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再会

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_| ̄|○ ぐふぅ~~~~


実は「苦しみ」をテーマに書き始めたあたりから、私生活で色々ありましてね。

そんなこんなで、不意にある方と再会したんです。


皆さんはご存じですかね。

( ((-"-;) ))ブルブル... ←この方。


僕の中にしつこく住まう「卑屈くん」。

やっかいなヤツでしてね。居なくなったと思っても、また忘れた頃にヒョイッと顔を出しやがるんです。


(-公-;) くそぅ。まだ居やがったか。   ( ((-"-;) ))ブルブル...


ホレ コレアゲル (  ̄  ̄)ノ【幸せ】  Σ(=Д=;)ビクッ!!


ありゃ、やっぱり? ( ;  ̄  ̄)ノ【幸せ】      ..ダッシュ...-=(((/;><)/ヒイ---!!!


以前は何かとこの卑屈くんに巻き込まれ、大変な目に遭っていたのですが、いまはちょっと距離を置いて眺めることができています。

とはいえ、ちょっと辛い。

こいつが顔を出しているときってのは、雲さんとの回線も繋がらなくなっちゃうんですよ。

(ーωー;) むぅ。人生ってのは、ホントに思い通りにならないもんですね。


そんなこんなで、しばし、この卑屈くんに付き合ってあげようと思っております。


(p_;)ヾ( ̄  ̄ ) よしよし



※明日から実家に帰省するためちょっとお休みをいただきます。来週月曜には更新を再開したいと思いますので、どうぞよろしく。

<(_ _ )>



←「よしよし」ってしてもらえると素直に喜びます
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ん~。。。

やっぱり言葉って難しいですね。

最後の「行苦」の説明がね、どうも上手くまとまらないでいるんですよ。

辞書的に言ってしまえば「現象世界全てが無常であり苦である」ってことなんですけどね。

まとまっていないものを、そのまま無理に書いても、結局わかりづらくなっちゃいそうなので、今日はちょっと別の話をさせてください。

いえ、別にどうって話じゃないんですけどね。


実はね、僕んちでも、猫を飼っているんですよ。

雄と雌、2匹いるんですけど、性格が全然ちがうの。


雌の方はとっても神経質で、うちの奥さん以外にはなかなか懐かない臆病者。

人の気配があると、さっと物陰に隠れてしまうような子です。


雄の方はその対局で、どんな状況下でもデ~ンと寛いでいる様な子。

竹彩のお友達が大騒ぎで遊びに来たときでも、なんの警戒心もなく、いじられっぱなしの、されるがまま。

警戒することも攻撃することもなく、なんのストレスもなさそうな様子で、リビングの真ん中でのんびり過ごしています。


こんな感じで。




うん。無防備すぎ(笑)。

でも、それだけ無防備でいられるってことは、そこに絶対的な安心があるからなんでしょうね。


勿論そんな彼にだって、少なからずストレスはあるんでしょうけど。

ただ、やっぱり見ていて関心するのは、そのストレスを引きずっていなそうなところなんです。

苦しみを抱え続けない。

人を警戒することなく、信頼しきって、いつでもリラックス。

その姿は、まさにサレンダー(心からの明け渡し)・あるがまま。


いや、「猫と人間を比較したってしょうがねーだろ」って方もいるかもしれませんけどね、でも、やっぱり見習うべきところってあると思うんですよ。うん。



←猫パンチ的に「シュッ」と
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お詫び

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えー…。大変申し訳ありません。

ただいま受け付けさせていただいております、大阪・名古屋でのトークライブ受付に際しまして、お申し込みいただきました数名の方から「申し込みしていない会場の方のチケットが送付されています!」とのご指摘・ご注意をいただいております。

本当に申し訳ありません。<(_ _;)>

ご連絡いただきました皆様へは、改めてチケット送付させていただきます。

また同様に、「お申し込み内容と異なる会場のチケットが届いている」という方がいらっしゃいましたら、お手数ですが、下記アドレスまでご連絡いただけると幸いです。

namagusabose@mail.goo.ne.jp


また、9月5日(日)の名古屋会場に、21日付けでお申し込みいただきました西村様。

ご登録いただきましたメールアドレスへ何度かご連絡させていただいておりますが、エラーメールが帰ってきております。

お気づきになられましたら、再度上記アドレスまでご連絡いただければと思います。


どうぞ、よろしくお願い致します。

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三苦

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さて、お待たせ致しました。『三苦』のお話です。

前回お話した「内的要因」と「外的要因」によって生まれる苦しみ。

お釈迦様は、それをさらに3つの根源にカテゴリー分けし、人間につきまとうあらゆる苦悩は、これらのいずれか、またはその複合的な組み合わせで成り立っていると説明しました。

まず、この『三苦』を辞書で調べるとこうありました。

さんく【三苦】[仏]

苦苦(くく)すなわち苦の縁から生じて受ける苦と、壊苦(えく)すなわち楽事が破れて受ける苦と、行苦(ぎょうく)すなわち無常の流転から受ける苦。


これを、少々乱暴ではありますが、平たくしていきたいと思います。

◎苦苦

サンスクリット語の「duHkha duHkhataa」を直訳すると、「苦痛を苦とする」ということだそうです。

これは、ある要因があることから受ける感覚的な苦しみ、「身体的ストレス」の事を指しています。

この説明によく用いられる例は、「暑い・寒い」という感覚とか、「腹が減った・喉が渇いた」とか。

また、もっと単純に「痛み」という感覚も含まれます。

タンスの角に足の小指をぶつけて悶絶するとかもこの「苦苦」。

「外苦」に比重の高さがある苦ですね。


◎壊苦

サンスクリット語の「vipariNaama duHkhataa」を直訳すると、「悪い方へ変化する苦」。

それがなぜ「壊れる苦」という字に訳されたかというと、この「vipariNaama(悪い方へ変化する)」という言葉が持つニュアンスの方を重視したからなんだそうです。

「快」や「楽」が壊滅(悪い方へ変化)することによって生まれる苦しみ。だから『壊苦』。

心地よいという状態や、好ましいと感じる対象が壊されていくことによって生まれる苦しみのことです。

「心地よい」とか「好ましい」という感覚・対象は人それぞれ認識の違いがありますので、『苦苦』以上に「内苦」が大きく関わってくる苦しみ。

『苦苦』の苦しみは、その外的要因が無くなれば楽に転じますが、この『壊苦』は「快」が無くなることによってストレスに転じる苦しみです。

快が得られない・続かない(欲求が満たされない・思い通りにならない)、良かれと思ってしたことが裏目に出る、正当な評価を与えてもらえない、理解してもらえないなどといった様々なことから生まれるストレス。

人間の進化(大脳新皮質が発達したこと)によって拡大された苦と言うこともできるかもしれません。

面白いですよね。

『苦苦』は苦しみ(外的要因)があることによって膨らむ苦しみ、それに対して『壊苦』は、「快」があるからこそ生まれる苦しみ。

なんだい、「苦」も「快(楽)」も、結局「苦」に転んじゃうんかい!(笑)。

でも、振り返ってみれば笑い話ではなく、お釈迦様の話はやっぱり本当のことなんですよね。

『人生とは、ストレスである』って。


で、最後の『行苦』。

これが、苦苦・壊苦が生み出される根本、「そもそも」のお話。


これについては、次回あらためて。


←オチが思いつかないという苦
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苦諦

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いやいや、久々に凄いコメント数ですね。

先ほどザッと拝読しておりましたら、「このコメント欄のありさまを、黒斎さんはどう思っているのだろう」といった様な書き込みもございましたが、ごめんなさい。

コメント欄の喧噪も知ることもなく、連休中は家族と共にキャンプ場でゆっくりと寛いでおりました。

そんなこんなで、ただいま虫さされによる体中の痒みに悶絶しております。

小生、体中に乳首が増殖したかのようなセクシーな状態になっておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。


さて、それはさておき、「苦しみ」のお話を続けてみようと思います。

これまでコメント欄でご指摘いただいていたように、一言で「苦」と言っても、色んな「苦」がありますよね。

肉体的な苦しみと精神的な苦しみは、やっぱり「同じ」とは言いづらい。

そこら辺のことを、「苦しみ研究」の第一人者であるお釈迦様は、このように解説しました。

『苦って言うのはね、色々あるんですよ』と。


実は以前も仏教テーマの時にお話したことのあるものなんですが、今日はまた別な言い方に書き換えてお話してみたいと思います。

まず、お釈迦様の話の前提は、初転法輪経に出てくる『苦諦(くたい)』からスタートします。

これは、「苦であることが真理である」というお話です。

お釈迦さまは「苦」という言葉で「この世の真実」を表現しましたが、この「苦」、元は「ドゥッカ(duHkha)」というサンスクリット語から来ています。

「ドゥッカ」の「ドゥ(duH)」は、「悪い」を、「カ(kha)」は「状態」を表すそうです。

それをつなげて「悪い状態」の意。

ですので、「苦」とはいえ、その意味は僕たちが普段使っている「苦」とは、ちょっとニュアンスが異なるそうです。

「苦しい」というニュアンスの他にも「空しい」、「不満」、「不安定」などといった意味合いも含まれるそうなので、最近の僕たちの感覚では『ストレス(ひずみの生じた状態)』といったニュアンスの方が近いのかもしれません。

なので、この『苦諦』を、ぐっと現代風に訳すと『人生とは、ストレスである』といった感じでしょうか。


で、お釈迦様はまずこのストレスを、2つに分けて解説しました。

それが『二苦』。

1つは「精神的・肉体的に自分自身の内的な要因をもとに現れるストレス」(内苦)。

もう1つは、「自然災害や他人からの迫害など、外的な要因によってもたらされるストレス」(外苦)。

これを、僕の状況(虫さされ)で例えるなら、「虫に刺された」というのは外からの要因で「外苦」。これから「ちっ、こんなことならキャンプなんて行かなきゃよかった!」などというふうに不満を募らせたとしたら、内側からの要因なので「内苦」。

でも、仏教の中心となる教えは、「たとえ外的な要因であっても、それを内に感じていくところに苦があるんだからさ」という感じです。


で、お釈迦様の解説はさらに進み、今度は「ストレス」を3つに分類します。

『三苦』と呼ばれるのですが、その中身は「苦苦(くく)」「壊苦(えく)」「行苦(ぎょうく)」の3つ。

と、いうことで、次回はこの『三苦』のお話をしてみたいと思います。



←要因をどう解釈するかによって内苦は変わります
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