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預流果

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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      ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)Д゜)ノ
        ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜) ゜)ノ
         ヽ(ヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノ
          ヽヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノノ
         ヽヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノノ
         ヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノ
         ヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノ
       ヽ(ヽ(゜Д゜)゜)ノ
      . ヽヽ(゜Д゜)゜ノノ
      ヽ(ヽ(゜Д゜)ノ
       ヽ(゜Д゜)ノノ
     ヽ(゜Д゜)ノ イヤッホーーーー!!!


Σ(゜-゜;)ノノ(゜ム゜;)ノノ(゜∀゜;)ノノ(゜ω゜;)ノノ 「ええっ!? 突然なにっ!?」


(;゜ ー゜) 「お、王子。リーダーに何があったんですか?」

( ̄д ̄ ) 『コンダンニャさんはね、今、歓喜の中にいるんです。』

(;゜ ゝ゜) 「は?」

( ̄д ̄ ) 『悟りの第一段階に到達できたんです。』

Σ(゜-゜;)ノノ(゜ム゜;)ノノ(゜∀゜;)ノノ(゜ω゜;)ノノ 「悟りの第一段階!? リーダー、悟り開いちゃったの!?」


シャキーン! \( ` д´)ゞ 「サトリレッドに変身完了!」


(゜-゜;)(゜ム゜;)(゜∀゜;)(゜ω゜;) 「…。」

(゜∀ ゜;) 「リ、リーダー?」

( ゜ д゜) 「何だねバッディヤ君。」

(゜∀ ゜;) 「変身完了って言っても…特に何か変わったようには見えないのですが…」

( ゜ д゜) 「うん。見た目には何も変わっていないだろうね。でも、私の世界観は確実に変わってしまった。」

(゜ω ゜;) 「いったい何が起こったのです?」

( ゜ д゜) 「王子の話を聞いて、その意味が理解できたんだ。いいかみんな。王子の話は本当だ。彼は、本物のブッダ(目覚めた者)になられている。これからは、“王子”ではなく、“ブッダ”とお呼びするように。」

Σ(゜ー ゜;) 「ついさっきまで“ヘタレ”って言ってた張本人が…。なんていう変わり身の速さ…。」

(;゜ ゝ゜) 「お、王子…、いや、ブッダ。教えてください。悟りの第一段階ってなんですか?リーダーに、何が起こったのですか?」

( ̄д ̄ ) 『コンダンニャさんは、壮大な「アハ!体験」を経験したんです。』

(;゜ ∀゜) 「壮大なアハ体験?」

(;゜ ω゜) 「なんですか?“アハ体験”って。」



説明しよう!
「アハ!体験」とは、脳科学における専門用語「a-ha experience」の和訳であり、閃きや気づきの瞬間に「あっ!」と感じる体験のことを総称したものである!

…と、このハイテンションで説明を続けるのは疲れるので、ここからはいつもの黒斎節で。

皆さんも、このblogをご覧になっていても何度か「腑に落ちる」や、「ずっとわからなかった事の意味が不意に理解出来た」など、「あ!そうか!」という経験をされた事があるかと思います。

その経験のことを脳科学用語で「a-ha experience(アハ体験)」と言うんだそうです。最近では、テレビのバラエティ番組やクイズ番組、またゲームソフトなどでも扱われることが多くなったので、ご存じの方も多いかと思います。

ここで、この「アハ!体験」を広く知らしめた脳科学者:茂木健一郎さんの著書『ひらめき脳』で紹介された、有名どころの絵柄2点の例を引用させていただきながら、コンダンニャさんの身に何が起こったのかを説明してみたいと思います。








上の2つの絵柄、パッと見だけでは何が描かれているか、良くわからないかもしれません。

でも、諦めずに、じーっと見てると、ある時「ふっ」と、あるイメージが見えると思います。

「あっ!なーんだ、これか! あはははは!!」

そういう、「あ!わかった!」っていう時って、なんだか嬉しくなっちゃいますよね。

見えなかったものが、急に見えるようになる。

不思議ですね。「うーん…」と考え込んでいる時も、わかっちゃった後も、同じものを見ていたというのに。

一度わかっちゃったら、もうそのイメージから離れられなくなってしまう。

わかる前と後では、イメージが一変してしまうんです。

それと同じ事が、コンダンニャさんの身に起きました。

「白と黒で構成された絵柄」ではなく、「森羅万象」を見ているときに。

そして、「あっ!」と気付いてしまったのは、「あるイメージ」ではなく「無我」です。

絵柄のイメージが一変してしまうように、世界が一変してしまいました。

その、壮大なアハ!体験が、悟りの第一段階。仏教の専門用語では、『預流果(よるか)』と言います。


と、この『預流果』の説明に入る前に…


まずは上の2つの絵柄で、実際に「アハ!体験」を味わってみてください。

※すでにご存じの方は、ちょっと待っててくださいね。^^



←ポチ!体験は、こちらから。

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正見

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さ~て、みなさん! お待んたせ致しました~!(織田裕二のモノマネをする山本高広のモノマネで)

それでは、さっそく先日の続きとまいりましょう。




(;゜ ∀゜) 「あ、あのぅ…。正見(しょうけん)、正語(しょうご)、正業(しょうぎょう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正思惟(しょうしゆい)、正念(しょうねん)および正定(しょうじょう)って…なんですか?」

( ̄д ̄ ) 『簡単に言い換えれば「正しく見る」「正しく語る」「正しく行う」「正しい仕事をする」「正しい努力をする」「正しい目的意識を持つ」「正しく気付く」「正しい反省と瞑想を行う」ということです。』

(;゜ ー゜) 「それだけ?」

( ̄д ̄ ) 『うん。それだけ。』

(;゜ ゝ゜) 「なんだかめっさ簡単そうに聞こえるんですけど…、そういう甘いもんじゃないのかな?」

( ̄д ̄ ) 『いや、めっさ簡単ですよ。あのね、みんな、あるトラップに嵌ちゃってるんですよ。』

(;゜ д゜) 「トラップ?」

( ̄д ̄ ) 『真理を掴んでいる人ってのは、そうそういませんよね。』

(;゜ ー゜) 「そりゃそうです。」

( ̄д ̄ ) 『だからみんな、真理を掴むってのはすごく難しいことなんじゃないかって勘違いしてるんですよ。「きっと、そう易々と到達できないであろう難しいこと」って勘違いしてるから、一生懸命難しいことを考えたり、大変なことが出来るようにならなくちゃって変に頑張っちゃう。でも、そうじゃなかったの。全然難しい事なんてないんですよ。当たり前のことすぎて、気付いてなかっただけなの。真理に目を向けていなかっただけなんです。真理は、当たり前の中にあるんです。だから、真理を得るのには小難しい知識も、特殊な能力もいらない。当たり前のことに、一つ一つ気付いていくだけでいいんです。』

(;゜ ∀゜) 「でも、やっぱりよくわかりません…。“正しい”ってどういうことです?その“正しさ”がわからなければ、どうして良いのやら…。」

( ̄д ̄ ) 『そうですね。では順に詳しくご説明します。』

( ゜ ω゜) 「お願いします。」

( ̄д ̄ ) 『まずは「正見」から。これは、「真理に逆らわずに物事を観る術(すべ)を持ちましょう」と言うことです。「当たり前の事、事実を認める勇気を持ちましょう」と言った方がわかりやすいかな。』

(;゜ д゜) 「え? 当たり前の事、事実を認めることに、勇気なんて必要ですか?」

( ̄д ̄ ) 『ええ。世の中、事実を認めたがらない人ばかりですよ。』

(;゜ ー゜) 「どういうことです?」

( ̄д ̄ ) 『例えばね、年老いて白髪や目尻のシワが増えたご婦人とか、ガンで余命宣告を受けた方とか、肉親が死んで悲しみに打ち震えている方とか。』

(;゜ ゝ゜) 「確かに認めたくないですね…。」

( ̄д ̄ ) 『森羅万象ってのは、一時も留まることなく変化している、というのが当たり前の事実なのですが、人間はそう思いたがらないんですよね。もっと言えば、自分が自然って事すら忘れてしまっているんです。キレイに咲き誇っていた花が枯れていくのを見て、「無常だねぇ」なんて言いながらも、自分は枯れないもんだと思い込んでいて、老いたり死んだりすることを拒んでしまう。口では「無常」と言っていても、やはり無常を理解出来ていないんです。全ての現象は、例外なく生滅流転していて、永遠に不変のものなど何一つ無いんです。それがわかっていない。わかろうともしていない。だからね、シワが増えても、肉親を失っても、自分の死が間近に迫っているとわかった時も、「なんで私がこんな目に!」って反応になるワケですよ。「なんで私がこんな目に」っていうけれど、全ての人がそんな目に遭うんです。それがこの世の法則なんですよ。(諸行無常)』

(;゜ ∀゜) 「そう説明されると、やっぱり事実を認めるには勇気がいるかもって思います…。」

( ̄д ̄ ) 『いや、でもね。よくよく考えると、その法則を悲しんだり苦しんだりすること自体がおかしいんですよ。変化は単に変化であって、そこにはなんの意味もないんです。花が枯れて虚しい、シワが増えていくのが悔しい、人が死んで悲しい…。そうやって変化に意味づけを行っているのは、自分自身なんですよ。つまり、人間は、自分でつけた意味に自分で苦しんでいるということです。川が流れて虚しい、ヤゴがトンボになって悔しい、お湯が湯気を出してて悲しいって人はいないですよね。』

(;゜ ω゜) 「はぁ…確かにそうですね…。」

( ̄д ̄ ) 『「全てのモノは変化し続ける、変化は決して止まらない。」そういう、諸行無常の法則を忘れずに、森羅万象を正しく観察すると、最終的に「自分など無い」ということに気付いて(諸法無我)、それまで行っていた変化への意味づけが馬鹿馬鹿しくなっちゃうんです。』

(;゜ д゜) 「は?」

( ̄д ̄ ) 『コンダンニャさん、あそこに1本の木がありますよね。見えますか。』

(;゜ д゜) 「はぁ、ありますね。」

( ̄д ̄ ) 『「諸行無常の法則」を元に観察すると、あの木はどこからどこまでがあの木ってことになります?』

Σ(;゜ д゜) 「あ…!」

( ̄д ̄ ) 『お気づきになりました?』

(;゜ д゜) 「あ、そうか…」

Σ(゜-゜;)(゜ム゜;)(゜∀゜;)(゜ω゜;) 「え!?何々!? 何に気付いたの!?」

(;゜ д゜) 「全てのモノは例外なく生滅流転しているっていうことは、命はずっとひと繋がりで……本当は“これ”といった個別のモノなど無いんだ……“ここからここまでをあの木”という風に意味づけを行っているのも私自身…。そして、私自身を、ここからここまでを私と意味づけしているのも私自身…」

( ̄▽ ̄ ) 『そうそう、そういうこと。』


Σ(;゜ д゜) あ… 

Σ(;゜ д゜) あ…

Σ(;゜ д゜) あ…

Σ(* ゜д゜*) Aha!


     ヽ(゜Дヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノД゜)ノ)ノ
    ヽ(゜ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノД゜)ノ)ノ
  .  ヽ(ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノД゜)ノノ
     ヽ(ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノД゜)ノノ
     ヽヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノД゜)ノ
      ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)Д゜)ノ
      ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)Д゜)ノ
        ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜) ゜)ノ
         ヽ(ヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノ
          ヽヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノノ
         ヽヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノノ
         ヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノ
         ヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノ
       ヽ(ヽ(゜Д゜)゜)ノ
      . ヽヽ(゜Д゜)゜ノノ
      ヽ(ヽ(゜Д゜)ノ
       ヽ(゜Д゜)ノノ
     ヽ(゜Д゜)ノ ヒャッホーーーー!!!



Σ(゜-゜;)ノノ(゜ム゜;)ノノ(゜∀゜;)ノノ(゜ω゜;)ノノ 「ええっ!? 突然なにっ!?」



←ここまで…キターー!!(織田裕二のモノマネをする山本高広のモノマネで)

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いろは歌

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さて、お約束の「八正道」についてなのですが…

ぶっちゃけ、まだ上手くまとまっていません。

結構真剣なんですよ、今回。(っていうか毎回)

ってことで…

もう少しお時間をください。


そう言うワケで、今日はとりあえずの時間稼ぎネタです。





  いろはにほへと ちりぬるを

  わかよたれそ つねならむ

  うゐのおくやま けふこえて

  あさきゆめみし ゑひもせす





上記、殆どの方が知っているであろう「いろは歌」です。

コレを漢字を使って読みやすくすると、こうなります。





  色は匂へど 散りぬるを

  我が世誰ぞ 常ならむ

  有為の奥山 今日越えて

  浅き夢見じ 酔ひもせず



この、いろはにほへと…

実はお釈迦様が説いた「八正道」の中の一つ、「正見(しょうけん)」を歌ったものなんです。

で、八正道は、この「正見(しょうけん)」が肝となる教えなもんですから、コレがわからないことには、どうにも前に進めない。


と、いうワケで…

お時間がある方は、是非上記「いろは歌」の意味を考えてみてください。もしくは調べてみてください。

これが理解できれば、八正道のうちの一つ、「正見」、クリアです。



ヾ(≧▽≦)ノ あなたも、レッツ・チャレンジ!



←黒斎の滋養強壮に、よく効きます。

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苦集滅道

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(;` д´) 「中道のお話、何となくは分かりました…。では、具体的にはどうすれば悟りに至ることができるのでしょうか。」

( ̄д ̄ ) 『まずは、現実をしっかりと受け止めることです。』

( ゜ ー゜) 「現実を受け止める?」

( ̄д ̄ ) 『ありのままの事をそのまま受け止めるんです。』

( ゜ ゝ゜) 「と、申しますと?」

( ̄д ̄ ) 『では、「人が生きるとは苦である」という真理をしっかりと受け止めるところから始めましょうか。』

(;゜ ∀゜) 「人生が苦…。それが真理…なんですか?」

( ̄д ̄ ) 『ええ。人間は、人生を自分の思い通りに動かすことが出来ると勘違いしているのです。そういう愚かな習性をもった生き物なんです。でも、真実は違います。本当は、自分の思い通りにならないのが人生。思い通りにならないことの方が真実なんです。その真実に刃向かえるのではないかという錯覚こそが苦厄の始まりです。』

(;゜ ω゜) 「イマイチ掴めません。もう少し詳しくお願いします。」

( ̄д ̄ ) 『どんなに頑張っても、人間である以上、逃れられない苦があります。一番分かりやすいのはやはり「死」でしょう。どんなに拒んでも、どんな人間にも必ず死は訪れます。私たちは、毎日毎日、着々と死に向かっています。生まれた瞬間から、死に向かって、どんどん老いて行くのです。どんなに医学が発展しても、老いを止めることはできません。また、この世から病がなくなるということもありません。どんなに権力や財産があろうとも、名声を得ようとも、これらの苦しみから逃れることはできません。』

(;゜ д゜) 「確かに…。」

( ̄д ̄ ) 『この他にも、愛する人との別れ、嫌いな人との人付き合い、欲しいモノが手に入らない、自分の感情や体すら自分で制御しきれないなど、人生は思い通りにならない事ばかりです。「真理」とは、いつどんなときにも変わることのない、また、誰にとっても共通する疑いようのない真実のことです。「人生は思い通りにならない事ばかり。」これは「真理」でしょ?疑いようのない事実でしょ?』



この、「四苦八苦」を根本とした「人が生きるということは苦であるという真理」を『苦諦(くたい)』と言います。



(;゜ ー゜) 「んー…。では、人間はそれらの苦からは逃れられないということなのでしょうか。生きる希望もないのでしょうか。苦を受け入れ、幸せを諦めてしまうことが悟りなんですか?」

( ̄д ̄ ) 『いえ、そうではありません。まずは目の前にある「苦」が何であるかを明確にしておかなければ、その原因を突き止めることが出来ないということです。私たち人間は「苦」を嫌います。だから、その「苦」から目を反らしたり、抵抗しようとしたりして、しっかりと「苦」そのものを観察していないんです。「苦」が何者であるかを知らなければ、その原因を解明できません。』

Σ( ゜ ゝ゜) 「では、王子はその原因を解明されたのですか!?」

( ̄д ̄ ) 『ええ。答えはいたってシンプルです。思い通りにならないという真実をねじ曲げようというその気持ちが苦の原因なんです。元々思い通りにならないモノを、思い通りにしようとする欲望、すなわち「煩悩」が苦の源です。』

(;゜ ∀゜) 「あ、あのぅ…。煩悩って…なんですか?」

( ̄д ̄ ) 『安らぎを得られない原因のことです。色々あるのですが、分かりやすいところで一つあげるなら、「欲」がそうですね。「欲」と言っても色々な欲がありますがその中でも特に問題となるのは「渇愛(かつあい)」と呼ばれる欲望です。』

(;゜ ω゜) 「渇愛…。これまた聞き慣れない言葉ですね。」

( ̄д ̄ ) 『渇愛は、喉が渇いている時に海水を飲み込むようなものです。決して満たされることがなく、ますます喉が渇いてしまうように。簡単に言えば、単に「欲しい」ではなく、「もっと欲しい」と求める気持ちが「渇愛」です。この「渇愛」には3つの特徴があります。』

( ゜ д゜) 「ほう。3つの特徴とは?」

( ̄д ̄ ) 『1つめは、変幻自在で姿を変えては、次から次へと新たな欲を生み出すことです。満たされたと思っても、また新たな欲を生み出します。例えば、ずっと望んでいた大金を手に入れたとします。手に入っても、今度はそれをもっと増やそうという気持ちが芽生えたり、失わないようにしようとする気持ちが芽生えて、結局満たされることがないようなことです。』

( ゜ ー゜) 「2つめは?」

( ̄д ̄ ) 『欲の中に、喜びと貪りが同居していることです。一度心地よいと感じてしまうと、もっと欲しくなってしまうのが人間の性(さが)ですね。この2つが同居した欲望は際限がなくなります。』

( ゜ ゝ゜) 「3つめは?」

( ̄д ̄ ) 『欲しがっている状況そのものを気に入ってしまうことです。満たされずに、もっと欲しいという状態自体を喜んでしまうんです。「こんなに欲しがっている、そんな自分がカワイイ☆」なんていう風に自分を納得させてしまうんです。』

(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) 凄い説得力だなぁ…

( ̄д ̄ ) 『これらの性質を持つ欲望には大きく分けて3種類あります。1つ。生理的な心地よさ、つまり、快楽を求める気持ちですね。2つ。生きていたいという生存欲。最後は、気に入らないと思うモノを排除したがる気持ちです。これらの欲望に関わる、怒り、貪りと、真理を見分けられない無知な心が、苦しみをもたらすんです。』



この、苦の原因は人間の煩悩・執着にあるという真理を『集諦(じったい)』と呼びます。



( ̄д ̄ ) 『目の前にある現実を(また、自分を)、自分に都合の良い演出を加えることなく観察し、ありのままを受け入れることで、その本質、真理を見抜くことができます。そして、煩悩に振り回されることなく、自らを律することができれば、苦しみを滅し、真の自由の境地に至ることができます。』



この、苦を滅した境地が悟りであるという真理を『滅諦(めったい)』と呼びます。



( ̄д ̄ ) 『安らぎの境地に辿り着くために必要なのは、苦しみを我慢することではありません。安らぎを妨げる「苦」や「不満」などの原因を突き止め、それらを滅することなんです。正見、正語、正業、正命、正精進、正思惟、正念および正定の、8種の徳で、誰もが涅槃に至ることができますよ。』



この、シッダッタが示した悟りに到達するための方法を『道諦(どうたい)』と呼びます。



Σ(;゜ ゝ゜) 「誰もが!? 私たちにも可能ですか?」

( ̄д ̄ ) 『もちろん。』

(;゜ ∀゜) 「あ、あのぅ…。正見、正語、正業、正命、正精進、正思惟、正念および正定って…なんですか?」




この、シッダッタが初めて説いた「現実の様相とそれを解決する方法論」、つまりは悟りに至る8つの方法を『八正道(はっしょうどう)』と言います。

この、八正道については…

来週詳しくご紹介します。



←あ。ジョーク入れ忘れた!なんだか落ち着かないなぁ…<オチがないだけに。

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初転法輪

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( ̄д ̄ ) 『コンダンニャさん、僕の話を聞いてくれませんか。』

(;` д´) 「いえ…。私たちは私たちなりの方法で頑張っておりますので。邪魔しないでください。」

( ̄д ̄ ) 『私たちなりの方法とは?』

(;` д´) 「勿論苦行です。」

( ̄д ̄ ) 『前にもお話したじゃないですか。苦行で悟りは開けません。』

(;` д´) 「フン。そんなの苦行に耐えかねて堕落したヤツの負け惜しみだ。」

( ̄д ̄ ) 『そうじゃないんです。僕、気付いたんですよ。苦行は、明らかに目的を見失っているんです。』

Σ(;゜ ー゜) 「え?」

Σ(;゜ ゝ゜) 「目的を…」

Σ(;゜ ∀゜) 「見失っているって…」

Σ(;゜ ω゜) 「どういう事?」

(;` д´) 「バカ言うな!目的はハッキリしてるさ。安らぎの境地に辿り着くために頑張っているんだ。これ以上明確な目的があるとでも言うのか!?」

( ̄д ̄ ) 『ですから、その目的と、苦行という行動で得られる結果が合致しないんです。苦行は無駄です。』

(゜-゜;)(゜ム゜;)(゜∀゜;)(゜ω゜;) 「ねぇ、リーダー。もう意地を張るのは止めて、王子のお話をちゃんと聞いてみましょうよ~。」

(;` д´) 「…。」

( ̄д ̄ ) 『コンダンニャさん。今まで僕が嘘をついたことがありましたか?「悟った」と言うだけなら、苦行の最中にいくらでも言えました。僕が何度も死にかけるほど苦しんでいたのは、あなたもその目で見てきたじゃないですか。そんな時でも僕は「悟った」とは言いませんでした。その僕が、今こうしてハッキリと「悟りました」と言っているんです。自分で言うのもなんですが、今までに僕の顔がこのように輝いているのを見たことがありますか。』

(;` д´) 「………。分かりました。お話、お伺いいたしましょう。」



こうして始まる、シッダッタによる初めての説法。

鹿野苑で五比丘を相手に初めて仏教の教義(法輪)を説いたこのエピソードを『初転法輪(しょてんぽうりん)』と言います。



(;` д´) 「では王子、まずは苦行が無駄だという話からご説明いただけますか。やはり、無駄だと言われても、それだけでは納得がいきませんので。」

( ̄д ̄ ) 『分かりました。では説明いたしましょう。怒らないで聞いてくださいね。苦行はある意味「怠け」なんです。』

(;` ー´) 「ちょっと待ってください。私たちは本気で苦行に取り組んできたんです。それを怠けだなんて!」

( ̄д ̄ ) 『ええ。アッサジさんがそう言うお気持ちはよく分かります。僕も、本気で苦行を行った経験者ですからね。でも、苦行は自分を欺き、「頑張っているふり」をしているという、ある種の「怠け」なんです。』

(;゜ ゝ゜) 「王子、やっぱり分かりません。もう少し分かりやすくご説明いただけませんか…」

( ̄д ̄ ) 『では、順に考えていきましょう。皆さんが辿り着きたいと望んでいるのは、どんなものですか。苦行の目的はなんですか?』

(;゜ ∀゜) 「それは、先ほどリーダーが仰っていたように、安らぎの境地に辿り着くことです。」

( ̄д ̄ ) 『そこなんです。目的は「安らぎ」なんです。「苦行」は、そこを忘れちゃっているんです。』

(;゜ ω゜) 「は?」

( ̄д ̄ ) 『本当は「安らぎ」を求めているのに、一生懸命「苦」を選択している。』

Σ(゜д゜;)(゜-゜;)(゜ム゜;)(゜∀゜;)(゜ω゜;) アッ!

( ̄д ̄ ) 『気付きました?「安らぎ」を求めるのなら、一生懸命「安らぐ」ことに努力するべきなんです。「安らぐ」というスキルを高めるべきなんです。一生懸命「苦しみ」に耐えても、そこで得られるのは「苦しみに耐えるスキル」なんです。「苦しみに耐えることで安らぎを獲得できるはず」という仮説自体が間違っていたんですよ。』

(;` д´) 「…。」

( ̄д ̄ ) 『これを、別なことで例えてみましょうか。例えば、ギターという楽器がありますね。ギターのチューニングってわかります?良い音を奏でようとしたときにすべきなのは、弦を緩める事でも、力一杯巻き上げる事でもないんです。ちょうど良い頃合いに調整することが大切なんです。この話を修行に当てはめて考え直してみましょう。「安らぎ」は「心地よい音」です。快楽にふけったり、何もせずにだらける様な行為は、弦を緩めるようなもの。逆に努力すればなんでもいいと、あれこれ苦行を行うのは弦を力一杯巻き上げるようなもの。どちらを取っても、キレイな音は奏でられないんです。』

(;゜ ー゜) 「なるほどぉ…。」

(;゜ ∀゜) 「“苦行”は、もうすぐ期末テストが始まるぞって時に、勉強しないで一生懸命部屋の掃除始めちゃうようなものですね…。」

( ̄▽ ̄ ) 『あはは!上手い!そのとおりです。』

(;゜ ω゜) 「そうだよね…。テストで良い成績を残すためには勉強しなきゃいけないよね。それなのに、気持ちよく勉強できるようにと言い訳をしても、掃除ばかりしてたんじゃ、どんなに頑張ったって、いつまで経っても知識は身につかないわなぁ…」

( ̄д ̄ ) 『だからね、苦行は自分を欺き、「頑張っているふり」をしているという、ある種の「怠け」、ということなんです。』


(;゜д゜)(;゜ー゜)(;゜ゝ゜)(;゜∀゜)(;゜ω゜) なるほどなぁ…



このように、「厳しい苦行」と「快楽主義」など、2つの対極にある事柄に偏ることなく、目的にかなった適正な行動を取りましょう、と言うのが『中道(ちゅうどう)』と呼ばれる教えです。

「苦と楽」の2つを『受(じゅ)』、「有と無」や「善と悪」などの2つの見解を『二辺(にへん)』と呼び、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を『中道』といいます。

※儒教で言うところの『中庸(ちゅうよう)』とは、若干解釈が異なります。


←テスト前、掃除どころか勢い余って模様替えまでしていたのは私です。_| ̄|○

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