いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
救済
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
前回のエントリに、かずのこさんから下記のコメントを頂きました。ありがとうございます。
今日はこちらのコメントにお答えする形で進行していきたいと思います。
*****
初めまして
何度も繰り返し読み返しましたが 頭が悪いせいか いまひとつよく分かりません。
そもそも「真実を超えた真理」とはなんですか?
それが分かると悩んでいる人は救われるのですか?
阿倍さんのブログも同じように感じます。
「悟り」とは 憧れを抱かせるような美しい言葉ですが それを語ったところで 読んでいる人(私です)には いったい何をどうすればよいのか伝わってこないです。
瞑想ですか?
そんな暇はありませんし それで悟れるとも思えません。
色々なことを書きまして すみません。
正直な気持ちです。
*****
このような趣旨のコメントは、いままでも何度かいただいていたので、このタイミングをお借りしてご返答させていただきたいと思います。
>何度も繰り返し読み返しましたが 頭が悪いせいか いまひとつよく分かりません。
いえいえ。
むしろこのような話をしている僕の方が「頭がおかしい」と思われる可能性が高いのではないでしょうか。
このような話を理解できる方と出会えるようになったのも、最近ようやくといった感じです。
それも本当に話ができるのは、まだまだ数名です。
>そもそも「真実を超えた真理」とはなんですか?
>それが分かると悩んでいる人は救われるのですか?
はい。断言します。救われます。
さらに言い方を変えて御説明すれば、その次元を一瞬でも垣間見ることができたなら、「苦悩の仕組み」を知ることが出来るんです。
その仕組みを知ると、自分の抱えている苦しみをそのままにしておくか、そこから解放されることを選ぶのか、という「選択」が出来るようになります。
お望みであれば、その苦しみをさらに増すことを選ぶことも可能です。
しかしながら、その次元を見たことの無い人に、その「選択」はなかなかできません。
なぜなら、「苦悩の仕組み」そのものを理解できていないので、そこから解放されようともがいても、そのほとんどが的外れな行動となってしまうからです。
逆にいうと、究極体験が無いとしても、「苦悩の仕組み」そのロジックをある程度理解することができれば、同様に苦悩から解放されることも可能です。
さて、このブログのタイトルは、皆さんのご存じのように「あの世に聞いた、この世の仕組み」です。
このタイトルの意味を、別な言葉で表すのなら、例えばこんな言い方もできます。
「悟りの境地を垣間見てわかった、マトリックスの仕組み」
「アセンションして気づいた、仮想現実の仕組み」
「目覚めてわかった、幻想の正体」
でも、ブッダやイエスなどといったマスターの様にその次元に留まっている事も出来ず、たかだか一瞬垣間見ただけですから、さすがに僕も自分で「悟った」などと曰うのも恥ずかしいので、そのような言い方は出来るだけ避けていました。
でも、一瞬でも、見ちゃったもんは、見ちゃったんですよ。その世界を。
何の因果か、僕が見てしまったその世界は、「本質」の世界です。
以前お話したとおり「本質」は「現象」の対義語ですから、その世界の事を「現象」において説明するのは理論的に不可能です。
これもまた以前書かせていただきましたが、このブログはそれを承知の上での悪あがきです。
不可能とわかっていてもなお、僕の想像を超えた可能性があるかもしれないという気持ちで綴っています。
>そもそも「真実を超えた真理」とはなんですか?
>それが分かると悩んでいる人は救われるのですか?
上手く説明できずにもうしわけありません。でも、やっぱり救われるんです。絶対。
>阿倍さんのブログも同じように感じます。
>「悟り」とは 憧れを抱かせるような美しい言葉ですが
>それを語ったところで 読んでいる人(私です)には
>いったい何をどうすればよいのか伝わってこないです。
はい。そこがやっぱり通じていませんね。
これまで僕は何度も申し上げてきたじゃないですか。
「何をどうするか」が重要なのではなく、「どうあるか」が大切なのだ、と。
これについてはこれまで何度も表現を変えてご説明しています。
アナタに届く表現が出来ておらず申し訳ありません。
こればかりは、「読み取っていただく」しか方法がないのです。
>瞑想ですか?
>そんな暇はありませんし それで悟れるとも思えません。
あはは、そうですか。
でも、このブログを何度も繰り返し読み返し、こうしてコメントしてくれる時間があるのですから、なんでしたらその時間を瞑想に当てて頂いても構わないですよ。
瞑想は、必ずしも長時間をさく必要があるというものではないのです。
5分、15分あれば出来る瞑想だってあります。
それと…
アナタは「そんな暇はありませんし それで悟れるとも思えません」と仰いますが、それは何を元にした感想でしょうか。
実際に瞑想をしてみての感想ですか?
瞑想が何かを理解したうえでの感想ですか?
そうじゃないのであれば、その見解は確証として成り立ちますか?
もうひとつ、別な方向からのご説明も加えさせてください。
残念ながら、「悟り」には因果がありません。
ですから、「何かをしたから悟れる」という方法論は何一つないのです。
そういう意味では、あなたの「瞑想で悟れるとも思えません」という意見は正しいのです。
では何故僕や阿部さんが瞑想を勧めているのかというと、その目的が別の所にあるからです。
それは、いうなれば「悟りを迎え入れるための準備」です。
それも、したくないのであれば、別に無理してまでオススメするつもりは僕にはありません。
現に、僕の目覚めは、瞑想をしていないときに起こっているからです。
でもやっぱり、僕は瞑想をオススメします。
瞑想とは何なのか、何故瞑想が良いのか、そのへんのお話は、先日の博多講演でも阿部さんと一緒にお話させていただきました。
この先の大阪・東京でも、流れがありましたら、同様にお話したいと思っています。
今回は、かずのこさんと同じような疑問をお持ちのかたも沢山おられることと思いましたのでとりあげさせていただきました。
見る人が見たら、少々失礼に見える箇所もあるかもしれませんが、僕もかずのこさんのコメントに甘え、正直な気持ちを綴らせていただきました。どうぞご容赦いただければと思います。
…
…
…
今日の記事、なんだか阿部さんみたい…
←クリック同様、沢山のコメントも励みとなっております。<(_ _ )>
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前回のエントリに、かずのこさんから下記のコメントを頂きました。ありがとうございます。
今日はこちらのコメントにお答えする形で進行していきたいと思います。
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初めまして
何度も繰り返し読み返しましたが 頭が悪いせいか いまひとつよく分かりません。
そもそも「真実を超えた真理」とはなんですか?
それが分かると悩んでいる人は救われるのですか?
阿倍さんのブログも同じように感じます。
「悟り」とは 憧れを抱かせるような美しい言葉ですが それを語ったところで 読んでいる人(私です)には いったい何をどうすればよいのか伝わってこないです。
瞑想ですか?
そんな暇はありませんし それで悟れるとも思えません。
色々なことを書きまして すみません。
正直な気持ちです。
*****
このような趣旨のコメントは、いままでも何度かいただいていたので、このタイミングをお借りしてご返答させていただきたいと思います。
>何度も繰り返し読み返しましたが 頭が悪いせいか いまひとつよく分かりません。
いえいえ。
むしろこのような話をしている僕の方が「頭がおかしい」と思われる可能性が高いのではないでしょうか。
このような話を理解できる方と出会えるようになったのも、最近ようやくといった感じです。
それも本当に話ができるのは、まだまだ数名です。
>そもそも「真実を超えた真理」とはなんですか?
>それが分かると悩んでいる人は救われるのですか?
はい。断言します。救われます。
さらに言い方を変えて御説明すれば、その次元を一瞬でも垣間見ることができたなら、「苦悩の仕組み」を知ることが出来るんです。
その仕組みを知ると、自分の抱えている苦しみをそのままにしておくか、そこから解放されることを選ぶのか、という「選択」が出来るようになります。
お望みであれば、その苦しみをさらに増すことを選ぶことも可能です。
しかしながら、その次元を見たことの無い人に、その「選択」はなかなかできません。
なぜなら、「苦悩の仕組み」そのものを理解できていないので、そこから解放されようともがいても、そのほとんどが的外れな行動となってしまうからです。
逆にいうと、究極体験が無いとしても、「苦悩の仕組み」そのロジックをある程度理解することができれば、同様に苦悩から解放されることも可能です。
さて、このブログのタイトルは、皆さんのご存じのように「あの世に聞いた、この世の仕組み」です。
このタイトルの意味を、別な言葉で表すのなら、例えばこんな言い方もできます。
「悟りの境地を垣間見てわかった、マトリックスの仕組み」
「アセンションして気づいた、仮想現実の仕組み」
「目覚めてわかった、幻想の正体」
でも、ブッダやイエスなどといったマスターの様にその次元に留まっている事も出来ず、たかだか一瞬垣間見ただけですから、さすがに僕も自分で「悟った」などと曰うのも恥ずかしいので、そのような言い方は出来るだけ避けていました。
でも、一瞬でも、見ちゃったもんは、見ちゃったんですよ。その世界を。
何の因果か、僕が見てしまったその世界は、「本質」の世界です。
以前お話したとおり「本質」は「現象」の対義語ですから、その世界の事を「現象」において説明するのは理論的に不可能です。
これもまた以前書かせていただきましたが、このブログはそれを承知の上での悪あがきです。
不可能とわかっていてもなお、僕の想像を超えた可能性があるかもしれないという気持ちで綴っています。
>そもそも「真実を超えた真理」とはなんですか?
>それが分かると悩んでいる人は救われるのですか?
上手く説明できずにもうしわけありません。でも、やっぱり救われるんです。絶対。
>阿倍さんのブログも同じように感じます。
>「悟り」とは 憧れを抱かせるような美しい言葉ですが
>それを語ったところで 読んでいる人(私です)には
>いったい何をどうすればよいのか伝わってこないです。
はい。そこがやっぱり通じていませんね。
これまで僕は何度も申し上げてきたじゃないですか。
「何をどうするか」が重要なのではなく、「どうあるか」が大切なのだ、と。
これについてはこれまで何度も表現を変えてご説明しています。
アナタに届く表現が出来ておらず申し訳ありません。
こればかりは、「読み取っていただく」しか方法がないのです。
>瞑想ですか?
>そんな暇はありませんし それで悟れるとも思えません。
あはは、そうですか。
でも、このブログを何度も繰り返し読み返し、こうしてコメントしてくれる時間があるのですから、なんでしたらその時間を瞑想に当てて頂いても構わないですよ。
瞑想は、必ずしも長時間をさく必要があるというものではないのです。
5分、15分あれば出来る瞑想だってあります。
それと…
アナタは「そんな暇はありませんし それで悟れるとも思えません」と仰いますが、それは何を元にした感想でしょうか。
実際に瞑想をしてみての感想ですか?
瞑想が何かを理解したうえでの感想ですか?
そうじゃないのであれば、その見解は確証として成り立ちますか?
もうひとつ、別な方向からのご説明も加えさせてください。
残念ながら、「悟り」には因果がありません。
ですから、「何かをしたから悟れる」という方法論は何一つないのです。
そういう意味では、あなたの「瞑想で悟れるとも思えません」という意見は正しいのです。
では何故僕や阿部さんが瞑想を勧めているのかというと、その目的が別の所にあるからです。
それは、いうなれば「悟りを迎え入れるための準備」です。
それも、したくないのであれば、別に無理してまでオススメするつもりは僕にはありません。
現に、僕の目覚めは、瞑想をしていないときに起こっているからです。
でもやっぱり、僕は瞑想をオススメします。
瞑想とは何なのか、何故瞑想が良いのか、そのへんのお話は、先日の博多講演でも阿部さんと一緒にお話させていただきました。
この先の大阪・東京でも、流れがありましたら、同様にお話したいと思っています。
今回は、かずのこさんと同じような疑問をお持ちのかたも沢山おられることと思いましたのでとりあげさせていただきました。
見る人が見たら、少々失礼に見える箇所もあるかもしれませんが、僕もかずのこさんのコメントに甘え、正直な気持ちを綴らせていただきました。どうぞご容赦いただければと思います。
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今日の記事、なんだか阿部さんみたい…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e9/b8a4bcdc22643fc1ac2303b742061ba6.png)
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鎖帷子
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
じじょう-じばく【自縄自縛】
自分の思考・言葉・行為のために、自由な動きがとれず苦しい立場になること。
人間が引き起こす苦しみの数々は、全てこの「自縄自縛」によって生まれます。
多くの人間は、無自覚的に自分自身を「不自由」な立場に置いてしまうのです。
この「自縄自縛」のシステムを、エックハルト・トール氏は「自己同一化」と呼びました。
「思考」や「感情」と自己を同一化してしまうことによって生まれる苦しみです。
ここで一度、自分の状況を確認してみましょう。
Q. あなたは、自分の思考を、自分の意思で止めることができますか?
日々頭の中で行われている「独り言」を止めることができますか?
え? できませんか?
では、いまのあなたは、自分の意思ではなく、思考にコントロールされて生きているということになります。
「思考」という鎖に繋がれ、自由を奪われている状態です。
もしかしたら、その状態がもはや癖になり、頭の中で独り言が行われていること自体にも気づけず、すっかり日常化しているかもしれませんね。
もう一つ。
Q. あなたは、自分の感情から、自分の意思で離れることができますか?
え? できませんか?
では、いまのあなたは、自分の意思ではなく、感情にコントロールされて生きているということになります。
脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士は著書「奇跡の脳」の中でこのように語っています。
*****
怒りの反応は、自発的に誘発されるプログラム。ひとたび怒りが誘発されると、脳から放出された化学物質が、からだに満ち、生理的な反応が引き起こされます。
最初の誘発から90秒以内に、怒りの化学的な成分は血液中からなくなり、自動的な反応は終わります。
もし90秒が過ぎてもまだ怒りが続いているとしたら、それはその回路が機能し続けるように選択をしたからです。
瞬間瞬間に、神経回路をつなげるか、それとも現在の瞬間に戻って、つかの間の生理機能としてその反応を消散させるかのどちらかの選択をしているんです
*****
もし、90秒を過ぎても、自分の意思でその感情から離れられないのだとしたら、「感情」という鎖に繋がれ、自由を奪われている状態です。
もしかしたら、その感情がもはや癖になり、事あるごとに感情が誘発される自動処理プログラムができあがっているかもしれませんね。
こうして人生のイニシアチブ(主導権)を「思考」や「感情」に握られて、自由を失っている状態。
それが、僕の言う「自縄自縛」です。
自分の自由を奪うこの鎖は、1本や2本ではありません。
不安・恐怖・虚勢・自尊心・劣等感・価値観・常識・被害者意識・加害者意識・見栄・怒り・悲しみ・後悔・悔しさ・心配・ひがみ・ねたみ・ノルマ・ルール・etc…
一口に「不安」と言えど種類は多く、お金・健康・人間関係・仕事・恋愛・子育て・etc…
自分と向き合えば向き合うほど、沢山の鎖が見つかると思います。
自分を縛り付ける鎖の数が多ければ多いほど、その重みに絶えられず、ますます身動きを取ることが難しくなっていきます。
私たちは、なぜこのような鎖を持ってしまったのでしょうか。
それはひとえに、自分の身(心)を守ろうとしたからに他なりません。
二度と、同じ事で傷つかないように…
何かに傷つくという経験を通して、新たな鎖を手にします。
それはまるで、向けられた刃物から身を守るため、丈夫な鎖を自分に巻き付け、身体を守るように。
いつしか鎖の数は増え、巻き付けた鎖は鎖帷子(くさりかたびら)のように全身を覆います。
それでもなお傷つくと、さらに太い鎖を手にし、鎖帷子を鎧へと変貌させていきます。
臆病さゆえに丈夫な鎧(沢山の鎖)をまとった自分。
しかし、いずれ自分の自由を奪う、その重さと息苦しさに絶えきれなくなっていきます。
そして気づくんです。
自分の自由を奪い、息苦しい状況をつくった張本人が自分だったことに。
それに気づいたら、あとはその鎖を手放すだけです。
その数が減るほどに、あなたは自由と、身軽さと、開放感を味わうことができるでしょう。
あ。鎧を脱ぐことに不安がありますか?
大丈夫。鎧を脱いだあなたなら、重い鎧で身動きが取れなくなっているあの人よりずっと身軽です。
どんな攻撃も、さらりとかわしてしまうことでしょう。
これまで、自分の為にと一生懸命コレクションしてきた沢山の鎖。
それを1本1本手放していきましょう。
(  ̄Д ̄) 『自分の自由を奪っていた、自縄自縛の鎖を取っていくこと。それが「鎖取り(さとり)」です。』
←イニシアチブはあなたに。
********************************************
じじょう-じばく【自縄自縛】
自分の思考・言葉・行為のために、自由な動きがとれず苦しい立場になること。
人間が引き起こす苦しみの数々は、全てこの「自縄自縛」によって生まれます。
多くの人間は、無自覚的に自分自身を「不自由」な立場に置いてしまうのです。
この「自縄自縛」のシステムを、エックハルト・トール氏は「自己同一化」と呼びました。
「思考」や「感情」と自己を同一化してしまうことによって生まれる苦しみです。
ここで一度、自分の状況を確認してみましょう。
Q. あなたは、自分の思考を、自分の意思で止めることができますか?
日々頭の中で行われている「独り言」を止めることができますか?
え? できませんか?
では、いまのあなたは、自分の意思ではなく、思考にコントロールされて生きているということになります。
「思考」という鎖に繋がれ、自由を奪われている状態です。
もしかしたら、その状態がもはや癖になり、頭の中で独り言が行われていること自体にも気づけず、すっかり日常化しているかもしれませんね。
もう一つ。
Q. あなたは、自分の感情から、自分の意思で離れることができますか?
え? できませんか?
では、いまのあなたは、自分の意思ではなく、感情にコントロールされて生きているということになります。
脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士は著書「奇跡の脳」の中でこのように語っています。
*****
怒りの反応は、自発的に誘発されるプログラム。ひとたび怒りが誘発されると、脳から放出された化学物質が、からだに満ち、生理的な反応が引き起こされます。
最初の誘発から90秒以内に、怒りの化学的な成分は血液中からなくなり、自動的な反応は終わります。
もし90秒が過ぎてもまだ怒りが続いているとしたら、それはその回路が機能し続けるように選択をしたからです。
瞬間瞬間に、神経回路をつなげるか、それとも現在の瞬間に戻って、つかの間の生理機能としてその反応を消散させるかのどちらかの選択をしているんです
*****
もし、90秒を過ぎても、自分の意思でその感情から離れられないのだとしたら、「感情」という鎖に繋がれ、自由を奪われている状態です。
もしかしたら、その感情がもはや癖になり、事あるごとに感情が誘発される自動処理プログラムができあがっているかもしれませんね。
こうして人生のイニシアチブ(主導権)を「思考」や「感情」に握られて、自由を失っている状態。
それが、僕の言う「自縄自縛」です。
自分の自由を奪うこの鎖は、1本や2本ではありません。
不安・恐怖・虚勢・自尊心・劣等感・価値観・常識・被害者意識・加害者意識・見栄・怒り・悲しみ・後悔・悔しさ・心配・ひがみ・ねたみ・ノルマ・ルール・etc…
一口に「不安」と言えど種類は多く、お金・健康・人間関係・仕事・恋愛・子育て・etc…
自分と向き合えば向き合うほど、沢山の鎖が見つかると思います。
自分を縛り付ける鎖の数が多ければ多いほど、その重みに絶えられず、ますます身動きを取ることが難しくなっていきます。
私たちは、なぜこのような鎖を持ってしまったのでしょうか。
それはひとえに、自分の身(心)を守ろうとしたからに他なりません。
二度と、同じ事で傷つかないように…
何かに傷つくという経験を通して、新たな鎖を手にします。
それはまるで、向けられた刃物から身を守るため、丈夫な鎖を自分に巻き付け、身体を守るように。
いつしか鎖の数は増え、巻き付けた鎖は鎖帷子(くさりかたびら)のように全身を覆います。
それでもなお傷つくと、さらに太い鎖を手にし、鎖帷子を鎧へと変貌させていきます。
臆病さゆえに丈夫な鎧(沢山の鎖)をまとった自分。
しかし、いずれ自分の自由を奪う、その重さと息苦しさに絶えきれなくなっていきます。
そして気づくんです。
自分の自由を奪い、息苦しい状況をつくった張本人が自分だったことに。
それに気づいたら、あとはその鎖を手放すだけです。
その数が減るほどに、あなたは自由と、身軽さと、開放感を味わうことができるでしょう。
あ。鎧を脱ぐことに不安がありますか?
大丈夫。鎧を脱いだあなたなら、重い鎧で身動きが取れなくなっているあの人よりずっと身軽です。
どんな攻撃も、さらりとかわしてしまうことでしょう。
これまで、自分の為にと一生懸命コレクションしてきた沢山の鎖。
それを1本1本手放していきましょう。
(  ̄Д ̄) 『自分の自由を奪っていた、自縄自縛の鎖を取っていくこと。それが「鎖取り(さとり)」です。』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e9/b8a4bcdc22643fc1ac2303b742061ba6.png)
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家なき子
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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今日は、精神世界でよく語られる「なにもせずとも、本当は皆はじめから悟っている」というキーワードについてお話を進めたいと思います。
「なにもせずとも、皆はじめから悟っている」とか「元から救われている」などと言われても、「はじめから悟っているのなら、わざわざ目覚めようとする必要はないではないか」だとか「最初から悟っているなら、いま目の前にある苦悩や不安はなんなのか。なぜ私は苦しみから逃れられないのか。」という、じれったい疑問が残ったままの方も多いのではないでしょうか。
結局のところ、目覚めを目指せばいいのか、目指していること自体がエゴの策略なのか。
そんな何とも煮え切らないパラドックスに、色々なマスターが色々なアプローチをしているわけですが…
(  ̄▽ ̄)ノ 『本日は、そんな話題を「家なき子」をベースに御説明します。』
( ̄д ̄; ) 「久々に登場したかと思えば、いつもの如く唐突な比喩をもちだしますね。」
(  ̄Д ̄) 『いいじゃん。だってわかりやすいんだもん。』
( ̄д ̄; ) 「それにしても、家なき子かよ…なんなのよ、その微妙な古さ。」
(  ̄Д ̄) 『いいからいいから。さ、説明を進めて。』
…
若い世代の皆様はピンとこないかもしれませんが…いまから15年前のこと。
野島伸司さん脚本、安達祐実さん(当時13歳)主演で、「家なき子」というテレビドラマが放映されました。
酒乱の父(内藤剛志)と病弱な母(田中好子)を両親にもつ不遇な家庭環境に生きる少女、相沢すず(安達祐実)の苦悩を描いた、ドロドロの悲劇。
劇中の名セリフ「同情するなら金をくれ」が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなりました。
父に暴行され、家を失い、学校では虐められ、犯罪に手を染め…と、それはそれは悲惨な人生を辿る悲劇のヒロイン、相沢すず。
この物語を、エックハルト・トールさんが言うところの「自己同一化がもたらす機能不全」と合わせて考えてみます。
もし、この役を演じていた安達祐実さんが、演技に没頭するあまり、本来の自分をすっかり忘れ、自分の事を「相沢すず」だと思っていたら、大変な事が起こります。
「安達祐実」であるはずの自分が「相沢すず」として生きているのですから、そこに「機能不全」が起こります。
ドラマの舞台設定を「現実」だと勘違いしていたら、その思考や行動は、自分の中にある「すず」という人物設定を通して行われることになるので、「すずの苦悩」を「自分の苦悩」として感じ、苦しむことになります。
このとき、仮に自分を「相沢すず(自我・架空のキャラクター)」だと勘違いしているとしても、本当は「なにもせずとも、はじめから安達祐実(真我)」です。
そんな状況から、「ああ!私は相沢すずじゃない!安達祐実だったんだ!」と、本来の自分を思い出せば、例え同じ舞台に立っているとしても、その苦悩は「架空の物語上で描かれている世界」であることが明確にわかっているので、「苦しみ」はなくなり、「苦しんでいるすずを演じている」という自覚だけが残ることになります。
それと同時に「家なき子」という狭い世界から抜け出て、「ああ!わたしが演じられるのは相沢すずだけじゃない!この役も一時的なもの。過ぎ去っていく運命。わたしはこの先、“ガラスの仮面”の北島マヤにだって、“ゴーストハンター早紀”の安部早紀にだって、“大奥”の和宮にだって、“アンパンマン”のドーリィにだってなれるのよ!」と、広大な世界と自由を見出します。
「安達祐実であることを忘れ、相沢すずとして苦しんでいる姿」と「相沢すずを演じ、苦しみを表現する安達祐実」は、傍から見れば同じように見えてしまいますが、本人の意識は全くの別物です。
「家なき子」の撮影中は、ドラマの中での「苦しみ」は相変わらず「苦しみ」のままですが、その性質は、自分が安達祐実であることを思いだした以前・以後ではまったく違うモノです。
この様な例えでお話すると、とても馬鹿馬鹿しく見えるかもしれませんが、悲しいかな、そんな馬鹿馬鹿しさに気づかずにいるのが人間です。
自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、本当の自分を忘れてその役を演じています。
ある人は「母」を、ある人は「社長」を、ある人は「学生」を演じ、脚本のない、完全アドリブの舞台に立っています。
「自分」と「役柄」を切り分け、何も演じていない素の自分を思い出すことが「目覚め」と言われるものです。
目覚めや悟りと言われる経験を通して見つけるものは「聖人君子となった自分」ではなく、「素の自分」です。
「目覚め」に対して、何か特定のイメージを持ち、そのイメージに向けて自分を高めていく努力を行っているのだとしたら、それはエゴの策略に嵌っています。
そのイメージは「素の自分」ではなく、「エゴが望む次の役」だからです。
そうではなく、自分が今どんな役を演じているのかを見抜き、日常的に行っている自己演出・セルフプロデュースに気付き、それを踏まえて役を降りることを目指しているのであれば、それは目覚めのプロセスとなりえます。
(  ̄Д ̄) 『相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。』
なんだろう、この例え… (-公-;)
←数日更新出来ずにいたら、このざまです。「同情するなら押してくれ」
********************************************
今日は、精神世界でよく語られる「なにもせずとも、本当は皆はじめから悟っている」というキーワードについてお話を進めたいと思います。
「なにもせずとも、皆はじめから悟っている」とか「元から救われている」などと言われても、「はじめから悟っているのなら、わざわざ目覚めようとする必要はないではないか」だとか「最初から悟っているなら、いま目の前にある苦悩や不安はなんなのか。なぜ私は苦しみから逃れられないのか。」という、じれったい疑問が残ったままの方も多いのではないでしょうか。
結局のところ、目覚めを目指せばいいのか、目指していること自体がエゴの策略なのか。
そんな何とも煮え切らないパラドックスに、色々なマスターが色々なアプローチをしているわけですが…
(  ̄▽ ̄)ノ 『本日は、そんな話題を「家なき子」をベースに御説明します。』
( ̄д ̄; ) 「久々に登場したかと思えば、いつもの如く唐突な比喩をもちだしますね。」
(  ̄Д ̄) 『いいじゃん。だってわかりやすいんだもん。』
( ̄д ̄; ) 「それにしても、家なき子かよ…なんなのよ、その微妙な古さ。」
(  ̄Д ̄) 『いいからいいから。さ、説明を進めて。』
…
若い世代の皆様はピンとこないかもしれませんが…いまから15年前のこと。
野島伸司さん脚本、安達祐実さん(当時13歳)主演で、「家なき子」というテレビドラマが放映されました。
酒乱の父(内藤剛志)と病弱な母(田中好子)を両親にもつ不遇な家庭環境に生きる少女、相沢すず(安達祐実)の苦悩を描いた、ドロドロの悲劇。
劇中の名セリフ「同情するなら金をくれ」が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなりました。
父に暴行され、家を失い、学校では虐められ、犯罪に手を染め…と、それはそれは悲惨な人生を辿る悲劇のヒロイン、相沢すず。
この物語を、エックハルト・トールさんが言うところの「自己同一化がもたらす機能不全」と合わせて考えてみます。
もし、この役を演じていた安達祐実さんが、演技に没頭するあまり、本来の自分をすっかり忘れ、自分の事を「相沢すず」だと思っていたら、大変な事が起こります。
「安達祐実」であるはずの自分が「相沢すず」として生きているのですから、そこに「機能不全」が起こります。
ドラマの舞台設定を「現実」だと勘違いしていたら、その思考や行動は、自分の中にある「すず」という人物設定を通して行われることになるので、「すずの苦悩」を「自分の苦悩」として感じ、苦しむことになります。
このとき、仮に自分を「相沢すず(自我・架空のキャラクター)」だと勘違いしているとしても、本当は「なにもせずとも、はじめから安達祐実(真我)」です。
そんな状況から、「ああ!私は相沢すずじゃない!安達祐実だったんだ!」と、本来の自分を思い出せば、例え同じ舞台に立っているとしても、その苦悩は「架空の物語上で描かれている世界」であることが明確にわかっているので、「苦しみ」はなくなり、「苦しんでいるすずを演じている」という自覚だけが残ることになります。
それと同時に「家なき子」という狭い世界から抜け出て、「ああ!わたしが演じられるのは相沢すずだけじゃない!この役も一時的なもの。過ぎ去っていく運命。わたしはこの先、“ガラスの仮面”の北島マヤにだって、“ゴーストハンター早紀”の安部早紀にだって、“大奥”の和宮にだって、“アンパンマン”のドーリィにだってなれるのよ!」と、広大な世界と自由を見出します。
「安達祐実であることを忘れ、相沢すずとして苦しんでいる姿」と「相沢すずを演じ、苦しみを表現する安達祐実」は、傍から見れば同じように見えてしまいますが、本人の意識は全くの別物です。
「家なき子」の撮影中は、ドラマの中での「苦しみ」は相変わらず「苦しみ」のままですが、その性質は、自分が安達祐実であることを思いだした以前・以後ではまったく違うモノです。
この様な例えでお話すると、とても馬鹿馬鹿しく見えるかもしれませんが、悲しいかな、そんな馬鹿馬鹿しさに気づかずにいるのが人間です。
自分の経歴や肩書き、生活環境、人間関係など、自分を取り巻く環境や要素によって「自分」という人物設定を築き上げ、本当の自分を忘れてその役を演じています。
ある人は「母」を、ある人は「社長」を、ある人は「学生」を演じ、脚本のない、完全アドリブの舞台に立っています。
「自分」と「役柄」を切り分け、何も演じていない素の自分を思い出すことが「目覚め」と言われるものです。
目覚めや悟りと言われる経験を通して見つけるものは「聖人君子となった自分」ではなく、「素の自分」です。
「目覚め」に対して、何か特定のイメージを持ち、そのイメージに向けて自分を高めていく努力を行っているのだとしたら、それはエゴの策略に嵌っています。
そのイメージは「素の自分」ではなく、「エゴが望む次の役」だからです。
そうではなく、自分が今どんな役を演じているのかを見抜き、日常的に行っている自己演出・セルフプロデュースに気付き、それを踏まえて役を降りることを目指しているのであれば、それは目覚めのプロセスとなりえます。
(  ̄Д ̄) 『相沢すずが新たな役柄を思い描くのではなく、相沢すずという役から離れ、安達祐実に帰って行く試みが、「瞑想」といわれるものです。』
なんだろう、この例え… (-公-;)
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よっぱらい
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
先ほどお風呂に浸かってたら、不意に雲さんとのトークが白熱しましてね。
本当は「氷と水」のお話の続きを書こうかと思ってたんですけども、ちょっと方向転換することにしました。
般若心経につづくテーマは、「アルコール依存症」です。
あはは。ゴメンね。唐突で。w
で、雲さんと、どんな話で盛り上がったかと言いますと…
これまで何度かコメント欄でいただいている内容で、「いや、覚醒やら悟りやらってさ、苦悩から解放されるのはいいかもしんないけど、それってなんだか人生つまんなくなりそうじゃね?」的なご意見をいただいておりましてね…
うん。気持ちはすごくよく分かるんですよ。
僕もおんなじこと考えてた時あるし。
でもね、そういうことじゃないんですよ。これって。
それをね、
( ̄д ̄ ;) 「どうやって説明したら分かってもらえるでしょうね?」
っていう相談をしていたわけです。
そしたら、
(  ̄Д ̄) 『じゃ、「アルコール依存症」をテーマに進めようぜ。』
ってなことになりましてね。
ま、シンプルに言うと、
「凡夫(真理を理解していない人・一般ピーポー)」=「よっぱらい」
「仏陀・覚者(正しい悟りに目覚めた人)」=「シラフ」
って話です。
(あ。言っておきますけど、僕も「よっぱらい」の一人ですからね。)
この世に生まれてくる僕らって、基本的にデフォルトで「アルコール依存症」なんですよ。
もうね、アルコール(カルマ・煩悩)大好きなの。止められない止まらない。
で、「この世」が、いわば「アルコール依存症更正施設」なんです。
そこに、「アルコール止めれるかどうか分かんないけどヨロシクお願いしまーす!」ってやってくるんですけども…。
あれですよ。
「原因と結果の法則」ってのも、コレで考えますと、
「呑む(原因)」→「酔う(経過)」→「トラブル発生(結果)」という図式。
覚者ってのは、
「呑まない(原因)」→「酔わない(結果)」ってのが分かってるから、ハナから呑まないと、単にそういうことですね。
で、この法則が分かっていない方の物事の解釈ってのは
「俺が悪いんじゃないんだよ。そこに酒があるのが悪いんだ。」ってな感じでね。
あくまで自分は「被害者」ってことにしちゃう。
または、「酒が好きなんだから、呑んで何が悪いんだよ!」って変に開き直っちゃってるか。
更正施設内で呑んでるんだから、悪いに決まってるんですけどね…。
そんな感じの僕達アルコール依存症患者(凡夫)がですね、アルコール(カルマ・煩悩)を清算して、酔いから覚めたシラフの人(仏陀・覚者)を見て言うわけですよ。
( ̄д ̄ ;) 「酒が無くて人生楽しい?」って。
すると、お酒に執着の無い人はこう返すワケです。
(  ̄ー ̄) 『そりゃそうだろう!コレまで散々アルコールで失敗してきたんだから。その苦厄から解放されたんだぞ!身体にも、精神にも、生活にも、人間関係にも…あらゆる悪循環を生んできた原因から離れることができたんだもの。こんなに清々しいことはないよ! そう言う君こそ、お酒にしか楽しみを感じられないの?』
まぁ、こんな感じ。
世の中を見回すと、色んな方がいらっしゃいます。
・「どうしても、止めなきゃだめ?」って、もがいている方。
・「止めたいけど、止められない」という方。
・「絶対止めたほうがいいよ!」って言ってる方。
・止める気のない方。
・「程々の付き合いならいいんじゃないの?」って言ってる方。
・「結局、呑んだ責任は自分が負うことになるんだから、好きにすれば?」って言ってる方。
・自分がアルコール依存症であることにすら気付いていない方。
・意識していないけど、禁酒を続ける事ができている方。
・「ま、とりあえず一杯♪」ってお酒注いでくれちゃう方。
…
う~ん。
どうでしょう?
伝わってる?
←ま、とりあえず一押し!
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先ほどお風呂に浸かってたら、不意に雲さんとのトークが白熱しましてね。
本当は「氷と水」のお話の続きを書こうかと思ってたんですけども、ちょっと方向転換することにしました。
般若心経につづくテーマは、「アルコール依存症」です。
あはは。ゴメンね。唐突で。w
で、雲さんと、どんな話で盛り上がったかと言いますと…
これまで何度かコメント欄でいただいている内容で、「いや、覚醒やら悟りやらってさ、苦悩から解放されるのはいいかもしんないけど、それってなんだか人生つまんなくなりそうじゃね?」的なご意見をいただいておりましてね…
うん。気持ちはすごくよく分かるんですよ。
僕もおんなじこと考えてた時あるし。
でもね、そういうことじゃないんですよ。これって。
それをね、
( ̄д ̄ ;) 「どうやって説明したら分かってもらえるでしょうね?」
っていう相談をしていたわけです。
そしたら、
(  ̄Д ̄) 『じゃ、「アルコール依存症」をテーマに進めようぜ。』
ってなことになりましてね。
ま、シンプルに言うと、
「凡夫(真理を理解していない人・一般ピーポー)」=「よっぱらい」
「仏陀・覚者(正しい悟りに目覚めた人)」=「シラフ」
って話です。
(あ。言っておきますけど、僕も「よっぱらい」の一人ですからね。)
この世に生まれてくる僕らって、基本的にデフォルトで「アルコール依存症」なんですよ。
もうね、アルコール(カルマ・煩悩)大好きなの。止められない止まらない。
で、「この世」が、いわば「アルコール依存症更正施設」なんです。
そこに、「アルコール止めれるかどうか分かんないけどヨロシクお願いしまーす!」ってやってくるんですけども…。
あれですよ。
「原因と結果の法則」ってのも、コレで考えますと、
「呑む(原因)」→「酔う(経過)」→「トラブル発生(結果)」という図式。
覚者ってのは、
「呑まない(原因)」→「酔わない(結果)」ってのが分かってるから、ハナから呑まないと、単にそういうことですね。
で、この法則が分かっていない方の物事の解釈ってのは
「俺が悪いんじゃないんだよ。そこに酒があるのが悪いんだ。」ってな感じでね。
あくまで自分は「被害者」ってことにしちゃう。
または、「酒が好きなんだから、呑んで何が悪いんだよ!」って変に開き直っちゃってるか。
更正施設内で呑んでるんだから、悪いに決まってるんですけどね…。
そんな感じの僕達アルコール依存症患者(凡夫)がですね、アルコール(カルマ・煩悩)を清算して、酔いから覚めたシラフの人(仏陀・覚者)を見て言うわけですよ。
( ̄д ̄ ;) 「酒が無くて人生楽しい?」って。
すると、お酒に執着の無い人はこう返すワケです。
(  ̄ー ̄) 『そりゃそうだろう!コレまで散々アルコールで失敗してきたんだから。その苦厄から解放されたんだぞ!身体にも、精神にも、生活にも、人間関係にも…あらゆる悪循環を生んできた原因から離れることができたんだもの。こんなに清々しいことはないよ! そう言う君こそ、お酒にしか楽しみを感じられないの?』
まぁ、こんな感じ。
世の中を見回すと、色んな方がいらっしゃいます。
・「どうしても、止めなきゃだめ?」って、もがいている方。
・「止めたいけど、止められない」という方。
・「絶対止めたほうがいいよ!」って言ってる方。
・止める気のない方。
・「程々の付き合いならいいんじゃないの?」って言ってる方。
・「結局、呑んだ責任は自分が負うことになるんだから、好きにすれば?」って言ってる方。
・自分がアルコール依存症であることにすら気付いていない方。
・意識していないけど、禁酒を続ける事ができている方。
・「ま、とりあえず一杯♪」ってお酒注いでくれちゃう方。
…
う~ん。
どうでしょう?
伝わってる?
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ふりだし
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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昨日いただいたコメントが興味深かったので、今日はその質問にお答えする形で書いてみたいと思います。
2008年03月18日投稿「I am here!」はじめましてさんのコメントより
「いまここ」という感覚を手にしたとき、
向上心や、目的意識というものはどうなってしまうのでしょうか。
私は、そういった向上心や目的意識は、
なくなってしまうのではないかという不安に思っています。
なぜかというと、「いまここ」とは、
刹那的な享楽をむさぼる自堕落という意味にもとれるからです。
それで質問なのですが、
「いまここ」というのは「刹那的」とは別物なんですよね?
「いまここ」を体感しながら、
向上心や高い目的意識を同時にたもつ精神状態って、
いったいどんなものなのでしょうか?
「いまここ」に目覚めるという感覚は、言い方を替えれば「自分の“存在”を自覚できるようになる」という風に僕は考えています。
その経験をすることは、「あがり(ゴール)」ではなく、むしろ「ふりだし」です。
ですから、向上心や目的意識がなくなるわけではありません。
それまで目標にしてきたものが「無意味に思える」ということは、確かにあると思います。
でもそれは、目標を失ったからではなく、本当に目標とすべき別のものに気付くということだと思うのです。
または、「向上心」や「目的意識」という言葉の意味自体が変わると言いますか…
「いまここ」と、自分の存在が明確になっている状態は、「生きる」ということに自覚を持っている状態なので、自堕落になるなんて事はありえません。
とはいえ、そう言う僕も、ずーっとそういう状態でいるわけではありません。
いつの間にかその感覚を忘れ、あっという間に別の感覚に流されてしまいます。
(こっちの方が、ほとんどですね…)
そういう、「いまここ」を忘れている時の方がよっぽど刹那的で自堕落です。
ですから、「いまここ」というのは「刹那的」とは別物です。
でも、その経験や感覚はどんなものなのかと聞かれても、お答えすることができません。
経験は、あくまで「経験」なので、言葉に置き換える事ができないんです。
よくある例えでは、
生まれつき耳の聞こえない人に、小鳥のさえずりをどうやって理解してもらうか。
生まれつき目の見えない人に、空の蒼さをどうやって理解してもらえばいいのか。
生まれつき味覚のない人に、桃の甘さをどうやって理解してもらえばいいのか。
これと同じような事なんです。
どんなに正確に伝えたくても、説明は、あくまで説明にしかなりません。
ん~。
やっぱり分かりづらいのかなぁ…
←「押す」ということに、自覚もっている状態になっていただけます?
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昨日いただいたコメントが興味深かったので、今日はその質問にお答えする形で書いてみたいと思います。
2008年03月18日投稿「I am here!」はじめましてさんのコメントより
「いまここ」という感覚を手にしたとき、
向上心や、目的意識というものはどうなってしまうのでしょうか。
私は、そういった向上心や目的意識は、
なくなってしまうのではないかという不安に思っています。
なぜかというと、「いまここ」とは、
刹那的な享楽をむさぼる自堕落という意味にもとれるからです。
それで質問なのですが、
「いまここ」というのは「刹那的」とは別物なんですよね?
「いまここ」を体感しながら、
向上心や高い目的意識を同時にたもつ精神状態って、
いったいどんなものなのでしょうか?
「いまここ」に目覚めるという感覚は、言い方を替えれば「自分の“存在”を自覚できるようになる」という風に僕は考えています。
その経験をすることは、「あがり(ゴール)」ではなく、むしろ「ふりだし」です。
ですから、向上心や目的意識がなくなるわけではありません。
それまで目標にしてきたものが「無意味に思える」ということは、確かにあると思います。
でもそれは、目標を失ったからではなく、本当に目標とすべき別のものに気付くということだと思うのです。
または、「向上心」や「目的意識」という言葉の意味自体が変わると言いますか…
「いまここ」と、自分の存在が明確になっている状態は、「生きる」ということに自覚を持っている状態なので、自堕落になるなんて事はありえません。
とはいえ、そう言う僕も、ずーっとそういう状態でいるわけではありません。
いつの間にかその感覚を忘れ、あっという間に別の感覚に流されてしまいます。
(こっちの方が、ほとんどですね…)
そういう、「いまここ」を忘れている時の方がよっぽど刹那的で自堕落です。
ですから、「いまここ」というのは「刹那的」とは別物です。
でも、その経験や感覚はどんなものなのかと聞かれても、お答えすることができません。
経験は、あくまで「経験」なので、言葉に置き換える事ができないんです。
よくある例えでは、
生まれつき耳の聞こえない人に、小鳥のさえずりをどうやって理解してもらうか。
生まれつき目の見えない人に、空の蒼さをどうやって理解してもらえばいいのか。
生まれつき味覚のない人に、桃の甘さをどうやって理解してもらえばいいのか。
これと同じような事なんです。
どんなに正確に伝えたくても、説明は、あくまで説明にしかなりません。
ん~。
やっぱり分かりづらいのかなぁ…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e9/b8a4bcdc22643fc1ac2303b742061ba6.png)
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