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認識範囲

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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さて、ここで一度お話を整理してみます。

今回お話する内容は、「実際には“私”は実在しない」ということについてです。

ここでの「私」は、存在の根源を指す言葉ではなく、「自分」と「自分以外」というように、物事を分断して捉える「独立した存在」を示した言葉です。

これまでにお話してきた「錯覚」を、明確に言い表すと、「本来は一つの存在なのに、“私”という独立した存在があると勘違いしている」と言うことです。

ですから「無我」と言っても、存在その物が消えて無くなるのではなく、「あれ・これ」や「私・他人」と言ったような「区別・固定概念(境界線)」が消えるというニュアンスです。


少々回りくどい表現になってしまい申し訳ありませんが、まずは上記のニュアンスを感じ取ってください。


普段私たちは、「私」に対して「Aさん」「Bさん」という「自分以外」の人や物が独立して存在していると思っています。

ですが、それは真実ではありません。

「私」も「Aさん」も「Bさん」も「同じ存在」なんです。

それぞれが独立して存在しているのではなく、その存在はひと繋がりの「同じ存在」なんです。

例えるならば、「人体」というモノを「存在の全て」と考えた時、「私」は右手人差し指。「Aさん」は左手薬指。「Bさん」は左手の親指。と、言った具合。

元々は「人体」という、一つの大きな存在であるにも関わらず、「右手人差し指」「左手薬指」「左手の親指」が独立して(切り離されて)存在していると勘違いしているんです。

なぜそういった勘違いが生まれてしまっているかと言うと、それぞれの「繋がり(因縁)を捉える事ができていないから」です。


上記をさらに図解します。


プールに入っている状態を想像してください。

プールの中から、手の指先だけを出します。



「水上」が普段僕たちの「五感」で認識出来る領域で、「水中」が僕たちの認識能力を超えた領域です。

自分の能力において、水中がどうなっているかを把握出来ないとしたら、水の外に出ている「指先」は、まるで独立して存在しているかの様に見えてしまいます。

ですが、それを認識出来ようが出来まいが、実際には「人体」という、ひと繋がりの存在なんです。


よく「他人にしたことは自分の身に帰ってくるぞ」なんて事が言われますが、上記の様に考えれば当然の結果です。

「右人差し指」が「左親指」を痛めつけたとしたら、やはり「自分」が痛い思いをする羽目になります。


「私(右手人差し指)」が思う「自分」も「Aさん(左手薬指)」が思う「自分」も「Bさん(左手親指)」が思う「自分」も、実は「同じ自分」なんです。

ずーっと「“私”とは“右手人差し指”である。」と勘違いしていた状態から、“右手人差し指”という“固定概念”が欠落した時、“人体”という存在の全体像が見えてくるんです。


2008年07月01日投稿「探求」において、『人間の脳は、「ある」と「ない」という2つの極端な捉え方でしか理解出来ない構造・仕組みになっています。』というお話をさせていただきました。

それは、まさにこのことなんです。

私たちは五感で捉えられることが存在の全てと勘違いしてしまっているんです。

ですが、僕たちの認識能力は「不完全」です。

どんなに健康な人でも、物事のほんの一部しか捉えることができません。

僕たちの五感では認識出来ませんが、「電波」は確実に存在しています。

嗅覚も犬の能力にはとても追いつけません。

僕たちには「無臭」でも、彼らにはシッカリ「存在」しています。

聴覚もそうです。僕たちが捕らえることが出来る周波数には限りがあります。

目に見える範囲も限られています。

結局、全体像を把握できていない、不完全な状態なんです。




さらに。

アナタの指先をじっと観察してみてください。

いま、アナタの目に映っている「指先」は、アナタが2歳の時と「同じ指先」ですか?

そうですよね。同じはずはないですよね。

爪も細胞も汚れ方も中に流れる血液も、何から何まで変わってしまっています。

色もサイズも質感も匂いも、全然違います。

それに気づくと、もう「指先がある」とは、厳密には言えなくなってくるんです。

「今」という瞬間の「指先」はあっても、次の瞬間には、もう「別な指先」になってしまっているんです。


どうでしょう?

こんな表現で伝わりますか?


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