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全てはひとつ

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さて。

またぶっ飛んだ話をします。


「全てはひとつ」という言葉。

僕も、このブログにて何度か書いているのですが、このこと、どれぐらいその言葉のニュアンスを掴めていますか?


「全てはひとつ」という言葉の意味するところは、そのまま「全てはひとつ」なんです。

これ、信仰でも、思想でもなく、真実なんです。


全てはひとつだから、ホントは、僕はアナタで、アナタは僕なんです。

僕もアナタも、いじめっ子もいじめられっ子も、ひとつの同じものです。


先日、コメント欄にて、はじめさんから、こんなご質問をいただきました。


*****

いつも楽しく拝読しています。

突然なのですが、雲 黒斎さんは人間以外の世界(宇宙や地球・自然)や 生き物(動物や植物・菌類・ウイルス等・・・)の存在などは、どうとらえていらっしゃるのですか? 

今までにテーマにされていたら申し訳ないのですが、どうも人間主体の話だけで、自然などが抜け落ちているよな気がしたものなので。。

見当外れなコメントでしたらスミマセン。

*****



「人間以外の世界(宇宙や地球・自然)や 生き物(動物や植物・菌類・ウイルス等・・・)の存在などは、どうとらえていらっしゃるのですか?」


そのご質問に、僕はこうお答えします。

『全てはひとつ』です。

僕は、「宇宙」であり「地球」であり「自然」であり「動物」であり「植物」であり「菌類」であり「ウイルス」です。

「宇宙の一部」なのではありません。

僕は、「宇宙(存在のすべて)そのもの」なんです。

僕だけに限った話ではなく、全ての人は「存在のすべて」ですから、結局の所、僕もアナタなんです。


はじめさん。

突拍子もない話に聞こえてしまうと思いますが、僕はこれからとても大事な話をします。

是非、この言葉の先にあるものを受け取ってください。

アナタは、自分が「宇宙」であることを忘れてしまっています。「地球」であることを忘れてしまっています。「自然」であることを忘れてしまっています。

忘れてしまっているから「自分と宇宙」とか「自分と地球」とか「自分と自然」とか「自分と神」とか「自分と他人」といったように『分離意識』をもって生活しているんです。

自分は宇宙。そのことを思い出す、そのことこそが「目覚め」なんです。


僕(黒斎)とアナタは、別々の命を所有しているのではありません。

「命」は、たった一つしか存在していないんです。

僕とアナタは、そのたった一つしか存在しない、その命を共有しているんです。


仮に、アナタの身体ひとつを「地球」としましょう。

肉が大地で、血液が海で、体毛が動植物です。

体毛の中でも「毛髪」が人間で、「まつげ」がライオンで、「鼻毛」がモグラで、「すね毛」がタンポポです。

するとどうでしょう。

「肉」「血液」「体毛」など、何かを分類・定義することによって生まれた「分離」という意識によって、全てがバラバラに解体されたかのように見えても、結局は「肉」も「血液」も「体毛」も、元を辿れば「ひとつのもの」ですよね。

毛の1本1本が単独で別々の命を保有しているのではなく、一つの命を共有していますよね。

そういうことなんです。


それでもアナタはこう言うかもしれません。

『「毛髪」は「頭皮」で繋がっているから「ひとつのもの」というのはわかるけど、私たち「人間」は「頭皮」に変わる様な何かで繋がってはいない、「別々」の存在じゃないか。』

でもね、僕たちもちゃんと繋がっているんですよ。「空間」で。


別なアプローチもしてみましょう。

アナタの目の前に、水を入れたコップをご用意ください。

今のアナタの感覚では「私は私、水は水」と分離された別々のものかもしれません。

でも、一口そのコップの水を飲んでみてください。

アナタが飲み込んだ水は、いつから、どこからアナタになるのでしょう?

どこからどこまでがアナタで、どこからどこまでが水なのでしょう?

そう。明確に区別することはできませんね。


それもそのはず、アナタの目の前にあったコップの水は、アナタが飲み込む前から、アナタだったんです。







「僕はアナタで、アナタは宇宙。」

この意味、受け取れましたか?



←飛ばしすぎ?

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キャッチボール

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突然こんなこと言い出すのもなんですけど、最近とっても幸せです。

毎日毎日幸せを噛みしめています。


いったいどうしちゃったんでしょう。僕の人生ってば。

数年前の悪夢の様な日々が嘘のようです。


っていうか、過去の不幸は「悪夢の様」でなくて、ホントに「悪夢(幻想・夢)」だったワケです。

それに気付いちゃったら、その後の人生が楽で楽で。


よくね、「悪いことは続く」とか言うじゃないですか。

悪いことが次から次へと起こって、不幸が雪だるま式に大きくなっていく…みたいなやつ。

あれね、「不幸」が雪だるま式に大きくなっているんじゃなくて、「(満たされないという)思考」が雪だるま式に積み重なっているだけなんですよ。ホントは。


それに気付くとね、今度は「幸福」の側が、雪だるま式に大きくなっていくんです。

ほんとに、自分の想像を超える勢いで。


だからね、このことをみんなに伝えたくてしょうがないんです。

いや、僕の幸せ自慢じゃなくて、「幸せが雪だるま式に増える」という、その仕組みについての方。


だって、実はものすごく簡単な事なんですもの。幸せになることって。

性別も、年齢も、国籍も、境遇も、学歴も、資格も、勉強も、修行も、特別な才能も、人間関係も、社会情勢も、なんにも関係ないんです。ホントに。


知りたいですか?

そんな、「幸せになる方法」。


ええ、今日はストレートど真ん中でお伝えしますよ。^^

ですから、言葉の裏を読む必要はありません。

ジョークでも、謎解きでも、トンチでも、禅問答でもありません。

変化球は投げませんので、どうか素直な気持ちで、ハートの真ん中からグローブをずらさずに受け取ってください。



【アナタが幸せになれる、たった一つの方法】



それは…




























(  ̄Д ̄)『不幸であることをやめること。』




受け取れましたか?



←直球ど真ん中でポチッと

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衝撃

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んー…。

只今わたくし、ちょっと反省しております。

いえ、先ほど阿部さんの今日のブログを拝見しましてね、「alarm clock」に収録されている僕の発言にも、これ同様の誤解をあたえてしまう原因があるかなぁ…と思いまして。

そう。例の「エクスタシー」のくだり。

僕はコレ、あくまで「確信」と言うことを説明したくて持ち出した例えなのですが、捉え方によっては「目覚めの瞬間」には性的な快感が伴うとか、またはそれ同様の「衝撃」を得るといったように受け取られてしまいますよね…。

まぁ、確かに僕の場合はエクスタシーとは言わないまでも、相当な衝撃があったのは事実なので、一概に間違いであると言うことではないのですが、阿部さんも仰っているように「誰もが同じような快感を得るとは限らない」のだと思います。

「目覚め」において、その人が経験する「何か」は個人差があると思います。


ものすごい衝撃を経験する人、「あ。な~んだw」って軽く感じる人、ホントに人それぞれだと思います。


このこと、以前「ぷよぷよ」の話で説明しようとしたことがあるのですが、覚えている方はいらっしゃいますか?

今回は、この「ぷよぷよ」での例えに再チャレンジしてみます。



このゲームに登場する「フィールド」を「アナタの心」、色とりどりの「ぷよ」達を、「アナタの抱えている思考」だとします。

アナタの心に日々積み重なる色々な思考(ぷよ)。


赤いぷよは「怒り」や「苛立ち」。

青いぷよは「悲しみ」や「不安」。

緑のぷよは「希望・未来思考」※その裏にあるのは現状(いま)に対する不平不満。

黄色いぷよは「幸福感」※その裏にあるのは「失いたくない」という執着。


それらの思考が整理されることなくごちゃごちゃと積み重なることで、心の中に現れる窮屈感や閉塞感。

それが「人生の行き詰まり感」という苦悩になっていきます。


「目覚め」で経験する衝撃は、フィールド上の「ぷよ」が一掃された時に現れる爽快感の様なものです。

突如自分の中に現れる「広大な空間」と、それに伴う「自由」を感じる体験ですから。


なので、目覚める前に、その人がどのぐらいの窮屈さを感じていたかによって、その衝撃度(爽快度)に違いが出るんです。


フィールドがパンパンになって、ゲームオーバー寸前のストレスを抱えていた人が、一気に「連鎖」を迎えた時の衝撃は大きいでしょうし、日々淡々と処理を行えている人は、そこまでのものではないでしょう。


そして、一度「目覚め(フィールドの一掃)」という経験をし、「空っぽ」になると、「人生(ぷよぷよ)」というゲームのルールに気付く事が出来るんです。

目覚めを体験した後でも、日々色々な出来事によって様々な思考が自分の中に現れます。

でも、そうして現れた様々な思考を、怒りは怒りとして、悲しみは悲しみとして、喜びは喜びとして、きちんと整理して受け入れる事が出来るようになっているので、心はいつでも広々とした空間を保ったまま、余裕のある状態でいられます。


「日々の気付き」という修行は、さながら「マメに同色のぷよを消していくこと」の様なもの。

画面がまっさらになることはなくとも、心の余裕は増え、今後の展開も有利になっていきます。

ひょっとしたら、思わぬ所で「連鎖」に出会うことがあるかもしれません。


ゲームオーバー寸前の苦しみを抱えている人も、もしかしたら、これから起こる「同時消し」「20連鎖」の仕込みをしているのかもしれませんよ。^^


←スタートボタン

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三昧

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さんまい【三昧】

三昧(さんまい、Samadhi, サマーディの音写)とは、仏教における禅、ヒンドゥー教における瞑想において、精神集中が深まりきった状態のこと。

※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


「さんまい」と言うより「ざんまい」と発音した方がなじみ深いですかね。

「部長の今回の出張、実は仕事じゃなくて連日ゴルフ三昧らしいよ。」とか、「いやぁ、休日はもっぱら競馬三昧ですよ。」とか、「明星のインスタントラーメン?あ、それは中華三昧。」とか、まぁ、そんな感じで日々会話に登場する『三昧』。

阿部さんの講演会や、いまここ塾なんかでは何度も登場してそうなのでご存じの方も多いかとは思いますが、今日は『三昧』に関してのお話です。

このお話、前回のトークライブ(夜の部)でも話題になっていました。覚えてます?


「三昧」の元々の意味は何かに対しての「道楽」を指しているのではなく、「身と心が一致している」と言う意味なんですって。

“禅”の世界では、人間が到達できる最も高い境地の事を「三昧」と呼んでいるのだそうです。

「身と心が一致している」ことが人間が到達できる最も高い境地。

だとしたら、それを逆さに見れば、私たちの普段の生活は、全然「身と心が一致していない」ってことですね。


「身と心が一致している」。これ、言葉を替えると「“いまここ”にいる」ってことなんです。


あまり意識はしていないと思いますが(いや、むしろ意識していないからこそ)、僕たちは普段「いまここ」ならぬ「いつどこ」状態なワケですよ。

日中仕事しながら「今晩のおかず、なににしようかなぁ…」とか、朝起きた途端に昨日の失敗を思い出して、学校行くのがイヤになっちゃったり、会議の席で、その議題よりもポケットで震え続ける携帯電話に意識が行っちゃってたり。

身体は「いまここ」にありながらも、意識が「夕刻(未来)のキッチン」や「昨日(過去)の教室」に飛んじゃって、いわゆる「心ここにあらず」の状態になっているんです。

身体は「いまここ」、意識は「いつどこ?」。

ね、これじゃぁサッパリ身と心が一致していません。

何を行うにも注意散漫状態だから、自分の持っている能力も、きちんと発揮しきれません。

そんな時は、気持ちはなんだかソワソワしてたり、憂鬱になってたり、妙に浮ついてたり。

呼吸は浅く、不規則。首や肩には力が入り、「落ち着き」というものが感じられません。


だからね、「三昧」は、人間が到達できる最も高い境地と言われるワケですよ。


でもって。

この「三昧」、その語源はインドのサマーディ(Samadhi)。

「サム(Sam)」と「アディ(adhi)」という2つの言葉が合わさって一つになった単語だそうです。


「サム」の意味は「ひとつなるもの」。「アディ」の意味は「到達」。

つまり「サマーディ」は、「ひとつなるものに到達する」、「(身と心が)一体になる」という意味になるのだそうです。


あれ?

ちょっと待った。

ひとつなるものに到達する?

ってことは、全てがひとつになる?

すべてはひとつ… whole…

これってどこかで見たような…


あ!

『癒し』だ!


「Samadhi(身と心が一致する)」も、「healing(本来の完全な状態)」も、結局は同じ事を指しているじゃないか!!


と、言うことで。

とどのつまり、「癒し」って「いまここに戻っている」という状態なワケですよ。


だからね、「瞑想(“いまここ”に帰ること)は大切だよ。」ってなるんです。^^





(  ̄Д ̄) 『これこれ。仕事中にブログ更新とは…それは「いまここ」と言えるのかい?』

\__”へ( ̄д ̄ ) 「只今仕事の事はスッパリと忘れ、ブログ更新に徹しております!」

(  ̄Д ̄) 『………』



←クリック三昧

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言葉の限界

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『おもちですか?』


店員「当店のポイントカードはお餅でしょうか」
おれ「えっ」
店員「当店のポイントカードはお餅ですか」
おれ「いえしりません」
店員「えっ」
おれ「えっ」
店員「まだお餅になってないということでしょうか」
おれ「えっ」
店員「えっ」
おれ「変化するってことですか」
店員「なにがですか」
おれ「カードが」
店員「ああ使い続けていただければランクがあがってカードが変わりますよ」
おれ「そうなんだすごい」
店員「ではお作りいたしましょうか無料ですよ」
おれ「くさったりしませんか」
店員「えっ」
おれ「えっ」
店員「ああ期限のことなら最後に使ってから一年間使わないときれます」
おれ「なにそれこわい」
店員「ちょくちょく来ていただければ無期限と同じですよ」
おれ「なにそれもこわい」
店員「えっ」
おれ「えっ」



『きせいちゅう』

警官「寄生虫なので、できれば引き返して最初の信号を右に行って下さい」
ぼく「えっ」
警官「寄生虫ですから、引き返してください」
ぼく「なにそれひどい」
警官「えっ」
ぼく「ぼくが寄生虫ってことですか」
警官「寄生してるのは警察ですよ。寄生してるので重体なんです」
ぼく「えっ」
警官「えっ」
ぼく「だれが重体ですか」
警官「誰というか、まぁここを通った人全員ですかね」
ぼく「あなたも僕に寄生しますか」
警官「えーとね、あのですね、この先でトラックが横転して積荷が産卵したんですよ」
ぼく「えっ」
警官「つまり事故ですね」
ぼく「何が産卵したんですか」
警官「精肉業者のトラックで、冷凍された肉が産卵したみたいです」
ぼく「なにそれやばい」
警官「ええ」
ぼく「重体の人は大丈夫ですか」
警官「えっと、まぁ寄生虫とはいえゆっくりと動いてはいますから」
ぼく「なにそれこわい」
警官「えっ」
ぼく「えっ」
警官「とにかく、先ほどから警察が現場の方で超刺してますから」
ぼく「なにそれもこわい」
警官「えっ」
ぼく「えっ」


※2chからのコピペ(ふじこーさんに教わりました。)



言葉の指す意味を取り違えると、コミュニケーションは成り立たない。

「自分」の価値観や先入観、偏見を抱え続けている限り、物事が全て歪んで見えてしまいます。

コミュニケーションの中で大切になるのは「自分」の価値観ではなく、「相手」の価値観。

自分を消して、相手になること。

つまり、そこに必要なのは「分離意識(自我)」ではなく「統合(無我)」。

「私」という分離意識がなくなり、相手と「ひとつ」になれたなら、そこにはもう言葉は必要ありません。


自我でコミュニケーションを取ろうとすると、そこに歪みが生まれます。


ま、つまりはそういうことですよ。



←コレを押してくれる優しさはお餅ですか?

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