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境界線.4

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今日は何だかωのポジションが決まらなくて落ち着かない…。


あ。ども。お久しブリリアント・グリーン。

女性陣には分かりづらいであろう導入で爽やかにこんにちは。

若干大きめの黒斎です。(股間をまさぐりながら)


さて、例の「全ては一つ」の感覚をお伝え出来ればと思いまして、境界線シリーズを続行してみることにしました。


このシリーズでは、「どこからどこまでが」という視点で物事を捉える事をベースにお話しております。

今日は、「身体」という切り口で考えてみましょう。

身体を自分とするならば、「自分は、どこからどこまでが、自分なのだろう。」といった具合です。


( ̄Д ̄) 『では、早速はじめようか。』

Σ( ̄д ̄ ) 「お。久しぶり。」


(  ̄Д ̄) 『今、お前がまさぐっている、そのフーグリー君。それは誰の身体だろう?』

( ̄ω ̄;) 「いや、そりゃ僕の身体でしょう。」

(  ̄Д ̄) 『では、そのフーグリー君をちょん切って、お前がニューハーフになった場合、切断されたフーグリー君は、「誰」ということになるんだろう?』

ヾ( ̄ω ̄;) 「おいおい、勝手に切らないでくれよ。まぁ、仮に切ったとしたら…一般的な解釈では、それは「誰」どころか、「生命体」という見え方から「物体」という捉え方になるでしょうか。分割してしまえば、僕ではない「モノ」として捉えるかな。」

(  ̄Д ̄) 『なぜ、「生命体」から「物体」に変わったんだ?』

(ーヘー ; ) 「それは…あれですよ、フーグリー君が切断されて、細胞が死んじゃうから。」

(  ̄Д ̄) 『なるほど。そういうロジックか。では、ちょん切って間もないフーグリー君ではどうだね。切断直後なら「細胞」はまだ生きているはずだ。「細胞」が「生きている」のであれば、それは「誰」が「生きている」ことになるんだろう。』

σ(ーヘー ; ) 「む~…。誰だろう…そうなると、切り離れたとしても“僕”ということなのか…」

(  ̄Д ̄) 『どうなんだ。「切り取って分割したから自分ではない。」というロジックは成り立つのか? あくまで「切り取って分割したものは自分ではない、ということにしておこう」と言うことでしかないのではないかな?』

(ーヘー ; ) 「ん~…。」

(  ̄Д ̄) 『では、この場合はどうだろう。ある作業中、事故で指を切断してしまった人がいた。この時、指は皮一枚も繋がっておらず、確実に「分割」されていた。しかし、その後早急に手術することが出来、指は傷跡は残るモノの、しっかりと繋ぐ事が出来た。…ありえない話ではないだろう? この場合、その指は、一度その人の指ではなくなり、また、その人になった、という事でいいのか? だとしたら、指を切断してから手術が終わるまでの間、その指は「誰」だったんだ?』

「(ーヘー ; ) 「ん~…。」


(  ̄Д ̄) 『じゃあ、今度は逆側から考えてみよう。元々「自分以外」だと思っていたモノが「自分」になるのは、どこからだろう。』

( ̄ω ̄;) 「え?どういう意味?」

(  ̄Д ̄) 『前にも何度も話したが、お前の身体はお前がこれまでに摂取してきたモノで出来上がっている。 例えば、これから数時間後にお前は昼食を取る。この昼食は、まだ調理もされていない「材料(素材)」の段階だ。これを調理し、お前が口にすることで、後に身体となる。 では、これからお前に食される運命にある「材料(素材)」は、どの段階で「お前」ということになるんだ。お前がそれを口の中に入れた段階で「お前」になるのか。それとも、胃の中に入った段階か。はたまた、それが分解された段階か、それを吸収した段階か。それとも、食べる以前からお前なのか…。』

(ーヘー ; ) 「ん~…。」


(  ̄Д ̄) 『さて。どこからどこまでが「お前」なのだろう。』

「(ーヘー ; ) 「ん~…。」



←股間をまさぐりながらポチッと。(どこからどこまでが「フーグリー君」なのだろう。)

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ジャイアン

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俺のモノは、俺のモノ。



お前のモノも、俺のモノ。



俺のモノは、お前のモノ。



世界は全て、みんな(そ)のモノ。





←そういうワケで、我が家の住宅ローンを肩代わりしてくれる方募集中。

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境界線.3

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今日は、誰でもいい、他人のことを、じっと見つめてみてください。

なんでしたら、頭の中に思い浮かべるだけでもかまいません。

用意はよろしいですか?


さて、ここで。


アナタが認識している、その他人は、どこからどこまでが「他人」なのでしょうか。





あなたと同じようにその誰かも、時を、ず~っとず~っと遡ると、たった一個の小さな「精子」だったはずです。

電影少女のあいちゃんの如く、怪しげなビデオショップでレンタルしてきたテープを再生したら突如現れた、なんてことは考えられません。


その誰かも、あなたと同じように、「精子だけ」では、その誰かには、なり得なかったのです。


「精子」+「卵子」+「水」+「空気」+「野菜」+「穀物」+「お肉」+「お魚」+「日光」+「etc.」-「うんこ」-「しっこ」-「あせ」-「ξ毛」-「etc.」=「誰か」


色々な物質やエネルギーが変化を続けた結果、「今は」その形態を取ってる。

そして、その形態は一時も留まることなく、今なお変化し続けているのです。


と、言うことは、「その人」は、どこからどこまでが「その人」なのでしょうか?


多分、皆さんが「他人」を「他人」として捉えるのは、「自分以外」という境界線をどこかに持っているからです。


『そりゃそうじゃないか、明らかに、私ではないのだから。』

あなたは、そう言うかもしれない。

でもね、先日お話した事を踏まえると、自分の事すら、「どこからどこまでが自分なのか?」ってことになりますよね。

それでもやっぱりアナタは、『いやいやいや。でもさ、あの人は私の意志ではどうにも出来ない「自分」を持っているではないですか。私にはコントロール出来ない。だから、他人は他人だ。』と言うかもしれない。

これもね、突き詰めて考えると、ちょっと面白いことになるんです。

<コントロール出来ないから自分ではない。>というロジックで考えると、今まで「自分」だと思っていた「自分」もまた、「他人」になってしまうのです。

だってそうでしょ?

あなたは、「自分」の事を、どこまで「自分の意志」でコントロールできていますか?

行動や感情を、自分の思うがままに、完全にコントロール出来ていると言い切れるでしょうか。


できませんよね。


これは、なにかの「病気」になるとさらに分かりやすい。

自分で自分を完全にコントロール出来るのであれば、それこそ「自分以外」である病原菌を、即座に体外へ排出できるはずです。





さて、ここらへんで、精神世界でよく見受けられる、分かりそうで分からない、『全てはひとつ』や、仏教で言われる所の『諸行無常(世の中の一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。)』の、意味が見えてきますでしょうか?




←ビデオショップ「GOKURAKU」が見えるぐらい、ピュアな心でポチッと。

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境界線.2

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今日は、アナタ自身のことを、じっと見つめてみてください。

なんでしたら、鏡の前に立っていただいてもかまいません。

自分を確認出来ましたか?


さて、ここで。


アナタが認識している、その自分は、どこからどこまでが「自分」なのでしょうか。





こうしてモニターの前でこのblogを読んでいるアナタも、時を、ず~っとず~っと遡ると、たった一個の小さな「精子」だったはずです。

うる星やつらのラムちゃんの如く、ある日突然巨大宇宙船から舞い降りてきた、なんてことは考えられません。


男と女が交わる事で、やがて「受精」をむかえます。

その「胎児」が育ち、「赤ん坊」となり、「赤ん坊」はさらにスクスクと育ち、「子供」となりました。


この当たり前な出来事も、よくよく考えると、とても不思議な現象です。


だって、その精子を顕微鏡で覗いてみても、そこには「手」も「足」も「脳」も無いのですから。

元々無かったモノが、今「ある」。

不思議だ。


「手」も「足」も「脳」も持っていなかった、小さな「精子」が、なぜか、大きな大きな「アナタ」となりました。


この「アナタ」が「アナタ」になるためには、「精子だけ」では、だめなのです。

そこに、「卵子」や「受け止めてくれる母胎」、「水」「空気」「食料」などの、「精子」以外の要素があったからこそ、「精子」は「アナタ」となることができたのです。


「精子」+「卵子」+「水」+「空気」+「野菜」+「穀物」+「お肉」+「お魚」+「日光」+「etc.」-「うんこ」-「しっこ」-「あせ」-「ξ毛」-「etc.」=「アナタ」





と、言うことは、「アナタ」は、どこからどこまでが「アナタ」なのでしょうか?




地下鉄の出口から会社へと歩みを進める途中、紅葉したその葉を、ひらりと空にそよがせる一本の木をゆったり仰ぎ、「この木から離れゆく1枚の葉は、『木』なのだろか『落ち葉』なのだろうか…。僕は、どこからどこまでが僕なのだろうか。」なんて事を、哲学者気取りで考えながら歩いているから、、、




滑ってころんだ所を同僚に見られて笑われるんだ、このやろう。(どこにもぶつけられない微妙な感情)




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境界線

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あなたの記憶にある中で、一番大きな「木」を思い出してみてください。

なんでしたら、架空の木をイメージしていただいてもかまいません。

イメージ出来ましたか?


さて、ここで。


あなたが思い浮かべたその木は、どこからどこまでが「木」なのでしょうか。





あなたの何倍もの大きさで雄大にそびえ立つ、その大きな木も、時を、ず~っとず~っと遡ると、たった一粒の小さな「種」だったはずです。

トトロのまじないの如く、ある晩突然「にょきにょき~っ!」と勢いよく生えてきた、なんてことは考えられません。


種を土に植え、水と暖かな日差しを与える事で、やがて「芽」を出します。

その「芽」が育ち、「苗」となり、「苗」はさらにスクスクと育ち、「木」となりました。


この当たり前な出来事も、よくよく考えると、とても不思議な現象です。


だって、その種を割り、中を覗いてみても、そこには「幹」も「枝」も「葉」も無いのですから。

元々無かったモノが、今「ある」。

不思議だ。


「幹」も「枝」も「葉」も持っていなかった、小さな「種」が、なぜか、大きな大きな「巨木」となりました。


この「巨木」が「巨木」になるためには、「種だけ」では、だめなのです。

そこに、「土」や「その土を豊かにする生物」、「水」「空気」「日光」などの、「種」以外の要素があったからこそ、「種」は「木」となることができたのです。


「種」+「土」+「生物」+「水」+「空気」+「日光」+「etc.」=「木」





と、言うことは、「木」は、どこからどこまでが「木」なのでしょうか?




地下鉄の出口から会社へと歩みを進める途中、紅葉したその葉を、ひらりと空にそよがせる一本の木をゆったり仰ぎ、「この木から離れゆく1枚の葉は、『木』なのだろか『落ち葉』なのだろうか…。僕は、どこからどこまでが僕なのだろうか。」なんて事を、哲学者気取りで考えながら歩いているから、、、




滑って足を挫くんだ、このやろう。(どこにもぶつけられない微妙な感情)




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