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解釈の可能性

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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現在執筆中の原稿もいよいよ〆切が今月末と迫り、公私ともに非常に忙しい毎日を送らせていただいております。

そんなこんなで、大変申し訳ないのですが、今月(3月)の「月イチ☆」、および「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」はお休みとさせていただきます。

<(_ _;)> すみません…

4月には再開したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。


さて、先日比叡山で開催されたイベント「魂の夜明け」。

その夜、出演陣が堀澤祖門さんのお部屋に集まり、深夜1時過ぎまで熱く語らいました。

話の内容は、昨今の仏教界の状況がその土台にあったのですが、その中で、仏教や他の伝統宗教などと同様、現在広まって来ている「スピリチュアル」という分野においても、メッセージの歪みが生じてきているのでは? という話にもなりました。

現在の仏教界が抱えている一番の問題は「形骸化」。どの宗派にしろ、伝統と言いつつ、形ばかりが重要視されてしまって、肝心の中身がすっかり蔑ろになっている、と。

釈迦の教えも、いつの間にやら伝言ゲームに嵌ってしまって、単なる学問・情報になってはいないか。本当にその真意を体得している僧侶はどれほどいるのか、と。

それが困じて「葬式仏教」と揶揄されるところまで衰退してしまいました。

もちろん中には、過酷な荒行を経て開眼し、その「中身」をしっかり掴み取った僧侶たちもいらっしゃるらしいのですが、日本という土壌で、彼らの言葉を真剣に聞こうとする人はほとんどなく、結局、そういった若きマスターたちは、「聞きたい」「知りたい」と本気で耳を傾けてくれる欧米諸国へと流れ出てしまっているのだそうです。


そんな話を聞いて、僕は、これは仏教だけの話じゃないよな、って思っていました。

スピリチュアルと呼ばれる分野でも、形骸化の波を感じることが多々あるからです。

釈迦の教え同様、いまやスピリチュアルな教えも、伝言ゲームを繰り返し、単なる教養や情報になりさがってしまってはいないだろうか、と。

もちろん僕だって、そんな偉そうなことを言える立場じゃないけど、少なくとも、僕自身がそういった背景を考慮して、メッセージを発信できているのか、と。


かねてよりお話しているとおり、思いを言葉で伝えるというのは、想像以上に大変なものです。

本の編集をすればするほど、文章そのもの以上に、行間の大切さを痛感しています。

「行間を読む」という言葉があるとおり、言葉の奥にある真意は、言葉そのものより、むしろ行間に宿ります。

でも、人が読むのはやっぱり「言葉」であって、行間は直接捉える事ができません。

また、言葉は思考で捉えるもので、行間は感性で捉えるもの。

だから、「行間になにがあるのかを考えろ」というのも無茶な話です。


まして、精神世界に登場するフレーズには、前後の言葉が削がれ、文脈から切り取られた一部だけにフォーカスされたまま広がっているものも少なくありません。

確かに象徴的な言葉、印象的な言葉が残ってしまうのは、しょうがないことなのかもしれませんが、前後の言葉がない分、そこから行間を読み解くのは非常に困難です。

文脈が消失すればするほど、人それぞれの受け取り方が広がっていきます。


ここでちょっと、そのことに気づく遊びをしてみましょう。


さて、この電車の進行方向は、あなたにはどのように見えますか?


(※PCではアニメーションでご覧いただけます)


手前に向かってきている? それとも、トンネルに向かっていますか?

はたまた、行ったり来たりのピストン運動?


ひとつの同じ素材でも、ときに「真逆」に捉えられるのが、僕たちの認識です。


これは、言葉でも同じこと。

いくつか例をあげてみましょう。


『眠れる森の美女』

有名な童話のタイトルですが、この童話を知らなかったとしたら、どうでしょう?

眠っているのは、森? 美女?

「眠れる」は「森」にかかっているのか、それとも「眠れる森」が「美女」かかっているのか。

人によっては、「誰でも心地よく眠ることができる、清らかで静かな森にいる美女」なんて想像をするかもしれないし。

場合によっちゃ聞き間違って、『眠れぬ森の美女』になっちゃって、すっかり不眠症で目にクマを作った美女を想像してるかもしれないし(笑)。



聞き間違い、読み間違いじゃなくても、どう解釈したらいいのかわからない表現ってのは、身の周りに溢れています。

たとえば、


『オモチャを買ってもらえる!』

さて、上記のセンテンスを読んで、あなたはどのようなイメージが浮かびましたか?

おじいちゃんやお母さんに手を引かれ、うれしそうにおもちゃ屋さんに向かう子供でしょうか。

「今日は待ちに待った誕生日。やっと、あの欲しかったオモチャを買ってもらえる!

でも、もしかしたら、この文は、トイザらス店頭ポスターのキャッチコピーかもしれません。

オモチャを買ってもらえる!限定シールプレゼント」


同じ「オモチャを買ってもらえる!」でも、全然違ってきますよね。



『時速50kmで走行する車の前を走るおじいちゃん』

さて、どんなイメージです?

車の遥か前方で、ゆったりとジョギングしているおじいちゃんの姿でしょうか。

信号のない道路を横断しようと、車が向かってきているにも関わらず無理矢理横切ろうと、駆けているおじいちゃん?

それとも、時速50kmで走行する車に追われ、同じく時速50kmで併走する、俊足おじいちゃん?(笑)


いろいろあり得ますよね。


特に日本語は主語が省略されちゃったり、語尾が曖昧なままだったりすることも多いですよね。

僕の日常会話もそんな感じですから。

言葉ではなく、真意をわかり合おうとしたら、発信する側も、受け取る側も、隠れている文脈を感じとって、様々な解釈の可能性のなかから、適切なやりとりをしなきゃならない。

でも、いわゆる「自我」が膨らんで、深刻さの中に生きていると、その「解釈の可能性」が一気に閉ざされて、自分本位な発信、自分本位な受け取り方が強くなってしまう。


僕もこうして文を書きながら、「この言葉は、こういう風にも受け取れちゃうよなぁ」なんてことが見えちゃうものだから、その度に書き直してみたりするんです。

でも、それもまた、結局僕の想定できる範囲内のことであって、いろんなコメントなんかをいただいて「あ!そういう受け取り方もあったのか!」なんてなることは日常茶飯事で。


そういった事を真剣に考えると、何も書けなくなっちゃいそうなので、考えるの止めた方がいいね(笑)。


で、結局なにが言いたかったかと申しますと、一言、


原稿の執筆に戸惑っております。(TωT)





【トークライブ・インフォメーション】


ソロトークライブ in 広島

いつぶりでしょう?
本当に久しぶりに広島にお伺いします。
「お久しぶりです!」のあなたも、「はじめまして!」あなたも、ぜひお気軽にご参加ください。
主催は以前同様つばさ整骨院の福田さん。詳細は下記のリンク先をご覧ください。

◎4月18日(土)14:00~ 広島

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雲黒斎×木内鶴彦「多次元ディープワープ・トークセッション」第3弾

3度の死亡体験を持つ彗星探索家、木内鶴彦さんとのコラボイベントも、これでいよいよ完結?
僕もタジタジになってしまうほど、よくしゃべる木内さん。
一つ質問すると5つぐらい答えが返ってくるぐらい、一度話し出すとなかなか止まりません。
前回の開催で、あまりにも僕の話す出番がなかったので、3度目の開催が決定いたしました(笑)。
前回までは平日夜の開催でしたが、今回は土曜のお昼開催となります。
詳細・お申し込みは下記リンク先、主催のヒカルランドパークさんのページをご覧ください。

◎4月25日(土)14:00~



←押してもらえる!
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クオリア

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(南こうせつ作『神田川』の曲に乗せて)

あなたは もう お気付きかしら?
写真のドレス 青色なんて
二人で言った 「横縞なんや?」
一緒に「金よね」って 言ったのに
「ホントは黒だ」と諭された
SNSで みんなが知って
話題のドレス めちゃくちゃ売れた
若かったあの頃 何も怖くなかった
いまは みんなのクオリアが 怖なった




先日ニュースにも取り上げられたりした、ある「ドレス」の話題。

皆様はご存じでしたでしょうか?

一応、知らない方のために簡単に説明しますと、『上記の写真のドレスの色が、人によって違って見える』という話題が、SNSを中心に盛り上がっていたんですね。(こんな感じです)

本来は「青地に黒のボーダー」のドレスなのですが、「白地に金のボーダー」に見える方も多数。また、「青地に金のボーダー」なんて方も。

僕は最初「白地に金のボーダー」にしか見えず、「え?青と黒?マジ?」となっていたのですが、数日後、「青地に黒のボーダー」としても見えるようになりました。

ちなみに、なぜ人によって色が違って見えるのか、その理由を解説しているページもありました。

それがコチラ


そこにあるものは同じなのに、見ている人によって感じ方が異なる。

「白地に金のボーダー」に見える人に、「ホントは青地に黒のボーダー」だと告げたとしても、自分にとっては「白地に金のボーダー」が事実であって、

「青地に黒のボーダー」に見える人に、「白地に金のボーダーに見える人もいる」と告げても、「なんで?どうして?」となるほど「青地に黒のボーダー」が事実であって、

中には「どっちにも見えるよ」って人もいて。そうすると、片方しか感じられていない人からは「どっちもって、どういう事だよ!?」って思われて。。。

結局「ありのまま」も「事実」も「真実」も、人それぞれで違うんだよね。


これって少し、「意識変容」の話にも似ていると思う。

以前お話した、「ワンネス」と「個別意識」の関係性のことね。(2014年7月10日投稿「僕はあなたであなたは僕で」より)





「私は私、あなたはあなた」

「私はあなた、あなたは私」

これと、一緒だなって。


僕が、「僕はあなたで、あなたは僕で」と話すと、「その証拠を示せ!」と詰め寄ってくる人がいる。

でも、僕にとっては、証拠も何もあったもんじゃない。「現にいまそうじゃないか」「その状態じゃないか」という感じなんだ。

その「証拠を示せ」という、その人の気持ちが、わからないわけではありません。僕も、そうだったから。


いわゆる「さとり」や「目覚め」っていうのは、「葉」の感覚から「木」の感覚へ切り替わる意識変容、その訪れのことなんだけど、それはそんなに大げさなことでも、特別な神秘体験でもない。

確かに僕たち人間の意識状態は、長らく「個別」「分離」という『葉』としての感覚が強かった。

「だって、<あっちの葉>と<こっちの葉>は、現に別物じゃん?」ってなってた。

それで、「葉」の一枚一枚に、個別の命や魂が内在されている様なところまで、勘違いは広がっていた。

でも実際は、<あっちの葉>が自分として指す命と、<こっちの葉>が自分として指す命は、ひとつの同じ「木」の命だ。

葉が、ある日目覚めて、突然木に変貌を遂げたワケじゃない。

気づく前から、木として存在し続けていた。それ以外であったことがない。

ただ、ずっと、自分を葉だと思い続けていただけだ。

その思い込みが外れただけで、存在自体は何も変わってないんだよね。


世界がバラ色に見えている人もいれば、ドドメ色に見える人もいる。

あなたには、何色に映っていますか?



【トークライブ・インフォメーション】


ソロライブ in 広島

いつぶりでしょう?
本当に久しぶりに広島にお伺いします。
「お久しぶりです!」のあなたも、「はじめまして!」あなたも、ぜひお気軽にご参加ください。
主催は以前同様つばさ整骨院の福田さん。詳細は下記のリンク先をご覧ください。

◎4月18日(土)14:00~ 広島

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平日のお話会「月イチ☆」、3月開催分はただいま日程調整中です。
準備が整い次第改めて告知いたします。



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