヾ(TДT)ノ 「うーわーー!」と、『やられた感』を味わう前に。

_| ̄|○ 「なぜ!? どうして!?」と、嘆く前に。



←富樫慎二の頭部を殴打する、花岡美里の勢いで。
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厄払い

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(声:糸井重里)


わ~っはっはっはっはっはっはっはっ!!!!


みんな、笑ってみな。


おっかないのが逃げちゃうから。


はっはっはっはっはっはっはっはっ!!!







以上、「トトロに聞いた、この世の仕組み」でしたっ( ̄^ ̄)ゞ



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←2階の壁の隙間に指を入れる、めいちゃんの気持ちで。
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前エントリの最後にて、珍しく本の紹介をさせていただいたこともあり、今日はちょっと「本」について話してみたいと思います。


プロローグの中で、僕が雲さんに誘導され、本を選ぶというエピソードもあったからでしょうね。

これまで、「黒斎さんって、どんな本を読んでるの?」って感じの質問を何度かされていました。

でも、僕、あんまりそういう意味での「紹介」ってのは、してきませんでした。

と、言いますのも、雲さんは「その時の僕」に対して勧めただけであり、それが全ての人に当てはまる事ではないからです。


「本」って言うのは、その読み取り方によって、全く意味の異なる物になってしまいます。

僕が、「面白い」と感じたからといって、誰もが面白いと感じるワケではない。

先日ご紹介した本の内容も、もしかしたら、僕の解釈とあなたの解釈の仕方は違うかもしれない。

いや、むしろ「全く同じ」と言う方がおかしな話かもしれませんね。

同じ本を、複数回読み返すという経験がある方は、感覚として理解出来ると思いますが、同じ人が、同じ本を読んだとしても、時として、その内容・意味は正反対にもなりえます。

その人の「着眼点」「教養」「理解度」「解釈法」「タイミング」等、様々な条件によって、その本に書かれた内容は、「その人のモノ」でしか無くなってしまいます。

同じ本を読んだとしても、その中に何を見出すか(見出せるか)は、その人次第です。


そんな「本」に対してよく使われる宣伝文句の一つに、「一見の価値あり」なんていう言葉がありますが、これって、そういう意味では、どうなのでしょうね?

「価値」は、その「本」にあるのでしょうか?

読む側が、その中に「価値を見出そう」という姿勢で読めば、その「価値」は形なき姿を現します。

でも、「興味なし」という姿勢で眺めるだけであれば、そこからは何も引き出せないでしょう。


と、言うことは…、「本」はあくまで「物質」でしかなく、その「価値」や「意味」は、「その本」とは全く別な次元に存在しているということになりますよね。

人は、「本の内容」なんていう言い方を当たり前にしていますが、「内容」を「価値」や「意味」と解釈するならば、その内容(価値・意味)は「本」ではなく、その本を読んでいる「自分」にあった、ということになりますよね。


「本」を通じて、「自分の中に予め持っていた何か」を見出しているという風に捉える事ができますよね?


「本」が『鏡』の役割をなし、「自分」の「内」にあるモノを、「外」として現してくれている。

「本の内容を理解する」ということは、転じて「自分自身を理解する」と言うことになっている。

「本」は「自分に“情報”を“加える”モノ」ではなく、「自分に内在する“理解”を“引き出す”モノ」だと思うのです。


まぁ、「本」に限らず、自分を取り巻く全ての人・モノ・環境が、『鏡』なのですが…



って、今回の話…

…伝わってますかね?



←一見の価値あり
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あべこべ(リベンジ)

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やったーーー!!!

さすがっ!! kt2さんっ!!!

ホントにありがとう(TωT)

ってことで、「あべこべ(リベンジ)」です!


以下、10月23日投稿分********************************


今日はちょっと、先日の「ある」と「ない」のお話の続きをしてみようかと思います。

あ、予め言っておきますけど、「変な話」ですよ。(「いつでも変じゃないか」というツッコミは飲み込むこと。)


先日お話した「内」と「外」の「裏返し」の中の一つに『富』というキーワードがあります。


僕ね、ずっと『富』って、自分の「外側」にあるものだと思ってたんですよ。

それは「お金」だとか「家」だとか、「物」だとか…まぁ、世間一般に「財産」と呼ばれる類のものね。

そう言った物が『富』だと思っていたんですよ。

辞書で調べても、

とみ【富】
集めた財貨。財産。

ざい‐さん【財産】
個人や団体などの所有している、金銭・有価証券や土地・家屋・物品などの金銭的な価値のあるものの総称。資産。

ってあるぐらいだしね。

「財産=価値」っていう図式が「当たり前」になっちゃってたんです。疑ってもいなかった。


でもね、

( ̄ー ̄) 『ホントにそう思う?』

なんて言われたらさ、

( ̄д ̄; )エェッ!? 「違うの!?」

ってことになるじゃないですか。


さて、ここで。

その時の僕と雲さんのやりとりを、再現してみましょう。


( ̄Д ̄) 『黒斎、ちょっと目の前に千円札出してみ。』

□ヾ( ̄д ̄; ) 「これが何か?」

( ̄ー ̄) 『その千円札に「価値」はあるかい?』

( ̄д ̄; ) 「いや、そりゃあるだろうよ。」

( ̄ー ̄) 『じゃ、その「価値」を、ここで見せてくれないか。』

Σ( ̄д ̄; ) 「え?」

( ̄ー ̄) 『「価値」が、その「千円札に」あるのなら、出して見せてくれ。』

・・・・・Σ( ̄⊥ ̄lll)・・・・・ 「どうやって?」

( ̄ー ̄) 『やり方は任せるよ、あるなら、出して見せてくれ。』



・・・・・Σ( ̄⊥ ̄lll)・・・・・ 「…ないの?…」



( ̄ー ̄) 『さぁ、価値は「どこ」にあったかね?』

ム~(ーヘー;) 「僕か…」

( ̄ー ̄) 『そうだよな、「貨幣=価値」ではないよな。 便宜上、「価値があるってことにしとこうぜ!」ってことだよな? 人間が、貨幣に価値を「与えている」んだよな? …ってことはだよ、「富」はお前の「外側」ではなく、「内側」にあるのではないのかな?』

「(ーヘー;) 「こんがらがってきた。。。」



( ̄ー ̄) 『じゃ、本屋に行こうか。』





    _
   / /|) またか…
   | ̄|
 / /


…って感じで出会った本が、以前ジャックさんが紹介してくれた

「14歳からの哲学-考えるための教科書(池田 晶子著)」です。


僕同様、こんがらがっちゃた人は、是非ご一読を。。。


←ランキングに、価値は、あるのか、ないのか?


(※コメント欄にお寄せいただいた内容は、そのまま復活できました。<(_ _;)>)

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と、貼り直してはみたものの…



何なんだ…

この、空振りしたジョークの面白さを自分で解説するときのような物悲しさと、アダルトDVD鑑賞中、ここぞ!というシーンで画面がフリーズしてしまった時のような、やり場のなさは…



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